2, じょん・ほわいと
その日曜の正午きっかり、跡形もなく爆破されるはずの教会で見かけたのは、あだむ・えいべるの姿だった。
それは産みの母親にさえ疎まれた子供時代のこと、ワレの居場所と言えば、山の中にあった洞窟で、あだむはそこの顔ぶれの一人だったのだ。
瞬間、蘇った記憶に、少しは懐かしさを感じ、計画にためらいを覚えるかと思いきや、冷静にその場を離れ、手順通り、仲間に設置完了の合図を送った自分に、ワレは驚き、同時に心がうきうきとした。あの頃、唯一の友人と呼べたかもしれないしりるは別としても、あだむも、名も思い出したくないキタの金持ちも、意地の悪い孤児の女も、ワレのことを快く思ってはいなかった。
もちろん、やつらからすれば、ワレに同じ空気を吸うことを許しているというだけで寛大で、施しを与えてやっているような気分だったのだろうし、無知であったワレも、その施しに甘んじるしか術はなかった。けれど、いまから思えば、それは明らかな間違いだった。ワレも、奴らと同じ人間なのだ。それなのに、奴らはワレをそう扱わなかったのだから。
無論、それは奴らだけの話じゃなかった。家族も、親戚も、近所の人間も学校の先生も、あまつさえ教会もワレを蔑み、石を投げ、棒で叩き、唾を吐きかけ、ありとあらゆる罵詈をワレに投げつけた。馬鹿、出来損ない、くず、猿、そして「原始人」。
そうして誰からも蔑まされる原始人のワレだ。この世に生まれてきて良かったと、一度も思えたことがなかったのも当然だろう。いや、もし、ワレの両親が原始人だったなら、せめても居場所はあったかもしれない。けれど、ワレは家族の中でさえ、原始人だったのだ。
なぜ、普通の両親の間に、原始人と呼ばれる容姿の子供が生まれるのか――それを理解する人間はいない。また、なぜ、ミナミで原始人の赤ん坊が生まれる確率が、他の地域よりも高いのかということも、誰も考えたことがないだろう。
もっとも、ここがミナミであったとしても、大抵の親の元へは、普通の赤ん坊がやってくるのだから、誰もそんなことは考えずとも構わないのだ。子供を授かったからと言って、原始人が生まれるのではないかと心配する親はいないし、あるいは、その子供の人生が、そして原始人を生んだ自分の立場がどれほど過酷なものになるかという想像もしない。いや、それ以前に、そんなことを想像し、計画的に子供を作るような人間はミナミには存在しない。この、糞溜めのような町には、同じ糞のような人間しかいないのだ。
ワレの母親も、そんな糞人間の一人だった。そして、その糞人間は、ワレを産んで初めて、原始人を産むことの恥を知り、後悔を知った。その証に、母親は後にもう一人、原始人の見た目をした弟を産んだが、それはその日のうちに自らの手で縊り殺してしまったらしい。その事実を、ワレは実の兄たちから聞かされた。原始人ではない、普通の容姿を持つ兄たちだ。彼らは、残酷であるはずのその話を面白可笑しくワレに語り、最後には、お前も死ねば良かったのにと言い捨てて、去って行った。ひどい話だ。
けれど、そんなときでさえ、ワレが感じていたのは絶望だった。なぜ自分は殺してもらえなかったのだろうという、絶望だった。ワレは辛かった。だから、望まれない生を受け、苦しい目に遭うよりは、何も分からないうちに死んでしまった方がずっと楽に違いない。そう思い、殺された弟を羨んだのだ。
それでも、自ら命を絶つことなく生き続けたのは、矛盾のようではあるものの――母親を含め、周囲の人間に、否、ワレを見るすべての人間に死を望まれたおかげだった。原始人に生まれた以上、ワレの望みは何一つ叶わない。それなのに、ワレ自身は苦しみ、自死してまで、そいつらの望みを叶えてやらねばならないのか。そんな思いが、ワレを生かし続けたのだ。
それは辛い毎日を耐えるには、後ろ向きすぎる理由ではあったが、それでも生き抜いて良かったのだと、いまになってワレはあの頃の自分に感謝をしている。あの時代を生き抜いたからこそ、ワレは本当の仲間に出会えた。本当の友人ができた。命を賭けて守りたいと思えるもの――逆に言うならば、相手の命を奪ってでも守りたいものができたのだ。ワレはもう一人じゃない。この国を奴らから取り戻すため、ワレワレ、オーカミは立ち上がったのだから。
信号が仲間に届いたことを確認すると、ワレはもう一度、あだむのいた方を振り返った。こんな早朝、人っ子一人いないはずの時間帯に、一体何の用だろうか。
万が一、姿を見られたのなら、警戒する必要があるだろう。何せ、ワレワレは既にハカタやキョートの教会を爆破し、国から追われる立場にある。そのおかげで、いまやそれがオーカミの構成員ではなくとも、教会の近くに原始人がいるというだけで警察に通報され、拘束されるという事態が多発しているのだ。そうなれば、良くて一生刑務所の中、悪ければ死刑に処されるのは間違いない。
しかし、だからといって、オーカミがそれ以外の原始人に恨まれるということはなかった。なぜなら、ワレワレがオーカミとして行動を起こす前から、警察は原始人を目の敵にし、罪をでっち上げ、刑務所送りにしてきたのだ。
強盗や強姦、暴行に殺人――何でもいい、どこかで犯罪が起きれば、それは間違いなく原始人の仕業で、そこに何か付け加えるのなら、それは原始人の男であることに加え、刑罰が適応される十五才以上だということだった。しかも、これは後にワレが刑務所送りになったときに知った事実だったが、その条件に当てはまる原始人で、逮捕を経験していないという者は一人もいなかった。それほど警察はワレワレを捕らえることに熱心だったのだ。
もちろん、公平を期すために敢えて言うなら、ワレワレもまた、潔白の身の上というわけではなかった。特に、ミナミのような場所で生まれ育った人間には、罪を犯すなというほうが無理な話で、ワレも盗みくらいは日常茶飯事だった。しかし、それは原始人かそうじゃないかということなど関係ない、貧乏人はそうしなければ生きていけないのだから、ミナミにおいて盗むことは生きることだといっても過言ではないというだけのことだった。
そもそもミナミという場所では、週に一度、教会で配られるぱんでさえ、大人が当然のように子供から奪い、奪われた子供はもっと幼い子供から奪い取るのが当たり前だった。
となれば、原始人だったワレは言うまでもなく、奪われる側で――例の、ワレの唯一の友人だった男、しりるはその様子を見て、ワレを例の洞窟へ誘ったのだった。
ミナミの天才と呼ばれ、誰もが一目置くしりる。そのしりるがワレを仲間に引き入れた効果はてきめんだった。ワレのぱんを奪おうとする奴らも、道で石を投げる奴らも、一様にしりるには遠慮し、それから二度とワレに近づかなくなったからだ。
しかし、そんなしりるも、しばらくするとあの国へ渡ってしまい、それを待っていたかのように、ワレは刑務所に入れられた。十五の年を数えた、その翌日のことだった。罪状は心当たりのない強盗だったが、抗議しても無駄なことは知っていた。いや、それ以前に、大人しく鎖に繋がれてさえ、殴る蹴るの暴行を受けたのだから、抵抗すれば命はなかっただろう。どんな困難があったとしても耐え続ける――いま思い返しても、そんなワレの選択は間違っていなかった。こうして生きて、仲間に出会うことができるという、それは輝かしい未来へ続く道だったのだから。
白み始めた空が、徐々に青さを増していく。見納めとなる教会の姿を一瞥し、ワレは足早にその場を去った。
警戒の強まった大都市の教会は後回しにして、次はこのミナミの教会を標的にしようと提案したのは、何を隠そう、このワレ自身だった。この際、教会の大小は関係ない。いずれ、ワレワレはこの国すべての教会を爆破する予定なのだし、ならば、いまは土地勘のある場所を攻めるべきだ。
ワレの案は採用され、計画はとんとん拍子に進んでいった。爆弾は設置され、あとはそのときを待つだけだ。頭の隅で、あだむがばらばらに吹っ飛ぶ様を想像し、ワレは小さく笑った。人殺し? いいや、ワレにはその資格があるはずだった。虫けらを見るような目を向けられ、石を投げられ、あまつさえ逮捕され、殺されてきた原始人である、ワレには。
用心しながら歩いてはきたが、幸い、ワレはあだむのほかに誰を見かけることもなく、ミナミの外れまでやってきた。ここまできたら、こちらのものだ。それでも、ワレは注意深く周囲を見回すと、大人の背丈もあろうかという、高い草の生い茂る荒れ地へ飛び込んだ。それをかき分けるようにして、先へ進む。
いまでこそ、ここは獣道さえない、ただの荒れ地だ。けれど、ワレは知っている。かつてここには道があった。山の上の教会へ続く道が――ワレが子供の頃、山と共に崩れた教会へ続く道が、このあたりにはあったのだ。
あれから、たった二十年。人々がこの道を歩かなくなってから、たったそれだけの年月しか経っていない。けれど、まるでそんな道など初めからなかったとでもいうように、いま、地面にその痕跡はない。歩く者がなくなれば、道は消える。野に還り、跡形もなくなってしまう。
その様は、まるで人の記憶のようだった。人の記憶というものもまた、恐ろしいほど簡単に失われ、あるいは奪われ、後の世には伝わらない。誰かがこの目の前に広がる荒れ地を見て、かつてここには道があったかもしれないなどと、想像もしないように、記憶もまた簡単に塗り替えられ、人々は当たり前のようにこう信じ込むのだ――ここは遠い昔から、荒れ地だったに違いない、ならば誰かが暮らしていたはずもない、と。
けれど、ワレは未だ覚えている。同じように、未だ忘れない仲間たちがいる。だから、ワレワレがいる限り、この道は決して途絶えることはない。これから先も、永遠に。
次第に草は深くなり、小木が行く手を阻む。それでも先へ進んでいけば、ようやくワレの前にその石段は現れた。苔むした、石段。かつて、この山頂にあった教会のために作られたのだと、人々がそう信じている石段だ。
懐かしさに、引き寄せられるように数段上がり、数百段の上を見上げる。教会が崩れた後も、特別な大雨は何度か降り、付近の山は何度も崩れた。しかし、この石段は残った。そう、教会は崩れたが、石段は崩れなかったのだ。あの地下の洞窟と同様に――。
けれど、その事実が何を意味するのかということには、あのとき誰も気づけなかった。天才と呼ばれたしりるでさえも、ただの宝探しといった雰囲気で、この石段を登ったのだから。
しばらく石段を眺めた後、ワレはそれを迂回すると、山の反対側へと斜面を進んだ。そこは谷になっており、冬でも水が涸れない川がある。その深く落ち込んだ山側に、ワレの目指す水路はあるのだ。とはいえ、それは知らなければ水路とも思わず、ましてや、その流れを逆行すれば、どこかへ繋がるかもしれないなどとは、誰も考えないだろう。だからこそ、賢い先人はそこを入り口としたのだ。奴らに見つかることなく、中へ入っていくために。
その場所へ着くと、恐らく先人もそうしたように、ワレも注意深く辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから、流れに身を躍らせた。清い水は冷たく、流れは速い。しかし、胸いっぱいに息を吸い込み、恐れることなく手を伸ばせば、そこには一本の鎖がある。その水底を這う鎖を掴み、水路を逆へ逆へと遡る。そこが洞窟への入り口だ。
そのごつごつとした地面に手をかけ、水から上がる。飢えたように空気を吸い込む。しかし、ここまでくれば、あともう少し、慣れた暗闇を辿り、置かれたろうそくに火を灯すだけだ。そうすれば、ワレワレの神はそこに現れる。金色に光る、巨大なミナミ・オーカミが――。
「また来ましたヤ」
微笑むミナミ・オーカミに、ワレは腰の袋に入れてきた一握りの米を供え、指を真っ直ぐに伸ばすと、両手を合わせるレイをした。そして、大事な報告をする。
「今日も一つ、ワレワレの土地から教会が消えますヤ。これも、ミナミ・オーカミ様のおかげですヤ。オーキニ」
恭しくレイを終えると、ワレは奥へ進み、小さなオーカミたちにもレイをし、報告を済ませる。そうして顔を上げると、仲間の誰かが世話をしてくれたのだろう。小さなオーカミたちの前のろうそくは新しく、赤い前掛けも綺麗に洗濯されていた。なんと心地よい場所だろう、ワレはしばし時を忘れたように、そこに佇んだ。
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