第5話 わが家へようこそ
日和さんの腕を引いたお陰か、彼女が転ぶことはなかった。
服の上からでも分かる細さを感じてしまう。
名残惜しさなど残さないように、すぐに手を離した。
「ご、ごめん。段差があるのを言い忘れてたから……」
こんなことで怒るような人ではないとは思うが、嫌な思いをさせたらと考えてしまう。触れられたことへの嫌悪、転びそうになったことへの嫌悪。
彼女の表情を窺う。
日和さんは驚きで目を見開いていた。
普段は柔和な笑みを浮かべている彼女がそういう顔をするのが意外だった。
そして、普段よりも二割増しくらいに温かい目を向けられた。
「……ありがとうございます。反射神経が良いんですね、羨ましいです」
「いや、こっちが事前に言わなかったのが悪いから……」
反射神経ではなくて、とっさに気づいたからだとは言わなかった。
ここは日和さんにとってはアウェーで初めて来る空間。
必然的に彼女は気を遣ってしまうはずだ。
それなのに、こっちが気を遣ったと大っぴらに言うのは気が引けた。
廊下を通り、誰もいないリビングへと日和さんを案内する。
出来うる限り綺麗にした自宅。
そもそも父さんが真面目だから家の中は散らかっていないけど、どこを触っても埃がつかないように隅々まで掃除した。
果たして、そんなお部屋に対する日和さんの反応は。
「生活感感じないですね。ホテルの一室みたいです」
「……それって褒めてる?」
慄かれて引かれてるとかだったらショックだ。
「褒めてますよ。私のお母さんは帰って来るのが遅かったりするせいで、だらしないところもあったりするので……」
安心した俺と対照的に、呆れたような顔を見せる日和さん。
「あっ、どうぞ。こっちのソファに座ってもらって……春子さんは何か特別帰るのが遅くなる仕事なの?」
立ち話も何なので、話を続けながら日和さんを座らせる。
家にある唯一のテレビの前には、蒸発した母親が置いて行ったソファがある。
「駅前にある学習塾で塾講師をやってます」
「塾講師か。それなら帰るのも遅くなるよな。生活リズムは大丈夫?」
「……性格リズムですか? 私の母は夜型だと公言してるので、大丈夫だと思いますけど」
「違う違う。春子さんじゃなくて雲原さんの話」
俺がそう言うと日和さんは目を丸くしていた。
少し前も驚いた表情を見せていたが、今回はその比では無かった。
「……普通、この話の流れで私のことだとは思わないですよ」
「そうかも……。けど、同居人と生活リズムがズレていると大変じゃない? たまに父さんが残業して、とんでもない時間に帰って来るけど、嫌だなって思っちゃうよ」
思うだけで、表に出したりは決してしないけど。
まあ、同じ片親しかいない者同士だし、言ってもいいだろう。
「ご心配ありがとうございます。大丈夫です」
そう言った日和さんの顔が作り物めいて見えた。
そもそも普段から見せる笑顔も作り物っぽいのかもしれないが。俺に見せる表情って、クラスの女子に見せるものとは絶対的に違うと思うし。
同じ一人親だからって苦労話ばっかりしてもしょうがないし、俺が日和さんの家庭事情に首を突っ込む資格はない。話題を移そう。
「雲原さんはコーヒー、紅茶、緑茶のどれがいい?」
「選択肢が多いですね。どれにしましょうかね……オススメとかってあります?」
選択肢が多いのは念のためだった。
自分が適当に選んで出したものが、彼女の口に合わなかったらと考えてしまったからだ。それに好きなものがあるのなら、それを飲んでもらうのが一番いいし。
「安物だけどコーヒーメーカーがあるから、コーヒーがオススメかな?」
「それでお願いします……鳥羽家のお二人はコーヒーがお好きなんですか?」
「俺はあんまりだけど、父さんは好きで飲んでるよ」
フィルターをセットし、粉を入れて抽出を始める。
コーヒーの良い匂いがする。毎朝嗅ぎ慣れた匂いだが、淹れたては香りが違う。
器に入ったコーヒーを盆に載せて運び、日和さんの前へと置いた。
何年も埃を被っていたコーヒカップだったが、こうやって見ると風情を感じる。
「あれ……鳥羽さんはお茶ですか?」
「……まあ、やっぱりコーヒーって苦いと思うし」
他人に言うのは恥ずかしいと思いつつもそう答えた。
そんな俺の表情を見たのか、日和さんはニヤリと口角を上げた。
「……コーヒー以外にも苦いものは嫌いなんですか? ピーマンとか」
「言われてみればそうかも……」
口ではそう言ったが別にそんなことは無かった。
ただ単に我が家に置いてあるコーヒーが苦手なだけだ。俺が飲むときは必ずミルクと砂糖を入れるし、日和さんのもそうしようと思っていた。
だけど、一瞬ニヤっと笑われたからか、ちょっとからかいたい欲求が頭を出し始めていた。まあ、お互い様ということで。
「因みに私は苦い物も好きです。カカオ成分高めのチョコとか」
日和さんが勉強している机の上に、お供として置いてありそうだなと思った。何かつまむものは欲しくなるけど、罪悪感なく食べられるアイテムだよな~と共感。
「じゃあ、ミルクと砂糖はいらない?」
「はい。大丈夫です」
日和さんが口へとコーヒーを運ぶ。
その直後、彼女の楽しそうだった笑みが崩れ、くしゃくしゃな顔を見せる。そして恨めしそうに僕のことを見つめた。
「どう? やっぱり、ミルクと砂糖入れる?」
「…………入れてください」
ミルクと砂糖を入れたコーヒーは純黒から色を変えるのだった。
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