足音

【本文】

 細部こそが全てだと、樫野篤郎は最近信じるようになった。


 隣に座った若い女のこゆびがない。左手のこゆびが付け根からない。最初は指を深く曲げているのかと思ったが、スマホでメールを打っているのだろう、文面に思案する左手の掌が見えたとき、おやと思った。

あまりじっと見ているのもはばかられるとは思いながら、ついちらちらと見てしまった。

 きっとこゆびは美しい。最も親しいこの女の薬指と等しく。白くて美しい手をしているのだ。肌理が細やかで艶めいている。身体は一部で全部を表してしまう。その女の無いこゆびの付け根にそのことを強く感じて、胸のうちが強く騒めいた。

 やがて最寄り駅に着いてしまった。もっと特別なこゆびの付け根を見ていたかったが、仕方なく電車を降りた。それから階段を降りて改札を出た。つまり地上へは階段を昇らなれけばならない。少し、今日の仕事のことを考えた。ミスがあったかも知れない。いや、大丈夫だ。そうだ。

 非常に浅い段差の階段を登っていると、何かがすぐそばを通り過ぎて行ったようだった。恐ろしく速く駆け上がっていった。階段の出口へ顔を上げても誰もいなかった。姿は見えず足音だけが遠ざかっていった。

夜空は曇っていた。月には暈がかかっていて、まるで子どものころに読んだ妖怪の本に出てきた、大きな片目の何かが、空から覗いているようだった。

 駅からの帰り道は起伏が激しい。ほとんどが登りだが、途中の墓地の辺りだけが窪地になっている。しばしばその一帯にだけ靄がかかる。この道の墓地の傍を通るあたりが夏でもひんやりとしているのは、窪地の最も低いところに、倒れ込みそうな竹藪の竹に覆われた暗い池があるからだった。道を挟んだ墓地の反対側は、竹藪になっていて、その中にはなぜか捨てられた墓石が名も削られずそのままに転がっている。

 この道と交差して、墓地に沿い細い道が続いていて、少し広くなったあたりにゴミが不法投棄されているところがある。数年前、そこで若い女の首吊りがあった。昨日、あれを拾ったところだ。

 わたしは夜道を足元だけ見て歩いた。街灯の明かりだけが照らしている。近ごろは上手く行かないことばかりだ。得るために失ったはずなのに。しかし、帰れば今日は、昨日のあれが待っているのだ。

 後から誰かの足音が続いていた。コツコツとヒールの音だろうか。革靴かもしれない。しかし足音はわたしのそれよりもテンポが速い。歩幅が小さいのか。女だろう。

 わたしは歩くのが遅くはない。都会へ通勤するうちに、どんどんと歩く速度がはやくなっていった。いつの間にか帰り道の坂道すらほとんど気にならない程に。しかし少し足を速めても足音はしっかりと着いてくる。なんだか鬱陶しくなってもっと速く歩いてもまだ変わらずついてくる。それならと足取りを緩めたが、何故か後ろの誰かもそれに合わせて遅くなり、追いついてこない。

 暗い夜道を登りきったところに、大きな犬を3匹飼っている建築会社がある。その敷地にある公衆電話の灯りが見えてきた。ここを過ぎると墓地への下りになる。

 そろそろ後ろの誰かが気になって仕方がなくなってきた。公衆電話の辺りで後ろを見てやることにする。何気なさを装って後ろを振り向こうとすると、わたしに向かって犬たちが吠えた。不意に激しく吠えたので、驚いて足早に立ち去った後、振り向くと誰もいなかった。ついさっきの曲がり角で曲がったのだろうか。道は下りになった。そのまま墓地の傍を通り、少し大きな通りを渡って、帰宅した。

 明日は休みである。明かりを点けておいた玄関前に立ち、鍵穴へ鍵を差し込み回す。あたりはもう寝静まっているのか、まったく静かである。引き戸を開けて、冷え切った玄関に入り、後ろ手で戸を閉めた。鍵を落とし、黒い革靴を脱ごうとしたとき、コツンと後ろで戸に何か当たったような音がした。振り向いたが、玄関の磨りガラスの格子戸には、何の影もない。風で何か当たったのだろうと思い、赤いパンプスの横に揃えて靴を脱いだ。このパンプスである。まったく新しくて、今は中身を取り出しているが、昨日は入っていた。

 昨夜の帰りは遅かった。どうしてだか気になって、墓地に沿った道のゴミ投棄場のようなところに立ち寄ったのだった。そこに、あった。奥の方、影になっていて人目に付きにくいところ、しかし、よくみると見える暗いところに丁度太い枝が手を伸ばすより少し上に差し掛かっている。その真下に、赤いパンプスが揃ってこちらを向いてあった。わたしが近寄ると、そのパンプスの中には何かがあるようだった。そこには夜目にも白い肌理の細かな、あしさきのデコルテというような甲と、そのまま続く丸い足首の関節の付け根が、艶やかに剝き出しになっていた。わたしは思いがけない光景にはっとして、ふらふらと近づいた。赤いパンプスはまったく新しく、スウェードのように艶消しであって、高くなく低くないヒールが一層足首だけのその姿を美しく見せていた。

 少し離れた水銀灯の光が、かろうじて届いているあたりに、その赤い足首があった。影にならないようにしゃがみ、そっと触れた。肌はひんやりとしていた。おもわず両手にそれぞれを掴んだ。それからは無我夢中で走って帰宅したのだった。


 沸かしておいた風呂に、両あしさきと一緒に入った。綺麗に洗ってやった。匂いは無臭であったが、くすぐったそうに、美しく細い指先を動かしたのが、震えるほどに嬉しかった。土踏まずは健康的にアーチを描いていて、アキレスから踵へかけてのカーブはまったく優美である。爪は薄ピンクで半月も心地好い幅である。なにより、肌の艶が湯を弾き、その若さを誇っていた。このあしさきが誰のものであるかはどうでもよかった。部分は完全に全体から独立していてこそ、最も美しいのだ。

 骨があるので、意外に持ち重みがある。華奢ではあるけれど、しっかりとした姿に、芯の強さを感じて喜ばしい。このまったくの美しさの塊が左右均等に揃っていることの奇跡を、どれほど眺めても溜息は尽きない。

 そして、もう我慢できず舐めた。左の親指から小指の指の股、右も同じく。それから足裏から踵、踝の内側からアキレスを通って外側へ。デコルテのような甲を一とおり舐めて、もっとも興味深い丸みへと。そこはまるで始めからそうであったように、自然に丸みを帯びていて、美しい女のマネキンから新しく取り外した足首のように、清潔感と機能美を感じさせた。

 わたしが舐めまわしている間、あしさきは満足するほどの官能の姿を見せた。うねりくねり、あしゆびを強張らせ、やがて弛緩した。

 満足したわたしは、もういちど両のあしさきを綺麗に洗い、やわらかなまっ白なタオルで拭いてやった。そうして、洗いたての同じく白いバスタオルを四つに畳み、その上へ両のあしさきを寛がせて置いた。

 それから、冷蔵庫で寝かしておいたローストビーフを取り出して、食べる。グレービーソースにはたっぷりと赤ワインを入れた。甘めにしあげたのが、周りだけに焼き色があり、中は真っ赤な肉にとてもよく合った。フルボディの赤を呑みながら、艶やかに白いあしさきたちと共にする食事はとても満足であったが、やがてあしさきたちが寒そうに指を縮めたので、タオルでくるんでやった。そして、後片付けは置いて、寝室へ運んでやった。今夜も敷いておいた布団で同衾するのだ。今夜はどんな夢をみるだろうか。昨夜は興奮してあまり眠れなかった。


 翌日、目が覚めると足もとに違和感があった。布団の中で両足の先がやけに軽い。布団を捲って確かめると、足首から先がなかった。一瞬、何が起こったのか分からずに、剝き出しの丸い足首を見つめた。触ってみると、すべすべしており、まるであのあしさきを喪った女のように、足首の付け根から自然に外れてしまったかのようであった。

 突然、恐怖が襲ってきて、胡坐の左の足先を両手で握ったまま、がたがたと狼狽えた。右足の先がしようもなくばたばたと暴れた。痛くもかゆくもないことが、一層に訳が分からなかった。寝ている間に誰かがこの部屋へ侵入して、わたしの両足首から先を切断し、どのようにしてか不明だが綺麗に処理してしまったのだろうか。それならば、わたしの足はどこへいったのか。

 立ち上がろうとして、上手くいかなかった。バランスが取れない。力がどうにも上手く入らない。仕方がないので四つん這いになり、兎に角部屋を見渡した。正座も上手く出来なかった。

 家中どれほど探しても、わたしの足首の先はなかった。そして、あのあしさきたちがいなかった。どこにもいなかった。どこにも、一つもいなかったが、玄関にあったはずの赤いパンプスだけが、食卓の上にすこし足を開くようにあった。まるで、そこに見えない女が立って見下ろしているようであった。


【後書き】

思わず理性の離れてしまうときがある。魔が差すとき、何かが傍にいる。

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