2章 反攻嚆矢
王冠と呼ばれた少年
飛竜の襲撃から一夜が明け、俺は十数年慣れ親しんだ山小屋に別れを告げることとなった。備蓄の食材、香辛料や調味料は兵士たちが運んでくれたが、調理道具やその他の備品は置いて行かねばならなかった。長年の酷使でくたびれ果て、近く買い替えを考えてはいた品々だったが、使い込んだ道具と別れるのは気が重かった。
「黒岩はちゃんと迂回しろよ。あと、俺が指示した道から絶対外れんな。獣や竜に襲われたら、今度こそは対応できねえからな」
一行に釘を刺してやると、エティエンヌは首を傾げた。
「魔法で追い払えばよろしいのでは? 昨日飛竜を退けたように」
「黄玉茸も銀華芋も切らした。食材がなければ魔法は使えねえよ」
言いつつ俺は疑念を抱いた。この王子様、魔法についてどの程度解っているのだろうか。ヴィクトールの息子であれば学んでいると思っていたが、この様子では「魔法の行使には、魔法食材と神の料理人が必要」という基礎の基礎さえ知らない可能性がある。
まずは、知識の程度を確かめておかねば。
「失礼を承知で訊くが。あんた、魔法はどういう理屈で使えるものかわかってるか?」
「魔法の料理を食べると、魔法が使えるのでしょう」
「魔法の料理はどう作る?」
「魔法の食材を、『神の料理人』が調理すればよいのですよね」
ここまでは合格だ。いちばんの基本は分かっているらしい。
だが、この程度は市井の民でも知っている。自ら魔法を行使しようというのであれば、もう少し踏み込んだ知識は欲しい。
「魔法の食材と、普通の食材の違いは?」
エティエンヌの答えが、一瞬遅れた。
「……違いがあるのですか?」
出かかった溜息を、かろうじて飲み込む。この程度のことも既に分からないのか。以前王宮にいた頃、ヴィクトールが子息の教育を怠っていたようには見えなかったが、どういう事情なのか。
ともあれ、知らないなら教えねばならない。
「いくら俺や師匠でも、普通の小麦や青菜から魔法料理は作れねえ。豊かで質のいい『マナ』を持つ生き物しか、魔法の食材にはならねえんだよ」
「マナ……ですか」
エティエンヌは納得したように頷いた。
マナ、すなわち生命の力。
生きとし生けるものは皆マナを持っており、物を食べることで、他の生物からマナを取り込んで命を繋いでいる。この世界で生きる人間であれば、当然知っているはずの常識……であるらしい。そこはエティエンヌも承知している様子だ。
かつて、俺はそれさえ知らなかった。
遠い昔、即位前のヴィクトール王子に驚かれたものだ。数十年前に初めて会った日、マナなんて知らない、聞いたこともない――と言うと、王子は青い目を丸くしていた。
(俺、親もいねえし……孤児院じゃ、そんなこと教えてくれなかった)
(聖典で読んだこともないのかな)
(字、読めねえよ)
呆れられると思った。軽蔑されると思った。目の前の偉い人と、汚い浮浪児でしかない自分とは、住んでいる世界が違う。だからそれも仕方ない、と思った。
けれど王子は、白くて綺麗な手で、俺の汚れてひび割れた手を包み込んでくれた。
(ならば、私が教えてあげよう。この世界のありようを)
とろけるような笑顔で、手を強く握り締めて、そう言ってくれた。
世界のありようとは何だろうと、当時の俺はいぶかった。泥水で汚れたゴミまみれの路地裏と、手の届かない華やかな表通り、俺が知っていたのはそれだけだった。答えに詰まっていると、王子は優しく言葉を続けてくれた。
(最低限の教育さえ受けられない子供がいる。一方で貴族たちは贅を尽くし、無能な王は彼らを抑える力もない……日々享楽にふけり、国のあるべき姿など考えてもいない。だから、変えなければならないんだ)
何を言われているのか、よくわからなかった。貧民街のいち孤児にとって、話が大きすぎることだけは理解できた。
そして――
「アメール殿?」
エティエンヌの声で我に返った。嫌な記憶に、また引きずられてしまった。
昨日からこちら、何をしていてもヴィクトールのことばかり思い出される。似た顔の誰かが側にいるせいかもしれない。
あるいはそもそも、ルネ・ブランシャールという存在が、あまりにもあの王に結びつきすぎているのかもしれない。
とはいえ今は、古い思い出に引きずられている場合ではない。
「すまねえな、ちょっとぼんやりしてた……で、どこまで話したっけか」
「マナの違い、という話までですね」
「そうか。それじゃあ」
続きの話を、俺はエティエンヌに語って聞かせた。
マナは生命の力だ。しかし普通の生物――牛や豚や、小麦や青菜や、もちろん人間も――の持つマナはわずかで質も悪い。いくら取り込んでも、明日の生命を繋ぐ役にしか立たない。
一方、
「だが、俺たちが幻獣や神聖植物をただ普通に食べても、特別なマナを取り込むことはできない。人間が石や木の皮を食べても、胃で消化できないのと同じでな。だが、それを可能にする者が、ごくごく稀に現れるらしい」
「それが『神の料理人』ですか?」
俺は大きく頷いた。
「詳しい原理はわかっていない。だが俺たちが調理した幻獣や神聖植物を食べれば、人間も特殊なマナを取り込むことができる。焼かれた小麦粉がパンになるように、俺たちは何らかの形でマナを変化させる、と言い伝えられているが……ともあれ古代の王たちは、神の料理人を直に召し抱えた。そして彼らの助力で『魔法』を使い、王の権威の証としてきた。とはいえ」
一言一句すべて、ヴィクトールの受け売りだ。
貧民街から王宮に連れてこられた日、柔らかい綿の服や丈夫な革の靴に感激しながら聞いた内容だった。
「すべては歴史書の中の話だった。誰しもが『神の料理人』を古い伝説と思っていたが――」
「再び見つけ出したのが、我が父ヴィクトール。ということですね」
「ああ」
再び頷く。
その後は知っての通り――と言いかけて、やめた。炎竜王即位の経緯は、あらためて口にするまでもない。誰もが知っているが、誰もがあえて触れない、触れられない話題だ。
すべてのはじまりとなった言葉を、俺はいまでも鮮明に思い出せる。意味はよくわからなかった。ただ、大変なことを言われているのだとは、当時も理解できた。
あの日、王宮の一室で、会ったばかりのヴィクトール王子と俺はふたりきりになった。豪奢な部屋の隅で、王子は、薄汚れたいち孤児の前に跪いて言ったのだ。
(私には玉座も王笏も、王太子の位もない。だからルネ……君が、私の王冠になるんだ)
俺のかさつく掌が、両手で包み込まれた。大きく、温かい手だった。
燃えるような力の籠った目が、真正面から俺を見た。ほんの少し、おそろしいと感じた。だが、目を逸らすことができなかった。青く輝く瞳が、心の奥底までも射抜いて捕らえてくるような、そんな錯覚すら覚えた。
いや、錯覚ではなかった。きっとあの時自分は、心臓の奥底まで彼に捕らえられたのだ。
強く握り締めてくる掌は、孤児院の先生たちよりも固く力強く、優しかった。許されるなら、いつまでもこうしていたいと思った。
だが、それは平穏ではなく争乱の始まりだった。
あの日から数か月後、妾腹の第四王子ヴィクトールは手勢と共に蜂起した。王子は一夜のうちに王都を掌握し、当時の王――つまりは自分の父親を討ち取った。そして次の朝、自らが王となった。
「……力と権威。両方を手に入れるのに、『古代の魔法』は完璧なお膳立てだったろうよ」
「では今度はそれを、あなたが私にもたらす番ですね。よろしくお願いします、『神の料理人』殿」
エティエンヌの微笑みに、頭が重くなる。
彼の、昨日の激昂ぶりを思い出す。少しの煽りで平静を失う青年に、王権の象徴たる魔法を委ねてしまって、本当にいいのだろうか。ふさわしくない者が強大な力を持てば、先に待つのは破滅だけだ。
返す言葉を見つけられず、俺は黙り込むしかできなかった。
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