第29話
冬の早朝。半ば突発的のように、健は瞳と出会った。
ネットの掲示板で知り合い、個人チャットで会話を交えるまでに親しくなった頃。愛犬のココが死んだと言って、瞳は随分と塞ぎ込むようになった。たまに写真をチャットに送ってくれていて、ココは可愛らしいトイプードルの男の子だった。
ココは瞳が幼少期に祖父母の家で過ごすにあたり、寂しくないようにと与えられた犬だと聞いたことがある。それはもう可愛がり、ココは単なるペットではなく家族のような存在だと瞳は言っていた。
その日の深夜、瞳はチャットで健に『死にたい』と告げた。『死んで、ココに会いに行きたい』とまで言った
彼女の切羽詰まった雰囲気を察し、健は丁度いいと思う。そろそろ人肉のストックが切れるところだと打算的な考えを抱いた。
『待って。今から、君に会いに行くよ。』
健からのメッセージに瞳はたっぷり悩んで、一時間後。やっと住所を教えてくれるのだった。
健は深夜までやっているレンタルカーショップに赴き、車を借りて町を飛び出した。
ノンストップで運転すること三時間。瞳が住む町は、港町に位置していることをナビゲーションが告げていた。予め、聞いて置いたスマートホンの番号に電話をして、もうすぐ到着する旨を伝える。
そして訪れた待ち合わせ場所は、冬の海水浴場。当然、閉まっている海の家のデッキに瞳は腰掛けていた。
「…。」
水平線が太陽の気配をなぞるように明るくなりつつある。一人、健を待つ瞳の唇から白い息が深く呼吸をしているのを表すように、空気に生まれては溶けていった。
「瞳ちゃん。」
健は駐車場から走ってきた体で、わざと息を荒くした。
「…けんくん?」
鼻の頭を寒さに赤くしながら、瞳は健を迎えた。
「本当に、来てくれたんだ。」
「当たり前だろ。」
ズ、と鼻を啜りながら、健は瞳の隣に腰掛ける。冷たいデッキの感覚が、厚手のボトムスの布から染み入るように肌を痺れされた。
「寒い中、待たせてごめん。」
「んーん。嬉しいよ、来てくれて。」
呼気で両手の平を温めながら、瞳は弱々しく微笑んだ。
「その…。大丈夫?死にたいって…、」
健が様子を伺うように、瞳に問う。
「…うん。何か、もう…ココがいなくなって、つらくて。毎日が。」
「そっかー…。ココを愛しているんだね。」
「愛…。そう、私はココを愛してる。」
瞳は自身の名前と同じ部位から、涙を流した。みるみるうちに玉のように膨れ上がり、表面張力を破るとほろりと零れる涙だった。
「私、今日、ココに会いに行こうと思うの。」
「それは、死ぬってこと?」
「うん。」
しばらくの間、沈黙が統べる。
「…死ぬ前に、ココの思い出を聞かせくれないかな。」
瞳に寄り添うように、沈黙を破って健は提案をした。
「…。」
瞳は小首を傾げるようにして、脳内でココとの思い出を辿っているようだった。
「私、おじいちゃんとおばあちゃんの家に預けられていたのは話したよね。」
ポツポツと、瞳は声を絞り出すように語り始める。
幼少時、瞳は両親から虐待を受ける子どもだった。煙草の火を腕に押しつけたり、風呂場の浴槽に閉じ込められて蓋を閉められるなどといった内容の虐待を受けていたと言う。
異変に気が付いて助け出してくれたのは、祖父母だった。
小学校の帰り道に祖母が迎えに来てくれて、家に匿ってくれたのは祖父だ。
両親は最初、瞳を取り戻そうと祖父母の家に乗り込んできた。激しい言い争いの末に無理矢理、瞳の腕を取ったのは父親だ。だが、瞳の腕には煙草の押しつけによる火傷があり、強く掴まれた刺激でひどく痛んだという。
反射的に払いのけられた手を、両親は瞳の拒絶と受け取った。
『そうか。もういい。』
父親は憤慨し、母親はため息を吐いた。
『あんたなんか、産むんじゃなかった。』
最後に、もう家に帰ってくるな、と言い捨てて両親は帰って行った。
瞳は泣いて縋ろうとしたが、祖父母に止められる。それは彼らの愛情に間違いなかったけれど、瞳は当時、何故祖父母は自分の邪魔をするのだろうかと思って随分と恨んだものだった。
『…。』
塞ぎ込んだ瞳は何も喋らず、人形のように無表情だったらしい。
「おじいちゃんとおばあちゃんは、そんな私をすごく心配してくれてね。ココが家に来たのは寒い、今日みたいな冬の日だった。」
今でもよく覚えている、と瞳は言う。
「小学校から帰ってくると、家の中から犬の声がした。まだ小さな子犬らしい甲高い声で、まるで「おかえり」といわれてるように感じたの。」
『おかえり、瞳ちゃん。』
祖母はソファに座っていて毛糸の編み物をしていたが、それを膝に置く。その隣には赤い首輪を身に付けたトイプードルの子犬が、尻尾を細かく早く振りながら座っていた。
『…、』
戸惑う瞳の足元を子犬は飛び跳ねて、じゃれようと靴下の先をかじった。
『今ね、おじいちゃんがこの子のごはんを買いに行っているのよ。』
ごはん、の単語に反応したかのように、子犬は一際高く鳴いた。
『まあまあ、お待ちなさないな。そうだ、瞳ちゃん。この子におやつをあげてくれるかしら。』
祖母は台所に行き、棚から犬用のジャーキーを取り出してくる。その周りを子犬はくるくると回って、まとわりついた。
祖母からジャーキーを手渡されて、瞳は子犬と目線を合わすようにそっと膝を曲げる。キュン、と鼻で鳴き、子犬は嬉しそうに飛びついてきた。小さく温かい舌で手や頬を舐められて、瞳はそのくすぐったさから破顔したのだった。
『ただいまー。いやあ、大事なドッグフードを忘れちまって、怒られてしまうなあ。』
祖父が帰ってきたことを気付かず、瞳は子犬と一緒にボールを投げて遊んでいた。
瞳は当時、あんな両親だとしても愛していて、夜になると人知れず泣く日が続いていたという。
子犬が来た日の夜も、瞳は泣いていた。時々、機嫌の良い日に見せてくれた両親の笑顔が恋しくて、会えないことが寂しく感じ絶望した。
涙はこめかみを通って、耳の裏を熱く濡らす。布団を被って泣き声を殺していると、不意にガリガリと部屋と廊下を別つ襖が音を立てて揺れた。
『…?』
涙を拭いながら、瞳はそっとベッドから素肌の足を下ろした。古い畳の床を軋ませ、襖の戸を横に引く。そこにいたのは、尻尾を振る子犬だった。
『どうしたの?』
瞳が小さな声で呟くと、子犬はふすふすと鼻を鳴らしながら嬉しそうに部屋の中に図々しく入ってきた。そして瞳のベッドの上に身軽に飛び乗ると、一緒に寝よう、とばかりに寝転んでくつろぎ始める。
戸惑いながら瞳もベッドに戻り、布団に潜ると子犬も共に入ってきた。そして瞳の頬を舐めた。
『ここにいてくれるの?…そうだ、名前。ココって名前はどうかなあ。』
祖父母に命名を頼まれていた瞳は、子犬の名をココに決めた瞬間だった。
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