第14話 エッタへの求婚


 リーゼア公爵は、昼過ぎにやってきた。


 ローリア男爵家の屋敷に公爵の当主を出迎えるという一代イベントに、父は大いに緊張していた。


 五回ほど使用人に掃除を指示し、自分の服装が気に入らなくて四回も取り替えていた。


 イテナスも緊張していたようだが、夫のおかしくなったような行動を見ていたら落ち着いたらしい。ファナのドレスをチェックして、世界一可愛いと褒め称えている。


 エッタのことも目に入っているはずなのに、イテナスはエッタについては何も言わなかった。トーチだけだ、エッタのことを「綺麗です」と言ってくれる。


 リーゼア公爵を迎えるに当たって、屋敷のなかで一番高価な紅茶を用意した。お茶請けは、焼きたてのマドレーヌである。普通の出迎え方であったが、何事も普通が一番だ。


 最初はアフタヌーンティー顔負けの軽食とお菓子などを父は用意しようとしていたが、あまりの量になるので使用人全員に止められていた。


 お茶請けは、多ければ良いという話ではない。何事も適量というものはあるのだ。


 父は緊張に弱いのだな、とエッタは始めて知った。父の情けない姿は、エッタにとって衝撃的なものであった。強くて怖い父だったのに、今はとても情けない。イテナスの方がしっかりしているくらいだ。


 エッタの父の記憶は、小さい時のものばかり。その時は怖いだけだった父も、随分と人間味が出てきたものである。


 そうして公爵家の当主リーゼアがやってきたが、父が落ち着きを取り戻す事はなかった。表情は落ち着いていたが、下半身ががくがくと震えていたのである。父が当主でなければ、誰かが落ち着けと言っていたであろう。


 そんな父に反して、リーゼアには余裕があった。身分が高い人間というのは、こんなにゆったりとしたものなのだろうか。父とは違う生き物のようにエッタは思ってしまった。


 リーゼアが少し視線をそらせば、エッタと目が合った。リーゼアは、穏やかにエッタに笑いかける。


 その笑顔に、エッタの心臓が高鳴った。とても恥ずかしいのに少し嬉しい。


 こんな感情は初めてだ。


 エッタが戸惑っている隣で、ファナが目をハートにしていた。小さな声で「リーゼア様……」と呟いている。


 優しそうな人。


 というのが、リーゼアに抱いたエッタの第一印象だった。公爵家の当主なのだから、優しいだけの人間ではないであろう。それでも、浮かべる笑顔は何処までも柔らかい。


 そして、ファナが言っていた通りに若かった。


 エッタやファナよりは、少し歳上だ。十八歳ぐらいであろうか。父と違って落ち着いており、優雅な装いは彼に似合っていた。


 まだまだ若いというのに、リーゼアは公爵家という重たいものを背負っている。エッタは素直に大したものであると思った。押し潰されそうな重責を背負っているというのに、それをおくびにも出さない。


 それだけで、リーゼアはが只者ではないと判断されるには十分であった。


 リーゼアは、ファナが騒ぎ出すのも分かるほどに美しい人だった。


 漆黒の髪に、水面のような青い瞳。少し肌が白すぎるのが気にかかったが、乙女の妄想から出てきたような美形である。


 この人が、エッタと会いたいと言った。


 師匠は、今回のことをファナとリーゼアのお見合いと言った。さらに、この話はリーゼアに側から持ち上がった。


 ということは、リーゼアはエッタのことを女として見ているということだ。


 自分の身分は男爵で、一介の魔法使いでしかない。それなのに、こんなにも美しい人に求められてもいいのだろうか。


 エッタは、どんどんと弱気になっていく。リーゼアと自分は、釣り合わないと思ってしまう。


 普段ならば、誰かと釣り合うかどうかなんて考えない。誰も異性として意識したことはないというのに。今日ばかりは、いつもの自分ではないかのようだ。


「初めまして、リーゼア・スイールと申します」


 リーゼアは、穏やかに挨拶をする。


 一方で、父の自己紹介の声は上ずっていた。ここまで緊張していたら、もはや不敬に当たるのではないだろうかというほどだ。


 身内としては不安に思うべきなのかもしれないが、エッタとしてはいっそのこと面白くなっていた。自分が抱えているマイナスな感情ですら、一瞬だけ忘れてしまう。


「リーゼア様、私は娘のファナと申します」


 ファナの突然の自己紹介に、全員が唖然とした。娘であるファナは、父に紹介されるまでは喋ってはならないのがマナーだ。


 しかし、それを無視してファナは挨拶をしてしまった。礼儀とマナーが尊ばれる社交界では、許されない非礼である。


 さすがのエッタも驚いた。自分と違ってファナは、淑女としての教育を受けているはずである。こんな基礎的な失敗など考えられない。


 エッタは、周囲に分からない程度にファナの様子を伺った。


 ファナの頬は赤らんでおり、目は情熱的にリーゼアを捕らえて離さない。


 ファナは、この一瞬でリーゼアに恋をしてしまったのである。


 自分の挨拶の失敗にも気がついておらず、恋によってすっかり周囲が見えなくなっているようである。


 ファナの気持ちは、エッタも分からないでもない。それぐらいに、リーゼアの美貌は魅力的であった。顔色が悪くて少し弱々しいところも庇護欲をそそられる。守ってあげたくなる。


 もっとも、そんなところを魅力だと思ってしまうのはエッタぐらいかもしれない。


 若く美しく地位のあるというのに、リーゼアには婚約者はいないらしい。公爵家なら幼少期から婚約者がいてもおかしくはないのに、とエッタは思う。


 優しそうに見えて、以外と面倒な人間なのかもしれない。そんなことを考えながら、エッタは居住まいを正した。


 ファナが、すでにとんでもない失態をやらかしているのだ。エッタまで無惨な失態をやらかす訳にもいかなかった。


 娘が先走ったことを焦った父は、イテナスとエッタのことも慌てて紹介する。


 ファナの失態を誤魔化したいのだろうが、それは失敗に終わった。ファナの自己紹介の後では、嫌でもエッタの淑やかさが引き立てられる。


「妻のイテナスと娘のエッタです。娘は、普段は魔法使いやっています」


 エッタは立ち上がって、折り目正しく礼を取る。教科書に書いてあるかのような正しさの礼は、エッタの生真面目さをよく表していた。


 ファナは、エッタを引き立て役にしたがっていた。しかし、これでは反対だ。ファナが、エッタの引き立て役になってしまっている。


 ファナの非礼に、リーゼア公爵は機嫌を損ねてはいないようだ。懐が広いのか。それとも、ファナなど眼中にないのか。


 エッタは、そこでリーゼアが自分を目的に会いに来たということを思い出した。


 師匠の残したお見合いという言葉が、頭のなかでぐるぐると回っていた。それと同時に、リーゼアが何をきっかけに自分を知ったのかも気になった。


 社交界にも出ていないエッタは、貴族社会では知られていない。当代随一と呼ばれるロアの弟子だから、魔法使いたちに間には多少は名は知られていた。逆に言えば、それだけなのだ。


「噂には聞いておりましたが、噂に違わず凛々しいお姿ですね。婚約者がいないのが不思議なほど」


 イテナスは、聞きにくい事を年長者の特権で訪ねた。父は妻の言葉に、ヒヤヒヤしているようだった。妻の言動が非礼にならないかと気になってしょうがないのだろう。


 しかし、イテナスは夫の心配など気にしてもいないようだった。自分の娘をリーゼアに売り込みたいという気概が見て取れる。


 ファナは、跡取り娘だ。しかし、公爵家との縁が結ばれたら、そちらをイテナスは優先させるだろう。跡取りについては、親戚の子供を養子にでも取るつもりなのかもしれない。


 嫁入りなどの事情でファナが家を継げなくても、イテナスはエッタを跡取にする気はない。


 イテナスにとっては、エッタは憎い相手だ。何がなんでも男爵家を譲らないという気概があった。


 しかし、今となってはエッタは男爵家に執着はしていない。誰が継いでもいいし、自分が継ぐ気などもない。


「あの……リーゼア様。パーティなどで御姿は存じておりました。近くで見ると一段と素敵で……。その……」


 ファナはもじもじしながら、大人しい乙女を演じる。妻は夫に追従することが良しとされるので、大人しい性格の令嬢が好まれる傾向が強い。だから、ファナも大人しい性格を装っているのであろう。


 妹のドレスやアクセサリーを強奪するような令嬢は、世間的な人気はないのだ。


 リーゼアは、女性の押し売りには慣れているらしい。笑みを崩さずに、紅茶に口をつける。絵になる優雅な姿に、ファナは感嘆の息を吐いた。


 その瞬間、リーゼアの視線がエッタに向いた。そして、また小さな笑みを投げかける。


 エッタは混乱した。


 リーゼアは、明らかにエッタを認識している。けれども、エッタの方はさっぱりだ。リーゼアとは、会ったこともない。


 高貴な地位のいる美形となれば、いくらエッタといっても忘れることなどない。だが、いくら思い出そうとしても接触をもった記憶がなかった。


 リーゼアは紅茶のカップをソーサーに置き、真面目な顔をして父との話を進める。


「単刀直入に言います。エッタ嬢と私の婚約を認めて欲しいのです」


 リーゼアの言葉に、全ての人間が凍りついた。ファナだけが、にこにこしている。恋する乙女に、都合の悪い話は聞こえないらしい。


 一方で、エッタは脳内で大混乱をおこしていた。お見合いと言われていたのに、結婚の話が出るなんてエッタは聴いていない。


 だが、師匠は嫁入り道具を持ってきた。


 少なくとも師匠とリーゼアは、エッタに求婚するという共通の考えがあったに違いない。なのに、エッタが逃げ出さないようにロアは「お見合い」だなんて柔らかい言葉を使ったに違いない。


 エッタの頭の中が、ぐるぐる回る。


 お見合いと婚約は、いくらなんでも違いすぎる。エッタの中にあった「お見合いぐらいだったら」という軽い考えにヒビが入った。お見合い程度ならば断れるのに、婚約では意味が違う。


「御冗談ですよね?私は魔法使いで、一般的な令嬢が出来ることが、私には一切出来ませんし……」


 淑女の嗜みというべきことが、エッタには身についていない。その知識は、六歳で止まっているのだ。


 令嬢の顔をして澄ましていることは可能だが、社交界などで公爵家夫人として参加するのは無理がある。


 社交界の談笑で、夫に有益な情報を集める。そのようなことも妻も仕事だエッタには、そんなこと出来ない。


 そもそも社交界デビューもしていない。貴族の社会のなかで生き抜く足がかりすらない状態なのである。


「エッタ嬢にことは、存じ上げております。私は、有りのままのあなたが欲しいのです」


 リーゼアは突然立上がり、エッタ前に跪いた。そして、エッタの手を取って唇を寄せる。


 エッタは「ひやぁ」と変な声がでた。手の甲にキスされるなど初めての経験だったのだ。


 騎士が、姫に忠義を誓うようだった。


 他人の唇が触れるだけなのに、エッタはとんでもないことをされてしまったと思った。それぐらいにが、恋愛経験のないエッタには衝撃的な経験であったのだ。


「もちろん、このプロポーズで結婚が出来るとは思っていません。最初は婚約から。もしも、私が嫌になったら、いつでも婚約を破棄してもらっても結構です」


 リーゼアの方が高位なのにも関わらず、あまりにもエッタに都合がいい話だ。欲をいうのならば、今すぐに逃げる自由が欲しかったが。


 いくらなんでも親の前で、公爵家の結婚の申し出を断る度胸はエッタにもなかった。


 エッタは魔法使いとして独立しているが、男爵家の令嬢という立場でもある。この婚約および結婚が、どれほどの利益をもたらすかは分かっていた。


 少なくとも結婚準備金で、家の財政は潤うはずだ。父たちが心を入れ替えて散財を控えれば、これからの生活も楽になるだろ。トーチの解雇される恐怖だって、少しは軽減されるはずだ。


「あのリーゼア様……。エッタは貴族として何も出来なくて……。私の方が、よっぽどリーゼア様に相応しいかと……」


 ファナは、エッタが考えてた以上に度胸があった。挨拶からして無作法だったが、ファナはリーゼアのことを諦めていないようだ。自分を懸命に売り込んでいる。


 自慢の香りがリーゼアが届くように髪型を直すふりをして、ファナは手首と首元に付けられている匂いを振りまいていた。傍から見ても滑稽な姿だったが、ファナ本人は魅力的だと思っているらしい。


 しかし、リーゼアはエッタから目を離さない。


 どんなにファナが貴方に首ったけという態度という態度をとったとしても、リーゼアはエッタを見つめ続ける。


 そんな真剣な態度は、リーゼアが誰かに操られているのではないかという不安を抱かせる。


 生きている人間を操るのは、とても難しい。


 人間には体内に魔石があり、それが自身にかけられる魔法を拒絶するのだ。魔法使いは、この魔石を強化して魔法を使っていたのである。


 人を操る魔法は世界でも使用できる魔法使いは、十数人もいないのではないだろうか。エッタも師匠から教えてもらったことはあったが、使ったことは一度もない。


 エッタのような魔法使いは、とても多いであろう。なかには、後進には伝えない魔法としている人間もいる。


 使用方法を誤れば、人を操る魔法は戦争すら起こせる。それぐらいに、他人を操る魔法の扱いはデリケートものなのだ。


「失礼します。リーゼア様が誰かに魔法をかけられていないかを確認させてください」


 エッタの脳裏に浮かんだのは、リーゼアが何者かに操られている可能性だった。


 婚約しても利益がない男爵家の娘と結婚させて、公爵家の力を削ぐのが目的なのかもしれない。


 リーゼアに魔法をかけた相手として、真っ先に浮かんだのは師匠のロアだ。弟子の婚期を心配で、リーゼアに何かをしたのかもしれない。


 第一容疑者が師匠だというのは情けないが、それだけ強力な魔法使いはロアぐらいしか思い当たらない。


「では……。失礼します」


 エッタは、リーゼアの額に指先を当てた。


 それが、くすぐったいのだろうか。リーゼアは、小さく笑う。無邪気な少年を思わせる笑顔に、エッタの心臓が自分でも煩いぐらいに高鳴った。


 この人が、自分に婚約したいとやってきた。


 エッタのことを生涯愛したいと思っているのだ。


 エッタは、頭を振った。


 今から魔法を使うというのに、雑念が多すぎる。こんなことに振り回されては、一人前の魔法使いとは言えない。


 リーゼア自身に魔法がかけられていないかを調べなくてはいけないのだ。真剣に、注意深く調べなければならない。


「……魔法の気配はありません」


 てっきり師匠がからんでいると考えていたエッタであるが、それも違ったらしい。リーゼアは、誰にも操られてはいない。健康な状態だ。


 リーゼアは、本心でエッタに求婚したのだ。


 その事実に、エッタの胸は高鳴った。リーゼアの言葉が心からのものだと分かり、嬉しいと思ってしまった自分がいた。それに対して、エッタは戸惑うことしかできないでいた。


 年頃の女であったが、エッタは異性に想いを告げられたことなどない。だから、こんなふうに色恋で揺すぶられるのは初めての事であった。


 けれども、エッタは表情には出さない。今は魔法使いとして振る舞うべきであったし、エッタは自分の乙女としての気持ちの表し方の分からなかった。


「私の本心を知ってくれたね。君を思う私の気持ちは、私だけのものだよ」


 リーゼアの言葉に、エッタは思わず彼から目を離す。婚約なんて考えていないし、こんなことになるとも思ってもみなかった。


「あの……。私は、こんなことを聞いていなくて……。師匠からとは、お見合いとしか」


 エッタは、しどろもどろになってしまった。リーゼアは、エッタの手を自分の掌で包みこむ。


 ファナの視線が鋭くなったが、エッタはそれどころではなかった。顔を赤くして、あたふたとしてしまう。


 エッタは、目の前の状態に上手く対応が出来ずにいたのだ。子供のようで情けなかったが、エッタ自身にはどうすることも出来なかった。


「今日は、ここまで。次に会ったときは、良い返事をくれることを願っているよ」



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