エピローグ

 約束の時刻よりも早めに到着した。先に喫茶店に入り、中国茶を注文してから書籍を取り出す。手持ち無沙汰の際に活字を追うのはもはや癖であり、私の知識欲の如何とは関係なくなっていた。

 だが、心に余裕はできた。私は今、情報収集を趣味の一環とできている。

 しばらく経った頃、約束の時刻通り彼女は現れた。

「イヴァン、お待たせ。久し振りだね」

 愛玲の挨拶に私も中国語で返礼する。彼女は対面に座り、中国茶を注文した。

 愛玲が会話を切り出す。

「今回の出張は順調だった?」

「そうだな。特に問題はない。そのせいで、また来週から退屈な事務作業だ」

「そっか。トラブルあった方がイヴァンには嬉しいのね」

「ああ、オフィスに戻らなくて済むなら何でもいい」

 愛玲は小さく笑い、私もそれにつられた。

「今日帰るんだよね? 出発まで時間あるの?」

「大丈夫だ。余裕を持って行動している」

「そっか。じゃあ、他の移心者には会ったの?」

「バトガン氏には昨日会ったよ」

「バトガンさんって確か、私と同じような……」

「ああ、寺池幸の命を狙っていた人だ」

 奇遇だが彼も中国に用事があったようで、私は昨日彼と面会した。だが、そこで聞けたことは少なかった。二回目の戦闘で幸がバトガン氏を倒し、それでいて幸は殺さず何度でも闘う覚悟を示し、バトガン氏はそれに呼応して殺意を封じ込めた。その後、幸は異世界へ帰還し、以降は関知していないとの由である。

「ねえ、イヴァン。そのバトガンさんって人も、移心しなくなったの?」

 愛玲の問いに私は頷いた。

 我々はすでに三ヶ月間、一度も異世界へ移心していない。これほど間が空いたことは、かつてなかった。

 愛玲は神妙な面持ちで俯く。

「やっぱり、異世界は崩壊したのかな?」

「どうだろうか。今となっては、確かなことは何も分からないな」

 それが私にとっては酷くもどかしい。

「でも、私が最後に移心した時……彼を殺すことしか頭になかったけど、確かに異世界は異常な様子だったよ」

「電話でも言っていたな。凄まじい地震と雨だったと」

「それだけじゃないよ。雷も何度も落ちてたし、たぶん地割れも起きてたと思う。でも、なんで急に崩壊したのかな?」

 いつもの癖なのか、愛玲は正答を期待して私に質問する。

「確信はないが、おそらく異世界が自分の意思でバトガン氏を殺したんだ。彼も言っていたよ。寺池幸を追い詰めたまさにその時、一筋の雷に撃たれて帰還したと」

「そっか。じゃあ私は、その戦闘の直後に移心したのね」

「それも分からない。もしそうなら、幸は満身創痍だったはずだ」

「うん……前とは全然違った。覚束ない足取りで私から逃げるだけだった」

 愛玲の声色が少し暗くなる。

 電話でアポを取った際、愛玲はその時の状況を掻い摘んで教えてくれた。無抵抗な幸を突き刺し、切り付け、最後の最後、何者かに阻まれて帰還したと。

 その者はきっと幸の母だろうと私は答えた。

「愛玲、幸を殺そうとしたこと、後悔しているのか?」

 私の問いに彼女は首を横に振った。

「後悔はしてないよ。でも、反省はしてる。彼も一人の人間で、彼を大切に想う人がいたんだよね。私はそんなこと一切考えず、自分の意思ばかり優先してしまった。彼を殺人鬼と罵ってしまったことが、今は凄く恥ずかしい」

 愛玲は慙愧の念で俯く。彼女の過去を思えば、責めることはできない。だが、彼女は幸の母親を刺した瞬間、我に返ったのだろう。

「できれば彼ともう一度会って、きちんと謝りたいけど……」

「今となっては難しいだろうな」

 話を聞く限りでは、そう思えた。愛玲は苦い表情になる。

 愛玲は幸に対し罪の意識を抱いた。だが、謝罪の機会はもう二度とない。彼女の罪はいつまでも和らぐことなく残留し続ける。

 それが彼女にとっての罰であり、あるいは救いなのかもしれない。

 そして、私にとっても……。

 私は弟に無慈悲な真実を伝えるだけ伝え、彼の最期を見届けることは叶わなかった。幸がどうなったのか、異世界がどうなったのか、私には知る術がないのだ。

 加えて、松齢についても。今回、彼の見舞いにも行ったのだが、そこで彼がすでに息を引き取ったと知らされた。人工呼吸器が何者かに外され、死に至ったという。

 バトガン氏の話から推測するに、松齢は幸と出会い、幸に殺されたのだ。それが松齢の願いでもあり、幸に未来を選ばせる糧だったのだろう。

 だが、それは推測の域を出ない。松齢は本当に悔いなく逝けたのだろうか。幸は最後に幸福だったのだろうか。何も分からないのは本当に口惜しい。だからこそ、せめてそうであってほしいと願っている。

 その後、愛玲とはいつも通り他愛ない話を交わした。互いの近況について話している内に、あっという間に刻限がやって来た。

「そろそろ行くよ、愛玲。今日はわざわざ来てくれてありがとう」

「こちらこそ、いつも誘ってくれてありがとう。今度は私の方から、ブルガリアに会いに行くから」

「そうか。その際はブルガリアの観光名所を案内するよ」

 帰ったら早速、勉強しておこう。

 会計を済ませ、二人揃って出口に向かった。

 扉を抜ける。心は移らず、二人は喫茶店を後にした。


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異世界を怖れる者、異世界を知る者 國米 真 @KKMM05

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