1−3 あだむ・えいべる


 じょん、やったな!


 犬を褒めるように、あんでぃが言い、いつ用意したのだろう、懐中電灯で中の暗闇を照らし出した。


 それはあんでぃにふさわしい、お洒落な小型のものだったけれど、いまは僕もそれどころではなく、照らし出された光景に釘付けだった。ぬらぬらと光る岩壁、そこを滴る水、そして――地下へ続く石段。


 中には水路があるみたいだ、しりるが独り言のようにそう言い、あんでぃの懐中電灯がそれを探して左右に振れた。しかし、いくら入り口から光を当てても、人ひとりがやっと通れるほどの、その幅狭で急な石段がどこまで続いているのか、奥には一体何があるのか、見通すことはできなかった。


 どうする、と問いかけるように、あんでぃがしりるを見た。思えば、あんでぃが行動をためらう瞬間を見たのは、このときが初めてだったかもしれない。しかし、次の瞬間起こったことは、これまでにない衝撃的なことだった。じょんが突然、あんでぃの手から懐中電灯をもぎとり、その暗い穴へと飛び込んだのだ。


 待て! あんでぃが号令をかける隙もなかった。


 瞬く間に、じょんは暗闇に消え、あんでぃもまた、その後を追いかけるように洞窟に吸い込まれた。おい、待てよ! 怒声が地下に反響した。慌てふためき、僕はしりるを見て――どきりとした。一体何を考えているのだろう、その横顔はいつも以上に白く、いや、むしろ青く、具合が悪いのではないかと思わせたからだ。雨に濡れたせいだろうか。大丈夫かと、僕は声をかけようとした。しかし、そうする前に、しりるもまた、ほとんど身を躍らせるようにして、地下へと飛び込んでいった。


 残された僕とまりあは顔を見合わせ――正気なの? とでも言いたげな、その視線を振り切って、僕も怖々と急な石段に足先を乗せた。一人残されるのが嫌なのだろう、待って、とまりあも僕に続いた。


 暗闇で、先の見えない地下へ下りていくのは、想像以上に恐ろしく、僕は梯子を下るように手を使い、後ろ向きに石段を下った。上から見たときは分からなかったが、石段は緩やかに曲がっており、地上からの光はすぐに失われた。すると、あたりは文字通りの真っ暗闇で、ようやく石段を降りきり、ぼんやりとした光の中にある、しりるとあんでぃの姿を目にしたときには、僕は地獄を丸々一周してきたような気分だった。しかし、先に底へ到達した彼らの関心は別にあるようだった。


 じょんのやつ、どこに行きやがった! あんでぃは苛立った声でぶつくさ言っていて、一方、燭台を手にしたしりるは、いつになく黙りこくっていた。洞穴に置いてあったものを持ってきたのだろう、燭台に刺さっているのは、この暗闇には心細いばかりの短いものだった。あの原始人はといえば、どうやら懐中電灯を持ったまま、さらに奥へ行ってしまったらしい。


 水路があるのね、と背後でまりあが言った。彼女が僕に話しかけるわけもないから、独り言だろう。それでも地面に目をやれば、彼女の言う通り、通路の端には溝があり、流れ込んだ水がどこかへ流れていくのが見て取れた。


 どうやら、地下に水が流れ込むことは織り込み済みというわけらしい。ならば、とりあえず、雨水に溺れて死ぬという心配はしなくてよさそうだ。ほんの少しではあったが安心して、改めて洞窟を見回すと、岩をくり抜いたような空間は頑丈そうで、そこに満ちた空気は、奇妙なことに湿気も少なく、からっとしているようだった。


 おい、早く行かないと、じょんがお宝を全部盗っちまうぞ、あんでぃが動かない僕たちを急かす。ったく、原始人に先越されてたまるかよ。


 先住民、な。すると、しりるは言葉少なに訂正した。いつものことだ。あんでぃもまりあも、それに僕も、それを聞かないふりをするのに、しりるは日常的なその指摘をやめなかった。なぜなら、彼は「原始人」という言葉が間違っていると信じていた。


 まず、原始人というのは初期人類を指す言葉であって、この島に元々いた人間を表すものではないし、さらにじょんは僕たちと同じ、この国の人間であって、その先住民自体ではないというのが、その理屈だった。だから、しりるはいつも原始人という言葉を咎めたし、原始人はろくでもないやつらばっかりだという見解には、真っ向から反論した。


 まるで原始人をかばうような、優しいしりるの態度を、僕が気に入らなかったのは言うまでもない。けれど、僕がしりるに意見することなどできるはずもなかった。そもそも、その優しさのおかげで、僕も友人という立場を得ているのだから、それを忘れることなどできるはずがない。


 しかし――それにしても、この地下を見つけて以来、しりるの様子はおかしかった。あんでぃのあからさまな悪口にそれほど怒る様子もないし、口数も少なすぎる。それに、しりるが言ったとおりの場所に、言ったとおりのものがあったのだ。いつものしりるなら、もっと興奮してもいいんじゃないか。


 狭い通路では、前後に入れ替わることもできず、僕たちは地下に降りた順番のまま――先頭に燭台を託されたあんでぃ、次にしりる、僕、そしてまりあの順で、一列になって先へ進んだ。流れる水の音、響く足音、どこまでも続く闇。一体、どこまで進めばいいんだろうと不安になった頃、しりるの背中が不意に止まった。と、慌てて立ち止まった僕の背中にぶつかったまりあが悲鳴を上げ、汚いものを払うような仕草をした。ごめん、僕は謝ったけれど、それは同時に発せられたあんでぃの馬鹿でかい声にかき消された。


 じょん、それ返せよ! あんでぃの声と同時に、懐中電灯の光がぐるりと洞窟の壁を舐めた。どうやら、無事じょんを発見し、その手から懐中電灯を取り返したらしい。それに対して、じょんがぼそぼそと何事か言った。


 燭台を貸せ、とそう聞こえる。あんでぃの持ち物を奪い、勝手なことをしておきながら、謝りもせずにさらなる要求をするなんて。僕のじょんに対する怒りは頂点に達した。もしこの場に、しりるがいなければ――あるいはこの狭い一本道で進退窮まっていなければ、僕は奴に一発お見舞いしていただろう。そうでもしなければ、頭の悪い原始人にはやって良いことと悪いことの区別もつかないのだろうから。


 その僕の考えに、あんでぃも賛成のようだった。じょんにそう言われた瞬間、彼は拳を振り上げたのだ。しかし、次の瞬間、しりるが制止の声を上げた。それどころか、それをじょんに渡してやってくれ、そう言って、青白い顔のまま、あんでぃに懇願した。いいから、あんでぃ、お願いだ――。


 しりるの様子は、いよいよおかしいと言わざるを得なかった。その奇妙な気迫に気圧されて、あんでぃもじょんに燭台を渡した。その揺れる炎が、ずんずんと奥へ進んでいく。あんでぃは何か言いかけたが、呆れたように口を閉じ、後を追うように、蛇のように曲がりくねった通路を進んだ。


 しかし、今度はすぐに足は止まった。少し広くなった通路に、まりあが僕を追い越して、あんでぃとしりるの間に割って入った。何が行われるというのだろう、背伸びをして奥を見ると、あんでぃから奪われたろうそくの炎が、じょんの醜い横顔を映し出し、ゆらゆらと揺れていた。


 で、今度は何を――あんでぃがそう言いかけたときだった。ろうそくの炎一つ、懐中電灯の光一つだった暗闇に、ぽっと新たな光が灯った。一つ、二つ、三つ――。ろうそくだ、ややあって僕たちは理解した。通路を挟むようにして、そこには規則正しい間隔でろうそくが立っている。何のために? その答えはすぐに目の前に現れた。ずらりと立ち並んだ、たくさんの石像。ろうそくの一本一本は、その石像一つ一つに捧げられるように立っていたのだ。


 いまや数十にも灯された光の中、浮かび上がったその光景に、僕たちは息を飲んだ。あんでぃも、しりるも、どんなときでも何か一言言わなければ気が済まない、まりあさえも、このときばかりは圧倒されたように、壁の石像を無言で見つめた。


 それはいままで見たことのないような、奇妙で不気味な石像だった。丸い頭には髪がなく、その目は閉じられているのか、いや、開いていたとしてもとても細く、ふっくらとした頬には薄い笑みが浮かんでいる。何を表しているのだろう、その両手は指を立てたまま、胸の前で合わせられ、首には褪せた赤い布が巻き付けられている。頭は大きく、背丈は低く、三歳くらいの子供を写し取ったような姿でありながら、顔はどこか老人のようでもあり、そのちぐはぐさがさらなる不気味さを醸し出している。


 何だこれ、気持ち悪いな。いち早く、率直な感想を述べたのは、あんでぃだった。呪いの像ってか。ここを通ったら、こいつに呪われる、みたいな――。


 言いながら、あんでぃは石像に近寄った。懐中電灯の光を近付け、それをじっくりと検分する。それから、不意にその光でじょんの横顔を照らし出した。あっ、今度はまりあが声を上げた。やだ、これって原始人みたい。


 ぎょっとして、僕は石像を凝視した。言われるまでどうして気づかなかったのだろうというくらい、いま、それは驚くほどじょんに似て見えた。その丸く大きな頭に低い鼻、細い目、背丈の低さ、それにどことははっきり言えないが、雰囲気までもが似通っているようで――瞬間、ぞっとするものが背筋を走った。


 思えば、ここへ来てからのじょんの行動は異常だった。地下を見つけ、あんでぃの懐中電灯をひったくり、地下へと真っ先に飛び込んでいく。それはいままでのじょんからは考えられないような行動で、しかも、そんな異常な行動の末、じょんが見つけたのは、じょんに似た不気味な石像だった。これはただの偶然だろうか。いや、こんな偶然、あるはずがない。


 いますぐにここから逃げ出そうとでもいうように、僕の足は震えだした。何かがおかしい。何か――説明のできない何かが、この洞窟の冷えた空気を支配している。僕たちに害をなそうとしている。


 懐中電灯でじょんの顔を照らし出したあんでぃも、背後で息を殺すまりあも、図らずも僕と同じ感覚に囚われているようだった。そして、それは恐らく、しりるも同じで――いや、地下を見つけたときからずっと、しりるの様子がおかしかったのは、いち早くこの気配に気づいていたからだったのか――。


 ちろちろと水の流れる音が、いまは闇の中から手ぐすねを引く、悪魔の舌舐めずりのように聞こえ、ろうそくの炎に浮かび上がる石像は、これから僕たちが迎えるだろう運命を嘲笑っているかのようだった。この洞窟はおかしい。ここに来たのは間違いなんじゃないか、僕たちはいますぐここから出るべきなんじゃないか――焦燥感が心臓を鷲掴みにして、僕は悲鳴を上げようとした。しかし、声は音を失い、息づかいばかりが荒くなる。そうするうちに、光の中のじょんが動いた。くるりと踵を返し、奥の暗闇へ消えていく。しん、と吸い込まれるような静寂の後、あんでぃの横をすり抜け、しりるがその後を追いかけた。


 おい待てって! あんでぃが裏返った声で叫び、走り出す。まりあが焦ったように後に続く。逃げるなら、いまだ。頭ではそう思っても、取り残される恐怖に怯えた僕の足は、もつれながらも洞窟の奥へ駆け出した。そして、とうとう、僕たちは探していた何かの答えを目の当たりにした。教会の下の何か、その正体を――。


 暗い通路の突き当たり。山をくり抜いたかのような、急にぽっかりと開けたその空間で、僕たちが目にしたのは、巨大な金色の像だった。それは懐中電灯の光を反射し、太陽のように光り輝いて、蟻のように小さな僕たちを見下ろしていた。


 息を呑み、立ち尽くす僕たちを尻目に、じょんは金色像の前のろうそくに火を灯し、恍惚と巨像を見上げた。そこへ、ふらふらと歩み寄ったしりるが膝をついた。そして、その目の前に並んだ何か――巨像に供えられたものに手を伸ばし、その動きを止めた。


 それは一体何なのか――吸い寄せられるように、僕たちもしりるに近づいた。不安は、皆が共有していた感情だった。しかし、振り向いたしりるは、それに輪をかけて心細げな、幼い子供のような表情をしていた。


 しりるにそんな顔をさせるもの。それは見るべきではないものだ。しかし、そう分かっていながら、僕たちはしりるの手元を覗き込んだ。


 まず、目に入ったのは、見たこともない文字の書かれた、古い紙切れのようなもの。ニホンジン――文字の一部をそう読むのだということを知ったのは、それから何年も後のことで、当時の僕は何の意味も感じなかった。だから、何かはそれではなかった。そんな意味の分からない文字列よりも、もっと直感的に、僕たちを混沌へ突き落とすもの――。


 それは、あんでぃの懐中電灯が照らす先――そのとき、しりるの手が差し込まれていた、古い、草編みの容れ物にあった。


 子供のような表情で僕たちを振り返っていたしりるは、ようやく覚悟を決めたように息をつき、視線を元に戻すと、ゆっくりとそこから手を引き抜いた。そうしてぎゅっと握りしめた手を、僕たちの前でゆっくりと開いた。さらさらと、その手のひらに乗りきらなかった粒が、砂のようにこぼれ落ちた。そのくすんだ色の粒を見て、僕たちは息を飲んだ。この洞窟でどれだけの年月を経たのだろう、すっかり古びた色へと変わり、ほとんど土塊のようにも見えたが、そうなってなお、それは見間違いようもないほど、僕たちが見知ったものだった。それは雑草のような生命力でそこら中の畑に育ち、時が来れば黄色い穂を揺らす、僕たちの糧――。


 ――米だ。


 絞り出すように、しりるが呟いた。


 これは米だ。僕たちが食べているのと同じ――。


 その独り言のような言葉は、吐息のように微かであったにもかかわらず、この洞窟の隅々まで響き渡った。水の音と、揺れるろうそくの炎、巨像の前で未だ動かない、原始人のじょん。静寂の中、僕たちは言葉を失ったまま、ただしりるの手の米を凝視した。


 米。あの国からやってきた、ましゅー・ぺりーが、麦の代わりにこの国に与えてくれたはずの日々の糧。それがどうして教会の地下にあるのだろうか。見たこともない文字と共に、見たこともない容れ物に封じられ、原始人の顔をした巨像に供えられているのだろう。一体なぜ、どうして――。


 何かが腹の底からぐうっとこみ上げ、僕はその場で盛大に嘔吐いた。いままで己の一部だと疑わなかったこの皮膚に、血液に、細胞の一つ一つに、知らぬ間に赤の他人のものが入り込んでいた――そんな気持ちの悪さが全身を駆け巡り、いますぐにこの肉体を切り裂いてでも、その部分を取り出し、ぐちゃぐちゃに破壊したくてたまらなくなった。いますぐにそうしなければ、僕は僕ではなくなってしまう。衝動に、僕は自分の胸に爪を立て、そこに脈打つものをえぐり出そうとした。


 けれど、僕がそうするよりも早く、闇の中の悪魔は、薄ら笑いを浮かべて僕を捉えた。そうして僕に理解させた。


 すなわち、この洞窟は僕たちの先祖のものじゃない。海を渡り、あの国からやってきた、僕たちの先祖のものじゃなく、決してそうではなく、この島に住み着いていた原始人の――あの猿どもの洞窟で、そして――。


 その先はもう何も浮かばなかった。否、その先を考えることを、僕のすべてが拒否をした。それはいつか、ずっと先の未来、考えなければならないことかもしれない。僕たちが知らなければならないことかもしれない。けれど、いまは何も考えたくないし、何も知りたくなかった。米は――僕たちが食べている、米という糧は、この島に住んでいた原始人の食べ物で、この山の上に教会が建つずっとずっと以前から、彼らはこの地で米を食べて生きてきたんだ、ということを。


   *


 灰色の空から、雨粒は落ち続ける。


 あの日と同じ雨が、この国を沈める雨が、いまも同じように降り続け、人々を冷たく濡らしている。


 その一滴一滴に、残り少ない僕の命は滲み、溶け、地面に吸い込まれていくようだった。衝撃の直後、あちこちから聞こえていた呻き声も、いまはそのほとんどが絶え、あたりはまるで突然凍り付いたかのように、しんと静かだった。


 オーカミ、原始人、爆弾、そして、この国に眠る悪魔。あの夏、僕たちが教会跡に行かなければ、こんな未来は訪れず、悪魔の眠りは妨げられることがなかったのかもしれない。あるいは、この国に雨が降らなければ、あの山の上の教会が崩れなければ、またあるいは、この国の原始人が死に絶えてさえいれば――。




 あの日、あの洞窟に、僕たちはどれくらいいたのだろう。まるで時間が止まったようなその空間から、無言のまま、僕たちは地上へ戻った。そして、やはり無言のまま、何人たりともそこへ入ることができないよう、大小の石を運び、地下への入り口を塞いだ。


 そうすれば、僕たちは何も見なかったことにできる。何も考えなくて済む。いままで通り、僕たちは僕たちとして、原始人は別種の猿として、この国に存在するのだと、そう思うことができたからだ。これからもずっと、ずっと、永遠に――。




 雨が、あの日と同じ、雨が降る。


 ――教会の下には何かがある。


 何も知らない、しりるの声が、耳に鮮明に蘇る。その懐かしく、残酷な声を聞きながら、僕はあの洞窟よりも深い暗闇の中へ落ちていったのだった。

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