黒百合

【前書き】

 逢澤奏(おうさわかなで)は十代の半ばであった。彼女は少女と女の境目という時期を差し引いても、人並み外れて多感であった。所謂、霊感話をよく口にしていて、友人たちとしばしばそのような話で盛り上がった。しかし、友人たちは余りにも具体的な奏の体験談を聞くにつれ、始めは「ほんと」「こわいね」などと嬌声を上げていても、次第に口数が少なくなり、やがて顔色が青ざめて、遂には本質的な恐怖に震えてしまうことがほとんどだった。それでも、かつての奏は華奢な美少女であったし、そのような話が返って本格的で「すごい」として、取り巻きのような友人たちは少なくはなかった。しかし、父親が氏子を務めるある古い神社より、奏が一本の黒百合を持ち帰り、それを一心不乱に憑りつかれたように慈しみ始めたころより、友人たちは彼女から離れていった。その花は、神社の本殿の朽ちかけた柱の根本に生えていた。季節外れにも関わらず、漆黒の六枚の花弁には濡れたような艶があり、筋のある葉は緑が濃かった。その花は、境内の風に揺れて、影で静かに咲いていた。奏は、その花に出合い、その甘い香りを聴いた瞬間、感じたことのない特別な感覚を強く覚えたのだった。


【本文】

「奏。掃除を手伝ってくれないか。」 

その日、父があの神社を掃除するというので、わたしも手伝いに付いていった。わたしの一族の住むこの古い村の奥にあるこの社は、所謂障りの神であるらしい。小さな鳥居の前には小さな鉄の門があって、周り四面を御影石の柵で囲まれている。門を含め、周りにぐるりと注連縄が張られていて、その様子はまるで境内に何かを封じているようだった。

 数年前に亡くなった祖母の話では、この社の前を通る花嫁行列は、花嫁に覆いをして過ぎたらしい。華やかさを隠して、紅白の幕も隠して通ったという。なんでも、この社に祀られている神は、遠い昔に政治上の都合により、間を引き裂かれた妃であったらしい。夫は再婚し、遠い地で政事を為した。聡明であったこの前妃は、慎ましく暮らしてやがて亡くなったが、その墓前には「恨みの黒百合」が咲き乱れたという。やがて、新しい妃が身籠り、喜んだのも束の間、生まれたのは眼鼻口、手足のない、呪われた赤子であったので、帝となった夫は、そのことを前妻の祟りとして恐れ、この地に祀ったという。

 そのような謂れの神社であっても、管理する氏子衆の役として、掃除当番のようなものがある。父はその年、それに当たっていた。この社は、珍しく女人禁制ではなくて、わたしのように嫁ぐ前の身ならば、境内に足を踏み入れることを赦されている。しかし、誰かの妻がこの結界の中へ入ることは赦されない。かつて、そのようなことがあり、その一族に不幸が続いたそうだ。もちろん、妊娠していれば、なおさら境内に足を踏み入れることは在り得ないことであって、村の誰ひとりそのようなことは口にすらしないのだった。

 父が、小さな鉄門の前にある注連縄の結び目を解き、重そうな和錠を外している間、わたしは境内を眺めていた。秋が終わろうとしていて、古い楓の葉がすっかりと紅葉して綺麗だった。薄青ざめた空に、広がる枝葉が静かに黄に朱に陽を透かしていた。黒々と見える枝と錦秋の葉から漏れて、空は一層澄んでいた。

 境内はそう広くはないが、一面に艶やかな黄に黒の斑を散した椚の葉や、柵向こうの花水木の急いだような赤の葉が散り敷いていた。これを綺麗に掃除するのは思いのほか骨が折れるのだと、父は言った。中くらいの熊手を使って、わたしが慣れない手つきで葉をかき集めて、父が使い込まれたオレンジ色の箕(み)でそれを掬い、門から出てすぐの窪地へざあっと捨てる。上手い具合に傾斜になっているので、落ち葉は流れるように落ちていく。何度もそれを繰り返していると、わたしは、ふと甘い香りを聴いた。導かれるように出会ったのは、小さな本殿の後ろ側の朱も剥げて朽ちかけた柱の根本に生えていた、一輪の黒い花だった。全体は木陰になっている境内で、ちょうどそこだけに陽が落ちていた。まるで兆しのような、特別な輝きをとても強く感じた。まるで痺れたように言葉を失っていたわたしに、それは黒百合だと、ここでは季節外れでも咲いているのだと父は言った。それから魂が抜けたようにふらふらと、わたしは黒い花に引き寄せられるように近づいた。止めろと言う父の言葉を聞かず、わたしはその小ぶりな黒百合の根を掘り返し、株ごと持ち帰ったようだ。

 気が付けば、わたしの部屋のよく日の当たる南側の窓辺で、あの黒百合が小さな鉢植えに丁度良く収まっていた。わたしが植え替えしたらしい。全く覚えていない。季節外れの黒百合を見て、母は、何か言おうとしたが、遂に言わなかった――



 

――ある夢を観た。

 まるで夕立の直前の夏空のように、あたりは鈍く金に薄暗かった。どこまでも続いている菜の花畑のような中にわたしは立っている。裸のままでいて、そして夢を見ている。

 ある部屋の中にいるようだった。縦の細いストライプに壁も床も天上もソファーも統一されている。眼がちかちかするようだ。ぐるぐると部屋が回る回る。わたしは白いワンピースを着て、手を広げてもたれたソファーにしがみついている。早く早くこれは夢だと知っている。

 眼を閉じて開くと、元の菜の花畑に立っている。黒い雲が厚く低く空を蓋するように圧し掛かるように広がっている。目線の遠くに青空がある。そこからこの鈍色が射している。わたしは裸で歩いた。土が冷たいけれど、適度な固さで踏みしめると心地好かった。何かが傍を通り過ぎた。恐ろしく長い何かだった。わたしは恐怖を感じる。そうだ、裸なのだから気をつけなくては。立ちすくんでいると景色が向かってくる。黄色い花が一塊になってこちらへ押し寄せてくる。わたしは高速で移動している。不意に花の香りが強くなった。これは百合の香りだ。とても強い。鼻の奥が痛いほどに強い――


 目が覚めて最初に思った。ああ、この香りだ。この黒百合の香りが夢の中でも誘っていたのだ。わたしは、部屋の真ん中で美しく上から見守るように咲いている、今ではわたしの顔よりもずっと大きく咲いた黒百合を見つめた。部屋には甘い香りが漂っている。この綺麗な花は不思議だ。この花を育てていると、今までの不安な不安定というような感覚を全く感じない。以前は、気味の悪い出来事がしばしばあった。そのことを抱えているのが嫌だったので、努めて自分から話すようにしていたし、それを友人たちは霊感だなどと持てはやしたが、本当はそんなものは迷惑でしかなかった。

――例えば、誰もいない真っ暗な隣の部屋の、少しだけ開いている襖の中央から暗く見ている眼と眼が合ってしまう。決してそこから出てこない何かの眼がじっと見ている。襖を締め切っていると、時折かりかりと何かが向こう側で引っ掻くような音がする。わたしの家では何も飼っていない。

 夕暮れの坂道の特別に花が供えてある交差点を通り過ぎるたびに、ついてくる固い足音がある。こつりこつりと、ゆっくりな歩調なのに、なぜか決してある場所まではその足音は離れない。振り返っても何もいない。

 お風呂を出て、パジャマを着て髪を乾かして、狭い脱衣場のドアを開けると、廊下の間仕切りのアコーディオンカーテンが揺れている。その下から二、三歳ぐらいの子どもの足が見える。なぜか三本。わたしに兄弟はいない――


 そのようなものを、感じたり見たり聞いたりすることが、なくなった。すっきりとしてよく眠れそうなものだけれど、なぜか夢見だけは悪くなった。

 わたしは、ゆっくりとベッドから起き上がった。少しふらつきがある。でも、まだ大丈夫だ。二、三歩、部屋の中央の床にいる黒百合の傍へいく。真っ直ぐに天井まで伸びた茎は、もうわたしの太腿ほどもあり、透き通ったエメラルドグリーンに輝いている。真っ黒な羅紗のドレスの切れ込みのある裾のような六枚の花弁が、ちょうどわたしの顔の高さに合わせて咲いている。まるで、「どう?」と話しかけているように見える。その立派に大きく広がった葉は、強く厚く、天井に届いて先を少し曲げている。

 花の傘の前に立って、左手の人指し指をがりりと噛む。第一関節と第二関節の間が噛みやすくて、そして吸いやすい。口の中に鉄の生臭い匂いが溜まっていく。ぢゅうぢゅうと思い切り吸う。黒百合はもうそわそわしていて、こちらに向けてその黒く艶やかな花弁を、一層大きく開いている。

 ゆびをぽんと抜いて、顔を少し上げると、黒百合の香りがもっと強くなる。この香りだ。これがもっと欲しいから、わたしはこの花になりたい。

 漆黒のやわらかな傘がわたしの頭の先から胸まですっぽりと包む。特別な部屋で、差し出されるその美しい雌蕊を、唇で吸うように含むと、そこからゆっくりわたしの体液が吸いだされていく。この花は、わたしの血しか食べさせていない。父は、この部屋へ入ってきた途端に、恐ろしく速く伸びた根で首を絞められて死んでしまった。父の死体は真っ暗な隣の部屋にある。不思議なことにいつまでも腐らずそのままになっている。まだ肉として当分持つのがとてもいい。母は、出ていったようだ。固い足音だけを聞いた。

 こんなにぐいぐいと吸い込んで育っていくから、もう鉢になど入っていない。むき出しの根が逞しく床を這っている。わたしの右手の指全部をあげてしまったけれど、左手の指はあと二本残っているし、指がだめになっても、手首から先も腕もある。あしさきだってある。こうやって身体全部で育ててあげれば、わたしもいつかこの花と一つになれる。だから、わたしもしっかり食べて栄養をつけなくては。

 わたしの血を呑み、満足した黒百合は、優美に背筋を伸ばすように少し上へ伸び、ゆっくりと眠るように花を閉じた。立ち込めている甘い残り香に、わたしはいつものようにすっかり夢心地でふわふわ幸せだった。

 ふと横を向いて窓を見ると、外は真っ暗だった。家はいつまでも眠っているようにに静かだった。伸びた髪のわたしが窓ガラスに写っていた。笑いかけてみた。わたしの眼は白うさぎのように赤い。少し開いた唇から覗いた歯もまた、血のように真っ赤だった。


【後書き】

言霊の気配がする。

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