18話:『銀』の襲撃
「イナ様、な、何か……何かが、森の中に!」
隣で走るフィリアも、私と同じことに気付いたらしく、上擦った声でそちらを指差す。
「喋らないで! 舌を噛むわよ!」
「は、はいっ」
そちらには目を向けず、前だけを見て走らないと、胸の中にざわざわ込み上げてくる恐怖心に負けそうだった。
あの白っぽい何かがどんなものであれ、アウスが逃げろと言った以上、私たちに害をもたらす存在であることは間違いない。
ああ、さっき違和感を覚えたとき、見間違いで片付けなければよかった。
後悔に苛まれても時は戻らない――今は必死に逃げるしかない!
「ッ……は、ああッ……!」
フィリアの息がどんどん上がっていくのが分かる。
眼鏡を落とさないように押さえているのも原因でしょうけど、もともと彼女は運動が得意じゃない――そっちはフォビアの担当だったから。
「落ち着いて、大きく息を吸うの!」
フィリアにそう呼びかける私も、荷物を背負った状態で走った経験は多くない。
もしもフィリアが転んだら、支えきれる自信は――そう考えた瞬間、運命の手はそれを待っていたかのように、彼女の足をすくい上げた。
「あうッ!?」
地面から突き出ていた、僅かな――ほんの僅かな木の根。
私は何事もなく通れたのに、フィリアはその罠に掛かってしまって、身体が宙に投げ出される。
「立って、フィリア! 立つのよ!!」
慌てて引き返し、呻く彼女の手を引っ張って立たせる。
多分――今ので追跡者に思い切り距離を詰められた。
まして、足を怪我してしまったのか、よろめくばかりのフィリアはどんどん遅れてしまっている。
「い、イナ様、私のことは――」
「絶対に置いてかないわよ! 朝に私を起こしてくれる人がいなくなるじゃないの!」
そうよ、私の運命に付き合わせて、置き去りになんて出来るわけがない。
冗談めかしたのは、そうでもしないと、この子はすぐ自分を犠牲にするに決まっているから。
「貴女は助かるわ。いいえ、私が助ける!」
嘘でもない、空元気でもない。相手が何者であれ、負けてやる気なんてない。
唯一気になるのは、アウスの表情。
彼は、森の中を見て、追手の存在に気付いたわけじゃない。
前を向いたまま「何か」を視て、固まってしまった――そんな風だった。
彼が何もないところに視たものがあるとすれば、そんなの『
「(どんな光景を視たの、アウス……!?)」
迫りくる危機を察知した彼が一目散に走ったのは、そうすれば助かると判断したってこと。
それを信じて、今は一歩でも前へ進むしか無い!
「ごめんなさい、イナ様……もう、私は――」
「フィリア! 諦めないで!」
がくがくと膝が震え始めて、限界を悟ったフィリアが、私の手から逃れようと身をよじる。
「行って下さい、姫様!」
とうとう振りほどかれて、突き飛ばされて――私がそれでもなんとか振り返ろうとした瞬間。
「きゃあ!?」
「アウス! 助かった!」
「こっちを気にせず、早く行って! 括り紐を切って、馬から荷を落とすんだ!」
「き、切ってって、なんで!?」
「僕の腰にナイフが――」
「違うわ、“何故”よ!」
一応、言われた通りアウスに近寄り、彼の腰帯に挟まれた短刀を鞘から抜いたけど、何がなんだかさっぱりわからない。
あの荷物の中には、昨日使った食器とか夜露を避けるための布とか、大事な食料なんかもたくさん含まれている。
路銀や
「早くしろ、イナーシャ!」
「だ、だからなん――」
「ひッ」
急かされ、走る速度を上げながら、それでも再度理由を聞いた私の声は、アウスの肩で縮こまっていたフィリアの悲鳴で遮られた。
「あ、あれ……あれは……!?」
アウスの走る勢いでがくがく揺さぶられ、ずり落ちそうになる眼鏡を押さえつつ、それでも必死になって彼女が指差す方を見る。
……嘘でしょ?
あれは――あれは、狼、なの?
「早く!」
三度目の警告にはもう躊躇せず、馬の傍らまで全速力で走る。
冗談じゃない。
今、ちらりと見えた狼は――大人の男の、ゆうに倍の大きさがあった。
「く……うっ!」
なんとか小走りの馬には取り付けたけど、荷物の重みがかかった括り紐はガチガチに固まっていて、よく研いであるアウスのナイフでも簡単には切れない。
まして走りながら、馬を暴れさせないように慎重にやらないといけないなんて、本当に無茶よ!
でも、アウスの横顔に浮かんでいた、何かを噛みしめるような表情――あれを見れば、私がやり遂げなければ最悪の結末になることだけは嫌でも
「ちょっとだけ……お願い、我慢して!」
無意味とは知りつつ、馬に向けてそう懇願してから、ナイフの柄を紐と馬体の間にねじ込む。
走り続けた喉の奥がつんとした痛みを伝えてきて、なかなか集中できない――でも、なんとかなった!
「〈
ぼっ、と音を立てて、小さな火球が目の前に現れる。
その熱が紐の編み込みを焦がし、やがて糸目が破断していくと、荷が徐々に揺れ動き始める。
「はあッ!」
その機を逃さず、力の限りに紐を引っ張ると、ナイフの刃先を引っ掛ける。
完全に両断された紐から滑り落ちた荷は、がらがら派手な音を立てて街道上に散らばった。
それに驚いたのかしら、森の中の気配も、遠ざかっていった……?
「やったわよ、どうするの!?」
「ああ、これで君たちは助かった!」
馬の手綱を握って走りながら、後ろはどうなったか
いくら華奢なフィリアとはいえ、人ひとり担いだまま加速できるなんて、やっぱりあの人、只者じゃないわね。
もう少し様子を見て、大丈夫そうなら荷物を取りに戻らなきゃ――なんて。
私がそんな楽観視をしている横で、アウスはフィリアを馬の背に預けていた。
「乗るんだ、イナーシャ姫!」
「な、なんで――」
「あとは僕がなんとかする」
――なんとか、って、何を?
ああ、私は本当に質問ばっかりしてしまう。
でも、その答えもやっぱり、アウスの口から出ることはなくて。
そのかわり、「何を」の答えは、自らその姿を現してきた。
『グルルルロロロロ……!』
目で追うのがやっとの速さで、輝く銀毛の塊が森の奥から飛び出してくる。
そんな。
驚いて逃げたんじゃ――なかったの?
「絶対に止まるな! 行け!」
まだ私の手にあった短刀を引ったくり、巨大な狼に切っ先を向けながら、アウスは馬の尻を思い切り平手で叩いた。
「ヒヒィィィ!」
悲鳴のような
手綱に巻き込まれ、引きずられかけながらも、なんとかギリギリで馬の背によじ登った私の耳に飛び込んできたのは、フィリアの絶叫。
「アウス様あッ!!?」
――絶対に止まるな。
ああ言われていても、このとき、私は取って返すべきだったのだろうか。
「そんな……そんな!」
おぞましいほど巨大な銀狼の爪に引き裂かれ、血を吹いて倒れていくアウスの姿だった……。
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