第10話

「ただね…、スマートホンを持っていないんだよねえ。」

「え!なんで!?不便じゃない?」

「身軽になりたくてね。」

健の答えに、珠子は勝手に訳ありだと察したようだった。

「えー。えー、じゃあどうしよう。もう、おにいさん拉致しちゃおうかな?」

「それは望むところだな。」

珠子は困ったように、両頬を手のひらで包んだ。

「僕を拾ってくれない?」

ダメ押しに健は神を拝むように、手を合わせて懇願してみせる。

「…いいの?」

「うん。」

「じゃあ、今日の個展が終わる時間まで待っていてくれる?」

「ずっと待つよ。」

「やった!!」

珠子は小さくガッツポーズをすると、在廊している間の待期席に健を案内してくれた。個展が行われている部屋をパーテーションで区切っただけど簡単な空間だったけれど、彼女の気配が感じられるだけで随分と居心地が良く感じられた。


客入りのない時間を利用して、健と珠子は自分たちのことをひそひそと声を潜めるようにして教えあった。

珠子は、色彩感覚に異常を持っていた。寒色と暖色が入れ替わって珠子の目には映るという。

「絵描きさんの色覚異常って大変じゃない?」

「芸術家っぽいね、なんてごまかされたりするよ。時々、何も知らない人に狙いすぎじゃないかって言われるぐらい。」

笑って今までの体験談を話す珠子だが、それでも自らの色覚異常を初めて知ったとき絶望したらしい。


『見えてる色に、異常がありますね。』

小学生高学年の時に彼女が描く絵の色味を不審に思った親によって受診させられた病院で、医師によって告げられた。それは相当の衝撃を以て、珠子を貫いた。

当時から絵描きになりたいと夢見ていた珠子は震えながら、自分の左手の親指の爪を噛んで気分を落ち着かせようと試みる。爪先がギザギザになるまで噛み切って、更に血が滲んだ。今、見ている血液も他の人には違う色に見えているらしい。


自分の目は、おかしい。他人が見ているものと違う色を目に映している。

私に絵描きは向いていない。


まだ若い、というよりは幼い珠子は一度、夢を挫折しかけた。絵を描くことがめっきり減った珠子に、希望を持たせてくれたのは祖母だった。

「たまちゃんの描く絵、好きだけどなあ。」

「…変な色でしょ。」

「そうかい?綺麗な色味だと思うよ。」

そう言って、祖母は珠子が描いた夕焼けだという絵を手に取った。

「たまちゃんが描くこの絵の色は、夕焼けだろ。火星の夕焼けの色だ。」

その絵は正常な色彩感覚を持つ人から見れば、青い色をしていた。

「え?」

「地球と違い、火星で夕焼けはこの色なんだ。たまちゃんの絵は、ばあちゃんに宇宙旅行をプレゼントしてくれたんだよ。」

「…。」

「絵をお描きよ、たまちゃん。ばあちゃんをいろんなところにつれていってちょうだいよ。」

にこにこと微笑む祖母の笑顔が忘れられない。自分の絵の強みを知った気がした。そして彼女は再び、絵描きを志すようになったのだ。

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