第11話

「デッサンが一番気が楽だけど、最近は絵の具を積極的に使うようにしてるの。苦手を克服したいから。」

「そうなんだ、偉いね。」

うんうん、と頷きながら、健は心からの尊敬を彼女に集める。豊かな語彙がないため、どうにも安っぽい感想になってしまうが珠子はそれでも嬉しそうにはにかんでくれた。

「たまちゃんって呼び方、とても可愛いね。」

コーヒーを一口飲みながら、珠子の呼び名を反芻する。

「猫みたいでしょ。」

「僕もたまちゃんって呼んでいい?」

健のお願いに、珠子は目をぱちぱちと瞬かせて頷いてくれた。

「おにいさんの名前も教えてよね。」

「名乗ってなかったっけ。宮野健といいます。」

「健ね。オッケー。」

珠子は親指をぐっと立てて、気安く健の名前を呼び捨てにする。それでも嫌な感じがしないのは、珠子の柔和な雰囲気のおかげだろう。

健はよく覚えていないが、母親に名前を呼ばれたらこんな気持ちになるのだろうかと思った。

「あ、ごめん。友だちからだ。」

テーブルの片隅に置いていた珠子のスマートホンが、ポコンと鳴った。健に断りを入れ、珠子は今時の若者らしく手早く画面をタップする。

「たーまちゃん。」

画面の文字に目を通す珠子の名前を呼んでみた。

「んー?」

「たまちゃんの目、見せてくんない?」

「…見たって、つまんないでしょ。こんな目。」

ちら、と健を見る珠子の横目が涙の膜に覆われて光る。

「そんなことないよ。綺麗だなあって思ったんだ。嫌なら断って。」

「物好きだなあ。」

スマートホンの画面をテーブルに伏せて、珠子は健に向き合うように姿勢を正した。

「ん。」

見やすいように、些か瞼の皮膚を見開いて珠子は健と目を合わせた。珠子の瞳は色素が薄く、光彩は緑色を帯びてまるでひまわりが咲くようだった。

「…食べたら甘そうだね。」

思わず口を吐いた健の本音を、冗句と勘違いした珠子が笑う。

「やだ。カニバリズムが趣味?」

「そうだよ。」

珠子の瞳に映る自分の顔は真剣味を帯びて、真顔だった。だが、その表情があえて珠子には、冗談のように思えたらしい。

「私、食べられちゃう?」

クスクスと笑う優しげな目色の珠子から、健はふいと目線を反らした。

「機会があればね。」

「どんな機会なんだか。…あ、そろそろ時間だね。個展の看板下げてくる。」

時計に目を留めた珠子が椅子から立ち上がり、パーテーションの向こう側。会場に向かった。コツコツと階段を下る靴音が小さく響いていった。

健も残っていたコーヒーを飲み干して、コートを羽織る。そして戻ってきた珠子と連れ立って、個展会場を兼用した喫茶店を後にした。

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