【新版/完結】神の一皿は勝利を約す
五色ひいらぎ
1章 隠者還俗
深山の亡霊
一礼してダイニングルームに入っても、食卓に集う貴族たちは表向きの関心を見せなかった。視線だけが正直だった。わずかに眉をひそめる者、好奇の籠った一睨みを投げてくる者、それぞれがそれぞれの形で、料理の盆を持つ卑しい小僧――俺を値踏みしてくる。
背筋が冷えた。路地裏の刺々しさとは、まったく違う種類の敵意だった。手の先が、かすかに震えた。
客人たちの前には、既に豪華な御馳走が並んでいた。白磁の大皿に乗った艶やかな肉、鮮やかに広がる赤黒いソース。添え物の緑葉も見目よく切り揃えられ、細工物のように綺麗だ。
比べれば、俺の料理はあまりにみすぼらしい。本当にこれでいいんだろうか。がんばって作ったのは間違いない。けれど紅色の肉は少し焦げ、切れ目も不揃いで、凝った付け合わせもない。こんな焼いただけの肉で、本当に――
「待ちかねたぞ。『神の料理人』ルネ・ブランシャールよ」
上座から名を呼ばれ、俺の心臓は大きく跳ねた。
声の主――ヴィクトール新国王陛下の前に、料理の皿はない。両脇に置かれたフォークとナイフ、火の灯っていない燭台、それだけがある。
場を覆う緊張の中で、陛下はひとり微笑んでいた。厚めの唇の端を弓なりに引き上げ、青い目に宿る力強い眼光で、まっすぐに下座を見据えている。目だけは、笑っていなかった。
まっすぐな黄金の髪は後ろ頭で一つにまとめられ、白く艶めくケープの下には、燃える火のような真紅のベストが覗いている。身体の線は隠されているのに、筋骨のたくましさが一目でわかる。
隣に立てば、俺の小さな身体はどうしようもなく貧相だ。どうして俺は、こんなところにいるのだろう。なぜ、立ち入りを許されているのだろう。
「
そこまで言って、俺の頭の中は真っ白になった。言うべきことは、たくさん準備していたはずなのに。
言葉を出せないまま、手中の料理をテーブルに置く。一礼する。いまや全身が震えている。
冷汗が伝う背を、陛下の大きな手がそっと撫でてくれた。そして、陛下は言った。
「
一座を見回して、陛下は厳かに、しかし高らかに告げた。
「すなわちこれは神の皿。真なる王に、神々の力と信託とをもたらす聖餐である」
威厳に、気圧される。
陛下はナイフとフォークを手にし、俺が焼いた肉の一切れを口に運んだ。そして、ゆっくりと噛んだ。味わってくれているのだろうか。それとも、貴族たちに見せつけているのだろうか。
ゆっくりと飲み込み終え、数呼吸置いて、陛下はあらためて口を開いた。
「正しき統治者に、神の一皿は勝利を約す」
陛下は右手を掲げた。掌が、ほのかな赤い光に包まれた。
「我は諸兄に約束しよう。忠誠を誓う者には勝利と永遠の繁栄を。反逆せし者には敗北と屈辱を。万が一、真なる王に弓引く者があるならば――」
陛下の手が、眼前の燭台の上にかざされた。
かすかな音と共に、蝋燭に火が灯る。
貴族たちが、かすかにどよめいた。
「――誰しもが、浄化の炎で灰と化すであろう」
陛下は右手を大きく掲げ、掌を天へ向けた。手首から先が、見る間に赤い火で包まれた。人の身を用いた松明のようにも、見えた。
いまや陛下は笑っていた。満面の、おそろしい恫喝の笑みだった。
「心せよ、選択権を与える意思は、我にはない。賢明なる諸兄が、王権の正統性をあるがままに認め、受け容れることを願う。すなわち我、国王ヴィクトール・ド・ヴァロワおよび――」
不意に、俺の肩へ手が置かれた。
陛下の大きな左手は、少しばかり固く、そして温かかった。
「――『神の料理人』ルネ・ブランシャール。我らこそが、神に認められしフレリエール王国の統治者であると!」
貴族の一人が起立した。二人目、三人目が続いた。
皆、無言で深々と頭を下げた。ほどなく場の全員が、陛下と俺へ向けて最敬礼の姿勢をとった。
肩の手に力が籠った。陛下は右手の炎を消すと、ほんの少し身を屈めた。
「ルネよ。私の大切な『王冠』よ」
耳元で囁かれた。さきほどまでの威厳が嘘のような、甘く優しい低音だった。
「これが私たちの力だ。天の神々が、君と私に授けてくれた宝だ」
肩の手が、首を伝い頬へと上る。長い指で顔を包み込まれた。
陛下が目の前で笑っていた。鋭さも恫喝の色も消えていた。目尻を下げ、やわらかく微笑み、俺の耳にしか届かないであろう小声で、囁いてくれた。
「ありがとう」
息が止まる。
自分の鼓動が、聞こえるほどに速い。身体が熱い。
必死で考えた。けれどまったくわからなかった。どうすれば俺は、この人に報いられるのだろう。貧民街でゴミと泥水にまみれていた俺を、こんなにも大切にしてくれる高貴な人に。
思いをめぐらすほどに、頭の中は真っ白になって――
――そこで、目が覚めた。
冷たい風が頬に当たる。夜風かと思えば、窓からは薄日が差している。もう朝らしい。
すり切れた毛布にくるまったまま、俺は寝返りを打った。壁の丸太の隙間から、光が一筋漏れている。あとで土を詰めてやらねえとな――などと考えを巡らしてみても、見てしまった夢は脳裏に取り憑いたままだ。
「何十年前のこと、思い出してやがるんだよ……」
丸くなったまま独りごちる。
家の中を見回せば、丸太で組まれたあばら家に、動くものは他にない。古びた木の机、一脚の丸椅子、壊れかけた煤だらけの
誰もいない土地。ただ「生きる」ことしかできない、楽園。
「せっかくここまで来たってのに……いつまでも引きずってんじゃねえよ」
なにもかもを捨て去り、この地に逃げ込んでから、もう十数年が経つ。
ヴィクトール・ド・ヴァロワはとうに死んだ。崩御したとの噂を、何年も前に聞いた。
ルネ・ブランシャールも「死んだ」。今ここにいるのは、名を棄てた亡霊だ。
あの地獄に囚われる必要など、もうどこにもないはずなのに。
「……忘れろ、俺」
脳裏にはいまだ、生々しい夢がこびりついている。優しい笑みも、耳をくすぐる囁きも、鮮やかに思い出せてしまう。肩に置かれた手の温かささえ、残っているように感じる。
「忘れろ!」
ひとり叫んでも、返ってくる声はない。冷たい隙間風だけが、ただ頬を撫でていく。それでも顔の熱は引かない。
起き上がる気にもなれず、ぼろぼろの毛布を抱いていると、不意に腹の虫が鳴った。
「空きっ腹だと、ろくなこと思い出さねえな……」
胃に物を入れれば、忌まわしい記憶もいくらか忘れられるだろうか。それに、今日は麓へ買い出しに行く日だ。用意は早くしなければならない。
俺はゆっくりと身を起こした。
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