変身

夏夜 夢

変身

 一


「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! さあさあ、皆さまお待ちかね! どうやら今日はバギーのご機嫌が良いようだ。この小さなコガネムシを侮るなかれ! 人間の言葉を理解する、世界にたった一匹の天才コガネムシ、バギーだ!」

 団長は色白でぽってりとした体型を隠すことなく、素肌に赤いサスペンダーを食い込ませ、青と白のサテンのひらひらしたデカパンを穿いている。強い照明のせいで、シルクハットの隙間から滝のように汗を流しながら、大声でお客さんにパフォーマンスしている。僕が人間の時は、あんなに僕をいびったり貶したりして汚い歯を見せて馬鹿にするくせに、ステージでは僕に優しい声でお願いをするのだ。

「さあ、バギー。こちらにピーナッツを持ってきてくれないかな」

 団長のいるテーブルと僕のいるテーブルの距離は、団長の身長でいうと五人分くらい離れている。僕はたくさんのナッツやビー玉が入った、ごった煮のような皿の中からピーナッツを探し当てて、六本の足で大事に抱えて羽を広げた。

 僕の羽は眩い金色から若葉色へ、そして苔のように濃くなり、せせらぐ川の水面に映る空のような淡い青になったかと思うと、だんだんと群青になり、明け方の朝顔のように紫やピンクにくるくると色を変えながら、やがて全ての色を合わせた奇妙な玉虫色になり、団長の手のひらの中に着く瞬間に背中に折りたたまれた。

 観客たちは僕の芸と同じくらい、いやもしかするとそれ以上に僕の羽に魅了されているのかもしれない。

「えらいぞ、バギー。見事にピーナッツを持ってきた!」

 観客は会場に対して半分程度だろうか。僕に生えている細かい体毛たちが音の振動をあまり受けていない。今日は客の入りがよくないようだ。

 その後もいつものように僕に簡単な算数問題を解かせたり、玉乗りさせたり、一連のショーの流れをこなした。ショーが終わった後は楽屋へ戻り、くすんだベッドに止まって、じっとする。ただ、待つんだ。僕はいつこの姿になるのかわからないし、いつ人間に戻れるのかもわからない。


 僕がようやく人間の姿に戻った時、空は濁っていて時間がよくわからなかった。しかし、夜の公演に向けて準備している気配がしたので、少なくとも時計の半円分くらいは虫の姿をしていたようだ。

 このごろ、虫でいる時間が長くなってきている。それに、腕や足の一部に人間の皮膚ではないような、めらめらと虹色に光る膜が出来始めていた。まさにあの羽のように美しい、いや、他者からすれば美しいと言えるだろうが僕にとってはおぞましい、忌々しい虫の片鱗が人間の僕にまで浸食し始めていた。僕は考えうる最悪の結末を想像し、吐き気を催した。

 ちょうどその時、団長がいきなり僕の楽屋のカーテンを開けて顔を歪めた。

「なんだ、戻ったのか。これじゃ夜の公演は無理だな」

「……はい。ごめんなさい」

「まったく、まだ変身をコントロールできないのか。困ったもんだな」

 僕は俯くことしかできなかった。好きでこの身体になったんじゃない。団長は僕を軽蔑した目で眺めていた。昼の公演から着替えていないのだろうか、ベタベタした肌からは不潔な印象が漂っている。そしてその汗まみれの手で、僕の本棚を勝手にあさり始めた。

「おい、なんだこの本は。教科書か?」

「それは、お客さんの、忘れ物で」

「忘れ物なら盗んでいいってのか」

「それは、もう何年も、前ので。落とした子は、もう学校に行ってないよ」

「こんなもんお前が持ってて、どうすんだ」

「あの、ぼく、学校に、行きたくて」

「は?」

「学校に、行ってみたいんだ」

「あのな、お前みたいな虫ケラはここにいるのが一番なんだよ。どうやって外で生きるつもりだ? ここに居ればお前は、ちょっと豆を運ぶだけで金になるんだよ」

 その金はほとんどお前が奪っているじゃないか、と言いたかった。でも僕はその日も、虫けらのように黙り込んだまま団長の背中を見送った。


 二


 ある日、団長は昼公演の前にみんなを集めて、隣にいる少女を紹介した。

「今日から雑用として入る、アメリアだ」

 アメリアは照れくさそうにみんなを見ていた。乾燥した赤毛の三つ編みが両肩まで伸びていて、ボロボロのワンピースから細い腕と足が生えていた。

「こいつが怪力男のビリー、リンゴもスイカも握りつぶせる。ヘビ女のベラはヘビを丸呑みできる。そこのちっこいのがシャーロット、こいつはただの小人だ。あっちの髭面がポンプ。人間ポンプをやってる、そのまんまの名前だ。あとそこのガキはバギー。虫の“バグ”から取ったんだ、良い名前だろ?」

 紹介されている間、ビリーは自慢の筋肉を見せつけていたし、ベラは大きな口を開けて二股に分かれた気味の悪い舌をうねうねと動かしていた。ポンプに至っては何かを戻しそうになっていたので、シャーロットが必死に止めていた。

 アメリアはここの陰湿な空気を変える、一本の美しいタンポポのようだった。僕はこのサーカスに来るまでの記憶がないし、このサーカスから出て生活をしたことがないから、花をほとんど知らない。僕の一番かわいらしいと思う花はタンポポだ。

 彼女は僕を見て、微笑みかけてくれた。なんだかとても恥ずかしさを感じて、僕が虫になった姿は絶対に見られたくないと思った。

「さて! 昼公演が始まるぞ、準備しろ! おい、バギー、調子悪いのか? そろそろあの小さい召使いになってくれないと、俺がピーナッツを食べられねえじゃねえか」

「ごめんなさい」

 虫にならないということは僕にとっては調子が良いことだった。僕はいつか人間に戻れなくなるんじゃないかという不安で、毎晩眠れなかった。

「アメリアに仕事でも教えてろ」

 みんなが準備に行ってしまい、小屋には僕とアメリアが残された。

「あの、まずは、このあたりを案内するよ」

「ありがとう!」

 僕たちはサーカス小屋の周辺を歩いた。周りには僕たちが住んでいる、小さなテント小屋やトレーラーがある。トレーラーはもちろん団長の住まいだ。鍵もかけられるし、エアコンもあるし、立派なキッチンもある。僕は一度だけ、このトレーラーに入ったことがある。僕がステージでうまくピーナッツを見つけられなかった日。このトレーラーで何度もぶたれた。ピーナッツを抜いた犯人はわかってる。ビリーだ。ビリーは僕を嫌っている。努力もせずに芸をもって生まれたことを妬んでいるのかもしれない。僕の悩みも知らないで。

「このトレーラーは、団長の家。そっちの汗臭い小屋はビリーで、あっちの暗めの小屋がベラ。ベラの小屋にはヘビがいっぱいいるんだ。近寄らないほうがいい」

「ねえ、バギー。あなたはどんな芸ができるの?」

「ああ、僕はそんな、大したもんじゃない。まだ見習いだよ」

 僕が虫になることなんて、きっと誰かから聞いてしまうだろう。だけど自分では言いたくなかったし、認めたくもなかった。

「あれは誰のテント?」

 小屋は少しずつ間隔をあけて立てられている。ベラの隣に立っているテント小屋はシャーロットのものだ。シャーロットは生まれつき背が低く、僕のことも少し見上げるくらいだ。シャーロットは女性らしい花柄やピンク色が好きで、テントにも可愛らしい布がたくさん貼られていて、すぐにシャーロットのテントだとわかる。僕はシャーロットには何でも話せる。このサーカスで唯一僕の気持ちを理解してくれる素敵なお姉さんだ。

「シャーロットのテントだ。僕はこのサーカスでシャーロットと一番仲がいい。君もきっとすぐ仲良くなれるさ」

「お友達選びは大切だものね」

「お友達?」

「そうよ。昔、ちょっとだけ学校に通ってたの。何人も同じ年の子がいた。でも本当に仲良くなれるのは一人か二人なの。不思議よね」

「学校に行ったことがあるの? 羨ましいなあ」

「どうしてバギーは学校へ通えないの? 昼の公演はお休みして、学校に通ったら?」

「そんなこと団長が許さないよ。君ももう学校になんか行けないさ」

 僕は自分で言っているのにどんどん悲しくなって俯いた。学校がどんなところなのか、同じ年の友達とはどんな話をするのか知りたかった。僕はいわゆる“普通の子供”になりたかった。

「私はね、大好きなママが死んじゃって、お金が無いからパパに売られたの」

「ひどいパパだね」

「でもね、ママがいるときはパパは優しかったの。だからパパも大好き。お金ができたら、迎えに行くって言ってくれたの。だから待ってる間は、ここで良い子にするんだ」

「ねえ、早くパパに会いたくない?」

「会いたいよ。いつも神様にお祈りしてるの。パパが早く迎えに来てくれますようにって」

「こっちから会いに行けばいいんじゃない?」

「そんなこと出来ないよ! 私の住んでた街までは電車に乗ったりするのよ。お金もないし、一人じゃとても無理」

「じゃあ、僕も一緒に行く。お金もなんとかする。それならどう?」

「バギーにも家族がいるの?」

 僕は耳がカッと熱くなり、鼻がツンとした。所詮、僕を待っている人はいない。逃げて何になるのだろう。

 すると、シャーロットがテントから出てきた。

「あなた達、こんなところでそんな会話して、誰かに聞かれたら大変よ。でもその話、私も興味あるわ。私の出番が終わったら、三人で話しましょうよ」

 シャーロットは僕たちにウインクして、短い足でスタスタと去っていった。


 三


 昼の公演が終わり、みんなが遅めの昼食をとった後に僕とアメリアはシャーロットのテントに行った。僕はいつも通り、レースのたくさん縫われた派手なソファに座ってシャーロットの淹れてくれる紅茶を待った。アメリアは目をキラキラさせて、口を半開きにさせながら部屋の中を蠅のように見て回っていた。

「シャーロット、とっても素敵よ! 私もこんなかわいいお部屋に住みたいわ」

「ありがとう、アメリア。あなたはまだ自分のテントは持ってないでしょうけど、いつでもここへ遊びに来ていいからね」

「本当に? とってもうれしいわ!」

 シャーロットはお湯を沸かしながらアメリアに微笑んでいた。

「ところでバギー、さっきの話、本気なの?」

「さっきの話って?」

 僕はわかっていたが意地悪をした。するとシャーロットは一呼吸おいて小声になった。

「ここから出ていくって話よ」

「ああ、そうだ。僕は学校へ行きたいんだ」

「学校? 医者にでもなって、自分の身体でも治すつもり?」

「シャーロット! アメリアはまだ……」

 僕は言い淀んだが、シャーロットはすぐに理解した。

「バギー、まだ言ってないのね。アメリアには先に話しておいたほうがいいわよ」

 僕はアメリアを見た。その目は完全な人間で、なんの恐怖もない。肌は潤って滑らかで、まるでバラの花弁ような肌ざわりだろう。いや、待てよ。僕はバラを知らない。だけど、アメリアを見ているとなんだか、とても美味しいあの青々した葉を思い出す。葉の歯ごたえとみずみずしさが僕の口の中いっぱいに蘇ってくる。

「バギー、どうしたの」

 アメリアとシャーロットが、僕に何か言ってる。

「バギー? 落ち着いて! それはアメリアよ!」

 視界がうねうねと変化する。僕はまた、変わってしまうのか。手が、僕の手が黒い光沢に覆われて細かく鋭い毛が生える。背中が、肩甲骨が皮膚を突き破って、薄く透き通った虹色になっていく。身体がじわじわ小さくなる。血はほとんど出ない。体内でぐつぐつと泡立って、だんだん透明になる。僕は、自分の腕がアメリアを掴んでいたのをやっと認識できた。でももう僕の腕は人間の腕じゃない。無機質に尖っていて、おぞましい自分の腕がうねる視界でアメリアと混ざりあって、僕はアメリアをぐちゃぐちゃにしていた。吐きそうだ。胃がどんどん潰れて胃液が食道に流れ込んでくる。

 呼吸もままならない中で、今度は肋骨が皮膚を突き破ってくる。左右一本ずつ、跳ね橋のようにメキメキとせり上がり、骨が昆虫の足へと変化する。だんだんとぼやけていく視界の中で、僕はアメリアの恍惚とした表情を見た。僕から目を離さず、その瞼は糸で引っ張られているかのように見開いて、微かに口角をあげて無意識に開いた口には溢れそうなよだれが見えた。

 僕はいつの間にか呼吸が楽になり、六つの足先から熱気とヌメヌメとした湿気を感じた。僕はどうやらアメリアの手の中にいるようだ。

「アメリア、平気なの? びっくりしたわよね、これが彼なのよ」

 アメリアは僕から目を離さず、自分の手のひらを顔に近付けてこう言った。

「とっても素敵!」


 僕とアメリアは、どんどん仲良くなった。アメリアは僕が変化しても嫌いにならず、優しく接してくれた。僕はアメリアのことが大好きになった。そしてその反面、サーカスにいることがどんどん嫌になっていった。団長は相変わらず僕をいびり続けていたし、ビリーは僕を見るたびに苛立ちと嫌悪を露わにしてきた。まるでちょうど家に出た害虫を見つけてしまったかのような顔をする。

「おい、お前あの女のこと好きなんだろ」

 その日は僕がゴミ当番で、大きなポリバケツを運んでいたときに、ちょうどビリーが話しかけてきた。

「そんなんじゃないよ」

「うそつけよ、お前のいやらしい目つき、バレバレだぞ」

「そんなんじゃないって」

 僕は前に立ちはだかったビリーを避けて通ろうとした。しかしビリーはその薄汚れた大きな手で僕を突き飛ばし、ついでにポリバケツも蹴とばして中身をぶちまけた。

「どうせ虫けらなんだから、ゴミにでもたかってろよな」

 僕はすぐに目をそらしてうつむいた。ここで睨んでは殴られる。本能がそう判断していた。

「ちょっと! あんた何やってんの!」

 小柄に似合わない大声を出しながら、シャーロットが駆け寄ってきた。

「こいつがぶつかってきたんだよ」

 ビリーは厄介なことになる前にその場からそそくさと去っていった。シャーロットは片付けを手伝ってくれて、そのあと自分のテントに招き入れてくれた。

「あんまり気にしないほうがいいわよ。あいつ、脳ミソまで筋肉なのよ、きっと!」

 彼女はポットに入ったレモンティーを出してくれた。僕は暑くて長袖のシャツの裾をまくりたかったが、まくれずにいた。

「シャーロット、僕もう耐えられない。こんなところ出たいんだ」

「その気持ちはわかるわよ。でも、ここを出てどうするつもりなの」

「学校へ通ってみたい。出来る限り、もっと世界を知りたいんだ」

「こんなことは言いたくないのだけれど、あなたの体質を理解してくれる人はきっと少ないわよ。私みたいに、小人なだけで人間と扱わないやつもいるの。世界は思っているよりも、残酷よ」

「それでもいいんだ。僕が人間のうちに、知っておきたいんだよ」

「どういう意味?」

 僕は何も言わず、シャツの裾をまくってみせた。まるで派手なアイシャドウの光沢のような、ギラギラとした玉虫色に浸食された皮膚が現れ、シャーロットは全てを悟ったように固まった。唇を口の中に巻き込んで、涙をこらえているようだった。

「わかるだろ? 時間がないんだ」

「ああ、バギー」

 シャーロットは僕を抱きしめた。彼女は僕より小さいはずなのに、とても大きく、温かく感じた。落ち着いた後も、僕たちはしばらくソファに座って黙っていた。

 そして彼女が、いきなりレモンティーを飲み干したかと思うと「ここから出られるように協力するわ。私の作戦なら、きっと大丈夫よ」と言った。


 四


 シャーロットの作戦はこうだ。

 まず僕の代わりになる黄金虫を用意する。作戦決行日は、特に客が多くなる休日の昼公演だ。シャーロットは団長に、バギーだと言って本物の黄金虫を渡す。これで団長は、ただの黄金虫と一緒にステージに上がる。シャーロットはそのあとすぐに団長のトレーラーに行って、鍵を壊して部屋からお金を盗む。僕は昼公演が始まるまで部屋で隠れておく。始まったらすぐにサーカスの裏手の集合場所へ向かう。

 こうして僕とシャーロットは一緒に脱走を企てた。僕はアメリアも連れていきたいと言ったが、シャーロットはあまり乗り気ではなかった。人数が増えると失敗の確率があがるからだ。

 決行の前日はアメリアがゴミ当番だったので、僕はアメリアと二人で話すきっかけを作るために彼女を探していた。ゴミ置き場に向かっていると、ビリーと話しているアメリアが見えた。一体何をしているのかと近寄っていくと、いきなりビリーがアメリアの頬を殴った。その大きな手はアメリアの顔の二倍ほどあり、アメリアはその衝撃でゴミの山に沈み込んだ。

「おい! なにしてやがる!」

 僕が大声で叫びながら走り出すと、ビリーはちらとこちらを見て、にやりとした。顔にはピエロの化粧が残っていて、口の周りを広く囲った真っ赤な化粧がその微笑をより誇張して、ひどく不気味だった。ビリーは何も言わずに足早に去っていった。

 僕が追いかけても勝てるはずもない。とりあえずアメリアに駆け寄って、様子を確認した。

「アメリア、大丈夫?」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 恐怖におびえた彼女は、呪文のようにそう呟いていた。説明できないことや自分で解決できないことを、自分が悪かったことにして、必死に理解しようとしているような様子だった。

「こんなの間違ってる。君は何も悪くないのに。あいつは自分が良ければ、他人なんてどうだっていいんだ。ほんとに嫌な奴だ。あいつだけじゃない。ここにいちゃダメだ。アメリア、君も明日一緒に逃げよう」

 アメリアは僕の目をまっすぐに見据えたあと、ここに来た時よりも細くなった腕で僕にしがみついて泣きじゃくった。


 次の日、僕は昼公演まで息を殺して隠れていた。そろそろシャーロットが団長に、僕の代わりのパフォーマーを渡していることだろう。僕は開演のギリギリまで準備をしているアメリアを迎えに行くことにしている。あともう少しだ。

 僕はほとんど私物を持っていないが、慣れ親しんだ自分の部屋と別れるのはなんだか寂しいものだ。お客さんの忘れ物をくすねて読んだ本もある。全部は持っていけないが一冊くらい持っていこうかと思って、本を手に取ったとき、僕の右手がもうほとんど昆虫の足になっていることに気が付いた。

 驚いて後ろに下がると、膝が支えられず倒れこんだ。そしていつもの息苦しさが始まった。しかし、何かが違う気がした。いつものようにぬるぬると生暖かく変化していくのではなく、僕の皮膚や骨、筋肉や脂肪は急激に腐り、血液の大部分は床に拡がっていったのだ。

 僕はもう人間には戻れないんだと直感した。そこで僕は考え続けた。脳ミソだけは奪われたくない。人間としての最後のあがきだった。思考さえあれば、僕は人間だったと覚えていられる。お願い、神様、お願いだ。僕という存在を奪わないで。

 不思議とこの変身に痛みはなかった。昆虫の僕はまるで、人間の僕の中にずっと居たような、人間の皮を被っていただけのような気がした。その皮がついに破れただけなのだ。僕はずっとサナギだったのではないかと考えた。だけどサナギから出てくるのは蝶とか蛾とか、そういう種類の昆虫だ。じゃあ人間の僕は卵か繭か、そういう入れ物だったんじゃないか。本当の僕は昆虫のほうだったんじゃないか。

 僕の視界はぼんやりしていたが、悪臭と肉片があることはわかった。そこでふと昔、ビリーにゴミ捨て場で殴られて、生ゴミに顔を埋められたことを思い出した。そして僕は、人間の脳ミソを残したまま完全な黄金虫になったんだと安堵した。

 血液で熱く、ぬるりとした床から飛び出そうと思い、羽を広げて飛び立った。

「そういえば、僕はアメリアのところへ行かなくてはならない」

 僕が口に出したと思った言葉は、存在しない声帯を通り、風に消えた。


 アメリアは舞台裏から外へ出て、裏手に進むはずだ。だから僕は舞台裏の出入口へ向かった。

 すると、アメリアはまたビリーに怒鳴られていた。

「お前が洗濯した衣装はいつも汚れが取れてねえんだ」

 アメリアはその小さな体を震わせて、殴られまいと顔の前で腕を交差させていた。するとビリーはアメリアの頭を鷲掴みにして、どんどん力を加えていった。

「痛い! 離して!」

 僕はすごい勢いで羽を動かして、風を切った。ブンという音がしたかと思うと同時に、ビリーの頭の周りをぐるぐると回って気を引いた。

「なんだよ、うるさい虫だな」

 速すぎて、僕を大きなハエだと思ったのかもしれない。ビリーが虫を払うように手を離した隙にアメリアは逃げ出した。そして僕は、ビリーの腫れぼったい目に突っ込み、瞼を閉じるよりも速く、前足で眼球を引っ搔いた。ビリーは野太い悲鳴を上げて、僕を払いのけた。地面に叩きつけられた僕は、脳ミソがぐわんぐわんした。

「バギー!」

 アメリアは咄嗟にそう叫んでいた。

「バギーなわけねえだろ! いま舞台に立ってんだぞあいつは」

 すると騒ぎを聞きつけたベラが現れた。

「ちょっと! 何騒いでるの、客に聞こえるじゃない」

 ベラは肩に大きなヘビをかけたまま現れ、ビリーが眼球から血を流しているのを見ると慌てて駆け寄った。ビリーは怒りよりも痛みが増してきたのか、口数が減っていった。そして僕はアメリアが駆け寄ってくるのをなんとなく感じていた。

 しかし僕の視界はすっぱりと突然奪われて、くしゅんと羽が潰れた。肺をめいっぱい使って叫んだ空気は、声帯を通らずに抜けていった。僕はあのヘビに食べられてしまったのか。もう、おしまいなのか。僕は余計なことを神に願ってしまったが故に、感じなくてよかった“悲しみ”に飲み込まれていった。僕はこれからゆっくりと考えるだろう。消化されるまでたっぷりと時間があるのだから。


「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! さあさあ、皆さまお待ちかね! どうやら今日はバギーのご機嫌が良いようだ! この小さなコガネムシを侮るなかれ! 人間の言葉を理解する、世界にたった一匹の天才コガネムシ! バギーだ!」

 サーカスの団長は一匹の黄金虫を虫カゴから取り出すと、手に乗せて呟いた。

「今日は大入りだ。失敗するなよ」

 すると黄金虫は手の平から飛び出して、客席へと飛んで行った。

「どうやら客席へ、ご挨拶のようです!」

 客席がにわかに湧くと、黄金虫はくるくると客席をまんべんなく飛び回り、最後にテントの壁に空いた穴からするりと姿を消した。

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変身 夏夜 夢 @yume_natsuya

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