第8話
ひらりひらりと舞うように雪が注がれ束の間、目に滲んだ。思わず瞼を閉じると、眼球の温かさにじわっと雪は溶けて体内に浸みていった。そっと瞼を持ち上げると、淵から溢れた水が伝って落ちる。まるで涙のようだと思う。手の甲で目元を拭って、再び歩き出した。
灰色をした空の色が墨絵のような景色で、それを眺めつつ電車とバスを乗り継いで、バス停に降り立つ。そこは、一樹と最後に行った廃村のある県だった。とくにどこに行きたいとか希望がなかったので、思い付いたところに足を向けてみた。
健は住宅街でひっそりと経営されている喫茶店の前を通ろうとして、テイクアウトが出来るコーヒーを買おうと思い立った。
扉を押して開けば、カラコロと涼しげな音を立てベルが鳴る。健の来店に気が付いた店主にコーヒーを注文して、観葉植物の影に立った。どうやって時間を潰そうかと考えて、出入り口の隣に続く階段が目にとまった。小さな看板が立っている。
『桜井珠子 絵画展』
どうやら喫茶店の二階はギャラリーになっているようだった。健は僅かな興味が引かれて、木の階段を踏みしめた。コツ、コツと階段の床を靴が弾く。カフェから漂ってくるコーヒーの香りが空調の流れに乗って上昇して、健の背中を押した。
暖かい空気と柔らかな光に満ちた空間が現れて、あの不思議な作品たちが世界を彩っていた。
九夏に咲く、と言う題名の作品はひまわりを描いているはずなのに、その花びらは青色だった。写実的で生き生きとしていて、空は赤く、色彩がまるで逆。それはこの作品だけにとどまれず、全ての作品の色が変わっていた。よほどの変人、もしくは芸術家肌なのかもしれない。
この人、生きづらいだろうなあと勝手に思いを馳せて、健は切なくなる。手を伸ばして、触れてはいけない芸術作品に触れるように空気を撫でた。
とん、と肩を叩かれて、健は驚いて振り返った。人の気配に全く気付かなかった。
ベリーショートの金に近い髪色が目に眩しく、健康的な褐色肌が似合う女性が立っていた。背が高く、人並みの身長を持つ健に対峙するように立っている。人懐っこそうな笑顔を浮かべていて、敵意がないことがわかった。
「この個展、どう。楽しんでる?」
鈴のような声がまだ少女のようで、見た目とのアンバランスさを以て魅力的に思えた。
女性はこの絵画展の開催主の桜井珠子と名乗った。客として現れた健の様子が気になって声をかけてきたらしい。
「気に入った絵はあった?」
「たまたま立ち寄ったんだけど、楽しんでるよ。このひまわり、綺麗だね。」
「ありがとう。私もこの絵は気に入ってる。」
にっと自慢げに笑うその表情にはあどけなさが残っていた。
「どの作品も色彩が不思議だと感じたよ。」
健が正直な感想を漏らすと、色彩という単語に珠子は困ったように眉を下げて微笑む。…地雷を踏んでしまっただろうか。
「妙に懐かしいと思う。」
でも、と健が言葉を紡ぐと、珠子は嬉しそうだった。笑顔にも様々な種類があることを知るような、そんな表情の豊かさを珠子は持っていた。
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