第12話

珠子が住むというアパートは、歩いて20分ほどの距離の位置にあった。周囲には駅やバス停などなく、その不便さから家賃は破格だという。

「部屋は洋間と、畳の二部屋もあるんだよー。お得でしょ。」

何を基準に損得が決まるかはわからないが、珠子にとっては理想の城らしい。

「畳の方に画材とか作品置いてあるんだけど、片付けたら健が寝るぐらいのスペースはできると思う。」

「お世話になります…と言いたいところだけど、ご家族とか心配しない?」

今更の疑問を抱き、健は挙手をして質問する。

「モデル雇った!って言えば、大丈夫じゃない?」

「多分、ダメだと思うよ。」

「意外と気にしいだな。とはいえ、健って他に行くところあるの?無さそうなんだけど。」

「…無いですネ。」

健の答えに、何故か珠子が胸を張った。

「でしょー?だから、優しい珠子さんが拾ってあげるって言ってんの。大人しく、着いてきなさい。」

「はーい…。」

珠子の後を、まるでほんやりとした幽霊のように着いていく。止んだと思っていた雪が降ってきた。道路に滲むように雪は溶けていく。そして体が凍える前に、アパートにようやく着いた。

「ここ。二階なの。」

滑らないようにね、と言いながら珠子は鉄製の階段を甲高い靴音を立て上がっていく。健はアパートの全貌を目に焼き付けるように見上げていた。

「どうぞー。」

珠子はうさぎのぬいぐるみのキーホルダーがついた鍵で、玄関の錠を落とし健を招き入れた。

「お邪魔します。」

靴箱の上にはカレンダーや置き時計が置かれ、機能性を重視しているようだった。

銀色の小さなトレイに鍵を放って、珠子は脱いだコートをハンガーに掛ける。健にも量産された同じ形のハンガーを手渡すと、玄関横にある扉を開けた。どうやら洗面所兼、脱衣所。奥に浴室が続いているようだった。

互いに手洗いとうがいを済ませ、洋間だという居間に向かう。

「こたつの電源入れといて。私、お湯を沸かすから。」

「了解ー。」

健はチェック柄のこたつ布団をめくりつつ、電源を探る。

「あ、換気していい?空気濁ってる気がする。」

言いながら、珠子はさっさとベランダに続く窓サッシを開けた。確かに感じていた生温い空気が、冷気に相殺される。

「角部屋じゃないから、案外空気は温かいんだよね。」

湯沸かしポットに水を入れ、コンセントに差しスイッチを入れる。程なくしてお湯が沸く音が鈍く響き、白い湯気が口から湧き上がってきた。

「健、ほうじ茶のティーパックでいい?それしかないけど。」

「うん。ありがとう。」

湯のみと、他になかったのだろうマグカップに注いだほうじ茶を持って、珠子は台所から帰ってきた。

「ほい。」

マグカップの方を差し出されて、健は甘んじて受け取ってついでに窓サッシを閉めた。換気はもう充分だろう。

「はー…、温かいにゃー。」

こたつに潜り込み、珠子は至福とばかりに呟く。

「たまちゃんが猫になっちゃった。」

はは、と笑いながらお茶を啜る。何だか、ずっと前から一緒に暮らしていたような錯覚に陥りそうだった。それほどまでに彼女の城は居心地が良く、快適だった。

「そっちが畳の部屋?」

健は視線を動かして、ふすまを見る。

「そうだよー。見ても良いよー。」

すでに溶けるようにこたつに伏せながら、珠子は間延びした声で答えた。ありがとう、と告げて健は立ち上がり、ふすまをすらりと引いた。

「…。」

そこにあったのは大小のキャンバスの作品や、おびただしい量のスケッチブック。絵の具や筆、バケツなどが乱雑に段ボールの上に置かれていた。

「後でちゃんと片付けるからね、ちょっと待ってね。」

「たまちゃん、しっかり芸大生やってんだね。」

「何よう。信じてなかったの?」

珠子が唇を尖らせる。

「たくさん学んでるんだなと思っただけだよ。」

健の言葉に、珠子はふっふっふと自慢げに笑った。

「そうだろ、そうだろ。真面目なんだよ、珠子さんは。」「ちょっとだらしないところも、好印象だと思う。」

そういう健の視線の先には部屋に張ったロープに干された、珠子の下着があった。

「あ、えっちー。」

「って言うわりには、隠そうとしないんだね。」

笑いながら健の方が彼女に配慮して、ふすまを閉めた。

「こたつが気持ちよくてねえ…。」

猫ならごろごろと喉を鳴らしてそうな声色だった。

「女捨ててるぞ、たまちゃんよ。」

「日本人男性は感受性が豊かすぎるんだよ。身のない布切れにどんな夢を抱いてるんだか。」

色気もへったくれもなかった。

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