第9話
会話から、珠子は芸術大学に通っていることが判明した。
大学という単語に、健は懐かしく目を細める。
「おにいさんは、社会人かな?雰囲気が落ち着いているし。」
「落ち着いているかどうかはわからんけども、当たり。社会不適合者の社会人です。」
健の自虐に、珠子はころころと笑う。
「そうなんだ。頑張ってるんだね。」
「どうだろう。現に明日はもう会社に行く気が無いし。」
視線を横に流し、未練の無い会社に思いを馳せた。迷惑をかけるだろうな、と申し訳なく感じた。
「ふーん。」
視線を戻すと、すぐそばに珠子が立っていた。そしてそっとくすぐるように、健の耳に触れる。
「!」
健はその緩い刺激に身をすくめるが、珠子はごく真面目な顔をしていた。
耳の淵を撫で、指の腹で形を確かめるようになぞり、耳朶を柔らかく揉む。
そしてゆっくりとした口調で呟いた。
「綺麗ね。」
「…え…、」
珠子は、綺麗、と言葉を幾度も繰り返した。
最後に耳を温めるように両手で包んで、珠子は健を解放した。
「ホットコーヒー、準備ができていますよ。」
店主がテイクアウトのコーヒーが入った紙袋を手に、階段を上ってきた。健が注文した品だ。
「!」
健は店主の気配に振り返る。珠子はタイミングの良さに苦笑した。
「ありがとう。」
店主からコーヒーの入った紙袋を受け取る。健はこれでお終いかと残念に思った。もう少し、珠子と話していたかった。
「んー、」
珠子は口元に手を添えて、何かを考えているように健をまじまじと見つめた。その視線に気が付いて、健が首を傾げると珠子は、うん、と頷いたようだった。
そして千切った紙切れに何かを書き込むと、ぐいと健に押しつけるように手に握らせた。
「?」
健が何事かと不思議に思いながら、その折り畳まれた紙片を開くとそこにはスマートホンに入っている連絡アプリのアドレスが書かれていた。顔を上げると、珠子は朗らかに笑いながらその紙面を指で突いた。
「これ、私の連絡先。よかったら、繋がりたいな。」
珠子はゆっくりと一音ずつ言葉を紡ぐ。
「何故?」
自らの考えたことが漏れていたのだろうか。そんなにわかりやすい表情をしていただろうかと、健は恥ずかしくなる。
「絵のモデルになってほしい。」
取り急ぎ疑問の種を取り除くために、珠子は言葉を紡ぐ。
「人物を描いたことがないんだけど、おにいさんなら描ける気がするんだ。だめ?」
健は珠子を見る。どうかな、と珠子は健の様子を伺っていた。言葉の意味を咀嚼して、少なからず健は動揺する。
「…珍しい人だね。僕なんて凡人に興味を抱くだなんて。」
発した声は恐らく震えていただろう。声が喉から離れていく際に、鼓動のように脈打っていたから。
健の声を聞いて、珠子は目を輝かせた。そして大きく何度も頷いた。健の手を取って、その小さな手のひらで握手をする。
「おにいさんがいい。お願い!」
まるで子どものような無邪気さに、ふは、と健は堪えきれずに笑ってしまう。そのまま、くくくと鳩が鳴くように笑っていると、珠子は己の行為に気が付いて照れたように健の手を離した。
「ご、ごめんなさい…。」
珠子は頬を人差し指で掻く。
「いいよ。」
健が小さく頷く。え、と珠子は、彼を改めて見た。
「僕を描いてくれるんだろ?」
その返事に珠子は今までで一番の、ひまわりのような笑顔を見せてくれるのだった。
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