その扉

【本文】

 暗い路地裏の匂いが染みついた、その真っ黒な扉に至る道は偶然でなく、最も恨み深い都会の闇を己の二の腕へ突き刺して、その血管へ陶酔させるような、愚か者だけに開かれるのだ。


 神山さやかは、美しいと言われた過去を引き摺り、かろうじて保たれているそのスタイルを誇示するような、胸に尻に張り付く様な服を選んで着ている虚栄の女であったから、その扉へと呼ばれたのだろう。もはや五十路を過ぎたというのにまだ、艶やかであると髪色でも嘘を捨てられない彼女は、いっそ潔くもあるが、このような師走の夕暮れには、見えを張るばかりで疲れ果てた夜の手前では、もはや見る影もなく化粧は浮き、赤く濁るような眼をしばしばとさせて、年齢をどうやっても隠しきれず正直であった。

 その扉を開けたのは、いつもの喫茶店でストロングにシナモンを入れて、ひと時の人生の静寂に潜むように、ゆっくりと珈琲を飲むべくしてであった。しかし、果たして逢魔が時の悪戯か、それとも暗転の境目を越えてしまったか、その扉はすでに馴染みの喫茶店の扉ではなく、かの黒い扉であったのだった。

 静かに、あまりにも静かに滑るように、扉が開いたので、神山さやかはふと手を見た。なぜそのとき己の手を見たのだろうかということは、誰にでも起こり得るミステイクという名の反骨の意思表示であったかも知れない。それでも扉は軽やかに開いたので、やはり彼女は中を見た。初見で、深紅のカーテンと、絨毯に彩られた豪華な内装であるように感じられた。ほど良い広さの部屋が誘うように導いた。ここは何時もの店ではないことはとうに気付きながらも、そこへ足を踏み入れたのはやはり、暗い願望がその時思わずに溢れ出したからなのだろう。

 ちょうど彼女の腕の長さほどの一片を持つ、黒い四角いテーブルがひとつだけ、部屋の中央にはあった。馬鹿に艶めいていて、スポットライトが当たっているようであった。中央に水晶の髑髏が輝いている。部屋の中には誰もいないし、他に扉らしきものは見当たらない。但し、壁面の全てに深紅の厚いカーテンが垂れ下がっているので、その奥は分からなかった。

 彼女は、髑髏を見たとき、その透き通る眼窩の奥に揺らめく怪しげな虹色の炎を見たように思った。

 そこで倒れた。これよりもう、さっきまでの日常へ彼女は戻ることはない。もしかすると、知人にあうこともあるだろうが、もう互いにそれとは分からなくなっている。この魔窟へ足を踏み入れた者は、もはや誰ひとりとして逃れることは出来ないのだ。


 深夜、ある地下鉄のホームの一番後ろの、丁度暗くなっているところあたりに、一人の若く美しい女が佇んでいる。髪は艶やかに長く、俯いていてその顔は見えない。胴は細いのに豊かな胸や、小ぶりの尻のラインを際立たせるような黒い上質の袖なしのワンピースを着ている。その肌があまりに真珠色に輝いていて美しい。だからといって、冬であるのに、そぐわない恰好に、寒くないかなどと声を掛けようものならば、ぞっとするような老婆の咳声(しわぶきごえ)でこういうのだ。「ちょっとおいで。こっちへおいで。もうちょっとこっちへおいで。」そう言って、がっしと思いがけない怪力で腕や上着などを掴まれて、そのままホームの端よりももっと暗いその奥にある、そこには無いはずの下り階段へと為す術も無く、無理やりに引きずり込まれてしまうのだという。その先は誰も知らない。

 このような都市伝説が囁かれ始める。神山さやかは身の内に巣食う虚栄に喰われたのだ。その扉は月のない夜、愚か者の下へ訪れるという。


【後書き】

思い出したことがある。狂気とは夜だけのものでない。

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