第5話 手練な老狐

 目黒川を挟むようにして広がる土地は、道に囲まれるように百姓地があるが、下目黒村には瀧泉寺の他に養安院のような大きな寺も直ぐ側に在った。

また近くには大鳥大明神や金毘羅大権現が畑の中に小さな森を作ってある。

 二人は白銀からの街道に出ると左に折れて行人坂へと下って行くと、何処も一杯の様で、

「相部屋で如何」

 と言うばかり。

 すると端にある薄汚れた宿から、

「お二人さん空いてますよ、どうぞ」

 気の良さそうな老婆が声を掛けて来た。

「素泊まりだがいいかい」

「結構ですとも」

「お幾ら」

 とこの葉が巾着に手を入れると、

「お一人二十文で結構ですよ」

「はい四十文(千円)、あらいけない」 

 木の葉は銭を取り出す時に、ウッカリ一分金と一朱金を泥水の中に落としてしまった。

この辺りは雨でも降ったのか、老婆はすかさず手拭いを出して木の葉に渡すと、拭き終わるのを待った。

木の葉は巾着に金貨を入れると左手に掛けて、足を洗ってから老婆について部屋に入った。

 六畳間に小さい床の間が付いていて、そこに虎の顔を正面に据えた掛け軸が掛けてある。

 そしてその下には四立の白羽の矢が二本、重ねて置いてあった。

「これは何」

 とぽん太が訊くと婆様曰ばあさまいわく、

「朱雀天皇の御代、天慶年中に藤原秀郷が房州發向の折、武州に於て祈願した時、白狐しろぎつね白羽の矢を咥え来て秀郷に与えると、秀郷その矢で東夷を討伐で来たので、お礼に社を建立しようと考えた。ある夜また狐来て言うに、神烏の群がる所靈地也との教えに従って、社地を求めると、櫻田の郷に相応しい森があったので、正に靈地として社を建立したと言う。

烏森とか言うそうじゃ。そこでうちの爺様が王子に用事があって出掛けた帰りにそこで買い求めて来たと言うものですよ」

 ぽん太はそうした神話めいた話には興味なかったので、お愛想にふんふんと相槌を打ちながら聞いて居た。


 他の宿屋は二階屋であったが、此処は平屋であった。

 老婆は茶を淹れながら、

「年寄なもんでもう上には上がれないから」

 と訊きもしないことを言い訳がましく話す。

「お婆さんは一人かい」

 と訊くと、

「いいえ、今でも爺様と二人っきりですよ。今湯を沸かしてますから入って下さいな」

「そりゃ悪いなぁ。二十文じゃぁ、薪代にもならねえだろうに」

「年寄の退屈凌ぎと思ってくださりゃええですよ」

 と言って下がって行った。

「木の葉後で婆さまに心付をやんなよ」

「あいよ」

 その心付に十文渡したと言うのだ。

何とも気のいい夫婦であった。

 先に湯屋に行ったぽん太がやけに上機嫌で鼻歌まじりで戻って来た。

「おやまぁ随分ご機嫌じゃないか」

「まぁ良いから浸かってきなよ」

 風呂は外に在ると言うので教えられた通りに裏戸を開けて裏庭に出た。

脱衣所を抜けると其処には、池のような形の露天の岩風呂があった。

月明りが露天風呂を照らしていたが、脱衣所から風呂場までの石畳を二個の提灯が足元を灯して居たのである。

 湯加減は丁度良かった。

宿の老夫婦は表を閉めて休んでしまったらしく、姿を見せなかった。



 二人は交代で湯に浸かって上った後、荷物を部屋に置いたまま裏木戸から夕涼みに外に出ると、土手沿いを歩いた。

 虫の音に魅かれるように土手に座り込むと、暫くして合唱が始まった。

「ねえあんた、全部おいて来ちゃったけど大丈夫かね」

 木の葉は側で鳴いていた虫を食べながら心配そうに訊く。

「大丈夫だよ、でいち客は俺たちしかいねえと言う話だもの、心配ねえ」

 その時ポチャンと水の音がしたので見ると、太鼓橋の上から釣り糸を垂らすほっかぶりの男が二人の方を見ていたのだが、月を背にしての逆光でその表情は分からなかった。

野良着姿で腰が曲がってみえるから年寄の百姓のようだ。

昼間は野良仕事が忙しいだろうから、夜釣りを楽しんでいるのだろうが、釣果は思わしくないようで直に姿を消した。

 ぽん太達も十分涼んだので、宿に戻って寝た。


 翌朝ぽん太が朝湯に入ろうと裏戸を開けようとガタガタと音を立てていると婆様が、

「済まんこったが、湯は抜いてしまったんで入れないがね」

「いや良いんだ。昨夜は良い湯だったよ」

「そりゃ良かった。ところでこれからお不動様に行かれるかね」

「おう、お不動様と金毘羅様に行くつもりよ、所で教えて貰いてえんだが良いかい」

「えぇ何なりと」

「風呂のことなんだけど、あの岩風呂は沸かし湯なんだね。どうやって沸かしているんだい。何処かに竈があるんだろうが分からなかったもんで教えてくんねえか」

「それは秘密なもんで教えられないわ」

「内緒ってことか」

「はいその通りで」

 企業秘密と言う奴だ。

「それじゃまた来るよ」   

 と荷物を背負って草鞋を履くと、

「これを持って行きなされ」

 後で食べてとおにぎりを包んで渡したのだった。

「世話になったね、それじゃ」

 太鼓橋の途中で振り返るとまだ手を振って見送っていた。

爺様はとうとう姿を見せなかった。

先ずは瀧泉寺の目黒不動に行った。

仁王門を潜りぬけると、正面に急な男坂と緩やかな女坂があり、二人は男坂を上がってひと息つくと不動明王が祀られている本堂をお詣りする。

 木の葉は巾着袋から小銭を出す際、中に入れて置いた一分金と一朱金が無いことに気が付いたのである。

「木の葉何やってんだよ。賽銭にする銭がねえのよ、四、五文呉れよ」

「ちょっと待っておくれよ。こん中に入れて来た二分と三朱が無いんだよ。それじゃあ五文あげるから、賽銭ぐらい自分で用意して来るもんだよ」

 どうして無くしたのか分からなかったが、考えられるのは宿屋であった。

「そんなら帰りに寄ればいいだろう」

 ぽん太は至って暢気であった。

 下山は緩やかな女坂を下って、門の手前右手に在る湧き水が落ちる二筋の滝を見に行った。

十尺ほどの高さで然程水量はないが、この日は暑かったので子供らが裸になって滝の水に打たれて遊んで居た。

 木の葉は昨夜のことを思い出すと何となく胸騒ぎがしたのでのんびり見惚れているぽん太を急かして行人坂に戻った。

「端だったから此処だよな」

 其処には平屋の朽ち果てた廃墟があった。坂の端の平屋だから間違いなかった。

すると二軒隣りから前掛け姿の女中が笑い顔で声を掛けて来た。

「あんたらも騙されたようだね。この空き家には狐が住みついて居るらしく、旅人を騙してはお金を取っちまうらしいよ」

「お前さんらも会ったのかい」

「いいや見たこと無いよ。ずっとこの通りの廃屋だもの」

「だって昨夜見た時はこれよりまともな家だったよ、なぁ木の葉」

「姉さん中に入らして貰うよ」

「どうせ空き家なんだから構わないんじゃないの」

 といいながら興味があるらしく、女も付いて来た。

二人は泊まった部屋を見ると、虎の絵の掛け軸の掛かった床の間があった。

絵を良く見ると目がり抜かれていた。

「何だいこりゃ」

 その六畳間の後ろに二尺程の隙間があって目の位置辺りに穴が二つ開いていた。

ということは、この穴から虎の眼を通して部屋の中を窺っていたということだろうか…。

「恐ろしいね」

 と先隣りの女中は身震いするが、どうも楽しんで居るようにしか見えなかった。

裏戸を開けて庭に出ると今にも壊れそうな小屋が在った。脱衣所である。

其処を抜けると岩場の風呂ということだが、あったのは水の抜けた乾いた池であった。

 女の話だと元は旅篭で二階建てであったというが、年老いた主人が平屋に立て直して間もなく亡くなったらしく、女房が一人で切り盛りしていたというのだ。

「じゃあ、あの婆さんか」

〈爺様の姿は見えない筈だ〉とぽん太は思ったが、

「違うだろう、建てたばかりの家がこんなに朽ち果てる筈ないじゃないか。少なくとも四、五十年は経ってるわ」

「てことはあの婆さんは何者よ、化け物かい」

「う~ん鈍いんだから」

「何がよ」

 女中は二人の会話に耳を傾けていたが突然ヒントになることを口にしたのだ。

「時々だけど裏手の方で狐火が見えるのよ。

もしかしたらあんたたちも狐に化かされたんじゃないのかなぁ」

 と言いながら二人の反応を窺っている。

「狐に化かされたって?此奴ぁ面白いじゃねえか」

「何が面白いもんかね。騙された身になって御覧よ」

 木の葉はプリプリと怒った。

それはそれは異常な憤慨の仕方と言えたが、

女中は騙された女房がその位怒るのは当前ぐらいにしか思っていなかったから、正体がばれることは無かった。

 木の葉にしてみたら悔しくて堪らなかったのである。


 二人は行人坂を後にして四の橋に向かい、途中の瑞聖寺の門前の茶屋で休んだ。

 どうも収まらないらしくみたらし団子を二串、三串と頬張る。

「何でい何でい。年寄を助けたと思えばいいじゃねえか」

「だってお前さん、確かに老狐ろうこには違いないけどさ。心付まで上げたのに、人の懐を狙うなんて最低と思わないかい。さっき数えたら全部で二分三朱三十文(六九五〇〇円)も盗られちまったんだよ」

 二人が真面に働いて稼いだとしても、二月以上は掛かる程の金額であった。

 白銀二丁目の西照寺の横の道を通って新堀川に出て四ノ橋を渡って武家屋敷や寺院の間を抜けて六本木町方向に向って行くと、松の木が六本程見えた。

遠くからも見えたのでこの辺りを六本木と言うようになったようだ。

芋洗い坂を上がって大道りに出ると、飯倉町から榎木坂を下って溜池に向かった。途中で木の葉が氷川神社に行きたいというので三河台を通って行った。

 赤坂氷川神社は素盞嗚尊すさのうのみこと櫛稲田姫命くしなだひめのみことが祭神で、縁結びと厄除けの神社である。

「今更縁結びもないだろうに」

 とぽん太が揶揄うと、

「災難に遭わない為の厄除けだよ」

 未だ怒って居るようだ。

余程老弧に化かされたのが腹に据えかねているようだった。

 二人は其処から溜池に出た。

対岸の台地上には日吉山王大権現社があった。日枝神社と言って神田明神社と共に江戸城の守護神として重要視され、天下祭とも言われ勇壮且つ壮大な祭礼に、多くの見物客を集めた。

 二人はその対岸から神社や麓にある末社を眺めて居たが、その辺りには護岸の為植えられた桐の木が沢山あった。

「戻ろうか」

 赤坂ため池から外堀に繋がる辺りに段差があり、ちょっとした瀑布になっていた。

その横に沿うように緩やかな坂があり、それを葵坂あおいざかといった。

そこから芝口橋方面へと歩いて行くと、幸橋御門の前で立ち話をしていた老婆が二人の姿を見ると、驚いたように久保丁原から二葉町、西側町の裏手に逃げるように小走りに走って行った。

「ポン太、行人坂の老弧だよ捕まえて」

 木の葉はそう言いながら先回りするように路地から路地に回り込む。路地一本入った所に神社があった。

烏森神社である。

「やっぱり…。間違いない」

 其処へぽん太がはぁはぁ言いながらやって来た。

「見てご覧よ、烏森神社だよ。ぽん太ほらあれ」

 木の葉が指さす社の中に二本の白羽が入った箙(やなぐい)があった。

「床の間にあった白羽の矢と同じみたいだな」

「同じだよ」

「てことは普段はこの辺りに住んで居るってことか」とぽん太。

「分かんないけどさ、爺様は王子に行った帰りに寄った所だし、何れあいつらが関係している所だろうよ」

 暫く待って居たが老弧は姿を現すことは無かった。

 実はこの東側には東海道があり、その街道の一本手前の道に日比谷稲荷が在った。

元は近くにある大塚山に鎮座していたものだが、江戸城の拡張に伴い、芝口のその地に移されたものだでった。

 此処は別名鯖稲荷さばいなりと言って大塚山にあった頃、急な病に苦しむ旅人に社務所を開放し、無病息災を祈願させたところ、霊験があったので『旅泊稲荷』と呼ばれ、現在の芝口に移ってから鯖稲荷となって霊験のある所から、鯖を奉納するようになったという。

 その神社の鳥居を潜って社殿の前に行くとその手前に一対の狐像が置かれてあった。

 ぽん太と木の葉はこちらの稲荷神社を知らないのでその狐たちを見てはいないが、若しも見たなら、その横面を叩いて台から落とすぐらいの不貞をしたかも知れなかった。


 何時までもそこに居てもらちが明かないので須田町へと向かう。

本来なら芝口橋まで行って東海道を歩いて行くところだが、二人は久保丁原に戻ると土橋を渡って堀沿いに山城河岸、数寄屋河岸を通って比丘尼橋びくにばしを渡った辺りを北紺屋町と言い、其処に山くじらの看板を見つけるとぽん太はサッサと中に入った。

猪肉を食わせる店であった。

「晩飯にしょうや」

「全く勝手なんだから」

 とは言うが満更でもなかった。

 猪鍋を頼むと女中に、

「其処の橋は比丘尼橋とあったが、この辺りに尼寺でもあったのかい」

 と訊くと女中は大笑いして、

「そったらことでねえで、比丘尼宿があってだがね」

「それは何かい尼さんだけ泊める宿かい」

 すると女中は横向いて噴き出す。

「街娼のことだで」

街娼、夜鷹のことか」

「だよ」

「夜鷹なら茣蓙敷いて……」

 ぽん太は木の葉の顔を見て口籠った。

「夜鷹だって安宿を使うことだってあるんだろう」

 と、この葉が女中の言葉を横取りするようにぽん太に話す。

「旦那より解りが良いわ」

 と笑いが止まらなかった。

 鍋を平らげた二人は堀沿いの道を呉服橋手前の呉服町を抜けて日本橋通りへと出た。

お堀沿いとは違って相変わらず人の出が多く、賑わっていた。


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