第4話-⑤
翌日、王国軍から使者来訪の先ぶれが来た。
十中八九、捕虜の返還要求と形だけの交渉や投降要請だろうと誰もが思った。
それは間違っていなかったが、思わぬ相手にクィエル軍全体が殺気立った。
「なんだ、この不味そうな茶は」
リュミスが差し出した紅茶を覗き込み、サビオリ男爵は入れたてのそれを地面へ叩き落した。
「うわもったいね」
思わずオズワルドがそう呟いてしまい、全員に睨まれる。
交渉役としてやって来たサビオリ男爵の後ろには、付き添いだろう軍人と
「ゴホンッ」
わざとらしい咳払いでディムが視線を集めさせ、口火を切る。
「わざわざこちらに出向いて、茶の文句ですか。王国軍はずいぶんと潤沢だと見える」
国境警備や要人警護がメインの軍は、ただでさえ他の国に比べて小規模だ。それを知っていての嫌味に、軍人が眉をひそめ、
「
対するサビオリ男爵はふんぞり返って答える。一聴するとただの嫌味合戦に聞こえるが、男爵はディムの嫌味をそうだと受け取っていない。そして返答もまた彼の中の事実を答えただけだ。
腹芸が基本と言われる貴族社会でよく生き残って来れたなと、いっそ感心するくらいドストレートな文句。
「それに貴様、
じろりと男爵はディムを睨めつける。
「私はかつてのクィエルの名君ユリティ・サビオリだぞ。地に頭をこすりつけて出迎えるのが普通だろ」
「私は今のクィエルを治めている者」
ディムはよく通る声で反撃した。
「かつて重税を重ね、一六五八二名の餓死者、凍死者を出した人を誰も名君とは呼ばない」
「でたらめを言うな!」
振り下ろされた拳にテーブルが悲鳴を上げた。
「私の治世に皆感謝していたのだぞ! 極寒のあの僻地を“常春のクィエル”とまで言わしめた私をそれ以上侮辱するなら、こちらにも考えがある!」
「どのような?」
「は?」
速攻で返され、サビオリ男爵が言葉に詰まる。
「どのようなお考えで?」
テーブルに肘をついて彼を見るディムは、明らかに馬鹿にした笑みを浮かべていた。サビオリ男爵が何も考えていないとわかっているからだ。実際、勢いで出てきた言葉にそれ以上の力はない。脅して屈して、這いつくばった頭を踏みつけることしか想像していなかったのだ。
目の前で浮かぶ薄ら笑い。それは親戚が治めていたサビオリ領に戻ってきてから、ほぼ毎日付きまとっていた笑みだった。
――穀潰しにやれる飯はこれくらいだ。
親戚はそう言って、硬いパンと炒った豆しか乗っていない皿を押し付け、男爵一家をかつて物置小屋だった離れに追いやった。
――さすがは伯父上、これでよく領主になれましたね。
親戚の息子はそう言って笑った。言葉の裏を読みづらい男爵でも、馬鹿にされているのはわかった。
――伯父様、ドレスを見繕ってくださいな。ああ、やっぱりいいですわ。そんなセンスも甲斐性もありませんものね。
親戚の娘にそう言われ、しばらく妻や娘が荒れて大変だった。
――はやくわたくしの前から消えて頂戴。誰かさんのせいでこの家の品位がさらに落ちてしまうわ。
親戚の妻は明らかな侮蔑をたたえて言った。その扇の向こうで笑っていたのを、男爵はしかと見ていた。
彼らだけではない。彼らに仕える使用人も、新たな領主となった貴族も、街の人々も、皆男爵一家を嗤っていた。
妻と娘は男爵に当たり散らした。もっとうまく立ち回っていたら、あの極寒の地でも幸せに暮らせたのにと。
唯一笑わなかったのは
その
男爵の中で何かが切れる音がした。
「……黙れ」
テーブルを掴み、渾身の力でそれをひっくり返す。
「黙れ、
テーブルクロスが舞い、ディムに向けて質量のあるテーブルが襲い掛かる。
周囲の兵士や使用人たちが悲鳴を上げる中、そこに蹴りを入れて追い打ちをかける。
「私は! クィエルの! 領主だ!! たかが
ガンガンと音を立てて蹴るサビオリ男爵を見て、同伴した軍人のケネスは頭を抱えた。
ホーヴィル将軍の命で一部始終を見て来いと言われたものの、予想以上に男爵が幼稚で救いがなかった。
王都からここに来るまでの道中も、彼のわがままで何度足止めされたことか。思い通りにいかなかったら駄々をこねて暴れる。平民の子供の方がよっぽど聞き分けがいい。領主を騙る
どうやってこのでかい子どもをなだめようかと考えていると、テーブルが勢いよく押し返された。
「ぶぺっ」
まともに受け身を取れなかったサビオリ男爵がひっくり返る。
テーブルの下から出てきた黒髪の
「爵位を落とされ、陛下の温情で貴族の座にしがみつけているという自覚がないのか」
軽蔑の視線を男爵にやり、彼はケネスの方を見やる。
「こちらは投降するつもりはない。やるならあくまでも徹底抗戦だ」
唐突に本題の回答を得られ、ケネスは一瞬、思考が混乱する。
「アントニオ殿下に伝えろ。その首、かならず落としてやると」
親指を立てた左手で、自身の首を掻き切る動作をする。その顔に一切の躊躇いがないことにケネスは感心した。
「……返答、承った」
ケネスは恭しく礼をする。
「こちらも一切の慈悲をなくそう。クィエルの民は皆殺しだ」
穏やかな表情で放った殺意に満ちた言葉に、けれど彼らは動じない。
「もとよりそのつもりだ」
「それと一応、捕虜をそちらに返還する準備はできているが――」
「いらん!」
ディムを遮ってサビオリ男爵が言った。
「「は?」」
思わずディムとケネスの声が被る。
「使えん駒などいらん! 煮るなり焼くなり好きにしろ!」
「…………」
あまりの言葉に、呆然とディムはケネスを見やる。
「……念のため聞くが、そちらの将も同じ考えで?」
「いや――」
「ああ、そうだ!」
再び男爵が遮った。
「たった五百体の
空気が一気に同情へ変わった。オズワルドが口パクで「ドンマイ」と言っている。ケネスとしては、できればこれ以上男爵に喋ってもらいたくなかったが、相手は腐っても貴族。平民の自分ではその場で斬り殺されるのがオチだった。
ふう、とディムがため息をつく。
「その言葉、違えるなよ」
よく砥がれた刃物のように鋭く冷たい声。もしも言葉を実体化できるなら、鋭い剣が男爵の首筋に添えられていただろう。
それほどまでに鋭利な声を受けても、サビオリ男爵は動じない。
「フン、吠え面をかくのも今のうちだ」
本人はドヤ顔で言い放ったが、負け犬の遠吠えにしか聞こえなかった。
この時ばかりは彼の鈍感さが少しだけ、ほんの少しだけ羨ましかった。
揚々とテントを出るサビオリ男爵を追って、ケネスも連れの
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