ミュージック・フロム・ジ・エーテル1

藤あさや

第1話 王立エーテル音楽学校

(これは文学フリマ39にて頒布する作品の冒頭試読版です)


「婆ちゃん、行ってくる」

 扉の隙間に声を投げかける。応えはなかったけど独り立ちを喜んでくれているのはわかっていた。物心つく前から育ててくれた婆ちゃんだ。

 通りがかりの荷馬車の後ろにしがみつき、途中で路面電車へと乗り移って街に出る。あたりは崩れかけのバラックから整然とした石造りの建物へと変わっていく。いつもであれば街の中心の中州島、クナイプホーフで仕事を探すのだけれど今日のあたしの用事はそっちじゃなかった。物乞いをしにきたのでも、かっぱらいでも煙突掃除でもない。城に用がある。ケーニヒスベルク城だ。

 普段なら門番に追い払われるのが落ちだけど、今日だけはあたしみたいな浮浪児でも入れてもらえる。

 なぜならあたしは〝石〟を持っているから。

 堂々と正門をくぐって小さな行列に並ぶ。前にいるばかみたいに膨らんだスカートの子に声をかけた。

「なあ。これ、音楽学校に入る列だろ?」

 傘みたいなスカートの子はあたしを見てぎょっとする。これ見よがしに嫌な顔をして裾を掴んだあたしの手を振り払い、何事もなかったように前を向いた。あたしは汚れきった自分の手と、目の前の絹の服を見比べる。

 ――真っ黒だもんな。そりゃ、そうなるか。

 人の気配がした。振り返ると水兵みたいな格好の子があたしの後ろに並んでいた。

「ねえ、音楽学校に入るのってこの列でいいの?」

 同じことを聞いてみる。

ええヤー

 短い答えが返ってきた。まともに相手をしてもらえたのも嬉しかったけど、あたしはその子の顔を見てもっとびっくりした。

「うわ。あんた、すっげぇ綺麗だ」

 真っ白な肌と水色の瞳が印象的だった。たぶん、ロシア系だ。顔立ちも綺麗だけど銀の髪が一際目立つ。午前の光に妖精の粉でも振りまいているみたいだった。

「あなたはとても汚いわ」

「えへへ。まあね。でもここの学校は浮浪児でも入れてくれるんだろ?」

「ええ。貴族でも乞食でもね。十三歳以上の〝オパールの乙女〟であればいい」

 列に並んでいるのは、全員女の子のはずだ。

「あんたも十三?」

「ええ」

「ふうん。あんたはのっぽだね」

「あんたはちびね」

 刺々しくはあっても前の子と違って返事があった。

「これでも煙突に入れないくらいには大きくなったんだよ」

「そう」

「ここに入れば飢えることがなくて寝る場所も着るものももらえるって本当?」

 銀色頭は少し戸惑った様子ながらも頷く。

「ええ。衣食住、すべて与えられるわ」

「婆ちゃんの言ったとおりだ」

 そんな話をするうちに列は進み順番が来た。妙に体格のいい受付の女があたしをちらりと見て片方の眉を上げ、訊ねてくる。

「書類は?」

「何それ」

 ふむ、と頷いた女はあたしの胴くらい太い腕で紙切れを取り出した。

「名前は?」

「クララ」

「クララ、なんだ」

「ただのクララ」

「住所は?」

「住んでるとこ? リトアニアるい

「時折いるな。おまえみたいなのが。臍、見せてみろ」

 あたしは服の裾を捲り上げて見せる。

「歳は?」

「十三。婆ちゃんがそう言ってた」

「いいだろう。歳の割にはちびだがオパールの乙女であれば我が校の門は開く。ここにサインをしろ」

「サイン?」

「名前を書けばいい」

「あたし、字、書けない」

 女は手本を描いて見せ、真似をしろと言った。あたしは拳でペンを握り、見様見真似でサインなるものをする。

「そうだ。婆ちゃんが学校の人にこれを渡せって」

 服の下に隠してきた桐箱を出す。受付の女は中身を覗いて頷き、書類に何かを書き込んだ。その書類の束にだんだんだんとハンコが押されて桐箱とともに大きな封筒に収まる。代わりにあたしには木札が一枚。数字らしいものが書かれていた。手続きはそれでおしまいだった。

「ようこそ王立エーテル音楽学校へ。今日から君はエーテルの翼エーテル・アラだ」

 無事に学校に入れたらしいと察し、飢える心配をせずに済む、とほっとしたところでさらに声がかかる。

「ああ、待て」

 受付の女はあたしと、隣で手続きを終えた子を揃って呼び止めた。

「おまえ。早々だが、こいつを洗ってやれ」

 筋肉女があたしを指さし銀色頭ののっぽに向かい命じる。あたしの後ろに並んでいた子だ。彼女は見るからに嫌そうな顔をしていた。

 連れて行かれたのは中庭の隅にある馬洗場だった。

「水くらい自分で浴びられるよ」

 あたしは裸になって水をかぶる。昨年の夏以来の水浴びかもしれない。そそくさと服を被ろうとしたところで銀色頭に止められた。

「待ちなさい。あんた、体の洗い方も知らないの? 汚いままじゃないの」

 横たわれ、と洗い場の床を示して命令してきた。

「嫌だよ。十分きれいだろ」

 ふん、と鼻を鳴らした銀色頭が手にしたデッキブラシであたしの足を払う。避けられずに尻餅をついたところにさらに蹴り倒されてブラシで背を擦られた。

「やめろ! 痛いって!」

「我慢なさい。何よこれ。石鹸がちっとも泡立たないじゃないの」

 あたしの悲鳴も文句も無視して銀色頭はあたしを踏みつけたまま馬以下の扱いであたしを洗う。

「ひどいだろ! あたしをなんだと思ってるんだ」

「お黙り、馬の糞以下の汚物が」

 ロシア語の下品な悪態で罵られる。

「この髪は何? 編み込み? 違うわ。汚れで固まってるの? 信じられない」

 銀色頭は洗い場にあった鋏を差し出してくる。

「触りたくないわ。その絡まってどうしようもなさそうな髪、自分で切りなさい」

「髪なんて切ったことない。どうすりゃいいのさ」

 あたしの言葉に低く唸ると何かの粉を振りかけてから濡れた髪にざくざくと鋏を入れてきた。耳まで切り落とされそうで身が竦む。

「ひっ。なんで髪の中から虫が出てくるのよ! なんでわたくしがこんな犬畜生サバーカ豚畜生スビーニヤ以下のクソカーカを洗ってやらないといけないの」

「痛いっ、痛いって! なにこれ石鹸? すっごいしみる!」

「丸ごと火にくべてやりたいわ」

 さんざんな扱いだったけれどあたしは銀色頭の言うところの清潔という状態になったらしい。燃やされたずた袋の服の代わりに新しい服ももらった。下着なるものも着た。食事も寝床も与えられた。

「生活に困らないって、大変なんだなぁ……」

 二段ベッドの上段を見上げながら溜息をつく。上段は馬以下の扱いであたしを洗った銀色のっぽだった。ここでは二人一組と決まっていて、あたしはあののっぽが相棒であるらしい。

 婆ちゃんの元から離れるべき時期が来ていた。盗みもさほどうまくなく、まともな仕事も見つかりそうになかった十三のあたしの頼りは臍の石だけだ。


格納庫

 清潔で柔らかなベッドに慣れなくて、夜更けになって目が覚めた。適当な場所で用を足してはいけない、という銀色頭の小言を思い出してトイレを探す。用を済ませたついでにあちこちを覗いて歩くと倉庫のような鉄扉に行き当たった。

「うぅん。なんて書いてあるんだろう」

 警告を示しているらしいプレートも掲げられてはいたけれどよくわからない。

「ま、いいや。鍵もかかっていませんね、と」

 ドアをくぐった先の空間は広く、避難口を示すらしい薄暗い照明がいくつかあるばかりでほとんどが闇に沈んでいた。

「これ、飛行機だ」

 倉庫らしい暗闇に翼の輪郭が白く連なっていた。売り飛ばすのは難しそうだ、と思ったところであたしはもう浮浪児からは卒業したことを思い出す。

「小さいな」

 人が乗るらしき場所はびっくりするくらい細くて、羽の張り出しだけが長かった。触れてみると翼の半ばは硬く張られた布らしかった。さらりとして冷たく、指で弾くと軽い音がする。あとの半分は木だ。

 あたしが今日入ったのは名前こそ「音楽学校」だったけど、飛行機の飛ばし方を習うのだと聞いていた。城の上空には毎日この白い飛行機が音もなく飛び交う。その運転手――操縦手たちがこの学校の生徒であるらしい。お臍に石を持つ女だけがこの白い飛行機に乗ることが出来る、と。

 並んでいるのはこれからあたしが乗る飛行機たちなのだろう。ちょっとばかり早めの挨拶だ。

 格納庫は埃の積もる音さえ聞こえそうなくらい静かだったけれど、音楽のようなもので満ちている気配があった。

 ――なんだろう。

 耳を澄ます。飛行機からだろうか。胴体に耳を寄せてみればどこからともなく音が浮かび上がる。機械の音ではなかった。風の音と似ているかもしれない。楽器のようでもあった。すすり泣きにも思えた。並ぶ飛行機のどれも少しずつ違う音がした。

 でも、本当に音がしているわけじゃない。音のしている感じだけ。静かな場所で、音のしていない音がすることがあるけれど、あれだ。

 これは何だろう、と首を傾げているところに本物の音がした。

 ぎっ。

 人の気配だ。あたしが閉め切らずにおいたドアからだった。慌てて翼の陰に潜り込んだところに声がかかる。

「――誰かいるの?」

 扉を潜り抜けてきたのはあたしと同じ夜着姿の少女だった。

 ――あれ?

 背の半ばまで垂らした髪が非常灯の緑に染まっていた。端正な顔立ち。長い手足。すぐにわかった。あたしの相棒となったはずののっぽだ。

 彼女は周囲を窺いつつ、足音を忍ばせ格納庫に入ってきた。その身ごなしにぴんと来た。

 ――ははん。

 開かれたドアを検めにきたわけではないらしい。空飛ぶ機械が気になって忍び込んできたに違いなかった。翼に触れ、あちらこちらの機体に触れながら格納庫内を巡っている。

 それなら話は早い。

 翼の後ろから出てあたしは声をかける。

「ハイ。あんたも飛行機を見にきたの?」

 銀の髪が震え、振り返る。

「……驚かさないでくれる?」

「あは。驚いた? 名前なんだっけ」

「リディア。……誰? 顔が見えないわ」

 あたしは常夜灯の薄明かりの中に歩み出た。

「あたしだよ。クララ」

「ああ。ぼろ雑巾の」

 ご挨拶だ。デッキブラシの件といい、ケンカのし甲斐がありそうな相手だ。

「まあね」

「こんな時間に何を?」

「飛行機を見たかったんだ。これ、あたしたちが乗るやつだろ?」

「だからって勝手に入ったら叱られるわ」

「あんたは違うのか?」

 細い顎がそっぽを向く。

「ね、あんた、知ってた? この飛行機、布と木でできてるんだよ」

「そういうものだわ」

「そうなの? あたしは飛行機って鉄でできているのかと思ったよ。軍艦みたいにさ」

「鉄やアルミでできている飛行機もあるわ」

「ふうん。あんた、飛行機、詳しい?」

「〝オパールの乙女〟よ。当然」

「育ち、良さそうだもんな。あたしはさっぱりだ。飛べるのもしばらく先なんだって?」

 つまんないよね、と言いながらリディアの表情を窺ってみる。

 彼女は傍らの白い機械に触れ「そうね」と返してきた。

 ――脈あり。

 あたしはにんまりする。

「ね、あんたは飛行機の飛ばし方も知ってる?」

「一応」

「難しい?」

「さあ? 飛ばしたことはないわ」

「そっか。じゃあ、運転の方法だけでも教えてよ」

「運転ではなくて操縦」

「んじゃ、乗ってみる」

「ちょっと。駄目よ」

 口ではそう言ったものの操縦席に潜り込もうとするあたしをリディアはとめなかった。それどころか身を乗り出して覗き込んでくる。

「うわ。乗るとき狭かったのに椅子は広すぎ」

「あんたが小さいだけでしょう。大人も乗るものだもの」

「この棒、何?」

「操縦桿。動かしてみなさい。左右に動かすと翼の端についている板きれが動くでしょう。あれが補助翼エルロン。前後に動かすと後ろのあれ――昇降舵エレベーターが動くの」

 意外に機嫌良く説明してくれる。

「足もとのは?」

「踏んでみるといいわ」

 あたしの足には遠く、腰をずらすようにして二つ並んだペダルを片方ずつ踏んでみる。ばたこんばたこんと後ろから音がした。シーソーのような仕組みだ。

「足下のがフットペダルで、後ろで動いたのを方向舵ラダーと呼ぶの。右足を踏み込めば右に、左足を踏み込めば左へ曲がるわ」

 あたしは足下の動きと後ろの舵の動きを比べて首を傾げる。

「なんかおかしくない? 踏む方向と舵の動く方向がちぐはぐな感じ」

「そう? 飛べば自然に感じるはずよ」

 後ろの席に乗り込んできたリディアが説明を続ける。前席と後席の操縦装置は繋がっているみたいで、あたしが触らなくても後ろからの説明とともに動いた。

「フットペダルを踏むと緩やかに左右に曲がれるわ」

「ふうん。車のハンドルみたいに?」

 土塁に捨てられたジャンクの車しか触ったことないけれど。

「きちんと曲がるときはラダーとエルロンとエレベーターの三つを合わせて使うの」

 説明は続けているけどもうあたしに向けたものじゃなさそうだ。今し方聞かされたばかりの部品の名前を並べられてもどれがどれだかわからない。

「横滑り計が真ん中に来るようにすると綺麗に旋回できるのですって」

「横滑り計……。どれ?」

 高度計、速度計、旋回率計とリディアが説明していく。ますますわからなくて面倒くさくなった。

「なあ、これ、飛ばしてみたいと思わない?」

 肩越しに後ろに呼びかけてみる。この飛行機は前後に二つ座席が連なっていた。

「……それはさすがにまずいわ」

「でも、飛んでみたいだろ?」

 体ごと振り返って膝立ちになり後席を覗き込む。リディアはどこから持ち出したのか帽子とゴーグルまでつけて気分を出していた。この有様では〝ナイン〟とは言わないだろう。

「…………」

「大丈夫。みんな寝てるし、飛び方もあんたが教えてくれたし」

「無理よ。操縦装置の名前がわかっただけで飛べればこの学校もいらないでしょう?」

「でも、あんたは『否』と言わない」

 リディアが言葉を詰まらせる。この気取った言葉遣いをするのっぽの同期生を遣り込めるられるのは面白い発見だ。

「でも、エーテル機関は――」

 〝エーテル機関〟はあたしも知ってる。この国にしかない機関エンジンで、それを積んだ飛行機を「エーテル飛行機」とか「エーテル機」と呼ぶはずだ。それがついてるおかげで空を飛べる。たぶん。

「そういえばエーテル機関ってどうやって動かすの? 前の席は、えぇと、操縦桿とフットペダル以外にいじれそうなもの、ないけど」

 計器盤には細々としたスイッチがあって、一通り切り替えてみたけれど何も起こらなかった。

「この機のテルミンは後席にしかないようよ」

「テルミン?」

「エーテル機関を操る装置。知らない?」

「お祭りで鳴らしてる楽器なら見たことある」

「それのこと」

「ふうん。どれ?」

「これ」

 身を乗り出して覗き込むと後席の左側には前席にない小箱があり、銀色頭はその小箱を叩いて示した。

「そこにテルミンが入ってる?」

 楽器のくっついている飛行機なんてへんてこではないだろうか。

「そう」

「テルミン、弾ける?」

 もちろん、とリディアが誇らしげに墓穴を掘った。

「じゃあ、決まりだ。あたしはテルミンなんて弾いたことがないからエーテル機関はあんたに任せる。あたしは前の席で操縦する。それでどう?」

「どう、って」

「このチャンスを逃したら飛ぶのはしばらく先だろ?」

「…………」

「あんただってちょっとは期待して格納庫に忍び込んできたんじゃないの」

「わたくしは――」

「あたしたちは〝エーテルの翼エーテル・アラ〟で〝オパールの乙女〟なんだっけ? 最初に飛んだ人たちは、賭けてもいい、学校なんて通わなかった。それにどうせあたしたちは飛ぶんだろ。川で泳ぐのに陸でいくら練習したって役に立たない。空を飛ぶのだって同じだと思わない?」

「八十年前に空を飛んだ飛行機の発明者は『犠牲は必要だ』と言って亡くなったわ、原始的なグライダーで墜落してね。高く遠くへ飛ぶ前に地上近くでずいぶん練習したそうよ」

「挑戦も必要だよ。みんなが起きてくる前に元に戻せばわかりっこないし」

 後席に向かって身を乗り出し、リディアの瞳をじっと見つめてみる。彼女は薄暗い格納庫でもそれとわかる蒼氷色アイスブルーの瞳を持っていた。そのちょっと冷酷そうに見える眼をさまよわせていたのはわずかのことですぐに心が決まったらしい。決意の色が返ってきた。

「あんた、クララだったわね。いいわ」

「決まり。エーテル機関は? このままで動く?」

「ええ、たぶん。――大丈夫、電源が入ったわ」

 後席の計器盤では青いランプが点っていた。リディアが並んだスイッチを次々と倒すに連れ、蜂の羽音よりもずっと低い、貝殻から聞こえる潮騒のような、風の音に似た唸りが広がり空気を染め上げていく。

 ――さっきの音だ。

 決まったリズムも旋律もなくて、でも高さと、よくわからない決まりがありそうな音の連なり。さっきひとりで耳を澄ましていたときよりもずっとはっきりと聞こえていた。「聞こえる感じ」だけなのは変わらないけれど。

「あんた、リディア、すごいや。これなら飛べそう。扉、開けてくる!」

 飛行機から飛び降りて大扉に駆け寄る。それらしいロープをたぐると巨大な回転扉が跳ね上がった。外は広々とした広場だった。日の出まではまだ時間があるけれど空はもう薄らと明るい。

「出すよっ」

 駆け戻ったあたしはリディアに指図を貰いながら車止めを外し、胴体の一番後ろを担ぎ上げる。思ったより軽い。これでこの機械は二つの小さな車輪とあたしの肩だけで支えられていることになる。

 ――大きいのに、軽く動く。

 ちびのあたしでも滑走路へ押し出すくらいはできそうだった。

「わたくしも押す?」

「大丈夫」

 機体を押す力もほとんど要らなかった。あたしは後ろで舵取りをしながらゆっくり歩く。

「台車に載せたままでいいのかな」

 車輪は台車の部分についていて飛行機はその上に乗っかっているだけでがたがた動いた。飛行機の側には車輪らしいものはない。

「いいはず。まっすぐ滑走路と同じ向きに並べて」

 小声で怒鳴り合いながら飛行機を広い庭に押し出す。地面には細かな赤茶色の礫が敷き詰めてあり、雑草もない。固く平らに均してあって、ボール遊びも楽しめそうだ。

 銀色頭があたしを振り返る。

「いいわ。乗りなさい」

 周りでは埃や落ち葉が舞い踊る。翼を中心につむじ風が起きていた。

 ――なんだこれ。

 自動車ならば車体のどこかに機関エンジンというものがあって、歯車が動いて車輪を回す。仕組みはわからなくても見れば納得が行った。馬車のように馬が引いていればもっとわかる。けれど、この飛行機には目に見えて納得できる仕組がない。扇風機すらなく羽ばたきだってしない。

 再びリディアに促され、あたしは操縦席に飛び込んだ。操縦席を覆っていた布を丸めて背中に当ててみる。座席の位置も調節できた。足も届くし、なんとか前も見えそうだ。

「リディア! 行けそう?」

 振り返ると親指を立てた拳が突き出されてきた。

「滑走を始めたらわたくしの合図で操縦桿をゆっくりと引いて」

「合図?」

「これ」

 こん、と座席の背板を叩く感触がした。蹴られたらしい。

「ゆっくりってどれくらい?」

「こんな感じかしら」

 膝の間に伸びた棒が軽く手前に動かされる。声の調子は心許なかったけど。

「空に浮いたらすぐに元の位置に戻して」

 操作は短い間だけでいい、ということのようだ。

「わかった。でもなんで『かしら』なのさ」

「言ったでしょう。飛ばすのは初めてよ」

「うは」

 確かにそう言っていた。

「ベルトは?」

「今、やってる」

 肩紐に腕を通して締める。この締め具は煙突掃除で馴染みがあった。

 行こう、と声をかけようとした時、遠くで声が上がった。

「こらあっ、おまえら何をしとるか!」

 赤銅色の肌をした筋骨たくましい大女が腕を振り回して飛び出して来るのが見えた。

「わわっ。やばっ。リディア、さっさと飛んじゃおう」

「正気⁉」

「今やめたって大目玉は決まりだよっ。どうせなら飛んで叱られよう」

 リディアの決断は早かった。

「なんてことを。あんた、わたくしの分も叱られなさいな」

「あはっ。ひどいやつだな。行っけえ!」

 あたしが拳を突き出すと同時に明るく華やかな音が湧き上がる。自動車や汽船の無骨な音とは違う楽器の響きだった。後席から「歌えポーイ」というロシア語の呟きが聞こえ、応えるように翼のつむじ風が勢いを増す。風が頬を洗う。

 フットペダルとやらを左右交互に踏みながら背後を振り返り、舵の動きと足の動きを確認する。操縦桿も同じように試した。左右前後に動かしてみる。次いで思い切り前に倒してみた時だった。

 ずっ。

 手応えが生まれていた。ふい、と胴体の後ろを持ち上げられ、お尻の下で地面が動き出す感触だ。

「舵を戻して。すべて中央に」

 リディアの鋭い声が飛ぶ。

 見る見る速度を増し、教官の怒声が遠ざかっていった。車輪が地面の凸凹を拾って馬車みたいにがたがたと鳴る。

「もう、手前に引いていい?」

 操縦桿のことだ。滑走路をかなり走ったのに合図が来ない。

「まだ」

「――まだ?」

「あと……少し」

「少しってどんくらいっ?」

 操縦桿の手応えが変わってきた。フットペダルもだ。交互に叩かれるような感触が伝わり、速度が上がるにつれて重くなっていく。

「ねえっ」

「――いいわ、引いて!」

 言葉と同時に背中を蹴られた。さっきとは違って思い切り。

 明らかに重くなった操縦桿を引き寄せる。予想以上の勢いで浮き上がった。「すぐに戻せ」と言われていたことを思い出して握った拳を前へ出す。騒音が消え、風とエーテル機関の音だけになる。あたしの目の前にあるのは薄明の空と計器盤だけだった。

 ――飛んだ!

 後席からの要求だろう、操縦桿がとんとんと小刻みに左へと叩かれる。慎重に左へ動かしてみると右に傾いていたらしいのが水平に戻ったようだった。

「ちょっとだけ操縦桿を前にっ」

 後席のリディアから大声の指示が飛ぶ。従うと空ばかりだった目の前が地面と空と半々に近くなった。速度が増していく。耳元で風が渦巻いた。想像していた空とはかなり違う。

 ――風、うるさい。

 もう鉄道よりもずっと速いだろう。なのに煙も吐かずけたたましい機械の音もしなかった。

「軽く、三つ数えるだけ引いて」

 風音に負けまいとリディアが叫ぶ。あたしはその声に従って操縦桿を引いた。翼は曙光の差し始めた大空へと上がっていく。視界が開けるのと同時にざあっと空の広がる音を聞いた。城が、街が、小さくなっていく。

 初めて知った。

 空には空の音があるということを。

「飛んでる、飛んでるよ!」

 ただ、空に浮かんでいるだけじゃない。握りしめた操縦桿からはこの乗り物と繋がっている実感が伝わってきた。本物の空だ。腕のわずかな動きに応じてふわりと浮き、沈む。ガラスの風避けは正面だけで左右と上は覆う物がない。巻き込まれてくる風に目を細める。

 ――あたしもゴーグルを拝借してくればよかった。

 金色の太陽が地平線から姿を現した。眼下の城――あたしたちの飛び立った場所――はまだ夜の影の中にあった。空には一足早く朝がきているらしい。翼が目映く輝き燃えているみたいだった。

「空ってこんなに広かったんだ」

 いたるところに風が渦巻いていた。あたしの声も後席には聞こえていないかもしれない。それでも良かった。とにかく飛んでいるこの気持ちを口にしたかった。楽しい、という言葉では足りないもどかしさだ。

 座席の背が蹴飛ばされる。振り返るとリディアが自身を指差していた。操縦を替われ、ということらしい。空に上がってからは操縦桿はあたしが握りっぱなしだ。

 ――テルミンはこっちから触れないのに。

 不公平だとは思ったけれど、あたしは素直に頷いて操縦桿から手を離した。


失速

 空の上は素敵で、やっかいな場所でもあることがわかってきた。

「手を離せっ」

「あんたこそっ」

 操縦桿の奪い合いになったのだ。渡した操縦桿はなかなか戻ってこず、癇癪を起こしたあたしが強引に操作しようとして、なのにリディアは手放さなかった。力比べでは分も悪い。広すぎる座席は踏ん張りも利かなかった。互いに力を込めているせいだろう、進路も定まらない。

 それがどれほど愚かなことであるのかはすぐに思い知ることになった。あたしたちはいつの間にか水面すれすれにまで降りてきていたのだ。城の隣にあるシュロスタイヒ――湖だった。輝く水面を透かして魚のきらめきさえ見えた気がした。

「ばかっ。操縦桿を離せと言ってるのよっ」

「うるさい! こっちの台詞だ」

「くそったれ!」

「くたばれ!」

 ぐらりと機体が揺れた。一拍遅れて布張りの翼がばふんと音を立てる。舵の効きも悪い。手の届きそうな距離にまで近づいた水面がお尻に水の気配を訴えて危険を知らせている。

 ――まずい。

 操縦席からは真正面の低い場所が見づらかった。風防の横から覗くと近づいてくる湖岸が目に入った。

「リディア、前!」

 石組みの護岸の向こうはそれなりの高さのある城壁だ。

 上へは上がれそうになかった。わずかでも操縦桿を引くと速度が落ちる。飛行機というのは無理をすると高さを失うようにできているらしい。

 ――まずい、まずい、まずい。

 湖岸に向かってまっしぐらだ。

「リディア! もっと力を!」

 操縦桿が逆らうことをやめ、テルミンの音が力強さを増す。ただしそれは濁りきった調子外れの音だった。

 ――だめだ。

 わずかに速度が上がりはしたものの城を飛び越すだけの勢いは得られそうになかった。あたしは逃げ場を求めて首を巡らす。

 ――街だ。

 シュロスタイヒも王城も市街よりわずかに高い位置にある。少しでも高さの得られそうな市街に向けてフットペダルを踏んだ。水門は上端から水を溢れさせてプレーゲル川に注いでいる。この高さのままでも市街よりは高く飛べるはずだ。

 でも、あたしの目論見は失敗だった。水門を越えたその先で、鉄道馬車が朝一番の荷を山積みにして橋を渡っていた。進路の真っ正面が塞がれようとしていた。

 ――んぎゃっ。

 反射的にフットペダルを右に踏んだ。それだけでは足りなかった。操縦桿も右へ倒し、手前に引く。結果からすれば強い右旋回を引き出しはしたのだけれど、そのときのあたしはただ混乱していて、逃がれようとした身体が勝手に拳を引きつけただけだった。

 偶然が衝突を防いでくれた。鉄道馬車の鼻先をかすめて右に飛び抜けた。ひとつめの幸運だった。

 障害物を躱しはしたものの、急な動きでますます速度は落ちてリディアが操っているはずのエーテル機関も力を失っていた。そんな中で次に現れたのは王城の正門だった。城壁に開いた門にアーチ型の短いトンネルが穿たれている。あたしたちはその城門に正面から向かい合ってしまっていた。門の幅は翼より明らかに狭い。高さも地面すれすれだった。逃がれようのない距離だった。

 ひっ、と後席で息を呑む気配がした。同時に飛行機は瀕死の動物のように胴を震わせ、軋むようなテルミンの叫びとともに一瞬だけ力を取り戻す。機体が跳ね上がった。

 そして大きく傾いたまま門に突っ込んだ。

 門衛が飛び退いた。左の翼の端が壁掛けの明かりを砕き、右の翼は石畳をかすめて火花を散らしたのが目の端に見て取れた。飛行機は城門のトンネルに捩じ込まれた。

 傾いていたのがふたつめの幸運だった。飛行機と縦長の城門アーチはただひとつ可能な組み合わせで知恵の輪のように擦り抜けたらしい。あたしの頭の中は真っ白だった。

 トンネルの先は中庭だった。

 あたしたちの翼は傾いたまま城の中庭を横切っていく。

 ――わわわわわ。

 四方を壁に囲まれた中庭だ。もうどこに逃れれば良いのかもわからない。

 ここであたしたちを救ったのは三度目の運だった。右に傾いたまま左側――城の西棟に近づいた機体は風の気まぐれか運命のいたずらかあるいはあたしの腕が痙攣でも起こしたのか、さらに右に傾いて壁面に張り付くようにして飛び続けたのだ。

 幸運の大盤振る舞いはまだ続いた。壁を這うように飛んでいたエーテル機がずるずると高さを上げ始めた。そして左翼が西棟の屋根を越えて突き出されたところで今度は勝手に左に傾き屋根の傾斜に沿う形で浮いていた。建物の表面を這うようにして屋根に上がったのだ。これはずうっと後になって仕入れた知識からすると〝地面効果〟というもののおかげだったけど、同じことをやれと言われてもできっこない。本当にまぐれだった。

 そして、今度こそあたしたちの幸運が尽きようとしていた。

 ケーニヒスベルク城は回廊の端に尖った塔を持つ見映えのする建物だ。飛んでいるのは回廊のスレートの上で、ケーニヒスベルク城の象徴になっている尖塔へとあたしたちはまっしぐらに向かっていた。

 フットペダルを踏んで塔を避けようとしたときには後席でもリディアが足掻き始めたところだった。ぐ、と踏んだペダルが抵抗する。

「右!」

「左!」

 あたしとリディアの怒鳴り声が交錯する。エーテル機は折衷案を採用したらしい。塔に向かって直進を続けた。

 ――ああ、神様。

 もはや塔は避けようのない距離にまで近づいてしまった。鉄道馬車を躱したときのような急旋回ができればなんとかできたかもしれない。けど、あたしにはどうすればさっきのような動きができるのかわからなかった。

 ――どうにでもなれ!

 渾身の力で操縦桿を引いた。先ほどの操作で覚えていたのがそれだけだったからだ。

 かかかっと機体の尻尾がスレートを擦る。身体が座席に押しつけられ、視界は一面の空となった。

 奇妙にのんびりとした気分で思った。

 ――空が、青いや。

 ついさっきまで飛んでいた空。夜の気配をわずかに残した群青は、もう手が届かない世界であるのがわかる。翼を空気が擦り抜けていく。舵の感触も消えてしまった。浮遊感が訪れる。

 ――おしまいダス・エンデ……。

 力尽きた飛行機ががくりと前へのめった。目の前に尖塔の最上部が現れる。縦長のステンドグラスに黒い鷲の紋章が刻まれているのがはっきりと見えた。

 エーテル機の丸い鼻面が色ガラスにゆっくりと吸い込まれていく。世界から音も時の流れも消えてしまったかのようだった。あたしの目は機首に押しのけられるステンドグラスをはっきりと捉えていたし、塔の石組みにへし折られる翼も見逃しはしなかったけれど、風防のガラスが弾けてそれも終わった。静寂の世界に衝撃が訪れた。ベルトに強く両肩を引き戻され、振り回される。

 目の前が暗くなった。


エーテル公ハンナ

 そっと目を開ける。

「あ。生きてる」

「『生きてる』じゃないわよ、このおたんこなす、たわけ、大うつけ、腐れ虫飼い!」

 座席の背板を繰り返し蹴られた。

「あんたも無事かぁ」

「ちっとも無事じゃない。ガラスまみれじゃないの」

 不平を鳴らしながら座席から立ち上がったリディアは朝の光を受けてキラキラと輝いていた。ガラスの破片を絡めた銀の髪が後光のようだ。リディアの後ろではステンドグラスであった窓が飛行機の胴体に置き換わっていて、翼は後方に向かって折れ、畳まれていた。部屋もめちゃくちゃだ。あたしも彼女に倣って座席から這い出した。

 この場の惨状はあまり明るくない未来を予感させるのに十分な気がした。

「あぁあ。とんだことになっちゃったね、リーリャ」

「そんな呼び方を許した覚えはないわ。名で呼びなさい。わたくしは貴族なの。『様』もつけて」

「はいはい、リディア様。……面倒くさいやつ」

「ふん。あんたはクレア、クラリッサ……違うわね。キアラだったかしら?」

 わざとらしい間違え方だ。

「クララだよ」

 そこであたしたちは初めてもう一人の人物に気がついた。小柄な――ちびのあたしより一回り大きいだけの大人の女性だ。髪はリディアと少し似た、限りなく銀に近い金色だった。年齢はわからない。小娘でもなければ皺が目立つということもない。琥珀色の目をまん丸にしてこちらを見ている。

 あたしは決まり悪く片手を挙げる。

「あのう――、すんません。突然お邪魔して」

「まあまあ。まあ」

 女性はおもしろがっている様子だった。

「朝陽とともに天使様が降っていらしたわ。どうしましょう。もしかして天国へのお召しかしら」

 リディアが膝を突きこうべを垂れた。緊張した声であたしを驚かせる。

「御前をお騒がせして申し訳ありません」

「ハンナでいいわよ。リディア様」

 ハンナと名乗った女がころころと笑う。あたしは事情が飲み込めないままだ。

「リディア、ええと、こっちのハンナ――様は偉い人なの?」

 お城の一室にいるのだから偉い人ではあるのだろうけど。

「しっ」

 礼を、とリディアが小声であたしを叱る。

「あんたはこの国の君主も知らないの?」

「へ?」

「『へ?』じゃない。こちらがエーテル公国の女王陛下にしてプレーゲル選帝候であらせられるハンナ様です。礼を取りなさい」

「礼って言われても。どうすればいいのさ」

「そのままでいいわ。それよりあなた、クララといったかしら? 血が」

 リディアに代わって答えたハンナ様があたしを見て眉を顰める。

「そんなガラスだらけの手で触るものではないわ。怪我をしたのは頭? 襟が赤いわ。血は? 止まっているかしら」

 ハンナ様の言葉が終わらないうちに兵隊たちがなだれ込んできた。先頭は滑走路であたしらを追いかけてきたたくましい大女で、入学受付で相手をしてくれた覚えのある顔だった。殺気立った兵隊たちがあたしとリディアに銃剣を突きつける。

 問答無用で床に蹴り倒された。後ろ手に手錠がかかる。

 ――うわわ。

 ハンナ様の一声で銃は納められたけれど、この場の様子からすると大事になってしまったのは間違いない。せいぜい拳骨をもらう程度だと高をくくっていたのに。

 ――まずいかも。

 そっと辺りを窺っても逃げ出す隙はなさそうだった。

「おまえたち、わかっているのか。エーテル機はこの国の最高機密だ。黙って飛べば脱走と見なされるし、機密の持ち出しは銃殺だ。その上エーテル公の御在所に押し込んだとなればその場で殺されて当然だっ」

 大女が怒鳴る。

「銃殺ぅ?」

「間の抜けた声を出すなっ」

 拳を振るわれてあたしは派手に転がった。第二波でリディアも張り飛ばされてくる。

「立てっ。貴様らの身柄は学校で預かる。――よろしいですか、公」

「いいでしょう。近衛たちもありがとう。もういいわ。私は無事です」

 兵隊の険しい視線に見送られてあたしたちは部屋を出た。手錠に縄で教官に引かれてあたしたちはさながら市場に連れられていく牛だった。

 そう思ったら我慢できなくなった。

「あーるー晴れたーひーるーさがりー」

 石の階段を降りきったところで歌い出すと即座に大女の張り手が飛ぶ。

「痛ってぇ」

「ばか者っ。死にかけたのがまだわかってないのかっ」

「声でかい。耳痛い」

 往復ビンタを追加でもらった。

「だってさ、銃殺とか言うしさ。びっくりするよ」

「当然だっ。憲兵に引き渡されていたらおまえらそのまま軍法会議で銃殺だ。エーテル公が学校に任せてくれたから助けられたが、あの場でもたもたして警務隊長でも来ていたら身柄を持ってかれてそのまま壁の前に立たされてた」

「えー」

「『えー』じゃない。階級はないがおまえらはもう軍人で、軍法の対象だ。昨日、サインをしただろうが」

「へ?」

「おまえ、わかってないのか。――リディア」

 舌打ちとともに視線を向けられた銀色頭が直立する。

「はい」

「おまえはわかっていたろう。このばかを止めなかったのか」

「…………」

 リディアは口を開きかけただけで何も答えない。さすがにちょっぴり気が咎めた。

「ええと。あたしが唆したんだ」

「だろうな。リリエンタールが先に立っていたらもうちょっとマシな計画を立てただろう」

「この銀色頭はリリエンタールっての? 百合の娘リーリャ百合の谷リリエンタールってくどすぎない?」

「なんですって?」

 リディアが眉の端を吊り上げ小麦色の女丈夫が溜息をつく。

「やめんか。おまえたち、まだ立場が理解できてないようだな。英霊に諭してもらうがいい。冥界の音楽を聴いてこい」

 手錠が外されて階段の奥に押し込まれ、鉄の扉に錠が落ちる。あたしたちは王城地下霊廟カタコンベの掃除を命じられたのだった。


地下霊廟での会話

「先生、行っちゃったな」

「とっとと掃除を始めるわよ」

「先生、マリヤっつたっけ。あの人はあんたのこと知ってるの? リディア」

「……なぜ?」

「リリエンタールならなんとか言ってた」

 リディアがモップのひとつを投げて寄越す。

「リリエンタールはエーテル公国の大貴族よ。エーテル機の名パイロットを幾人も輩出してる」

「あんたはその貴族の娘なわけ?」

「そう。社交界なんてものもあって教官たちの半分くらいは顔を見知ってる」

「ふうん。貴族の娘だとあの飛行機に詳しくなる?」

「なるわ。リリエンタールは特にね。家督相続の条件にエーテル機のパイロットとして功績を挙げることが課されるの。幼い頃から学びもするし、テルミンも習う」

「ふうん。あの飛行機――エーテル機だっけ、あれって別に大昔からあったわけじゃないよな?」

「八十年くらい前、世界大戦の始まった頃の発明ね」

「そんなぽっと出なのに世襲の条件なの?」

 侮辱だと怒るかもしれないと思った問いに苦笑いが返る。

「この国自体、八十年ちょっとしか歴史がないもの。リリエンタールは本来はドイツ貴族だけれどこの国に流れ着いた傍流が勝手にそう名乗ってるだけ」

「そうなの?」

「由緒正しい貴族様もいるわよ」

「入学手続きであたしの前にいた子も貴族っぽかった」

「コーネリアね。彼女はホーエンツォルレンの正統、アンスバッハ侯の娘よ。ここがドイツなら玉座も見えるでしょうね」

「あいつ、あたしのこと見えてないみたいに振る舞うんだよな。あんたとも仲悪そうだけど」

「うちは建国以来武勲だけはあって、アンスバッハ辺境伯家は無能ではないけれど傑物が出てないの。目の敵にされるのはわかるわ」

「アンスバッハ辺境伯って、ここアンスバッハじゃないじゃん」

「……あんた、貧民街育ちで地理がわかるの?」

「あたしの婆ちゃんは占い師だ。星の動きだってわかるし世界のことだってわかる。マリヤ先生もハンナ様も婆ちゃんのとこに占いに来てたことあったし」

「あの二人が?」

「上客だったんだな。道理であの晩はご馳走だった」

「よくわからないわ。そんなお婆さまがいながらなんであんたはその棺の中の骸骨と大差ないくらい痩せていて真っ黒に汚れて虫をたからせていたりしたのかしら」

 腰掛けていた石台を顎で指されてぎょっとする。

「えっ。これ、骨が入ってるの⁉」

「霊廟だもの」

 慌てて飛び降りる。

「死体なんてプレーゲルに投げ込むものだと思ってた」

 リディアが肩を竦める。あたしは周りを眺めて首を傾げる。

「でも、ここ落ち着くよな」

「少なくとも馬鹿騒ぎしたい場所ではないわね」

「婆ちゃんとちょっと似てるんだ」

「墓場に住んでいたの?」

「ううん。リトアニア土塁。昔はダンヤクコだったって」

「市街から遠いわ。貧民街からも」

 大昔の戦争のために築かれた土手だとかで不便で浮浪者も棲み着かない。それでも冬に水瓶の水が凍ることもないし、真夏もひんやりとしていた。その地中の家とこの地下霊廟はどことなく似ていた。

「掃除して一晩過ごせって言われて悪くないなって思ったけど、死体が入ってるんじゃなあ……」

 あまり眠りたい場所ではなくなってしまった。特に寝棚代わりにしようと思っていたのが中身入りの棺とわかっては。

 地下一層目の掃除が終わったところで遠くで鳴る鐘の音が聞こえてきた。しばらくして姿を現したのはマリヤ先生だった。

「第一層の掃除が終わった? ふむ。なかなか殊勝じゃないか」

 ほれ、と投げ渡されたのは夕食だった。あたしは肉と野菜が挟まれたバゲットに食らいつきながら訊ねてみる。水筒から注がれたホットミルクは熱い。

ハンナ様 戦うオパールの乙女

「なあ」

「教師に向かって『なあ』はなかろう。マリヤ先生、だ」

 もう今日幾度目かの拳骨が振り下ろされる。

「ごめんよ――ごめんなさい。口の利き方がわかんないんだ」

「学校できっちり教えてやるさ」

「街の学校に行った子たちと同じように?」

「もちろんだ。うちの音楽学校を出ていればケーニヒスベルク大学の受験資格も取れるぞ」

「なのに軍法とかなの?」

「おまえは……」とマリヤ先生は眉をひそめる。「本当に何も知らずにここに来たのか」

「三食食べられて、お小遣いももらえるって聞いたよ。飛行機にも乗れるって」

「間違っちゃないが。――リディア、おまえはわかってるな?」

 黙って頷いたリディアに表情らしい表情はない。

「どういうこと?」

 答えたのはマリヤ先生だった。

「あたしたち――おまえらは兵隊なんだ。飛行機で戦争をする」

「そうなの? でも、この国はどことも戦争なんてしてないよね?」

「その通りだ。だがヨーロッパでは至る所で戦争をしている」

「ええと。世界大戦?」

 文字も読めず、ラジオも買えない貧困街育ちは身の回りで見聞きしたことしか知りようがない。婆ちゃんは戦争の話は嫌っていた。大戦は遙か彼方の出来事だ。

「もう八十年も続いている。この国には戦火は及んでいないがな。我がエーテル公国には最強の戦闘機・エーテル機がある。パイロットの練度も大陸一だ。それを戦争している国に貸し出す」

「へえ。ってことはあたしも?」

「そうだ。この学校では二年かけておまえたちを一流の戦闘機乗りに仕立てる。卒業したら傭兵として国外に出す」

「うますぎる話だと思った……」

 生活の面倒を見てもらえる代わりに兵隊になれという訳だ。ヨソの国のように若い男だからといって否応なく兵隊に取られるのよりはましなのかもしれない。女丈夫の声が少しだけ柔らかくなる。

「嫌になったか? 今ならば飛行機と城をぶち壊した件で放校処分にできなくもないぞ」

 空を飛ぶ前に聞かされていればまた考えも違ったかもしれないけれど、すでにあたしは空を知っていた。

 溜息をひとつ。

「兵隊として働いてもお金はもらえるんだよね?」

「もちろんだ。高給取りの部類だな」

「……なら、いい」

「傭兵暮らしも悪くないさ」

「先生も戦争に出た?」

「当たり前だ。戦場も知らないような人間に教えられたんじゃ生き残れない」

「あたしは生き残れるかな」

「生き残れるようにしてやる」

「あは。頼もしいや。リディア、あんたは? 戦争は怖くない?」

「怖いも何も。わたくしはエーテルの翼となるために育てられてきた」

「貴族の義務だな」

 とマリヤ教官。

「貴族なんて絹の服着て毎日遊んで暮らしてるだけかと思ってた」

「そういう貴族もいないわけじゃないが、この国では遊び惚けていられん。狭い国土は沼地だらけで農業はかつかつ。食いもんは輸入した方が安いくらいだ。資源は琥珀くらいしかなくてとうてい国は支えきれん。交易と傭兵が国の二本柱だ。武門の貴族が騎士として石持ちの娘を兵隊に出す。リディアがそれだ」

「ふうん。リリエンタールってよっぽどの子だくさんなの? 石持ち――あたしたちみたいなのは珍しいんだよね?」

「養子よ」

 答えたのはリディア当人だ。

「へ?」

「リリエンタールは養子を取って騎士にするの。〝オパールの乙女〟は子を産めないから。わたくしは騎士になるべくリリエンタールの家で育てられ、武勲を挙げ、爵位を継いだら養子を取ってその子に家風を伝えるわけ」

「……よくわかんないや」

「あんたの母親がリリエンタールの門を叩いていれば今頃あんたがリリエンタールの娘だったかもしれない」

「そうなの? それより『オパールの乙女は子を産めない』ってほんと?」

 〝オパールの乙女〟というのはおへそに石を持って生まれてきた女の子のことだ。あたしみたいな。おへその石さえあれば学校に入れると聞いて、あたしはここに来た。

 マリヤ教官もリディアも呆れてみせる。

「おまえ、そんなことも知らなかったのか」

「あんたの方がずっと浮世離れしているわ」

 だって、とあたしは口を尖らせる。

「石持ちだなんてバレると殺されてへそを抉られるって婆ちゃんが言ってた。ずっと内緒だったんだ。あたし、石を見られて攫われそうになったし」

「攫われそうに?」

「同じ頃にさ、石持ちの子が攫われてたんだ。クナイプホーフの商人の子で母親が貧民街にまで子供を探しに来てさ。あたしと同い年だったんだって。結局見つからずじまいだったんじゃないかな」

「おまえは無事だったのか」

「ちょっと後にロシアなまりのどんよりしたおっさんに、へそに石を持ってる子を知らないか、教えたら金を出す、って言われてうっかり見せたら、棒切れで殴られて船に乗せられた。逃げ出したんだ。川に飛び込んで」

「よく逃げ切れたな」

「真冬でさ、あっという間に手足が動かなくなって溺れて、それで連中も諦めたんじゃないかな。河口近くまで流されて死体と間違われて引き上げられたとこで息を吹き返した」

「冬のプレーゲルに飛び込むとはあほのすることだな」

「獣のようだこと」

 貧民街の子どもたちの間では自慢になったはずなのにマリヤ教官もリディアも感心してはくれないらしい。

臍玉さいぎょく持ちの子供が狙われるというのはありそうな話だ」

「おへその石を宝石として売るとか?」

 本当に売れるのだったらあたしが自分で売りたかったくらいだ。

「いや。この石は」とマリヤ教官は自身の腹を叩く。「身体から切り離すとただの白亜になっちまう。宝石として見た目を保つ方法もなくはないが、外へは伝わっていないだろう」

 そういって石棺の前の墓碑を示す。彫刻の施された中心に飾り石が填め込まれていた。

「棺の主の模造品だ。臍玉はオパールに近い。貝殻の内側が虹色だったりするだろう。あれと一緒だ。宝石屋にとって商売になるような石ではないんだ。目的はエーテル機だろう」

「あたしは飛行機じゃないよ」

「臍玉持ちはエーテル機のパイロット適性がある。逆に言えば石を持っていない人間はエーテル機関を動かせない」

「そうなの?」

「臍玉持ちはこのケーニヒスベルクにしかいない。だから内燃機関より優れた性能を持つエーテル機もこの国しか持てないんだ」

「それで石持ち女を攫う?」

「たぶんな。エーテル機そのものは造るのもそう難しくない」

「うぅん。もしかして、あたしが人攫いに進んで身売りしてたら大金になってた?」

「かもしれん。が、棒で殴って済ませようとするやつが真っ当に支払いをしてくれるか疑問だな。それに身売りされないよう、この国はパイロットに高給を出している」

「あたしも金持ちになれる?」

「なれる。あたしがいい例だ。戦闘機乗りとしての働きで一代貴族を賜った。叙勲されずとも、最短任期を全うするだけで立派な家が買えて年金も出るぞ」

「でも兵隊なんだろ? 辞めるまでに死んじゃったらお金をもらえても意味ないや」

「安心しろ。死んじまえば金もいらん。墓だけは用意してやる」

 ここにな、とマリヤ教官が周りを示す。

「うへ。お給料っていつから出るの?」

「今週末からだ」

「学校にいるうちから⁉」

「当然だ。文無しはおまえだけじゃない。金がなけりゃ学外で何もできんだろうが。金だけじゃない。エーテルの翼は国が篤く護る。困りごとがあればまず国を頼れ。公国はエーテルの翼を見放すことはない。絶対に」

「もしかして、あたし、石持ちだって訴え出てれば浮浪児なんてしなくても済んでた?」

「当然だ。石持ちでなくとも孤児院は受け入れてる」

「街外れの? あそこ、入ったら生きて出られないってあたしたちの間では怖がられてたけど。婆ちゃんも近づくなって言ってたし」

「そんなわけがあるか。二代目の女王はあの孤児院の出だ」

「じゃ、あそこに行った子、さっぱり連絡取れなくなっちゃうってのはなんでだろう」

「おまえ、浮浪児の仲間に会いに行きたいか?」

「……わかんない。でもこんな身綺麗にしてたら、あいつらあたしのことわかんないんじゃないかな」

「一緒に盗みを働いて遊ぶわけにも行かないだろう」

 それはそうだ。あたしたちにとっては盗みは仕事であると同時に金持ちをからかう遊びでもあった。今のあたしはきっと、以前の仲間たちからすれば気取った金持ちだ。

「マリヤ先生はすぐ拳骨揮うくせに面倒見いいのな」

「あたしは教師だぞ。おまえみたいなクソガキを真っ当な翼に仕立てるのが仕事だ」

「リディアも薄情そうな顔してるけどまともに相手してくれるし、馬鹿も一緒にやってくれるし」

「わかってるなら、馬鹿はやるな」

「思いついたときはすごくいい考えの気がしたんだよ」

「先が思いやられる。まだ入学二日目だぞ。――リディアもらしくないな。唆されたって馬鹿をやるタマじゃなかろう」

 銀色頭はこちらを睨んだけれど、殊勝げに目を伏せた。でも、賭けてもいい。こいつは反省なんて欠片もしていない。その証拠にマリヤ教官からは見えない手でこちらに向けて中指を立てている。ならば暴露してやろう。

「こいつ面白いんだよ。あたしが飛ぼうなんて言わないうちからうきうきでゴーグルしちゃって」

「黙りなさい、虫飼いのちんちくりんが」

「倉庫にだってあんた一人で忍び込んできただろ」

 臑を蹴られた。あたしは髪の毛を引っ掴んで殴りかかる。

「やめんかっ!」

 拳骨が降ってきた。いや、拳骨はあたしだけでリディアは平手だ。塔で兵隊に囲まれている時もそうだった。ちょっと納得が行かない。

「お優しいあたしはおまえらがきちんと掃除したことに感心して宿舎に戻してやろうと思ったが気が変わった。明日の朝までここにいろ」

 教官が踵を返し足音が遠ざかっていく。地下霊廟入口の鉄扉に錠の下ろされる音が響いた。


(第二話以降も掲載した印刷本を文学フリマ東京39にて頒布します)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ミュージック・フロム・ジ・エーテル1 藤あさや @touasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ