ぽん太とこの葉の気紛れ歳時記』

夢乃みつる

第1話 髪結いの亭主

 江戸は神田須田町の裏店に、ぽん太とこの葉という壮年の夫婦が住んで居た。

人別帳に寄れば、ぽん太が四十歳でこの葉が三十八歳、一緒になって五年になるというが未だ子はない。

ぽん太は日雇い人足で、女房のこの葉は出職でしょくの髪結い、詰まり廻り髪結いである。

「あんた今日はお天道様が機嫌良く顔を出しているからしっかり稼いで来ておくれ」

 そう言って道具箱を風呂敷に包んで出かけて行った。

 元日は休んだが、二日は初結いと言って、早朝から道具箱を携えて予約順にお得意先を廻って夕方まで髪結いで歩いた。

その実働時間は実に十時間にも及ぶ。

小柄なこの葉にしてみたら重労働ではあったが、これが年間の中でも特に稼ぎになったのだ。

 というのは正月なので、髪結い料三十文の他に年玉と言う心付があった。

商家であれば女将さんや娘さんに使用人と言った複数の利用者があり、使用人の心付は気持程度のものだったが、主人筋ともなると、

粒銀や黄金色に輝く一朱金(六二五〇円)などを弾んで呉れたものだ。

 こうしたご祝儀は年に一度だが、偶に大店の娘御が流行の髪型を所望するのでそれに応えてやると、女将さんが数百文を弾んで呉れることがあった。

流行りの元は新吉原の遊女が結ったものだが、それが町屋の娘らが真似たものだった。

勝山髷かつやままげや根下り兵庫ひょうごに横兵庫などがそれである。

 この葉は亭主のポン太が衰えて来たことを察して、こうした上得意からのご祝儀を蓄えに回したのである。


 さてそのぽん太だが、元々は根っからのぐうたらの様で、それが女房に咎められなくなると、どんなに天気が良くっても、敷きっぱなしの布団の上でごろごろするばかりで起きようとしなくなった。

 夕方この葉が客先を廻って戻って来たが、如何やらぽん太は出掛けた様子がなかった。

それは土間の履物が、この葉が朝出がけに揃えたままの形であったからである。

厠でも行けば脱ぎっぱなしの状態の筈だが、それも無かった。


 それでもぐうたら亭主を支える理由があったのだ。

「どうせまた出かけるんだろうから、一人で晩飯を頂くよ」

 この葉はへっついに火をくべて味噌汁を温めると、冷たいご飯にそれを掛けて掻っ込む。

「お揚げが美味しいわよ」

 この葉はみそ汁の具に油揚げを好んで入れたものだった。

そのこの葉も疲れたようで、何時もよりか早く行燈の灯を消して眠りについた。

 するとぽん太はムックリと起き上がって土間に下りると、腰障子を少し開けて外を窺う様にして出て行ったのである。

何処に行くのか、略毎日この様にして出かけて行くのだという。


 翌日も天気は良かったので人足の仕事はあったが、又もやずるけて寝ていたのである。

別段調子が悪いわけではなく、怠け癖が付いた訳でもあるまいが、こうしてずるけて寝ていることが多くなった。

 ぐっすり寝ている所に声を掛ける者があった。

 大家の七兵衛である。

「店賃を貰いに来たよ。居るのは分かってるんだ入るよ」

 七兵衛は腰障子戸を開けて驚きの声を上げ、立てかけてあった心張棒を寝床に向けて投げつけたから堪らない。

鼾をかいて気持ちよさそうに寝ていたポン太ならぬ狸が慌てて飛び出して逃げて行った。

七兵衛は狸が飛び出して行く際、竈の上にあったおかまの蓋を狸目掛けてぶつけたのである。

「痛っ」と狸が言う筈ないが、七兵衛にはそう聞こえたのである。

〈可笑しいな。空耳か〉

 それにしてもぽん太の奴何処へ行ったんだろうか、泥棒が入ったって持って行けるものなんて有りはしないが、狸に住みつかれても困るだろうにと大家は一人北叟笑む。

それにしても雪駄は土間に揃えて置いてあるのだからまさか裸足で厠に行くことはあるまいと首を傾げながら表に出ると、そのぽん太が妙な格好して、尻を摩りながら木戸を入って来るのが見えたので声を掛ける。

「何処へ行ってたんだい。何だいその格好は、何ではだしなんだね」

「コリャ大家さん、いや野良猫にかかぁが皿盛して置いた焼き魚を持って行かれたのを追いかけて行ったんですが、逃げられてしまいましたよ。ところで今日は何の御用ですか」

 晦日だから用事は判っているが恍けて訊いたのである。

「解っているなら用意して置くもんだ、ぽん太さんよ」

「へ~い、かかぁが戻りましたら持って行かせますのでご容赦を…」

「しょうがないね。確と頼みますよ。ところでお前さんが猫だか鼠だかを追いかけている際中に寝床に狸が寝て居ったぞ。心張り棒を投げつけたら驚いたように飛び出して行きおったわ。その時こいつを尻に叩きつけてやったんだよ、痛快だったねぇ。嘸かし痛かっただろうな」

 まるでぽん太にでも言うように自慢げに話すのだった。

 夕方この葉が戻って来たので、それらの話を聞かせると、

「全くお前さんたらー」

 と別に怒るでもなく笑い飛ばして、家賃を収めに出かけて行った。




 さて賢い読者の皆さんなら、大家の七兵衛さんが見逃した点を気づかれたかも知れないがそれはさて置き、女房のこの葉はとも角、ぐうたら亭主のぽん太はどうも普通ではない。確かにぐうたらには違いないが、以前は働き者だったというから歳の所為かも知れないが未だ老け込む歳でもあるまい。

だがこの葉から見ると亭主が少し衰えてきたように思えてならなかったのだ。

 前述のようにぽん太は働き者だった。

力自慢で疲れ知らずだからどの現場でも重宝がられた。

寧ろ働き過ぎが心配になったほどだった。

 この葉はぽん太と一緒になった時、あることを誓い合ったのだ。

今のままではそれも叶わなくなりそうなので、ポン太が、

「何処か旅でもしようか」

 と言い出したのだ。

そこでこの葉はこう切り返す。

「それならねえ、旅するのも良いけど府内の名所巡りでもしてみない。結構良い所があるわよ」

 と提案すると、

「おぅいいね。だが銭はあるかい」

「大丈夫。あんたはそんな心配より行くところを挙げてみてよ」

「よっしゃ任しとけ」

 ぽん太はこの葉のこの提案で元気が戻ったようだ。

ぽん太はかつて住まいを転々としていたので、多くの人が出回る所を知っていたのだが、それはこの葉にしても似たようなものだった。

 二人が所帯を持って落ち着いた場所が、現在住んで居る須田町の長屋であった。

「お~いこの葉、紙と筆は何処だ」

「家には無いよ。柳原通りの並木の下に在るのを拾っといでよ」

「あっそうか、行ってくらぁ」

 道端に筆や紙が落ちてるなんて普通はないが、この夫婦にのみ通じる会話であった。

 暫くしてぽん太がそれらを抱えて戻ると、この葉がそれらから選りすぐって、小筆と美濃判の紙を渡した。

「てぇしたもんだ。あっそうか」

 ぽん太はあることを思い出したらしくポンと手を打つ。

「なぁこの葉、この間の店賃もこれかい?」

 ニンマリとしながら茶化すように訊くと、

「莫迦をお言いでないよ。世話になってるのにそんなこと出来る訳ないだろう」

 一重のまなじりがきゅ~と吊り上がる。

「冗談だよ、怒るなよ」

 しっかり者の女房には頭が上がらないぽん太であった。


 ぽん太は何時もだったら、陽が沈むと暗がりの中を出掛けて行くのだが、この日は行燈あんどんの灯の下で御府内ごふないにある名所地を思い出しながら筆を取った

 名所と言えば梅林や桜、躑躅つつじ、富士山を眺望する場所とか、月見の出来る所のような人が多く集まるところだが、思いつくままに書き出して行った。

東西南北で分類し、略その順番で巡ることにした。

 ぽん太に絵心があるならば、写生して今流行りの浮世絵で名所圖會とでも創れそうだが、その様な才能もないので“気紛れ歳時記”と題して、その場所場所の特徴を書き記すことにしたのである。


 先ずは須田町の北側に火除御用地ひよけごようちと言う広場があり、道が八方に分かれところから八つ小路と呼ばれていた。

その北側には神田川が流れていて、筋違すじがい御門と辻番所を挟んで昌平橋が掛かっていた。

此処筋違い御門は中山道なかせんどうや奥州街道に通じていて、それらの街道を利用する大名の参勤交代が見られたのである。

「この葉これは加賀の前田様の行列か?」

「違うわ。前田様は梅鉢の御紋で、第一この先の本郷の御屋敷から出立でしょ」

「だってあの紋似てないか」

 するとこの葉は懐から何やら取り出すと、

ぽん太に紋帳を示しながら、

「これだわこれ、六つ星。足利の戸田様よ」

 同じ三月のお暇(領地に帰る)だけど、見ての通り一万石と百万石とでは行列の規模が違うでしょうに」

「ちげぇねえや」

 確かに百数十人程の行列である。

加賀前田公なら二千人から列をなして居る筈であった。

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