14. 師匠の教えと転機
その夜、エリアスは薄暗い工房で一人、ランプの明かりを頼りに記録帳をめくっていました。硫黄の特性や新たな試薬について書き留めた言葉が、彼の視線の先で踊るように並んでいたものの、その手はふと止まり、思考は過去へと遡りました。
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若き日の挫折
エリアスがまだ師匠ヒエロニムス・ファエウスのもとで学んでいた頃、彼は「金を生み出す」という錬金術師の夢に取り憑かれていました。愚者の黄金――黄鉄鉱――と水銀を用いて金を生成しようと、何度も何度も試行錯誤を重ねました。
しかし、どれだけの時間を費やしても、金が生まれることはなかったのです。坩堝の中では、水銀はただ蒸発するか、黄鉄鉱が変色するだけでした。期待に胸を膨らませた分、失敗の度に失望は深まり、やがて途方に暮れて実験台の前に座り込んでしまいます。
そのとき、師匠ヒエロニムスが工房に現れました。実験台の上を見渡し、エリアスの落胆した顔を見て、彼は苦笑を浮かべました。
「おや、随分と熱心にやっているようだな。」
エリアスは顔を上げ、うなだれた声で答えました。「何をしても金は生まれません。文献に書かれている方法を試しても、何一つ……」
師匠は腕を組み、しばらく黙っていましたが、やがて静かに語り始めました。
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師匠の教え
「エリアス、覚えておくんだ。事実と理論が喧嘩をしたら、事実が勝つんだよ。」
その言葉にエリアスは少し戸惑いました。「でも、師匠。それでは理論を信じる意味がないのでは……?」
ヒエロニムスは微笑みながら首を振ります。「理論は道を示してくれるものだが、それが全てではない。時には理論を脇に置き、実際に見えるものに目を向けるんだ。金が生まれない理由が分からないなら、それもまた事実だ。そしてその事実にこそ、学ぶべき真実が隠されている。」
エリアスは黙って師匠の言葉を受け止めました。頭では理解しながらも、心の奥ではまだ金の合成という夢に未練を感じています。
ヒエロニムスは彼の肩に手を置き、さらに続けました。「賢者の石のような夢を追いかけるのは悪いことではない。ただ、その過程で見えるものを軽視してはならない。君の目の前にあるのは、ただの黄鉄鉱ではない。それをどう見るかが、君自身を変えるのだよ。」
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転機と新たな探究心
その後、エリアスは金の合成を断念する決意をしました。失敗の連続は、彼に黄鉄鉱の「無価値さ」を教えるどころか、その未知の可能性を示していたからです。黄鉄鉱は金にはならなくとも、その中に鉄と硫黄という、錬金術師たちが「二要素の鍵」と呼ぶものが含まれていました。
「賢者の石は、単なる夢物語かもしれない。でも、目の前の物質に秘められた事実は無視できない。」
エリアスはそれ以来、黄鉄鉱を研究対象として新たな視点から捉え直しました。硫黄の分離技術やその応用法を考案し、石鹸や農業用薬剤の開発に着手するようになります。
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夜の独白
ランプの灯りの下、エリアスは静かに呟きました。
「師匠、あなたの言葉が今の私を作ってくれました。理論に縛られることなく、事実を見る目を持てと教えてくれたからこそ、私はこうして地に足をつけて進むことができている。」
彼はその時、昼間のレオナルドとのやり取りを思い出しました。
「辰砂は水に溶けないから安全だと……彼はそう言った。でも、事実として水銀が危険であることは変わらない。事実を無視して輝かしい理論を語ることが、どれほどのリスクを孕むか、彼は忘れてしまったのだろうか。」
エリアスの手が、硫黄のサンプルを軽く撫でます。
「私は、目の前の事実を見続ける。どれだけ地味であっても、それが真実だからだ。」
ランプの炎が静かに揺れ、エリアスの中に新たな決意が芽生えていまいた。
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