傷物王女は旅をする
咲良野 縁
プロローグ
「――姫様、姫様。朝でございます。姫様……」
うとうと微睡んでいた私の耳に、いかにも気の弱そうな声が響いてくる。
安宿のボロい窓枠、その隙間から明るいおひさまが入ってきているのを見れば、確かにもう朝なのでしょう。
普段なら、侍女に一声かけられた時点ですぐに身を起こし、てきぱきと着替えをしなければいけなかったけれど、今となってはもう、そんな必要もないじゃない。
昨晩は興奮で深夜まで寝付けずにいたから、正直まだまだ寝足りてないのよ、私。
「………………おやすみ」
たった一言、そうとだけ答えると、ごわごわした毛布を頭から被る。
まだ起きません――そう無言で宣言した私にかかる声のトーンは、瞬間的に『気弱』から『おろおろ』へ変化した。
「え……いえ、あの……その……」
「…………」
「姫様。どうか起きて下さいませ……あの、もし……」
こうなってしまったら、次に来るリアクションは分かり切っている。
「……ぐすっ」
「ああもう、すぐに泣かないでよ、フィリア!」
毛布を跳ね除け、目にかかった髪を掻き上げると、目の前には泣きべそ顔の女の子。
半分幼馴染、半分主従――そんなふうな間柄で育ってきた彼女だから、この『最終手段』を持ち出されてしまえば、大概は私が根負けしてしまう。
それを知ってか知らずか、私の専属侍女、大きな眼を赤くしかけていたフィリアは慌てたように目尻を拭い、裾を持って一礼した。
「お、おはようございます……イナーシャ第一王女様」
「はい、おはよう。起きたわ、これでいい?」
「ほ、本日はお日柄もよく……ご機嫌の程は如何かと――」
「……あのね、フィリア?」
「は、はい」
「ご機嫌麗しいと思う?
――さっきから彼女が呼ぶように、私は一国の第一王女で、姫様で、つまり王族でも相当に上の方の立場の人間だ。
いえ……物事は正確に、『だった』と付け加えるべきでしょうね。
今の私は、流浪の身。
何の証も持たずに旅をする、ただ一人の女。
しかも、公的には『死んだ』人間で――王家から追放され、何処かへと流れ消えていく者に過ぎないのだから。
「婚約があっさり破談になったのも、旅に出ることになったのも、まぁ良いわ。いや全然良くはないけど、とりあえず我慢しましょう」
「…………」
「でも、出立は人目を避けて裏木戸からこっそり。もちろん大勢での見送りなんて無し。仕方ないわよ、仕方ないと分かってるけどね、何か悪いことしたかしら、私!?」
「あ、あの姫様……どうかお気をお鎮めになって……」
付き合いが長いだけに、
だから必死になだめようとしているのだろうけど、今日ぐらいは言いたいことを言わせてもらうわ、悪いけど!
「……父様へ最後のお目通りも叶わず、妹たちともロクに会話すらできず! 母様だけはハグしてくれたけど、それだってたったの3秒だけ!」
子供の頃から陰で『おてんば姫』『王子みたいな姫』と呼ばれ続けた勝ち気な性格はダテじゃない。
またも涙目になっていくフィリアには申し訳ないと思いつつ、此処まで来てしまったらもう停められないのよ。
「ああ、この忌々しい傷、『呪い』のせいで、私の人生は何もかも台無しよ!」
もう朝からむし暑い時期だというのに、寝巻きに重ねて首を覆っていたスカーフ。
それをむしり取れば、覆い隠していた傷が露わになる。
刃で喉を掻いたような、大きく醜い、黒ずんだ傷跡。
言うまでもなく、これが、この傷こそが、私を王室に居られなくした元凶だった。
「夢であってくださいと何度もお祈りしたのに、神様ってずいぶん意地悪だわ」
あり得るはずもないのに、旅の宿で一晩寝て起きたら消えてたり……なんて。
そんな儚い望みも、今、テーブルの上に置かれた小さな磨き鏡の中の景色によって、一瞬で打ち崩されてしまった。
一つでも充分すぎるぐらいに気が滅入るというのに、これと同じ深さの傷が、私の身体にあと二つ刻まれているという事実。
鳩尾、そしてお臍の下……服を着ていれば見えないのが、唯一の救いでしょうね。
「……ごめん。貴女に文句を言ったって仕方ないのに」
殆どうめき声になってしまったけれど、心配そうに立ち尽くす友達へ謝罪する。
際限なく熱を持つその傷を指先で撫でて、チクチクした疼痛を確かめて。
改めて、この『呪いの傷』を治す方法を一刻もはやく探さなくてはならない、と思い知らされる朝。
「お
そう呟いたフィリアの眼から一筋の涙が流れたけれど、それはせめて、彼女の気弱い心から来たものではない、と信じたい。
少なくとも、そうやって悲しんでくれる人が一人いるだけ、私は幸せなのだろうから。
「……。さあ、朝食にしましょう! 今日はかなり歩かないといけないはずよね」
顔を両手で思い切り、ぱちんと張って、自分の中の気合と誇りを叩き起こす。
――私はイナーシャ。
フラシア聖国第一王女、イナーシャ・ル・フラシエラ。
たとえこの旅の果てに朽ち、自分の名が家系図から永久に削られたままになったとしても――せめてこの傷をつけた『仮面の男』だけは見つけ出し、受けた屈辱を晴らさなければならない。
それは、姫だからでも、王家の責務だからでもなく。
そうでもしなけりゃ、この私の気が済まないからよ!
「それでは、食堂まで私が先導を」
「いいわ、一緒に行きましょ」
「いえ、しかし――」
「なに言ってるの。もう、貴女と私は対等な立場じゃない」
あの広大な王宮にあって、ただ一人、呪われて落ち延びていくことを知ってなお、私の旅に付きそうと申し出てくれた親友。
遠慮しようとする彼女の手を握り、引っ張るようにして扉の前に立つ。
「だから、『姫様』呼びはこの扉を開けるまでにしてよね」
「……が、頑張ります」
王城から出発するときよりずっと緊張した面持ちになったフィリアに、思わず吹き出しそうになりながら、私は安普請で軋むドアを力いっぱい押し開けた。
――それが、最初の一歩。
私たちの奇妙で長い旅は、不似合いなほどに綺麗に晴れた日から始まった。
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