血を吸う部屋

【本文】

 寒く冷え冷えとした乾ききったこの路地裏を、禿頭のがっしりとした中年の小男が背中を丸めて、何かを探すようにゆっくり歩いている。この男はある噂を聞きつけて、この暗い路地裏へやってきたのだった。芝野弘治というこの男は、結局は傲慢であるのだが、いつもその言動で人を裏切り続けていることに気付いてさえいないのだった。人の好意というチャンスを踏み倒して生きているような、またそのことにある種のカタルシスさえ感じてしまうというようなこの男は、あの黒い扉を探しているのだった。何処で聞いたのか、その扉の先に特別な何かがあって、人生がすっかりと変わるのだというのだった。確かに彼は失敗続きであったし、追いつめられつつあったのだが、しかしまともな人間ならば心を入れ替える機会として、昼日中の仕事を頑張ろうと考えたであろうに、この男はそうでなかった。まるで己頼みであるような強気な眼付と足取りで、今度もこの危機を乗り切って、あらゆる債務を後伸ばしにやりすごしてやろうと考えていた。そして、いつものようにまた誰かを踏みつけにしてやろう、そのためには多少の怪異など恐ろしくもないと、嘯いていたのであった。

 彼が、路地裏の奥にある細い道を見つけ、その奥で扉を見つけたのは、やはり偶然ではなかったのだろう。まるでさりげなく黒い扉はあったが、その扉の前に立ったとき、遠く聞こえていた大通りの喧噪や、風の吹き抜ける音さえも、ぴたりと止んだ。まるで、決定的なシーンであるように、芝野の前にその扉は迫った。彼はコートのポケットから両手を出して、まるで墨を黒々と塗りつけたかのような、あるいは焼け焦げて芯まで炭になってしまったような、やわらかく艶めく黒い扉を押した。扉は静かに開いた。初見で、その部屋の中は深紅のカーテンと、絨毯に彩られた豪華な内装であるように感じられた。噂の通りであると彼はほくそ笑んで、赤い部屋へ足を踏み入れた。

 ちょうど彼の腕の長さほどの一片を持つ、黒い四角いテーブルがひとつだけ、部屋の中央にはあった。馬鹿に艶めいていて、スポットライトが当たっているようであった。中央に水晶の髑髏が輝いている。部屋の中には誰もいないし、他に扉らしきものは見当たらない。但し、壁面の全てに深紅の厚いカーテンが垂れ下がっているので、その奥は分からなかった。扉は勝手に静かに閉まったようであった。

 芝野はおもむろに髑髏に近づいて右手を伸ばした。彼の手の影が黒々と透き通ったの髑髏の上に落ちた。その髑髏のひんやりとした感触を感じたと思った刹那、芝野は何者かの掌が、ぴたりと己の禿頭に置かれたことを感じた。驚きに目を見張り、瞬間的に身構え振り向こうとした。しかし、足が縺れた。まるで足首を縛られてでもいるように、膝から下がいうことを利かない。そしてそのまま後ろを見ようと首を捩じった姿勢で転倒した。その時、黒いテーブルの固い角に剝き出しの後頭部を強く打ち付けた。そして酷く鋭く抉られた。意識を失いつつある芝野の頭に空いた傷口から、鮮血がどくどくと床に広がって流れていく。深紅の絨毯が血を吸い、どす黒く色を変えていく。芝野は消えていく意識の中で、低く含み笑う声を聞いた……

 この男は傲慢に摂り込まれたのだ。やがて彼の死体はすっかりと赤の部屋へと摂り込まれてしまうだろう。爪一つ残さず、まるで始めから誰もそこにはいなかったかのように。


 今日も、酒場の隅で黒い服の男が噂を囁いている。

「……月のない夜に、ある路地裏へ行くと、黒い扉が現れる。その中には赤い部屋があるらしい。そして」

その男の話に、崩れた男と厚化粧の若くない女が暗く目を光らせて、もう喰いついていた……


【後書き】

夜が静かすぎる。何かが居る。

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