第38話

絵を描くことが好きだ。

空想の世界や、後世に残したい絶景。日常のワンシーンを切り取るにしても、言語関係なく表現ができるから。

写真や映像も良いが、紙に筆で描くという情緒が魅力的だ。

わざわざ絵の具で無い色を作るのも楽しいと思う。

だから、私は足掻く。潔く、あきらめたりなんかしない。あきらめきれるほど、簡単な想いではない。


実習棟の教室の一角。珠子は無心で静物画のデッサンに使うための鉛筆を、カッターナイフで削っていた。

サリ、サリ、と軽い音を立てながら、芯を覆う木の皮が薄く落ちていく。皮はうまく削れると長く、時折、白ひげのようにくるんと丸く形成される。

「…っ痛。」

ピッと鋭く、見ると親指を刃で傷つけてしまっていた。普段ならしない失敗に、心が動揺していることを知る。

「…。」

珠子は溜め息を吐いて、机の上にカッターナイフを置いた。そしてまじまじと、手を見つめる。

一閃のように滲む血の色は、他の人はどんな色に見えているのだろう。

どうして私の目は、通常の色を映さないのかな。こんな目、

「いらない。」

手にしていた鉛筆で、自身の目を突こうとする衝動に駆られた。ぶるぶると手先が震え、そのつやつやとした黒鉛に目が釘付けになる。

ダメだ。目を潰したら、絵そのものを描くことが困難になってしまう。色どころの問題じゃない。我慢だ。

何とか尖った鉛筆から手を離す。カラリと乾いた音を立て、机の上を鉛筆は転がった。

泣きそうになる感情を堪えて、珠子はリュックからスケッチブックを取り出す。授業には使わない、全くプライベート用の物だ。

数枚の生物の死体の絵に紛れて、健をデッサンで描いたページをめくった。

「…健…。」

そこにいる健はソファでくつろいでいる。その視線は優しく、眠そうに細められていた。

横顔や、手の指の形。耳、鎖骨、唇の縁取り。足の爪まで、今までにないほど丁寧に書き込んだデッサンだった。

それだけに思い入れがあり、描いた本人だからこそ見るだけで心が凪いだ。

「授業、始めまーす。」

教員が現れて、学生たちに声をかける。賑やかだった教室も静かになり、教員のアシスタントが出欠を取り始めた。

珠子は気持ちを切り替えて、呼ばれた名前に応えて返事をした。


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