第2話 神仏礼拝の果てに

 こうしてぽん太とこの葉の珍名所巡りが始まった。

 最初に訪れたのが昌平黌こう(湯島聖堂)の手前右に在る神田明神社であった。

ここは日吉山王大権現と共に徳川家の産土神うぶすなかみとして帰依したものだった。

此処に二人が来たのは日の出の直前であった。

東側は絶壁で眼下には旗本のお屋敷があるばかりで遠くお天道さまの昇る地平線を眺めて春の曙を愉しむのである。

 実はぽん太は暗くなると出歩いて朝早く戻って来たのだが、明け方近くになると此処に来て曙を見て心を癒して居たのである。

「ぽん太見て、素敵!」

 この葉は地平線が白み始めると、釘付けになったようにそれを見ていた。

 二人は明るくなったので、一旦家に戻ることにした。

長屋に戻ると、木戸のところに蜆売しじみうりが居たので一杯だけ購入し、豆腐屋から揚げを買って味噌汁に入れたのである。

 朝飯を済ますと二人は横になって少しばかり休んだ。

 この日は東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじの花見の予定で、彼岸桜ひがんざくらから始まって吉野桜が咲き誇って丁度見頃であった。

 花びらが七重八重と重なった八重桜はまだ先だが、それらは一種類ではなく花弁の枚数が異なる栽培品種を含めて総じて八重桜と言うようである。

その間には多種多様な桜の花が咲いて寛永寺の境内は花見の客で毎日賑わっていた。

花見以外では境内に入ることは許されず、況してや酒を飲んで騒いだりすることは許されなかったのである。

 お山には京の清水寺を真似て舞台が造られていて、そこから琵琶湖と竹生島に見立てた不忍池と中島が見えた。

「この葉あの島に行ってみよう」

 急いで階段を下りようとするぽん太をこの葉は引き留める。

「弁天様がくから駄目だよ」

 カップルでお詣りすると水の神様である弁財天が焼もちを妬いて二人を別れさせてしまうと言うのだ。

 結局この葉の言う通り中島には寄らないで門前町にある蕎麦屋に入って、そこで二人はざるそばを食べた。

「畳の上で食べるのって良いもんだな」

「家だって畳の上で寝てるじゃないか」

「莫迦だねあんたは、あれは薄縁うすべりって言うんだよ」

「あぁそうかい。何だか知らねえが如何どうでもいいや」

 他愛もない会話で腹ごしらえを済ますと、三十二文払って通りへと出た。

安いものである。



 腹が膨れて少しばかり眠たくなったが、この葉はぽん太の組んだ通り、新堀(日暮里)へと向かう。

不忍池畔沿いの道はお花畑を過ぎると北に折れ曲がって、大名の下屋敷と寺院の間を抜けて行った。

養壽院とその先谷中町前の林光院には門があり、入ると寛永寺山内の裏手に当たるが、二十数棟にも及ぶ寺院が建ち並んでいた。

 東叡山寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として寺域は十七万坪にも及ぶという。

その横の道は天王寺にぶつかるが、この寺は応永年間(一三九四年~一四二八年)に日蓮宗の寺感応寺として創建されたものであった。

「この葉、このお寺さん偉いんだね。三重か五重かの塔があるよ」

「五重塔だろうよ。三重の塔なら相輪とその下の屋根ぐらいしか見えないわよ」

「へ~ぇ良く知ってんな。ところで何で仏塔を建てるんだい」

「仏塔ってさ、お釈迦様の骨を祀る為のものなんだって」

「そんじゃ何もあんな立派な建物じゃなくても良いじゃんか」

「あのねぇ」

 この葉はぽん太の質問に答えるのが些か面倒になったようだ。

「一度切りしか言わないから良く聞いててよ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔で、この場合は五重の屋根を持つもので、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなり、それぞれが仏教的な宇宙観を表しているんだって。解った?」

「分かんない」

「もうー」

 こんな具合で笑ったり怒ったりの珍道中である。

 天王寺の周辺にある寺も寛永寺の属寺で、それらは諏訪台にあって、寺院の林泉(木や水などのある庭園)なので、散策するには打って付けの場所であった。

東側は切り立った崖で崖に沿って音無川が流れていて、その先には田園が広がっていた。

「見て~ぽん太、いい眺めだわ」

「本当だ、すげぇや」

 二人はそれぞれの立場で似たような景色を見ているに違いなかったが、改めて高台から眺める景色は随分と違って見えたのだ。

 とに角その台上での眺望は絶景で、日が暮れるまで眺めて居ても飽きることが無いことから、日暮里ひぐらしのさとと名付けられたようだ。

その台地に繋がるように道灌山どうかんやまがあった。

何れも眺めは良く、名だたる絵師が訪れていたようである。

 山を西側に降りて田圃や小川を越えて日光街道へと出た。

目の前に在るのは柳沢吉保の屋敷であった。

其のすぐ先で二股に分かれた辺りは染井村と言って植木屋が多くあった。

右手に鳥居があったので見ると階段を上がって行った辺りに御社おやしろが見える。一本杉神明宮と言う神社であった。

左手には月海堂と言う茶園があったが、茶を嗜む余裕も無いので、山沿いの道を左手に料理屋が建ち並んでいるのを眺めながら進み、川の手前にある山道を登って行った。

 此処が飛鳥山である。

桜は随所に咲き誇り、花見の客で賑わっていた。

山の北側は田圃が広がっていて、その遥遠くには双耳峰そうじほうの筑波山が、視界を遮られることなく、くっきりとその山容を見せていた。

距離にして十里はある筈だが、意外と近くに見える。

 飛鳥山の横を流れる音無川の北側に王子稲荷社というのがあったので、二人はこの日の最終の巡り先とした。

「此処は大晦日になるとおっかさんがお詣りに来てたの。親戚も親類の者も全員が集まったそうよ」

「榎木の狐火きつねびって奴か」

「除夜の鐘を聞きながらお詣りして帰ったそうよ」

 この葉は優しかった母のことを思い出す様に、懐かしそうに言葉を噛みしめながらそう話すのだった。

「この葉帰りにあの辺りの茶屋によって晩飯を食べて行こうや」

「構わないけど未だ早いから、その裏の音無川にある不動滝を見てからにしよう」

「あいよ、じゃー行こう」

 二人は小料理屋の建ち並ぶ横を川沿いに入り、河原に降り立った。

丁度修験者らしい男が滝に打たれていたので暫く見ていたが、飛沫が掛かって体が冷えて来たので上がって、一軒の茶店に入った。

何処も混んでいたが、この茶店だけは空いて居たので、奥の座敷に席を取った。

 もう夕方だが此処から神田までは凡そ一里半ほどだから大した道程ではないので、此処でゆっくりして帰ることにした。

況して夜道はお手の物であった。

 貝焼きという貝殻に野菜や魚を載せて卵でとじた料理に焼き魚や茶碗蒸し、お新香を頼んだ。

結構いい値段だったが、この葉は気にせずに注文したのである。

 この頃卵一個の値段が二十文(五百円)もしたので、ちょいとした料理でも良い値段になった。

「この葉、今日は随分奮発するじゃねえか」

「偶にや好いじゃないか。お前さんの元気な姿を見て安心したよ」

「そうかい。おいらも歳だし、そろそろ焼きが回って来ても可笑しくないからな。此奴はうめえや」

「あたしの手料理とは違うわね」

 この葉は実に嬉しかった。

裏の河原で子供が遊んで居るのを見てこの葉は、

「あんなかわいい子が欲しいね」

 としみじみと呟く。

欲しくとも二人に子は出来なかった。

ぽん太がお銚子一本飲んでいる間にこの葉は巾着の中から銭を出そうと手を入れてみると、底の縫い目がほつれていて中に入って居た筈の一分金や二朱金に一文銭がそっくり抜け落ちてなかったのである。

たもとの中にも一銭も落ちていないのだ。

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