第4話 自然に見る名所
土木作業に関しては一区切り着いたといって良かった。
ぽん太は些か疲れてはいたが、久しぶりの行楽に弁当を持って出掛けようと言うのだった。弁当と言っても握り飯にこんにゃくと里芋の煮付けをおかずにしたもので、木製の二段重ねの弁当箱を火打ち道具や蝋燭などと一緒に小さい行李に入れて風呂敷に包んで肩に掛けたのである。
この葉はいつもなら髪は兵庫髷に結っていたが、この日は元結で結ばず、櫛巻きにしていたのである。尤もどんな複雑な髪型でも簡単に結い上げることは出来たのだが…。
出で立ちは二人とも手甲脚絆こそ付けなかったが、旅装に近い格好であった。
頭には急に雨が降っても凌げるように菅の角笠を被った。
「この葉銭は持ってるな」
この前のこともあるのでそう声を掛ける。
「今のところは大丈夫だよ」
と返す。
ちょっとしたことでも笑いに変えることの出来る夫婦であった。
道は神田鍋町、鍛冶町と過ぎて本町から室町一丁目で日本橋を渡る。
「相変わらず賑やかだね」
「あた坊よ、此処はお江戸の真ん中だよ。ところであの人だかりは何だぁ」
日本橋の東側には法令や禁令などを板札に墨で書き入れた高札があった。
その前の人だかりは瓦版といって市中などで起こった事件や災害などを記事にして売っていたのである。
「読売だとさ、何か事件でもあったんだろうかね。物騒な世の中になったものだね」
「おいら達にゃ関係のねえことだ、行こう」
大通りの左側に大きな呉服屋があった。
白木屋である。
「一緒になって真面なものを買ってやったことなかったなぁ…。今度買ってやるからよ」
「ありがと、でも生地仕立代は安くないから良いよ」
「貯めりゃ買えるよ」
あちらこちらとウインドショッピングをしながら歩いて行くのも楽しいものであった。 二人が歩く通りから東に二丁程行った所に、日本橋川に通じる楓川があり、その対岸には大名屋敷と江戸市中の安全を護る役人の住む組屋敷を配した八丁堀があった。
そのまま進むと京橋川に架かる京橋があった。新橋に向かって橋の左手岸沿いに竹がびっしりと立てかけてあり、橋の下や両脇には、竹で組んだ筏が浮かんでいる。此処は竹問屋が集まる竹河岸であった。
その川を海へと向かった辺りを鐵砲洲と言って、隣りの八丁堀五丁目とに架かっている稲荷橋の海側に波除稲荷の鐵砲洲稲荷橋湊神社があった。
木の葉は行ってみたいと言ったが、海に面した神社と言うだけで如何ってことは無いとぽん太は立ち寄る気配を見せなかった。
波よけ稲荷と言うが、例の元禄地震の際はもろに津波を被ったようだった。
二人はのんびりと東海道を歩いて居た。
銀座四丁目から尾張町辺りに来た時ぽん太は、
「右手奥には山下御門があり、左に行くと、木挽橋、二の橋とあって、その先に築地本願寺御門跡があるんだよ」
そう言いながら足の向きは芝口橋方向に向いて居たのである。
新橋を渡り、日比谷一丁目から三丁目、源助町と歩いて行くと、大名屋敷の合間から西の方角に山が見えた。
愛宕山といって八丈強(二十六メートル)ほどの高さと言うから決して高くはないが、頂上の神社から眼下を見下ろせば辺り一面見渡せるほど眺めは良かった。
正面に八十六もの段があり、男坂と言って大変急な階段であった。
これまで通り越して来た神社やお寺もこの神社も、ぽん太は既に来たことがあったので、今一度行ってみたいと思う所だけを選んで訪れることにしていたのである。
従ってこの葉の思惑とずれることは屡あった。
「ねえ飯倉の神明宮に行くの、それとも茅天神?」
「神明宮に行って、三緑山増上寺に行こう」
その後は高輪から品川に行くと言う。
扨てその飯倉神明宮の祭礼が明日からと言うのに、神宮も周りの店も軒提灯を連ねて既に祭りに入ったような賑わいを見せていた。
社内に至っては見世物小屋や曲芸など、露天を張って客の足を止めて何処もごった返していた。
この様な状態は九月に入ってから本祭りの十六日を過ぎて九月の下旬まで続くところから、神明のだらだら祭りと言い、商店はこぞって生姜を売ったのである。
木の葉とぽん太は社内を一通り見て廻ると甘酒を飲んで生姜を買うと、入口に架けられた両皇太神宮の大燈籠をまじまじと見た。
それは芝泉堂と号す手跡の弟子、十歳以下の
実に見事な筆跡であった。
芝増上寺はその直ぐ後ろにある。
神明宮の前の通りを右に出て行くと表門から山門に至る参道に出た。
三縁山増上寺は徳川将軍家の墓所として二代将軍秀忠や六代家宣他、七代、九代、十二代、十四代家茂らが埋葬されたが、ぽん太、木の葉夫妻が訪れた頃は未だ秀忠の墓しかなかった。
それは台徳院霊廟と言ってその御魂屋は茅天神との間にあった。
台徳院霊廟の赤い惣門を入ると、透塀の付いた中門があった。
その奥が霊廟で天井の下の欄間などには手の込んだ彫刻が施されて壁には公儀お抱え絵師による絵が描かれているとかで、全体に豪壮な造りのようである。
「将軍様のお墓は凄いよ」
「見たことあるようだね」
「霊廟の中までは行けなかったよ」
「入れたとしてもどうってことないだろう」
「まぁな。人の墓観てもしょうがないわな」
如何やらぽん太はこの辺りにも忍び込んだことがあったようだ。
主に夜半のことだから人に見つかることは無いだろう。
増上寺の北東には鬼門を護る為、
結構隅々まで見ている感じであった。
縦しんば夜中に見つかったとしても、盗みに入った訳ではないのでどうってことなかった。第一捕まる訳がなかった。
増上寺の南西に五重塔があり、その向こう側に赤羽川が流れていた。
其処に架かっている橋が赤羽橋で、東側に将監橋金杉橋とあった。
その橋を渡るのが東海道であったが、態々そこまで行くこともなく、赤羽門から出て赤羽橋を渡ったら真っ直ぐ、大名屋敷や町屋の間の道を南下すれば丁字路に突き当たり、東海道に出たのである。
柴田丁四丁目の丁字路である。
その丁字路の前には砂浜があり、その先は江戸湾の海原が広がっていた。
「うわぁ気持ちいい~」
木の葉は草鞋を脱いで砂濱に降りると、海に向かって大きく息を吸い背伸びをした。
「ねえねえぽん太砂浜が切れる辺りに在る小屋は何」
木の葉は波打ち際に立って茶屋の様な小屋が建ち並んでいるのを見てそう訊いた。
「あそこはよ、高輪の大木戸と言って江戸への出入り口で茶屋が軒を連ねてるってわけ。あそこで団子でも食べようや」
「あいよ」
二人は歩き詰めで少し疲れていた。
縁台に腰かけて茶を
「うめぇなー」
「昼にするかい」とこの葉。
「この先に御殿山と言う所があるから其処で食べようや」
春なら花見で賑わう所であった。
その品川新宿一丁目辺りまでは波打ち際を歩いた。
その辺りは袖ケ浦と言った。
新宿三丁目の善福寺脇の道が御殿山への入路であった。
江戸初期には御殿山の近辺でも鷹狩りが行なわれていたのでその際の休憩場として、或いは西国大名の参勤交代時に将軍自ら送迎する為又は茶会の会場として屋敷を建てたのだとも言われていた。
それで御殿山と呼ばれたようだが、元禄十五年の火災で焼失してしまうと、その後は再建されることなく、桜の名所として多くの庶民に親しまれていた。
秋は紅葉を楽しんだ。
その御殿山から改めて眼下を眺めて見ると
、漁師町だと言う洲崎が伸びていて、その先端の松林の中に弁財天の祠が見える。
その左手には二人が歩いて来た東海道沿いの袖ケ浦の海岸線が見え、帆掛け船の行き交うのが見えた。
「木の葉、おいら忘れてたが、ほら宿場の端の高台が見えるだろう。あそこはよ、谷ツ山と言って月見の名所なんだ。此処だっていいんだが、あそこに在る茶店から海に浮かぶような月の眺めは何とも幻想的で堪らねえ」
突き出た腹の辺りをポンポンと叩いて悦に入るぽん太を見て、木の葉はプッと吹き出して笑う。
「ねぇねぇ、行ってみようよ」
「まだ早いが行ってみっか」
てなことでふたりは少し戻って谷ツ山へ登った。
谷ツ山と言うが要は高台である。
月見の客相手の茶店が並んであった。
何処も小さな茶店だが客足は良いようだ。
二人は月見団子を頬張りながら月が昇るのを待った。
少し経ってまだ明るかったが、天空にはそれと判る黄金色の天体が浮き出て来たのである。
「どうでぇ、良いだろ」
「本当だね」
絵心があれば、これも描きとめて置きたい構図であった。
ぽん太とこの葉は海面上に映し込む十三夜(正確には翌日、翌々日の月)を眺めながら東海道を高輪方面へと戻る。
高輪北町と車町の間の道を入った所に泉岳寺と言う寺があった。
「赤穂のお侍さん達のお墓があるお寺さんね」
所謂赤穂義士の眠る寺であった。
「殿様の
「全てが浅野内匠頭の直臣ではなかったって話だけどな。それと失踪した者の話もある」
仇討ち本懐は美談だが、多くの家臣は参加せず、また故あって失踪した者もいた筈。
時代が時代だけにそれらは非難されがちだが、真相によってはそうした概念から解き放たれるのではなかろうか…。
それはさて置き、江戸の町名には職名の付いたのが多いが、この江戸の出入り口である大木戸の車町や牛町とはどういうことから付けられたのだろうかと疑問に思った木の葉は、物知りのぽん太に訊くと、
「増上寺造営の際、京の都から牛と人足が連れて来られて、建築材料の運搬に従事させられてそのままこれらの地に定住を許されたことから、車町、牛町といったらしい」
と答えた。
「フ~ンそうなの。そろそろ暮れ六つだろう、今晩はどうする心算」
「明日は目黒川の向こうに在る瀧泉寺に行こうや行人坂辺りに宿があるからその辺りに泊まろう」
谷ツ山から裏に抜けて、目黒川近くの道を大崎村の方へと向って行く。
途中途中の畑の中には大名の下屋敷が点在してあった。
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