第36話
「アパート、着いたよ。大丈夫?」
玄関先で座らせて、靴を脱がせる合間も珠子は意識が朦朧としていた。
ベッドに運び、珠子を寝かせる。死体を愛好する彼女にとって、いきなりの人間の死体はそれほどまでに衝撃的だったのだろう。
健はタオルを冷たく濡らして、珠子の額にかいた玉のような汗を拭いてやる。それから数時間後、新年を迎えてしばらく経った頃にようやく目を覚ましたのだった。
「…た、ける…?」
掠れて、喉からうまく声が出ないようだ。ベッドの際でウトウトとしていた健はすぐに気が付いて、珠子を見る。
「ここにいるよ。大丈夫?たまちゃん。」
「うん…。何があったんだっけ。」
脳がショートしたようで、記憶に抜けがあるらしい。
「首吊り死体を見たんだよ。相当、ショックだったみたいだね。」
健の説明に、珠子は「ああ」と頷いた。そして、大きく息を吐きながら枕に深く沈み込む。
「…。」
目を閉じて、ゆっくりと呼吸をしている。昂る気を落ち着かせているのかもしれない。
「何か飲む?汗をたくさんかいたから、」
腰を浮かせようとする健の服の裾をきゅっと掴んで、珠子は止める。
「いらない。…行かないで。」
「…うん。」
再び健は、三角座りで腰を下ろす。しばらくの間、部屋に沈黙が統べる。呼吸と存在感が際立ち、二人だけの空間であることに安堵する自分たちがいた。
「私さあ。」
珠子が口を開く。
「どうして、好きなのが死体なんだろうね。」
その声色には涙が滲んでいた。
「健がいなかったら、私…、」
自らの醜態を恥じているのか、珠子は布団をかぶって顔を隠してしまう。
「たーまちゃん。」
健ははみ出した珠子の足首から先をそっと宥めるように、よしよしと撫でる。
「僕はね、あの死体を見たときにまずそうだなーって即座に思ったよ。」
布団の山がピクリと震えるのがわかった。
「真っ先に肉の具合を見て、その死体になった人が気の毒だな、とか考えられないんだ。人にはそれぞれ悲しむ人が絶対にいるはずなのにね。」
命がけで産んでもらったその命、慈しみ、愛する人たちの存在を無視できる。そんな自分は、きっと欠陥があるのだろう。
「でも、生きることはできる。他人に許される存在じゃなくても、自分さえ許していればだけど。」
「…健は、自分を…許してるの?」
くぐもった声の珠子の問いに、健は頷く。
「誰も許してくれないなら、せめて自分だけでも許してあげたいじゃないか。」
「いいのかな、私も自分を許しても。」
「もし、たまちゃんが自分を許せないなら、僕が許してあげる。」
健の言葉に、珠子がようやく重い布団の扉を開いてくれた。
「健は甘いなあ…。」
「かわいいたまちゃんにだけね。」
珠子の頭を撫でて、健は立ち上がった。そして冷蔵庫から飲み残りのスポーツドリンクを取って、戻ってくる。
「はい、水分補給。体、カラカラでしょ。」
「ありがとう。」
珠子はペットボトルを受け取ると、共に差し出されたコップを使うことなく一気に煽った。
無防備な喉元がさらけ出され、嚥下する。口の端から零れた水分が、一本の線のように首を伝った。
「ぷはー、うまー。」
そう言うと、珠子は手の甲で口元を拭うのだった。その色気を台無しにする行動に、健は吹き出して笑った。
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