第23話
アパートの玄関を開けると、珠子が料る香りが部屋中に満ちていた。
「たっだいまー!」
さやかが元気よく、台所に立つ珠子に声をかける。
「お、おかえり。」
「何、作ってるの?」
「かに玉。たまごが余ってたから。」
味見、と珠子はあんかけのたれを一匙掬って、さやかに差し出した。
「美味しい。」
「そうであろう。」
二人が仲睦まじくしている様子を横目に、健は冷蔵庫に買ってきた酒を入れようとして膝をついた。
「あ、いーよいーよ。もう出来上がるから。」
珠子が皿に料理を盛り付けながら、さやかにこたつの上を片付けるように命ずる。
「そう?じゃ、コップと氷だけ出すね。」
代わりに冷凍庫を開けて、製氷皿から氷を取り出す。三つのコップに氷を分け入れて器用に持つと、こたつに向かった。
三人が揃ってこたつに着いて、宴が始まる。女子二人はよく飲み、よく食べた。健は自分より若い者たちを感心するように、眺めていた。
話題は二転三転し、軽いキャッチボールを交わしているかのようだった。鈴の音のような女声は耳に心地よく、健は耳を傾ける。
点けたままのテレビが、ニュースを流す。それは今年起こった事件や事故、災害などを振り返るものだった。8月に発見された矢を討たれたカモが治療を受け、元気に過ごしていることをアナウンサーが告げる。
「そういえばさ、昔、鳩の首無し死体が多発したことなかった?」
さやかが呼び起こされた記憶を口にした。健の心臓が一音、高く鳴る。
「あったねー。」
珠子は何でもない風に返事をした。
「幼心にトラウマだったよね。気持ち悪い。」
さやかの言うことが一般論だというのはわかる。だけど、その言葉に傷つく珠子がいることを知っている。
「…。」
「健。」
瞬時に沸いた殺意を察し、珠子が小声で健の名前を呼ぶ。こたつの中で足をそっと撫でられて、健は我に返った。
「…それは、災難だったね。」
「そうなんですよ。珠子なんかその後、熱出して寝込んじゃって。本当に最悪。犯人、捕まってないよね?」
「そうだっけ。よく覚えてないけど。」
珠子は微笑を浮かべ、首を傾げて見せる。この話題には慣れているようだった。
「まあ、あまり気分の良い話でもないからここでやめよ。」
アルコールを避けて、健はスポーツドリンクを口に運ぶ。酔いは暴力を生む、手っ取り早い起爆剤にもなるのだ。
「そうですね、ごめんなさい。」
さやかはそう言って、もう忘れたかのように次の話題を振るのだった。
「さやか、寝るならベッド使っていいよ?」
「んー…、うん…。」
午前2時を過ぎ、さやかがこたつで眠ってしまった。まるで嵐のような存在感に健と珠子は苦笑しながら、宴の後片付けを始めた。
缶をゴミ袋に集めながら、珠子が健の背中をつんと小突いた。
「健さー…、」
「うん?」
さやかを起こさないように、自然と声は小さくなる。
「殺そうと思ったでしょ?」
健は顔を上げる。珠子を見ると、彼女は声なく口を動かした。
ー…さやかのこと。
「…うん。」
正直に白状すると、珠子の手が伸びて健の頭を撫でた。
「ごめんね。私のためでしょう。」
髪の毛を梳くように優しく、その指先はアルコールの所為か熱く甘い。
「ダメだよ。無闇に殺しちゃ。」
「たまちゃんがそういうなら、わかったよ。」
健が頷くと、珠子は笑顔を見せてくれた。
「いい子ね、健。」
珠子が両手を広げる。
「何?」
「ハグ。しよ。」
「酔ってるでしょ。」
「いいじゃん、ハグぐらいさっきもしたでしょ。」
ほら早く、と急かされて、健も思わず笑ってしまった。
「確かに。」
珠子の背中にそっと腕を回すと、お返しとばかりに健を抱きしめてくれる。
自分よりも遥かに小さな、熱の塊。重なった胸からトクトクと心臓が脈打つのを感じた。丸い肩も、細い背も、柔らかくて可愛いと思った。
「ねー…、たまちゃん。」
「なあに?」
「たまちゃんが殺せって言うなら、僕は躊躇うことはないよ。」
胸の内で、珠子の笑い声がくぐもって響く。
「もしもの時は、お願いするかも。」
「うん。覚えていて。」
友人の命の火を消すことに、健たちは戸惑いがない。誰にでも訪れる死は身近で、慈しむべきことだと思っていた。それが自らのエゴイズムによるものだとしても。
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