2−2 じょん・ほわいと


 オーカミ。この不思議な響きを持った言葉を知ったのは、刑務所の中でのことだった。


 鉄格子で仕切られた、殺風景なあの場所で、当時のワレは絶望の只中にいた。それは移送されるまでの間、受け続けた暴行のせいでもあったし、そこに収容されていた人間が、皆、ワレと同じ原始人であることを知ったせいでもあった。原始人である限り、まともな人生は歩めないという残酷な事実を、ワレは改めて思い知らされたのだ。


 その絶望はどこまでも深く、ワレは死んだように、居房の隅で体を丸め続けた。食事も睡眠もほとんど取らず、ただ冷たい床をじっと見ていた。それがワレにふさわしい苦しみだと感じたからだ。


 辛いンカ――そう声を掛けられたのは、しばらく経った頃だった。その奇妙な言葉に何を思ったわけでもなく、無意識に顔を上げると、そこにいたのは同房の老人だった。そして、その老人はワレに言い聞かせるように、こう続けたのだった――そういうときはヤ、オーカミ様に祈ればエエ、と。


 聞き慣れない言葉と、その話し方に、ワレの意識は久しぶりに反応をした。回らない頭で、ぼんやりとではあるが、その老人の言葉に耳を傾けたのだ。すると、老人はにかっと笑い、さらに続けた。


 セヤネン、オーカミ様ヤ。ワレワレの神様ヤ。ワレ、聞いたことないか? アマテラスオーカミって神様ヤ。オーカミってのは、昔、この島にいた犬のことでナ……そうヤ、ワレワレは犬のことをオーカミって呼んでたンヤデ。

 まぁ、けど教会の神様とチゴーテな、オーカミ様は大勢いてヤ、木や石や、そこらへんの草花に宿ってたもんでヨ、別に犬の神様ってわけヤない。なら、なんでオーカミ様って呼ぶンカは――ワレも知らん。アマテラスの意味も分からん。ワレワレの言葉は、みんな忘れられてしまったンヤナ。シャーナイことヤけど。


 老人の話す言葉は独特で、そのときのワレには、半分も理解できなかった。しかし、その言葉はなぜだろう、唐突にある記憶へと結びついた。あの幼い日に見つけた地下の洞窟、立ち並ぶ石像、そして光り輝く巨大な像――。


 じいさん、あんた何者だ――ワレは声を上げようとしたが、飲まず食わずの体は言うことを聞かず、吐息だけが隙間風のような音を立てた。すると、老人は――後に彼はゲンと名乗った――そんなワレの心中を読み取ったかのように、いたずらっ子のような笑みで答えた。


 そうヤ、ワレはニホンジンヤ。この刑務所で暮らすワレワレは、みんな同じニホンジンナンヤデ、と。


   *

 ワレワレのように、この国で「原始人」と呼ばれる者たちは、皆、かつてこの島で暮らしていた人々――原住民とでも呼ぶべき人々の血が濃い人間なのだと、ゲンはあっけらかんとそう語った。もしかしたら、それは先祖返りと言うべきなのかもしれない。原住民の血は、あの国から来た人々の血と混ざり、ほとんど消えてしまったものの、いまも人々の中に眠っていて、その眠った血が、時折思い出したように、ワレワレのような人間を現代に誕生させるのだ。


 そして、その原住民の名こそ、ニホンジン。ゲンによれば、彼らはいまのワレワレよりももっと黄色く、もっと矮躯で、もっと幼い顔立ちをしていたという。しかし、決して猿ではなく、言語もあれば文化もある、普通の人間だったという。その証拠に、ゲンの話す言葉はニホンゴが混じったもので、ワレが奇妙だと感じた言葉尻や口調こそ、そのニホンゴである部分なのだった。


 初めて耳にするその話に、ワレは体の痛みも忘れて聞き入った。


 ゲンは今年で六十と二。オーサカの端で生まれ育ち、ニホンジンだった祖父からニホンゴを習ったという。まいける、という本名とは別に、ゲンというニホンゴの名前をつけたのも、そのニホンジンの祖父だった。すべてが生まれ出ずる場所――それが「ゲン」というニホンゴが意味することらしい。


 しかし、ゲンが祖父にニホンゴを教わることができたのは、たった数年のことだった。ある日突然、彼は逮捕され、死刑になってしまったからだ。言うまでもないが、それは本人も家族もまったく覚えのない罪で、明らかな濡れ衣だった。つまるところ、ゲンの祖父もまた、ニホンジンだったためにそんな最期を遂げたのだった――ワレワレがいま、ここに閉じ込められているのと同じように。


 ともあれ、それからというもの、ゲンの両親は、ゲンに祖父のことを忘れさせようと躍起になった。ニホンジンであるが故に祖父は殺されたのだ。ゲンの身の危険を考えれば、当然のことだろう。いや、同じ原始人であったゲンの両親は、ゲンだけでなく、自分たちにも累が及ぶことを恐れたに違いない。彼らはニホンジンがどれだけ悪いものなのかを、あの国の人々がどれほど良いものなのかを、ゲンに教え込もうとしたのだ。


 しかし、両親にとっては残念なことに、ゲンはそれを信じなかった。ゲン自身にも不思議なほどに、祖父の教えは彼の一部となり、その祖父に教わった神々もまた、既に彼の中にいたのだ。アマテラスオーカミ、そして、名前をなくした大勢の、ニホンジンの神様たちが。


 オーカミ。その異国情緒すら感じるような響きに、幼いときのゲン同様、そのときのワレも惹かれていくのを止められなかった。オーカミ、そう口の中で繰り返すたび、それはまるで最初からワレの一部だったかのように馴染み、失った力を取り戻していく。そして、その感覚は覚えのあるものだった。そう、この教会の地下、そこでワレは同じ感覚に触れたのだ。仄かな灯りに照らし出された洞窟の闇、その奥に座した、巨大な金色像を見上げたとき――。


 この国において、本来、神様と呼んでいいのは教会の崇める天の父、ただそれだけだった。教会の教えによれば、この世界を創った偉大な神様はたった一人で、それは他の存在を許さない、唯一無二のものだったからだ。


 けれど、ワレはその天の父とやらを信じることができなかった。当然だろう。すべての人間を天から見下ろし、愛し、導いてくれるはずの存在。その大きな愛を、原始人であるワレは、一度たりとも感じたことがなかったからだ。だから、天に父などいない――それがワレの結論で、この身で感じ続けた現実だった。唾を吐かれ、殴られる、路傍の石よりも価値のない存在。もし、本当に天の父がいたのなら、そんな最悪の存在を創るはずがないではないか。


 だから、ゲンの話は、そのときワレにすべてを理解させた。天の父はいない、それは本当にその通りだったのだ。なぜなら、あれはワレの神ではなかった。ワレを愛する神ではなかった。ワレが崇拝を強いられた神は、奴らの神であり、奴らだけを愛する神だった。そして、その神を唯一絶対の存在にするため、奴らはワレの神を隠したのだ。賢しくも、ニホンジンが育み作り上げた大切な神の御上に、教会などという、紛い物の神を崇める場所を建てて。


 気づきを得た瞬間、込み上げたのは、あの地下の闇のように真っ黒な怒りだった。

 生まれてこの方、ワレが孤独だった理由、それは教え込まれた神が、ワレの神ではないからだった。学校で習うこの国の歴史が、言葉が、それに毎日のように目に映る景色さえ、ワレのものではなく、奴らのものであるからだった。そして、ワレが愛すべきものたちは奪われ、属するべきものたちは、奴らに隠されてしまっていたからだった。奴ら――あの国からやってきた、恐ろしい侵略者たちと、その子孫らに。


 そのとき、ワレの脳裏には、はっきりとその敵の像が結ばれた。ワレを虐げたこの国の人々の顔が、母の、兄たちの顔が、あだむやあんでぃ、まりあ――そして何より、それはたった一人の友人だと信じていた、しりるの顔だった。


 あのとき、教会の下に何かある、そう言いだしたのはしりるだったのだ。そして、しりるはその言葉の通りに何かを見つけたのだ。そのときはワレには分かっていなかった、ニホンジンの素晴らしい文化を、原始人という汚名を覆す、動かぬ証拠を。


 だというのに、彼の様子はおかしかった。さほど喜ぶこともなく、むしろ妙に口数は少なく、それだけではない。地下から出ると、しりるは半ば命令するように、皆にこう告げたのだ――ここへはもう二度と来てはいけない、この入り口は塞いでしまおう、と。


 恐らく、しりるはそのとき、誰もが知り得なかった真相に気づいていたに違いない。否、天才と呼ばれたしりるが、気づかなかったわけがない。この国の嘘に、本当の歴史に、奴らが原始人と蔑むワレワレこそ、この島の本来の主であるということに。


 それなのに、どうだ。しりるがその真相を口にすることはなかった。それはなぜか、問いに対して、答えは一つしかない。しりるがあの国の側についたからだ。ワレの生涯で唯一、ワレを人間として扱い、友人としてさえ振る舞ってくれたというのに、それなのに奴は真相に気づいた途端、裏切った。否、あのとき、ワレが見えない繋がりを直感したように、その瞬間、しりるに流れる血もまた、彼に教えたのだ。ニホンジンを差し置いて、お前たちがこの島に生きる権利などないのだ、と。だから、奴は真実を葬り去った。


 当時、子供だったワレやしりるたちに、その入り口を塞ぐほどの大きな石は動かしようもなく、しりるは入り口を隠すように瓦礫や泥を被せて山を下り、ワレもそれに従った。進んで従ったわけではない。人の命令に従うことに慣れ切っていただけだ。


 しかし、それはあの空間に惹かれていたワレにとって、とても苦痛なことだった。なぜあんなにも惹かれるのかも分からないままに、けれどワレはそこを塞ぐ手伝いをした。いまから思えば、それはしりるがワレに与えた最大限の侮辱だった。ワレの味方であるふりをしながら、しりるは腹の底で笑っていたのだろうから。


 とはいえ、しりるの命令などなくとも、その後も続いた落石で、地下への入り口は完全に埋まってしまい、ワレが再び金色像にまみえることはなかった。そして、時間が流れる内に、すべては夢のように、記憶から徐々に色褪せていった。


 しかし、時は来たれり、あのときの景色は、ゲンの言葉で見事に息を吹き返し、当時は理解できなかった言語でワレに語りかけたのだった。すなわち、ニホンゴで――ワレワレの血を引く子らよ、ワレワレは悪ではないヤ。その悪という刻印は、奴らの手によって刻まれた嘘の刻印なンヤ、と。


 瞬間、ワレの怒りは奔流となって、言葉は口から溢れ出した。伝えたいことは様々あった。しかし、まず伝えなければならないことは、一つだった。ワレワレの神のこと――ミナミ・オーカミの在る洞窟のことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る