銀華芋のポタージュ風スープ
目の前の青年が何者かは分からない。だが、訊かれたなら答えればいいだけだ。ルネ・ブランシャールは、とうにこの世にいないのだと。
内心の動揺を押し隠し、笑ってみせる。
「そいつ、十年以上前に霊山で死んだ爺さんだろ? 不老不死の料理を作れ、って王様の命令で来たはいいが、三日もしねえうちに神狼に喰われたって話だ」
「確かに、その報告は王室の記録にも残っている。霊山エスカルデにて、引き裂かれ血に汚れたルネの着衣が発見されたと。衣服には黒神狼の体毛が大量に付着しており、獣に襲われたと推測される、とあった」
「なんだ、わかってんじゃねえか。ならとっとと――」
帰れ、と言いかけた時、黒髪の男が一人進み出てきた。白の軍服にかっちりと身を包み、こちらをにらみつけている。童顔で人好きのする顔立ちが、状況のせいで逆に空恐ろしい。
「アメール殿」
黒髪男は微笑みつつ、凄みをきかせた低い声で言った。
「さきほどからの物言い、貴人に対していささか礼を失しております。こちらのお方は――」
「構わん、ジャック。無用の諍いを起こすな」
青年の制止に、ジャックは深く頭を下げた。
「申し訳ございません。エティエンヌ殿下」
「肝要なのは、神の料理人に関する情報だ。ここは儀礼の場ではない」
ジャックはどうやら従者らしい。そして青年はヴィクトールと呼ばれていないようだ、当たり前だが。エティエンヌの名に聞き覚えがある気もするが、記憶を辿る暇はない。今はこの場を切り抜けなければ。
「なんでもいいが、大昔に死んだ爺さんの消息なんざ知らねえよ。死人の行方なら冥王様にでも問い合わせてくれ」
「ならば別の人物でもよい。霊山の近辺で『魔法』を見たという、いくつかの証言があるのだ。ルネとの関連は不明だが、我々は『神の料理人』の力を必要としている。アメールとやら、何か知らないか」
青年にアメールの名で呼ばれ、少なからず安堵する。だが状況は変わっていない。余計なことを口にしてしまう前に、招かれざる客たちには退散してもらわねば。忌まわしい顔と、あまり長く対峙していたくもない。
「知らねえな。魔法とか、この辺で見たことも聞いたこともねえよ」
「本当か。ルネがいた頃もか」
「俺は直接会ってねえからな。あの爺さんがどこに住んでたかも、どうやって生活してたかも知らねえ」
と、その瞬間。
青年エティエンヌの眉が吊り上がった。彼の目配せと共に、兵士たちが俺の手へ枷をかけてきた。
突然のことに、抵抗もできなかった。
「何しやがる!」
叫ぶしかできない俺へ、エティエンヌが冷ややかな目で歩み寄ってくる。
「語るに落ちたなアメール。おまえはさきほど、ルネは三日と経たず神狼に喰われたと言った……ならば彼は、ここで暮らしてなどいないはずだ。だが舌の根も乾かぬうちに、今度は、彼の暮らし向きなど知らぬと言う。この矛盾、おまえが何かを隠しているのは明白だ」
背から血の気が引いた。エティエンヌがさらに近づいてくる。
「ゆえに、フレリエールの王権において尋問する。『神の料理人』について、おまえが知っていることをすべて話せ!」
無茶言うな――叫ぼうとした瞬間、辺りに甲高い獣の叫びがこだました。
いや、獣じゃない。轟音とも呼ぶべき重々しさ、震えるほどの威圧感。竜族だ。
目の前の連中が何をしたか、俺は直感的に察した。
断続的な咆哮が、急速に近づいてくる。
「全員中に入れ! 戸を閉めろ!!」
叫べば、全員が中に入ってきた。扉が閉まったのを見届け、皆をにらみつけてやれば、兵士たちは呆然と扉を見つつ立ち尽くしている。竜族には初めて遭うのか。
ひとつ確かめたいことがあった。
「おまえら、来る途中で黒い岩を見たか。俺の背丈の倍くらいの」
「ああ、ありましたね」
ジャックが答えた。
「そこ、ちゃんと迂回したか」
「迂回?」
童顔の従者は首を傾げた。
これは、最悪の事態がありえる。
「人の隠れ家がないか、ひととおり調査はしましたが」
「馬鹿野郎! すぐ傍に
言葉を遮るように、特大の咆哮が響き渡った。何度か聞いた飛竜の声だ。
小屋の壁が震える。
屋根のあたりで何かが軋る。重いものが叩きつけられる音がする。
「――こういうことになる」
子育て中の飛竜は、警戒心がおそろしく強い。巣の傍に不審な臭いなど嗅ぎ取れば、敵とみなして襲ってくる。縄張りを出れば逃れられはするが、竜族一匹の行動範囲は小さな街一つ分くらいある。足場の悪い山の中、人間の足で逃げ切るのはまず無理だ。
室内の、黒岩の飛竜を怒らせたらしき連中を、窺う。
兵士どもは、なすすべなく視線を泳がせている。
エティエンヌは口を結び、異音のする天井をにらんでいる。
ジャックはエティエンヌを庇うように、己が腰の剣に手をかけている。
誰一人、打開の策はなさそうだ。
「しかたねえな」
自分の身も守れない奴が霊山へ入るな、と説教したい。が、今言っても意味はない。
唯一の策、使ってしまえば色々終わりだ。が、この場をどうにかしなければ、全員飛竜に裂かれるだけだ。
飛竜の雄叫びの中、叫ぶ。
「俺の枷を外せ! ここの全員、生きて帰りたけりゃなあ!」
だが誰も動かない。兵士どもは当惑しているばかりだ。
「死にてえのか、おまえら!」
ようやくジャックが動いた。震える兵士の手から鍵を取り、枷の鍵穴に差し入れる。
「本当に、殿下をお救いくださるのですね?」
「当たり前だ! 早くしろ!!」
枷が床に落ちた。
とろみのついたスープを、一息に飲み干した。
オリーブ油と胡椒の香。続いて、圧倒的な旨味とこくが口中を満たす。澱粉質の甘い香りを後に残し、濃厚なスープが喉へ、胃へ、とろとろと流れ下っていく。
せっかくの御馳走、できればじっくり味わいたかったが。
「あなた、何を――」
叫ぶジャックを無視し、目を伏せる。両手を胃の辺りに当てる。
スープに残る温かみが、胃に溜まっている。口に残ったまろやかな後味が、身体を満たす熱い何かと混じり合い、異質なものに変化していく。力と呼ぶべき何かに。
そろそろ頃合か、と思った瞬間、あばら家の屋根が弾けた。板が落ち、天井の破れ目から、緑の鱗に包まれた竜の顔が覗く。琥珀色の瞳は怒りに燃え、牙の隙間からしゅうしゅうと荒い息が漏れている。ひっ、と、兵士が声を上げるのが聞こえた。
翼の立てる風音が、屋根の穴から高く響いてくる。古びた丸太の梁が、柱が、重みに軋る。鉤爪に裂かれる前に、小屋が潰れて下敷きになるかもしれない。
事態は一刻を争う。俺は、ぎらつく双眸へ向けて両手をかざした。
「悪かった」
身体に満ちる力を、掌に集中させ、吐き出す。
白銀の光が散った。
銀の砂、あるいは星屑。そう呼ぶのがふさわしい無数の細かな銀光が、やわらかな筋を描き、怒れる飛竜へと流れていく。
「馬鹿な人間どもが、騒がしちまったな。すまねえ」
さらに光を送る。舞う輝きが、もやのように飛竜を包む。
琥珀色の眼から、怒りの色が急速に消えていった。吐かれる息が勢いを失い、穏やかな微風に変わっていく。翼の立てる風音が、止む。
小屋への攻撃は完全に止んでいた。人間たちへの関心も、既になくなっているようだった。
「ねぐらに戻ってくれ。もう、変なことはしねえからよ」
飛竜は、穏やかな声で一声鳴いた。強い風音が小屋を包み、穴から飛竜が見えなくなる。高く響く羽ばたきが、急速に遠ざかっていった。
ほどなく、竜族の気配は完全に消えた。
屋根以外、小屋はどうにか持ちこたえたようだ。あとには天井の大穴と、向こう側に覗く橙色の空と、呆気にとられた闖入者どもが残された。
「いま見たものは……魔法?」
エティエンヌが呆然と呟く。
「銀華芋の力だ。鎮静のマナを含む神聖植物は黄玉茸とか色々あるが、中でも銀華芋の根茎は特に強力だ。竜族でさえ鎮められるくらいに、な」
答えてやれば尊大な青年は、正面からまじまじとこちらの顔を見つめてきた。
皮肉を込め、言葉を続ける。
「あんたら命拾いしたな。俺の晩飯が銀華芋のスープじゃなかったら、いまごろ全員飛竜の爪で八つ裂きだぞ」
「もしや……お弟子様でしたか」
諦め半分に、首を縦に振る。魔法の力について、もはや言い逃れはできない。だがせめて、この身の正体だけは隠し通さねばならない。
ルネ・ブランシャールは死んだのだ。十数年前、裂いた服に黒神狼の血と毛をつけて逃げた時に。お願いだから死んだままにしておいてくれ。
幸い、身体は霊山のマナで若返った。黙っていれば気付く人間はいないだろう。
「他人に力を見せるな、って釘刺されてたんだがな。今頃あの世で頭抱えてるだろうぜ、ルネ師匠」
場の全員が息を呑み、次の瞬間一斉に膝を折った。
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