第30話
瞳はココとの思い出を語る間、その表情を和らげていた。本当にココは愛しく、慈しむべき存在だったようだ。
「ココは賢い子でね、私が泣いたり、落ち込んでいると舌で舐めて慰めてくれる子だった。」
この醜い痕を、と言い、瞳は腕をさする。
「そこには、何があるんだい?」
「…煙草を押しつけられた痕。火傷で爛れちゃって。」
そう言うと、長袖をめくってその肌を見せてくれた。腕の内側、柔らかい肉の上に円状で赤黒く変色した火傷痕が残っていた。
「花火みたいだね。」
「一生、消えないけどね。」
笑う瞳に白い日が差す。睫毛の先や、丸い頬に生える淡い産毛がキラキラと光った。
朝だ。
何か吹っ切れたように、瞳はデッキから立ち上がった。まとわりつくような砂を手で払って、健を見る。
「そろそろ行くね。」
「どこに?」
すっと長い人指し指で示されたのは、海岸沿いに建つ灯台だった。
「一番上から、飛び降りようと思って。」
「…瞳ちゃんは、今、止めてもきっと後で死ぬんだろう。」
チャットで話していて、彼女の意志の強さを知っていた。頑固で、感受性が強くて、それ故に傷つきやすく生きにくい、今時の女の子。
「そうだね。」
ふふふ、と瞳は微笑む。
「見送っても、いいかな。」
じっと彼女の目を見る。瞳の目色は不思議と凪ぎ、健を見つめ返した。
「…気持ちの良いものでは、無いよ?」
「そうだろうね。」
「わかってるならいいけど。」
そして照れ隠しのように、ふと健から目をそらして灯台の方へと歩き出した。
「じゃあ…、行こう。」
「うん。」
健は瞳の影のように、後ろをついていく。サクサクと砂を踏み締め、時々、波がその足跡をさらった。
やがて岬の高台までの上り坂に辿り着き、ゆっくりと体の重みを感じながら歩んだ。
灯台の扉には頑丈な鍵が取り付けられていて、どうするのかと思っていると瞳はコートのポケットから鍵の束を取り出して少しもたつきながら錠を落とした。
「鍵、持ってたんだ。」
「町の役場に勤めてるんです、私。」
意外と強かだな、と健は思う。盗ったのか。
灯台の内部は埃っぽく、薄暗かった。瞳は手探りで壁にある電気のスイッチを探るが、見つからなかったらしく諦めてスマートホンの灯りを点けた。
螺旋状の階段が目の前に現れ、二人は靴音を響かせながら上っていく。目が回るような感覚に、健は手すりを頼った。気を抜けば足を踏み外してしまいそうになりつつ、瞳のよどみない足取りを追った。
上層階に着くが、またまた鉄製の扉に阻まれる。瞳は鍵の束を使って、再び開錠を試みるがどの鍵も合うものががなかった。小さな舌打ちをして、自棄になったかのように瞳がガシャガシャと銀色のドアノブを回した。
「せっかく、ここまで…来たのに…っ!」
その声には涙のような色が滲んでいた。きっと、ココに会うため、と様々な場面で勇気を振り絞ったのだろう。鍵の盗難には真面目な彼女は罪悪感に苛まれたはずだ。
「瞳ちゃん、僕が。」
健は泣きそうな瞳を一旦、扉の前からどかす。
「…どうするの?」
扉の蝶番を見て、海の潮風による錆と痛みを確認した。これぐらい腐食していれば力任せにすれば開きそうだと判断して、健は肩を盾にするように何度か強く扉に打ちつける。
大きな金属音が、灯台の中に木霊して耳に響く。蝶番が軋む音に最後、脱臼してもおかしくないぐらいの強さを込めた。ガコ、と情けない音と共に扉が斜めに開く。
「清々しいほど力業だね。」
耳を手で塞いで、健の蛮行を見守っていた瞳が苦笑した。
「でも、ありがとう。」
扉をくぐり、瞳はフェンスを乗り越えたわずかな隙間に立つ。
「…。」
フェンスを挟んだ安全地帯で、彼女の隣に健は立った。
空が白見始めている。海は凪ぎ、穏やかな波の音が優しく鼓膜を震わせた。
「綺麗だね。」
海原の水平線の縁がやや丸みを帯びて、地球が丸いことを証明していた。太陽の明るみの端で、申し訳なさそうに名残惜しく月が存在している。鳥たちが伴侶と共に、朝を迎えられた嬉しさを特別な鳴き声で囀っていた。
瞳はココのことを思い浮かべたのか、わずかに浮かんだ涙を服の袖で拭く。
「…けんくん。私、」
首だけ振り返る彼女の背中を、健はそっと押した。
瞳はバランスを崩して、呆気なく地面に吸い込まれるように落ちていく。コートの裾が蝶々のようにひらりと翻り、やがて水風船を打ち付けたかのような音が立った。
健がフェンス越しに少し身を乗り出して見下ろすと、瞳の体がごつごつとした岩肌の地面に血を流して横たわっていた。
灯台を下り、健はレンタカーからクーラーボックスを持って現場に戻る。歩きづらい地形ではあったものの、四苦八苦して何とか瞳の元へと行く。
瞳の体はすでに何箇所か骨折していて、切断することなくクーラーボックスに収まった。まだ生々しい体温の残る死体だった。
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