第1話-⑦
冷たい風が吹き込んでくる。その寒さも忘れ、ウェンディは見回す必要のない惨状を目にした。
ハンガーラックに掛けてあった毛糸の服はボロボロに切り裂かれ、床に散乱している。開け放たれた窓から入る風に乗って踊るのは、小さな紙片たち。
風に押されて、机の上にあったものが落ちた。そこに書かれた「治癒術・基礎」の文字を目にして、紙片の正体を知った。
「ハンッ、ざまあみろ」
後ろで誰かが言った。
「よそ者が堂々と居座るからだ」
「マルス、あなたいい加減に――!」
「何もしらねえ奴が知った風な顔でここにいるんじゃねえよ!!」
シスターの叱責すら遮る怒号が、稲妻のようにウェンディの耳を貫いた。
「そんな奴の施しを受けるくらいなら、おれがみんなを守る!」
ゆっくりと、ぎこちない動きでそちらを見る。子どもたちの中でも一等大人びている少年――おそらく彼がマルスだろう――がきつく唇を噛んで前を睨んでいる。
彼の身に何があったのかウェンディは知らない。聞いたところで答えてくれないだろう。けれど、まだ幼いその顔に決意が宿っているのは見て取れた。
だからといって、ウェンディの怒りが収まるわけではない。
「……では、本を破いたのは失敗でしたね」
ぽつりとウェンディは言った。
「あれは治癒術の教本です。水の精霊の加護があったら、使えたかもしれないのに。もったいないことをしました」
口調の変わったウェンディの言葉に、シスターやマルス以外の子どもたちがそっと彼女を見る。独り言のようなそれは、まずいことをしてしまったのではないかと彼らに思わせるくらい、平坦で温度のないものだったからだ。
そしてウェンディの顔を見た彼らは一様に顔色を変え、すぐに視線を外した。
「……ねーよ、んなもん」
ウェンディを見ないまま、マルスが答える。
「そうですか。では、少し時間はかかりますが、薬草を煎じる方法を調べた方がいいでしょうね」
「んな高価なもんがあると思うか?」
「育てればいいじゃないですか。バレたくなかったら、部屋とかに、こっそりと」
「……ここ、年中冬だぞ?」
懐疑的な目をマルスが向ける。ようやく視線が合った。
そこで彼がギョッと目を見開く。
平坦な声に反して、ウェンディは煮えたぎったマグマのようにはっきりとした怒りを浮かべていた。
「寒い場所にしか自生できない植物もあります。あと、お勧めはしませんが、毒草が薬になったりもします」
「ど、毒?」
まだウェンディに気圧されているマルスが、なんとか聞き返す。声のトーンと表情が合っていない。そのアンバランスな恐怖がじわじわと彼らを侵食していった。
「毒は強すぎるから毒なんです。薄めたり、弱める効果のある素材と混ぜれば、立派な薬になります。まだまだ勉強途中ですが、そういった植物があるのは知っています。シスター、この街に図書館はありますか?」
質問の矛先を若いシスターに訊ねると、彼女はぴゃっと飛び上がった。
「え、あ、ある、あります!」
毒草の話を聞いて引いてるのかもしれない。怒ると敬語になるし声のトーンも変わるのは自覚していたが、ここまで怖がられるとは思っていなかった。
知らない方がいいことも世の中にはある。
「じゃあ明日、案内してくれますか? もしかしたら、ここで育てるのに適したものがあるかもしれません。上手く行ったら教会の臨時収入にもなりますよね」
しかも病院はすぐ隣にある。薬草の中には鮮度が命のものもあるから、それが育てられれば双方にとって利益になる。
「それなら、リュミス女史に許可をもらわないといけないわね」
ようやく追いついたシスター・ケイトが、息を整えて言った。
「リュミスさん?」
ウェンディは訊き返した。なぜここで彼女の名が出るのか。シスター・ケイトは表情と声のトーンがちぐはぐのウェンディに臆せず答えた。
「この街一番の図書館は、領主さまの屋敷にある図書室なのよ。市民にも一般開放されているけれど、盗難防止のために事前に許可がいるの。本来なら領主さまの許可がいるけど、不在の場合はリュミス女史が代理をしているのよ」
「なるほど」
「ちょうどいいから、今夜にでも話をしてみてくださらない?」
「はい」
ウェンディは頷いた。思わぬトラブルになったが、いい方向に転がっていきそうでよかった。
「まあ、それはそれとして」
シスター・ケイトが咳払いする。
「人様の荷物をダメにするとは、いったいどういうことですか?」
思わず、シスターやウェンディも一歩下がるほどの気迫。なんなら収まりそうにないと思ったウェンディの怒りが逃亡を図った。ウェンディの怒りが遅効性の毒なら、シスター・ケイトのそれはまさに雷。予見できても、当たるときは当たる強烈な一撃。
逃げられない子どもたちは思わず互いに抱き着く。
「御心への理解がまだ足りないようですね」
外は晴れているはずなのに、特大の雷鳴が轟いた気がした。
「……なるほど。そういうことでしたらいいですよ」
夕方。屋敷に戻ったウェンディが図書室の利用について訊ねると、リュミスはあっさりと許可を出した。
「すぐに夕食ですので、着替えてきてもらってもいいですか?」
「はい」
ウェンディは頷いて、すぐにあてがわれた部屋でシスター服から新しい服に着替える。
いくつか予備を貰ってはいたものの、持っていたものを壊されるというのは良い気分ではない。
夕食の席では、メイド長を中心に情報の共有がおこなわれた。それが少しだけ静かに感じたのは、領主であるディムが不在だからだろう。
その横でオズワルドが一人やたらとおかわりしていた。土木作業に従事することになったから、体が欲しているのかもしれない。料理長は嫌な顔一つせず、むしろ彼の食べっぷりを見て気持ちよさそうだった。
ウェンディは穏やかに進む時間の中で、そっと視線を巡らせる。昨日と一昨日はそこまで気が回らなかったが、今日はいくらか余裕がある。
そして気付いた。
生まれながらの奴隷階級である彼らが一人もいない。領主の屋敷だから十人規模で存在すると思ったのだが、誰も首筋にその証がない。
寒すぎてすぐに死んでしまうから効率が悪いのか、それとも単に買うだけのお金がないのか。いやそれだったら使用人を雇うより
あれこれ思考は巡るものの、ウェンディが考えても詮無いことであった。
それに、そのことについて突っ込めるほどウェンディもここの暮らしに馴染んでいない。あくまでも自分たちはお客さんなのだ。
だから、このことは自分の胸にしまって、はやく忘れることにした。
ふと、思い出した。
「あの、リュミスさん」
「はい」
「図書館に、治癒術に関する本ってありますか?」
孤児院の子どもたちに修復不可能になるまで破かれてしまった教本。あれの代わりとまでは言わないが、関連する本があればいいと思った。
「調べてみますね」
リュミスはそう答えた。
「ありがとうございます」
望みが繋がったウェンディはほっと息を吐く。
多少扱えるが、治癒術もまだ勉強中なのだ。少しでも知識が増えるに越したことはない。良い本があればいいなと思いながら、ウェンディは焼き立てのパンを頬張った。
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