第35話コラム 言葉の力:伝える・傷つける・与える

 普段何気なく私たちが使っている言葉。言葉には色んな役割がある。自分の思いを伝える手段として・大事な情報を伝える手段として・自分の感情を相手に伝える手段としてなどがある。この中でも自分が相手に自分の思っていることを伝えるというのは重要な手段のひとつだといえるかもしれない。

 

 ここに言葉というものがどのような力を持つのか・相手に生きる希望や夢や勇気を与える道具として、あるいは反対に相手の心情を傷つけ、生きる価値や存在する価値を否定し、人を殺すための凶器にもなるんだといういい実例がある。これは2013年11月の私のブログに書いてあったことをそのままコピーしたものである



1984年2月17日。この日は私の12回目の誕生日だった。ただ、私はこのときの誕生日は今まで迎えた誕生日の中で一番最悪な誕生日だったと今でも思う。私の通っていた小学校では、誕生日を迎えたクラスメイトに、バースデーカードを書いて、贈る事になっていた。これは児童の自主制作という形をとっていたので、先生は中身はまったく感知しないので、児童の相手に対して思っていることが、ストレートに書かれていることが多かったのであるが、私が受け取ったバースデーカードには、私の好きな鉄道のイラストを書いてくれた児童や、このとき私はすでに山口に引越しするということを伝えてあったので、

「山口に行ってもがんばれよ」

とか、

「また大阪に帰ってこいよ」

とか、

「今度山口に遊びに行くからな」

とか、励ましのメッセージを書いてくれている児童もいた。しかし3分の1ほどは、どんな言葉が書かれていたかというと

「お前なんか死ね」

「山口にいったら二度と大阪に来るな」

「お前その顔やめますか?それとも人間やめますか?」

「殺してやる」

「さっさと死ね」

そう言った言葉が書き綴られていた。この死ねって言う言葉。相手の存在の一切を認めない。生きている価値を認めない。究極的には生存権を認めない。そういう意味で使われる言葉だと思う。それを言葉だけじゃなく、形として残るものにまで書いてよこすというのは、当時の私に大きな精神的なダメージをもたらした。

「俺ってやっぱり生きている価値なんかないのかな」

そう自分で自分を追いつめていた。それでも何とか乗りきれたのは、あと一ヵ月後に卒業を控えていて、卒業すればもうこいつらと顔を合わすこともなくなる。それだけが、壊れそうな私の精神的な支えだった。

 死ねって言われて、嬉しい気分になる人はいないと思う。何故自分がそんなことを言われなくてはならないのか?言った本人からすれば、相手が深く傷ついていることなど考えたこともないんだろうけど、本当に言葉って言うのは気をつけて使わないと、相手を死に追いやることもあるということを身をもって経験した。



 一方で、賢が小学校を卒業するときにもらった卒業文集の寄せ書きには、賢のことを大切に思ってくれた、クラスメイトからの温かい言葉がたくさんかかれていた。

「同じクラスになってくれてありがとう」

「中学校に行ってもがんばれよ」

「今までたくさんの思い出をありがとう」

「これからも頑張って」

などなど。この言葉から賢はクラスのみんなに愛されていたんだなということがうかがい知れる。賢の作文は、クラスメイトのみんなが代筆で書いてくれたものなのだが、それには

「僕は☆☆小学校が大好きです。4年からずっと学校を休んでいません。そのくらい好きです。3年からは登校班で歩いてきています。○○さんたちが優しく連れて来てくれました。お父さん・お母さんもよく一緒に歩いてくれました。5年からは弟も一緒です。6年では班長旗をもってみんなの先頭を歩きました。

 5年では宿泊学習に行ったことが大切な思い出です。バイキングで山盛りいっぱい食べたり、広いお風呂でぷかぷか泳いだりしました。

 6年では修学旅行に行きました。宮島でお土産を買っているとよその学校に転校した△△君にあってびっくりしました。あげもみじや錦帯橋のソフトクリームがおいしかったです。教頭先生・担任の先生、またいっしょに修学旅行に行きましょう。本当に楽しかったです。

 また、□□先生と大好きな給食委員会をしました。○年○組さんどうぞという案内の仕事をしました。全校の牛乳箱の整理も得意です。たくさんの先生にほめてもらいました。

 校長室にもよく遊びにいきました。ふわふわのソファーと、校長先生が大好きです。

 6年間いろいろな先生にお世話になりました。思い出いっぱいです。最後にお父さん・お母さん・弟の悠君ありがとう。小学校の友達大好きです。いつまでも忘れないよ」(一部抜粋)と書いてある。私がつらい思いや苦しい思いをしたぶん、賢や悠には幸せな小学校生活を送ってほしい。そう願っていたのであるが、賢には、小学校でも、今通っている支援学校でも、友達や先生に恵まれて、楽しく通えている。賢の卒業文集からはクラスメイトのみんなの優しさが伝わってくる様な気がする。

 悠も自分の好きなサッカーを通して、大切な友達やチームメイトと仲良くやっているようで、二人とも楽しい学校生活を送っているので、親である私としては、私が苦労したぶん、本当に大切にみんなからしてもらって嬉しい限りである。

 


 本当に人間が発する言葉には、いろいろな力があると思う。でも同じ力を与えるならば、人を傷つけ精神的に追いつめて死に追いやる力を与えるんじゃなくて、相手に生きる希望・夢・勇気を与えるような力を与えたい。この対照的な私のもらったバースデーカードと賢の卒業文集を見てそう思った私である。

 ※私がもらったバースデーカードはあまりにも残酷なことが書かれてあったので、見るのもつらいので、引越しのときに焼却処分し他ので、今は手元には残っていない。また、この当時は実の母親であるさと子からは、執拗な身体的・精神的な虐待を受けていて、必死に母親からの愛情を求めていたこともうかがえる内容となっている。

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