美味佳肴の山
山小屋の戸を開けば、目の前は雪を頂いた天衝く山だ。霊山エスカルデは、やはり美しい。
空は深い青色に澄み通り、山頂にかかる傘雲以外に白いものは浮かんでいない。緩やかに広がる稜線を眺めていると、夢見の悪さ程度で苛立っていた己の性根が、あまりにちっぽけに思えてくる。
美しい山。豊かな森。澄んだ川。各々から穫れる天地の恵み。人間にとって、他に何が必要だというのか。
俺は、今朝のために用意した茸を、小屋裏手の川へ持っていった。洗うために流れの穏やかな所へ屈み込むと、水鏡に若い男――俺自身の姿が映る。日に焼けた肌に締まった頬、茶色の目に癖の強い赤毛。小柄な身体を覆う、簡素な無地の麻服。どこから見ても完全無欠の若人だ。
気付けば、手が頭に伸びていた。乱れた髪に手櫛を通そうとしていたようだ。
(君は私の「王冠」だ。無理にとは言わないが、できる範囲で身だしなみには気を遣ってほしい。君の名誉は、私の名誉でもあるのだからね)
耳に蘇る、低く穏やかな声。茶色の癖毛を梳いてくれた、やさしい指――
「忘れろっつってんだろ、俺!」
首を振りつつ、吐き捨てる。なぜ今朝は、こうも忌々しいことばかり思い出すのか。
振り切るように俺は、茸入りのざるを流れに浸けた。水面の像は揺れて砕けた。
小屋に戻り、閉まりきらない戸を無理に閉めた。十数年前から住み続けているこの丸太小屋も、最近はあちこちガタがきている。冬が来る前に修繕が必要だろう。できるかぎり人目を避けねばならない身としては、ここ以外に居場所などないのだから。
それはともかく、早く腹を満たしたい。余計なことを考えれば、忘れたい相手の顔をまた思い出してしまいそうだ。
薄黄色に透き通った茸を、一山投げ込む。水気と油が合わさり、激しい音が立った。一塊の湯気が湧く。
何度繰り返しても、この瞬間は好きだ。食物が生きている、と感じる。
薪の火の上で、フライパンを数度あおる。舞った茸の焼き色を確かめ、塩と胡椒をひと振り。
ひとかけ口に入れてみる。ちょうどよい歯ごたえに、茸特有の滋味が滲んだ。
「よし」
火から下ろして、端の欠けた皿へ山盛りにする。一仕事終えた溜息が出た。
東向きの窓の外、朝日は山々の稜線にいまだ近い。「
古びたフォークで、熱々の茸を口に運ぶ。
ニンニクの匂いを含んだオリーブ油が、噛むたび染み出してくる。だが茸の側も負けていない。本来淡白なはずの風味が、しっかりと存在感を持って香り高い油を支えている。茸の透き通った見た目も手伝ってか、ニンニクとオリーブ油の強い香気を受け止めているのに、風味にどこか澄み通った透明感をも感じる。こりこりした肉厚の食感も絶品だ。
そして、美味いものを食う間は、余計なことを考えなくてすむのも最高だ。
いつものように、生命の力が身体に満ちてくる。一山の茸は、あっという間になくなった。
竈と洗い物を片付け、前日に準備した収穫物を背負い袋に詰めた。ようやくの実りの秋。山の恵みは、麓へ持ち込めばそれなりの対価を得られる。
あばら家を出て獣道を歩けば、前方から低い唸り声が聞こえた。木陰に、黒と茶の入り混じった毛皮が見える。山の幻獣、
手をかざし、身に満ちる生命の力をそっと送った。力は「魔法」となり、黄色いかすかな燐光が舞う。
唸り声が止んだ。黒と茶の背中が、葉擦れの音と共に遠ざかっていく。
熊の気配が消えた後、俺はひとつ伸びをした。手指から足先まで、黄玉茸の生命力はまだまだみなぎっている。危険が満ちるこの山で、身を守るために鎮静の魔法は欠かせない。今朝は腹いっぱい食べた、よほどの大群に襲われでもしないかぎり、無用の争いは避けていけるはずだ。
俺は、獣道をふたたび進み始めた。
さらに下ると、俺の背丈の倍ほどもある黒岩が眼前に現れた。山道で最大の難所だ。正面からだと死角で見えないが、近くに
霊山は至る所、この種の罠に満ちている。だからこそ俺は平穏に生きられるのだが。
目指す先、麓の食料雑貨店までは、まだまだ歩く必要があった。
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