第四章 願い

 愛玲と出会ってからというもの、俺は大した腑抜けになっていた。

 怠惰な日々が続いた。鍛錬も勉強も俺には必要ない。いや、そもそも俺が生きることに意味がない。俺が生きても恒常的に犠牲が出るだけだから。

 俺が移心する度に現実界で矛盾が発生し、それが原因で災害が多発する。そのせいで俺は何十万人もの人を殺してきた。そして、今後も生きている限り殺し続ける。

 愛玲の糾弾は、槍やナイフよりも鋭く俺の胸を貫き抉った。母やセカイの願いに甘えた心。利己的な生にしがみついた醜い姿。それがまるで苦悩の末の決意であると振舞った愚かしさと、中途半端な決心。そんな脆い部分を彼女の非難が全て破壊した。

 俺は即刻死ぬべきだ。百害あって一理なしの存在なのだから。

 母は俺を大切に想ってくれている。死ぬはずだった俺をここまで育ててくれた。感謝は尽きないが、俺が生きているだけで現実界の母が災害に巻き込まれるかもしれない。

 セカイも俺を想ってくれている。自身に矛盾を内包してでも俺を生かしてくれた。しかし、俺が生きているだけでセカイは徐々に崩壊していく。

 犠牲になるのはよせ、とセカイに告げた。しかしセカイは意に介さず、俺を生かすために今でも矛盾を肯定し続けている。

 だから今、俺は自宅にいる。その代わり、学校はこの世界から消えた。他の移心者への矛盾肯定もなくなり、母に対する移心の法則も元に戻った。

 母とセカイの二人は、俺の生存を強く望んでいる。だからこそ俺はその望みに応え、生きる道を選んだ。しかしその選択は結局、双方に害を為しているのだ。

 そして他者にとっては、俺の存在など迷惑以外の何物でもない。死んでくれた方がありがたいはずだ。

「ちく……しょう……」

 思わず漏れた声。絶望が絶え間なく沈殿し、俺の心を埋め尽くしていく。

 認めざるを得ないだろう。俺に希望の未来はない。俺の未来は、他者の不幸と屍の上に成り立つ代物だ。

 俺の前に伸びる道はたった二つ。死か、絶望か。

「なんで……こんなことに……」

 文句とともに目から溢れそうになったものを必死で堪える。

 一体、何を憎めばいいのだろう。

 臍帯を切断した母?

 真実を暴露した兄?

 それとも、この世界の存在そのもの?

「馬鹿か……ちくしょう……」

 そんな候補が出てくる自分自身に悪態を放つ。

 彼らを恨むのはとんだ筋違い。彼らは自分の意思に従っただけだ。自らが守るべきもののために信念を貫いた。それはバトガンさんや愛玲も同様だ。

 だから、俺が恨むべきは己のみ。元から生まれなければ良かったんだ。

 しかし、それでも俺を育ててくれた人がいる。俺を守ってくれた人がいる。俺が死ぬと心から悲しむ人達がいる。その願いは絶対に無駄にしたくない。

 それに俺自身、死ぬのは怖い。母やセカイの願いを抜きにしても死にたくない。

 だが、俺が生きることで害が発生する。現実界の全ての人達が危険に晒される。セカイの矛盾も加速させる。全て俺には手の打ちようがない。

 絶望的な板挟みを前に、呑気に悩む時間もない。俺が移心する度に現実界では矛盾が起きる。そして俺が生きている限り、このセカイの矛盾は消えないのだから。

 しかし、三日経っても決心はつかなかった。自殺を考えれば、母とセカイの顔が脳裏に浮かぶ。恐怖が体を縛る。かといって、安直に絶望の道は選べない。

 死と絶望の狭間で懊悩し、迷走しながら過ごした三日はあっという間だった。食事も睡眠もほとんど摂れず、ずっと布団の中で蹲っていた。

 もう何も考えたくない。楽になりたい。でも、死にたくない。

 苦悩に押し潰され、俺は発狂寸前だったのかもしれない。

 そんな最中、部屋に人の気配を感じた。

 殺される!

 瞬間、恐怖が再来した。誰かが傍にいる。怖くて布団から出られなかった。

 このまま隠れてやり過ごそうか。

 だが、気付かれないはずがない。掛け布団が剥がされ、俺の全身が露になる。

「おい幸、起きろ。いつまで寝惚けてんだ」

 柴山翔太がいつもの調子で俺に命令した。

「翔太……」

「おう、久し振り。元気……って顔じゃねえな。ちゃんと飯食ってんのか?」

「……」

「まだ寝惚けてんのか? とりあえず座らせてもらうからな」

 返事も待たず俺の横に居座る翔太。傍若無人な様子は相変わらずだが、今日は敢えてテンションを抑えているようにも感じられる。

「翔太、お前……なんで……」

「ん? 何?」

 俺も身を起こして布団に座る。

「なんで、そんなに普通なんだよ」

「普通って……」

「だって、全部教えただろ? 俺がここに生きてるってことも、現実界で災害を起こしてるってことも。まさか忘れたのか?」

 翔太に真実を暴露した時、交友の終焉を覚悟していた。彼が俺を殺そうとする可能性まで考慮していたのに。

「いや、忘れてないよ」

「じゃあ、なんでっ!」

「そこまで不気味がることもないだろ。俺なりに色々と考えた上でのことだよ」

 その言葉に嘘は感じられない。

「ところで幸、お前あれから何かあったのか?」

「何かって……」

「前に会った時とは随分様子が違うじゃないか。気力がないというか……」

 傍目にも明白なのか。

 バトガンさんや愛玲のことはあまり話したくないが、翔太に隠し事はしたくない。それに、俺の話を聞いて彼の心境が変わる可能性だってある。

 だから、あれから起こった出来事について包み隠さず打ち明けた。

 セカイの犠牲。バトガンさんと愛玲の襲来。そして、愛玲の糾弾が俺の甘えを木っ端微塵に粉砕し、俺は自分の生きる是非について三日間ずっと懊悩していた。

 俺は自分の意思が分からない。

 死ぬのは怖い。母やセカイを悲しませたくない。

 でも、他者を犠牲にして生きるのも嫌だ。

 俺に残されているのは、死か絶望。ただそれだけだ。

「それでも、お前は俺の友達でいてくれるのか?」

 ここまで語った後、俺は核心に切り込んだ。その先の結末に不安と恐怖を感じながらも、今この場で問わずにはいられなかった。

 対する翔太は、夢現の様子で無言を保っている。そして、ぽつりと口を開いた。

「正直……実感が湧かねえ。ゲームのシナリオみたいな話だな」

「だけど、現実だ」

「ああ、そうだな。お前を見てると、さすがに茶化せねえよ」

 翔太は普段と異なり、口数が少なかった。

「翔太、お前は現実界で災害に遭ったことはあるか?」

「ああ、そりゃ何回かはな。でも、大きな被害を受けたことはないよ。俺も家族も」

 それを聞き、少し安心した。

「だからかな、お前の話を聞いた後も、正直どう反応していいか分からなかった。身近な人が被害に遭ったわけじゃないから、お前を恨むのも筋違いだしな」

「でも、現実界では大きな損害が出てるんじゃないのか?」

「まあな。でも、災害なんて昔から起こってたんだし、それで被害が出るのは当たり前だろ。被害者にならない限り、普通はあまり実感が湧かないもんだよ」

「でも……もし将来、災害が原因でお前の大切な人が犠牲になったら……」

「そうなったら、お前を恨むかもな。殺そうとするかも」

 翔太の即答に俺は狼狽えたが、彼はすぐ継ぎ足す。

「仮定の話だよ。実際には、なってみないことには何とも言えねえ。むしろ、お前の律義さに呆れるよ。自分の住む世界じゃないのに、そんなに真剣になれるなんて」

「自分の世界じゃないからって、放っておけないだろ」

「そうか? 例えば、俺らがやってたゲームあるだろ。実はあのゲームの世界は実在して、俺らが操作することで大きな災厄を齎してたなんて言われて、罪悪感あるか?」

 それは極論な気がするが、しかし翔太の意図は理解できる。

「まあ、現実界にはお前の母親もいるし、この異世界も徐々に崩壊していってる。その点は今の例えと違う要素かもな」

「そうだよ。他の世界だからなんて、俺には思えない」

「だったら、俺が言えることは何もないよ。俺自身はお前を恨んでないし、殺そうとも思ってない。お前への接し方も変えるつもりはないしな」

「じゃあ、これからも友達でいてくれるのか?」

 俺の再三の問いに、翔太は大仰に俯いた。

「その質問、頼むからやめてくれ。なんか、小恥ずかしくなる」

「なんでだよ?」

「俺らは別に『友達になろう』って言ってなったわけじゃねえだろ。だから、『やめる』って言ってやめるもんでもねえんだよ。で、俺がこれからも何も変えないって言ってんだから、後はお前次第だろうが」

 つまり、俺も翔太への接し方を変えないのなら、俺達はまだ友達でいられるということだ。それを聞けて、俺はなんだか肩の荷が下りた。

「翔太、ありがとな」

「礼は要らねえよ。小恥ずかしい」

 視線を逸らす彼の様子に、俺はつい笑みを零した。

 俺が生きることの是非は未だ分からない。だけど、翔太の言葉と態度は俺を勇気付けてくれた。

 バトガンさんと愛玲は、家族を失った無念から俺を恨んでいる。

 母とセカイは、俺への愛情から俺の生を望んでいる。

 どちらも明確で偏った立場だった。だが翔太は、俺の友人という要素はあるにせよ、至って中立な目線で俺の死を望んではいない。ある意味、俺と移心者との争いからは遠い立場にいながら、以前と変わらず接してくれている。それは、生も死も選べぬまま悩み続ける俺の心から少しだけ靄を払ってくれた。

 本当に、翔太と出会えたのは幸運だったと思う。奇跡だとすら。

 だからこそ、来る死闘の日に備え、今は旧友との交流に興じよう。

 翔太が帰還するまで、俺は彼と他愛のない会話で盛り上がったのだった。


 翔太と会ってから四日後、この世界には似つかわしくない礼儀が響いた。

「すみませーん! 誰かいませんかー?」

 聞き覚えのない声。それに、こんな確認をされたのも初めてだった。

 玄関の扉から中を覗いていた男性は、やはり初対面の人だった。

「あ、いたんですね。お邪魔してもいいですか?」

 この世界に人間が居住していても全く動じておらず、逆に俺が動揺した。

 入室を許可すると、彼は玄関に上がった。彼は薄手の白い服装を纏い、右手には見たことのない何かを持っていた。

「ごめんなさい。靴がないから足が汚れちゃって……何か拭く物ありますか?」

 彼は裸足だった。タオルを手渡すと、彼は礼を述べて足を拭い、廊下へ上がった。

 廊下にて対峙する二人。口火を切ったのは彼だった。

「初めまして。僕は松齢しょうれいと申します。ご存知の通り、移心者です」

 彼が松齢。しかし、想像していたよりも小柄で柔和な人柄だった。

 彼の慇懃な態度に倣い、俺も自己紹介を返す。

「俺は寺池幸です。ここは異世界なんだけど、俺は……」

「ええ、イヴァンさんから聞きました。幸さんは異世界で産まれたんですよね?」

 直截な言葉に俺はたじろいだ。

「全て知ってます。僕は幸さんを殺そうとは思ってないので安心して下さい。それと、僕のことは松齢と呼んで、気軽に接して下さい」

 会って数分で松齢の人間性が把握できた気がする。俺への殺意がないというのも、おそらく嘘ではないだろう。

 言葉遣いや態度を除けば、彼は翔太と同じ性質の人間かもしれない。

「分かった。じゃあ、とりあえず中に入ってよ」

「ありがとうございます。では、失礼します」

 丁寧に断りを入れて座布団に座る松齢。俺も布団の上に座り、彼と対面する。

 俺から話を切り出した。

「えっと、松齢。俺がどういう存在かは知ってるんだよな?」

「はい。全てイヴァンさんから聞きました」

「俺が……現実界の災害を起こしてるってことも?」

「ええ、その可能性が高い、と」

「じゃあ、なんで俺を殺そうと思わないんだ?」

 自分で言うのも妙なのだが、問わずにはいられない。

 松齢は少し沈黙し、そして静かに口を開いた。

「誰かを殺すって、そんな簡単に決められることじゃないでしょ?」

 当然の話。しかし今では、その道理すら俺の心に深く染みる。

「人を殺すっていうのは、最後の手段だと僕は思うんです。あ、ここで言う『人』っていうのには自分自身のことも含まれるんですけどね。殺人とか自殺は、それ以外のどんな道も選べなくなった時に初めて候補として上がるんじゃないですか?」

 それこそが至言。しかし、最近はそんな当然のことすら認識できていなかった。

 だが、それを再確認したところで、やはり選べる道は限られている。

 俺の死か、他人の死か。結局この状況は変わらない。

「だから、僕は幸さんを殺そうとは思いません。幸さんが現実界に及ぼす影響を知った上で、僕は敢えてその道を選びません」

 松齢の宣言には確固たる信念が読み取れるが、その選択も簡単ではないはずだ。

「なんで、そう思ってくれるんだ?」

「どういうことですか?」

「松齢は、俺と会ったのは今日が初めてだろ? なんで、現実界の人達よりも俺を優先してくれるんだ?」

 そこが腑に落ちない。

 確かに、そう簡単に殺人の決断などできない。しかし俺を見逃せば、今後多くの人々を見殺しにすることになるし、彼自身が被害を受ける可能性もある。

 少しの間を置き、松齢は俺の質問に答えた。

「僕は自分を優先してるだけなんですよ」

 予想外の返答。松齢は念を押すかのように、真摯な瞳で俺を見据えていた。

「幸さん、僕はね、植物人間なんですよ」

「……えっ?」

 唐突に何を言い出すのか。

「すみません。いきなり言っても分からないですよね」

「ああ、まあ……植物人間っていうのは、手足が動かせない人のことだったか?」

「そうです。僕は十歳の頃に事故で全身不随になって、もう十一年が経ちました」

「十一年?」

 では、彼は俺よりも年上になる。全くそうは見えないが、十一年も寝たきりとなり、成長速度が著しく衰えたのだろうか。

「現実界では、僕は自分の意思で動けません。呼吸もままならず、常にこんなのを着けている状態です」

「でも、松齢は今も自分で動けているじゃないか」

「そうですね。それが僕の願いだからです」

 なんてことだ……。

 彼の最上の願いは、人間らしく自由に動くこと。本来なら願うまでもないことを、彼は異世界においてのみ実現できている。

 松齢が右手に掲げる、見たことのない物体。それは人工呼吸器だと彼は説明した。

 現実界では、彼は呼吸すら自力でままならない。

 そんな彼にとって、果たしてどちらの世界の方が現実だと言えるのか。

「僕はもう、現実界で生きることは諦めてます。今の僕には、異世界の方がよっぽど現実なんですよ」

 俺がまさに疑問を抱いた点。彼の明確な言葉を受け、俺は一気に親近感を抱いた。

 とても対照的だ。俺は異世界の存在でありながら、ここを現実の世界と思ってこれまで暮らしていた。一方、彼は現実界の存在でありながら、もはや異世界の方をこそ現実と捉え過ごしてきたのだ。

「でも松齢、こんな何もないところを現実だと思えるのか?」

「思えますよ。何があるかなんて関係ありません。ここなら、僕自身が能動的に動けるんですから」

 彼には一片の逡巡もない。彼が達観しているからか、それとも十一年という長い歳月がそのような思考を芽生えさせたのか。いずれにせよ、そこまで割り切って考えられる松齢が少し羨ましくなった。

「僕は、現実界にいる時も意識はあるんです。病室の天井が見えるし、周りの声も聞き取れます。でも、それだけです。だから正直、現実界は退屈ですね。ここなら景色は常に動いていますし、たまにイヴァンさんから色々教えてもらえますから」

「そうか……」

 話を聞く限りは、おそらく彼の方が俺よりも異世界での生を謳歌しているようだ。

 そういえば、この話をする最初のきっかけは……。

「そうだ、幸さんの質問に答えてなかったですね。でも、今のが答えです。僕は現実界よりも異世界を優先したい派なんですよ」

 なぜ現実界よりも、初めて会った俺を優先してくれるのか。その質問がここまで波及し、彼の現状と心理がそのまま回答になっていた。

 彼は、セカイや他の移心者とは一線を画する。想定も想像もしていなかった立場に彼はいて、正直、どう反応すればいいか全く分からない。

「幸さんのこれまでのお話も聞かせてくれませんか?」

 松齢は俺に尋ねた。純粋に好奇心から来る質問だろう。

 俺はこれまでの生い立ちを掻い摘んで説明した。真実を知る前の生活、イヴァンから聞かされた真実、母やセカイの願いにより生かされていたこと、そして、バトガンさんや愛玲との死闘について。

「幸さんは、これからどうするつもりなんですか?」

 話し終えた後、松齢から質問されて俺は少し戸惑った。

「俺は……正直どうすべきか分からないんだ。色々な要素がありすぎて、何が一番正しいのか見当も付かない」

「そんな時は、正しいことをするんじゃなくて、自分のしたいことをするのが良いんじゃないでしょうか?」

 松齢は即答した。それはセカイの主張とよく似ている。

「といっても、幸さんの状況は特殊すぎますよね。悩むのは仕方ないかと」

「ああ、そうなんだ。しかも、悠長に悩む暇もない」

「……幸さんは、善い人ですね」

 それは、慰めるためだけの姑息な言葉には聞こえなかった。

「幸さん、さっきも言ったように、僕にとってはここの方が現実です。だから、僕はどちらかと言うと異世界の味方ですし、幸さんの味方でありたいと思っています」

「そんな……俺の味方なんて……」

「でも、それが僕の本音です。僕は現実界では役立たずなんですよ。家族は僕を延命させるために多額の資金を費やしています。決して裕福な家庭ではないのに。僕は延命なんてやめてほしいのに、それを伝える術はありません」

 言葉が出ない。

「それでも異世界で自由に動ける分、僕はまだ幸運なのかもしれない。でも、誰かの役に立てることはありません。イヴァンさんは僕に色々と教えてくれますが、僕から彼に返せるものは何もないんです」

 壮絶な真情だった。誰の役にも立てず、死にたくても死ねない。彼は表面的には快活を装ってはいるが、その内面には途方もない悲愴と無念が垣間見える。

 俺は、自分こそが人類一の不幸者だとでも思っていたのだろうか……。

「そんな顔しないでください。僕は別に不幸自慢がしたいわけじゃないですから」

 松齢はいつも俺の心情の先を行く。

「ただ、僕は誰かの役に立ちたいと思ってますし、どちらかと言えば幸さんの味方です。幸さんの役に立てるなら、この命を賭けても惜しくないと思ってます」

「なに、馬鹿なこと言ってんだ」

「じゃあ、こうしましょう。幸さん、僕のためにも僕を殺してくれませんか?」

「……」

 何と返せば良いのか……いよいよ松齢の話に着いて行けなくなる。

「お願いします。このまま現実界に行って、寝たきりの僕を殺してくれませんか?」

「待ってくれ。全く意味が分からないんだが?」

「複雑に考えなくて結構です。僕は単純に死にたいんですよ。でも、自分ではどうしようもないし、イヴァンさんに頼める話でもありません。けど幸さんなら、僕の居場所まで一緒に移心できますし、僕を殺したとしても罪に問われることはありませんから」

 松齢は真剣だ。断じて冗談ではない。

 彼は話の途中、腰を上げて台所へ向かい、包丁を携えて戻って来た。

「幸さんは自分の境遇を知って絶望されたのでしょうが、僕にとって幸さんは希望です。幸さんだけが唯一、僕を解放できるんです。そして僕も、幸さんのために死ねるなら何よりも報われます」

「松齢、そこが分からない。松齢を殺すことが、なぜ俺のためになるんだ?」

 俺の問いに、松齢も真摯に答えた。

「それは、今の幸さんが弱いからですよ」

「……弱い?」

「ええ。今の幸さんは、ただ停滞しているだけです。決断しなきゃならないと分かっていながら、答えのない自問自答を繰り返しているだけです」

「それが、弱いということか?」

「そうですね。優しいということでもありますが、いずれにせよ優柔不断です。だから、愛玲という人の言葉で容易く揺れ動いたんでしょう? 幸さんを殺すと決意した他の移心者と比べると、幸さんの意志薄弱は浮彫ですね」

「でもそんな……すぐに白黒つけられる話でもないだろ?」

「そうかもしれません。どちらにせよ幸さんにはつらい選択でしょう。でも、いずれは決めなきゃならない。このままだと幸さんは状況に流されるまま動き、信念もないまま移心者に殺されるだけです。だから、僕は幸さんの背中を後押ししたいんですよ」

「俺を、他の移心者と闘えるように?」

 松齢は首を横に振った。

「違います。正確には『幸さんが決心できるように』です。幸さんには今、他の移心者を殺すべきか迷いがありますよね?」

「そりゃ、簡単に殺すなんてできないだろ」

「でも移心者と闘うのなら、最終的には殺すか殺されるかですよ」

 分かっている。松齢の指摘は的を射ている。俺もずっとそう思いながら、いつまでも決断を先延ばしにしているのだ。

「今の幸さんは、人を殺すのが怖いだけです。そんな状態で、本当に前向きな決断なんてできません。だから、幸さんは僕を殺すべきなんですよ。その後、幸さんが最終的に誰とも闘わず自己犠牲の道を選ぶなら、僕はそれでも良いと思います」

「本当に良いのか?」

「勿論です。そもそも、僕は死にたいんですよ。幸さんの前向きな決断を後押しするために死ねるなら、僕にとっては本望です」

 松齢の話はどこか倒錯している。心から受け入れられるような話ではない。

 だが彼の現状を鑑みれば、むしろ正気である方が変なのかもしれない。彼の態度や言葉が正常だからか、ついついその点を見過ごしがちだ。

 そして、俺もまた異端者。倒錯しているからといって拒否できる立場にない。

 松齢は俺に包丁を差し出した。

「幸さん、これで僕を殺してくれませんか? ここで死んでも、まだ完全に死ぬことにはなりませんから。そして、現実界の僕をその目で見てほしいんです」

 俺はどこか夢心地で包丁を受け取る。松齢は俺に近付き、包丁の切っ先を自らの胸元に当てた。

 だが、彼はそれ以上進まない。最後の一押しは俺の決断に委ねられている。

 松齢は曇りなき瞳を俺に向ける。彼には微塵の躊躇も恐れもない。純真なまま、俺のためにと、その命を差し出そうとしている。

 俺はまだ決断しきれない。しかし彼の移心時間を考えると、もうすぐ帰還の時限。

 それをまるで言い訳のように心中で唱えながら、俺は右手を強く押し出した。

 嫌な感触が右手に走る。松齢は小さく呻いたが、俺は彼から視線を逸らしてしまった。

 そして、視界の変移。

 全面真っ白な部屋の中で、俺は座ったまま佇んでいた。

 狭い室内に人気はない。聞こえるのは規則正しい機械音。それに被さり、空気の漏れる音がベッドの上から聞こえた。

 腰を上げ、ベッドの上を確かめると、彼が横たわっていた。

「松齢……なのか……?」

 問い掛けるも、答えはない。口元に呼吸器を付け、瞬きすらしない松齢。異世界で話した彼とあまりにも乖離した様相に、胸が締め付けられた。

 彼は現実界でも意識があると言っていた。なら、俺の言葉は届いただろうか。だが届いても、彼には応える術がないのだ。

 それはどれほど孤独だろうか。

 死にたい、という彼の心境に返す言葉はない。

 異世界の方が自分にとっては現実だ。彼のその言葉が改めて脳裏を過ぎる。

 セカイも、同じような心境だったのだろうか。何年も何年も……。

 今、俺の右手には包丁がある。俺はそれを彼の目の前に掲げた。

「本当に、死ぬことだけが救いなのか?」

 思わず零れた問いに、彼はやはり応えない。

 この包丁を振り下ろせば、それで彼は死に至る。俺は彼のために殺し、彼は俺のために死ぬ。これ以上に刹那的で互助的な関係はないのかもしれない。

 それが彼にとっての救いだというならば、俺はこの手を血に染めよう。

 そう思った勢いで、右手を大きく振り上げる。

 だが、ふと視野の端に留まった一輪の花が、俺に躊躇を齎した。

 右手が振り下ろされ、右手と胸元に嫌な感触が蘇る。

 躊躇は俺の動作を止めるに至らず、俺は不恰好に軌道をずらし、自らの胸元に包丁を突き立てていた。

 呻き声が漏れ、頽れる。先刻の松齢と同じ状況。

 殺すつもりだった。だが、彼のために生けられた一輪の花を見た時、俺は躊躇してしまったのだ。

 そうして、景色は再び異世界へ。

 死の余韻にしばらく呆けていると、松齢が部屋の入り口に現れた。

「あれ、やっぱり異世界ですね。幸さん、自分を刺しちゃったんですか?」

 松齢の疑問に、俺は無言のまま頷いた。

「どうしたんですか? 直前まで僕を刺そうとしていましたよね?」

 松齢はやはり、目の前の包丁が見えていたのか。

「花が、飾られてたんだ……」

「花? ああ、お見舞いの花ですか」

「大切な人からの花じゃないのか?」

「ええ、きっと母のものでしょうね」

 淡々と答える松齢に、俺はようやく視点を合わせた。

「松齢のお母さんは今も、息子の快復を望んで見舞いに来てるんじゃないのか?」

「……ええ、そうですね」

「なら、松齢が死んだら悲しむんじゃないか?」

 当たり前の質問をすると、松齢は溜息を吐いた。

「幸さん、それが躊躇した理由ですか」

「分からない。そうかもしれない」

「母は確かに、今でも見舞いに来てくれます。でも、もう希望はないんです。母はただ、自分で延命を止める決断ができないだけなんですよ。そのために、自分や家庭を犠牲にして延命の資金を出し続けています。僕はその連鎖を断ち切りたいんです」

 だがそれは、彼の母にとって本当に良いことなのだろうか?

「幸さん、さっき病室で僕に何か呟きましたよね?」

「ああ、聞こえてたのか?」

「ええ、何と言ったのかは分かりませんでしたが」

 松齢とは言語が違うからか。

「本当に死ぬことだけが救いなのか、って言ったんだ」

 俺の言葉を受け、松齢は無言で考え込んだ。

「なあ松齢、本当に希望はないのか? 生きていれば、いつか病気が治ることだってあるんじゃないのか?」

「ええ、可能性はゼロじゃないでしょうね」

「なら、もう少し頑張ってみても……」

「頑張るのは僕じゃないですよ、幸さん。頑張るのは母であり、医者です。そういう意味で、僕には希望がないんです」

 松齢の言葉に俺は押し黙る。

「僕に足掻く余地があるなら、いくらでも足掻きますよ。でも、僕には足掻くことすらできません。最終的に解決するのは、時間の経過だけです。しかも、永遠に解決できないかもしれない。そんなものを希望と呼ぶことは、僕にはできませんから」

 待つだけでは希望と言えない。それほど、彼は待ち続けたのだろう。

「だから幸さんの質問に答えるなら、死ぬことだけが僕にとっての救いなんです」

 そう断言されては、俺にそれ以上返せる言葉はない。

 松齢の悲願に応えるには、やはり俺が手を下すしかないのか。

 考えは纏まらない。そんな最中、貸してほしいと言われるまま、俺は松齢に包丁を手渡した。

「僕の病室に、等間隔で音を出す機械がありましたよね? あれは心電計です。あれが規則正しく波打っている限り、僕は生きていることになります」

 そうなのか、としか言えなかった。

「幸さん、僕を殺すのに包丁は要りません。僕の呼吸器を外してしばらくすれば、僕は呼吸不全で死にます。その時、心電計にも変化があるはずです」

 だから、今は松齢が包丁を持っている。せめて人を刺殺する感触は味わわせないでおこうという、彼なりの気遣いだろうか。

「幸さん、最後に貴方に出会えて幸運でした。こんなお願いをするのは本当に申し訳ないですが、でも僕を救えるのは幸さんだけなんです」

「そんなことは……」

 ないはずだと心から言えたら、どれだけ救われただろうか。

 だが、八方塞がりの状況にいる彼に、姑息な慰めは意味がない。

「僕は、幸さんが羨ましいです」

「……」

「死ぬ以外に、選べる道があるんですから」

 松齢は笑顔でそう言うと、自らの胸元に躊躇なく包丁を突き入れた。

 二度目の移心。

 俺は再び純白の病室へと舞い戻った。

 松齢は変わらずベッドに横たわっている。今、俺の手元に包丁はない。だが、彼の呼吸器を外すだけで、無限のような孤独から彼を救ってやれる。

 そうだ。それが彼にとっても、そして俺にとっても最良なんだ。

 俺は自分にそう言い聞かせ、彼の呼吸器に手を掛けた。

 彼の吐息が聞こえる。呼気の熱が感じられる。だが、それは全て機械が彼を動かしているから。彼の意思で動いているわけではない。

 松齢の目を見つめる。瞳は動かず、焦点は虚ろ。本当に見えているのかと疑うくらい、彼の目には光が宿っていない。

 だからこそ、俺も悟ってしまった。彼はもう二度と現実界で意思疎通ができないのだと。時間が経てばというのは、無理解で無責任な発言だったのだ。

「すまない。松齢……」

 最後に謝罪を述べ、俺は右手に力を込める。

 震える手はなかなか動かない。それでも、その五指は呼吸器を掴み、彼の口元からそれを引き剥がした。

 呼吸器から空気が漏れ、虚空に溶ける。彼の口元は無音になったが、その後しばらくして心電計の音が大きくなった。瞬く間にうるさくなり、彼の全身が震え出す。

 その現実を、俺は無心で見つめている。その意味を考えないようにし、呼吸器を戻すこともなく、ただ彼の横で立ち続ける。

 そうして、心電計の音は等間隔から連続音に切り変わった。

 彼の様子は先刻とほぼ変わらない。穏やかに眠っているように見える。だが、心電計の打電音の変化が、この室内で不可逆の事象が起こったのだと思い知らせた。

 その後はよく覚えていない。病室に慌ただしく誰かが入室し、俺は誰かに腕を掴まれてどこかへ連れ去られ、理解できない言語で詰め寄られている内に帰還していた。

「……」

 見慣れた自室。しばらく言葉は出ず、動くこともなかった。

 俺は、一体何をしたのか。目を背けようとしても、意識ある限りいずれはその自問に辿り着く。

 見ない振りは、もうできない。

「松齢……」

 呼び掛けても答えはない。先刻までの快活な声は、もう二度と聞けなくなった。

 俺は松齢を殺したのだ。彼は現実界からいなくなった。

 そして、この異世界からも……。

 俺は人を殺した。

 俺は移心者を殺した。

 そして俺は、掛け替えのない知人を失った。

 認識した瞬間、膝の力が抜ける。床に蹲る体勢で、声にならない呻きを上げた。

 悲しいのか、それとも寂しいのか。

 恐怖なのか、それとも罪悪感なのか。

 何が俺を苛むのかも分からないまま、俺は衝動のままに呻き続けた。

 俺に殺されることでのみ誰かの役に立てる、と松齢は言った。だが、それは違う。彼と出会い、話しているだけで俺の心は満たされていた。自分にない価値観、思想に触れられただけで新鮮だった。真実を知った今では、より一層そう思う。

 今後新たな移心者と出会える確率が、果たしてどれだけあるだろう? 奇跡とも言えるその芽を俺は手ずから摘んでしまった。どれだけ悔いても取り返しが付かない。

 心に空洞が生まれる。どうしようもない喪失感に胸が締め付けられる。

 本当に、他の手立てはなかったのだろうか?

 これが俺にとっての最良の選択だったのか?

 分からない。だが、松齢にとっては死以外に希望がなかった。それを齎せる俺だけが希望だと彼は言った。なら、俺は彼を救ったのだ。それだけは認めなければならない。

 なのに、懺悔が心から離れない。

 俺は蹲りながら、何分もの時間を過ごした。

 顔を上げる時は、松齢の献身に応える時。そう意識しながら、自分の仕出かしたことを改めて熟考する。

 松齢の最期の言葉が蘇った。

 俺には、死ぬ以外に選べる道がある。彼には死しかなかった。それだけが救いだった。だからこそ、俺のような存在でも羨ましいと思えたのだ。

 死ぬことだけが救いなのか?

 俺は松齢にそう問うた。なら、俺はそれを自分にも問わねばならない。

 待つだけでは希望とは言えない。

 松齢はそう言った。なら、俺はどうか?

 俺は動ける。彼とは違い、自分が生きるこの世界で、俺はまだ自由に動けるのだ。

 移心は、どうしようもない現象かもしれない。だが、誰がそう決めた? セカイが、あるいはイヴァンがそう決めたのか?

 否、そんなことはない。移心に抵抗できないというのは思い込みだ。何もしない内から、これまでの経験と周りの言葉によって形作られた先入観だ。

 そう、俺はまだ動ける。死以外の解決を探求できる。ならば俺は、俺を守り後押ししてくれた全ての者のためにも、死以外の救済を見つけてみせる。

 決して強がりから出た結論ではない。松齢はやはり俺の背中を押してくれたのだ。

 俺は立ち上がった。

「セカイ、いるのか?」

 誰もいない空間に声を掛ける。すると、彼女は俺の右方に現れた。

「幸……」

「セカイ、今のも見てたのか?」

「ええ、彼は結局……」

「俺が殺した。現実界で」

 俺の淡白な答えにセカイは息を呑んだ。

「俺は彼に色々なことを教えてもらった。そして、覚悟したよ」

「……何を?」

「今後の方針について。それをセカイにも知ってほしいし、セカイに協力をお願いしたいんだ。いいかな?」

 セカイは迷いなく頷く。

 そして、俺は簡潔に話していった。俺の今後の生き方と、目指すべき指針。そして、相対する移心者にどう立ち向かうか。

 セカイは概ね、俺の姿勢に賛同してくれた。だが、移心者への対応について彼女は異議を唱えた。

「ああ、分かってる……」

 俺もセカイの異議に同意する。

「俺の対応は確かに中途半端かもしれない。でも、俺は敢えてそうしたいんだ。それは迷いでも躊躇でもなくて、松齢の死を受けて俺が抱いた願いだから」

 だから、もしセカイがその意思に反発するなら、俺はセカイとも闘うつもりだ。

 口に出さずとも決意が伝わったのか、セカイはそれ以上反駁しなかった。

「じゃあ私は、幸を守ってもいいんだよね?」

 代わりにセカイは念を押す。俺は強い信念を以て頷いた。

 犠牲を完全に失くす方法はない。俺は改めて、自分が罪を背負い生きていくと覚悟する。

 俺は、これからも現実界を犠牲にする。そして、この世界をも。

 それでも、松齢に教えられた。無意味な人生なんてない。どんなにつらくとも、死ぬ以外に解決を見出したい。どうしても足掻けなくなった時、死しか救いがないというのなら、自ら死のう。だがその瞬間が来るまで、俺はこの呪われた運命に抗い続ける。

 絶望に倒れ伏すまで、俺は生き抜く。

 その意思を胸に、俺は来るべき決戦を覚悟した。


 松齢との出会いと別れから一週間が経った。

 俺は移心者と闘うことを決意したが、しかしこの一週間は穏やかだった。バトガンさんや愛玲はおろか、他の移心者とも会っていない。その分、俺は充分すぎるほどの時間を対策と準備に割けた。

 最大の障壁はバトガンさんだ。彼をいかに御するか、俺はセカイと入念に打ち合わせ、実戦を想定してシミュレーションを繰り返した。

 一方、俺は解決策の模索も始めていた。

 どうすれば、俺が生きたまま現実界の犠牲を減らせるか。最も手っ取り早いのは、俺が移心しないこと。移心の発動をいかに制御するかが最初の課題だ。

 経験上、扉を通り抜ける際に移心する確率が高い。母も確かそう言っていた。何らかの境界を超えるという行為が、心の転移を誘発するのだろうか。

 半信半疑ではあるが、まずは扉を潜らないよう心掛けた。それで少しは頻度が落ちた気もするが、しかし何日後かに眠りに就いた際、俺は現実界へ移心していた。扉を全く通らないからといって、移心が皆無になるわけではない。その事実に俺は落胆したが、しかしまだ一週間足らずで完璧な対策が出るはずもない。可能性の一つを検証できただけでも大きな収穫だろう。

 前向きな姿勢は固持した。出口の見えない闇路を進む以上、その姿勢を崩せば終わりだとすら思えた。ゆえに、今もまた別の方法を考えている。時にはセカイとも相談し、何時間も話し合った。

 だが、それでも答えは出ない。有効な仮説すら浮かばない。

 俺とセカイでは、思考の視野が狭いのかもしれない。もっと違った視点から状況を俯瞰すれば、有効策を見出だせるかもしれない。

 なら、次にすることは明確だ。母や翔太、もしくはイヴァンに意見を仰ぐ。多くの人の意見を取り入れられたら、何か手立てが見つかるはず。

 あるいは、バトガンさんや愛玲ともこの方向性を共有し一緒に意見を出し合えれば、どれほど素晴らしいだろうか。そんな希望すら、俺はまだ夢想してしまっていた。

「幸……」

 不意に、セカイが室内に現れた。その声質と真剣な表情を確認し、俺は状況を瞬時に察知する。

「セカイ、どっちだ?」

「バトガンよ。今、外にいるわ」

 セカイの言葉を受け、俺の全身に緊張が走る。

 遂に、この時が来た。いずれは来ると覚悟しながらも、しかしこの一週間は穏やかに過ごせた。その何気ない数日が今となっては渇望される。

 安寧の日々は、今日で終わり。俺は今から死地に赴く。

 セカイから場所を聞き、俺は装備を持って外へ出た。

 事前に用意していたのは二つ。いつも地震の際に被っていたヘルメットと、台所にあった包丁である。ヘルメットが防具で、包丁が武器。バトガンさんを前に、ヘルメットにどれだけの効果があるかは疑問だが、ないよりはマシだろう。

 普段通り雨が降りしきる中、俺は一目散にバトガンさんのいる方角へ走っていった。

 セカイが警告したということは、彼が射程圏内に移心したということ。家で籠城を続けたとしても、数秒も経たずに襲撃されるだろう。室内ではセカイの土塊の守護が機能しない。だからこそ室外で決着を付けるべく、俺は敢えて姿を現した。どうせ逃げたとしても、彼から逃げ切れるはずはないのだから。

「バトガンさん!」

 そうして、俺は彼と距離を隔てて対峙した。

 前回と異なり、今回の彼は徒手空拳。直立し、俺を真正面から捉えている。

「自分から姿を見せるとはな……」

 彼の第一声は驚愕と賛辞が入り混じっていた。

「闘うつもりなんだな?」

 彼の短い言葉。雨音に紛れることもなく、俺の心に直接響く。

 俺は威圧されながらも、気丈に答え返す。

「俺は生きます。この異世界で。でも、犠牲から目を背けて生きるわけじゃない。俺は全ての罪を自覚しながら、それでも自分が死ぬ以外の道を探し続けます」

「そのために、自ら闘うというのか?」

「そうです。足掻きようがなくなるまで、俺は闘い続けます」

 俺の宣言を受け、バトガンさんは数秒俯いた。

「なるほど。前よりも決意は固いようだな」

 彼の言葉に俺は強く頷く。

「なら、私も言うことはない。私もここでの勝負に全力を尽くす。それでもなお、君が私を打ち負かせたのなら、その時は私も君の覚悟を受け入れよう」

 それが、言葉による応酬の終着点。

 直後、バトガンさんの肉体が変化し始めた。腕や足の筋肉が隆起し、彼の体は一瞬で一回り以上も巨大化した。

 それは、前回の怪物の再現。

 前回の死闘を想起する。怪物に嬲られるだけだった体験が思い出され、全身が身震いする。手足が震え、冷汗が垂れる。喉が枯れ、歯が震える。総身に恐怖が呼び起こされ、手足が委縮する。

「セカイ!」

 だからこそ、叫んだ。その行為が自身を発奮させ、震えを無理矢理押し込める。

 そして、俺の叫びにセカイが呼応する。彼が肉体強化し今まさに地を蹴らんとした瞬間、足元の泥土が固まり彼の両足を捉えていた。

 だが、それは単なる時間稼ぎ。彼が咆哮とともに足元の土塊を振り払った時には、俺は退歩して彼から距離を取り、空からの第二の援護を視認する。

 大量の雨。先刻からの雨量をはるかに凌駕する豪雨が、俺達の周囲に降り注いだ。

 それはセカイの守護。彼女が干渉できるのは地面だけでない。異世界の森羅万象を操れると知り、俺はこの守護を彼女に打診した。

 まるで滝のように降りしきる雨は、上方からの圧力となって彼の跳躍を妨げる。土塊の勢力が届く地上であれば、俺にもまだ勝機はある。

 豪雨は視界を妨げ、遠方にかろうじて彼の影が見える。彼は纏わりつく土塊を冷静に振り払っており、その様子が耳にも届いた。

 ここまでは何度もシミュレーションしたこと。時間の流れを感じる余裕もある。

 だが、彼の大地をも震わすような咆哮によって、一気に緊張が舞い戻った。

 土塊の崩れる音。それに先んじて彼の影が一瞬で迫る。

 三十メートルの距離が瞬時に十五メートルへ。俺と彼の間に土塊の壁が現れた。

 再びの咆哮。彼は意に介さず壁に突進し、突き破った。

 二枚目の壁は、叢生した瞬間に破壊される。雨の隙間からは、彼が目前。俺達の間に最後の壁が現れ、二人は遮断。

 その瞬間、俺は前方に走り出した。

 セカイには反対された案。だが、彼を打倒するには前に出なければならない。

 躊躇はない。俺もまた、あらん限りの咆哮を振り絞る。

「幸、今よ!」

 横から響いたセカイの声。その直後、眼前の土塊は一瞬にして泥土へと戻った。

 壁が去り、現れたのは壁の如き巨躯。突進の勢いがそのまま威圧とともに襲い来る。

 だが、彼は瞠目していた。突き破ろうとした壁が消え、そのすぐ向こうから俺が現れたのだ。突進の勢いは止まらず、次の対応は追い付かない。

 ありったけの咆哮。発奮。全身に力を込め、右手に持つ包丁を突き出した。

 全ては一瞬。包丁の切っ先は彼の胸元を正確に捉えていた。

 右手には確かな手応え。

 そして耳には、なぜか鋭い金属音。

 豪雨が収まり、視界がクリアに。

 右手にある包丁……折れている。根元から。

 なぜ……。

「幸っ!」

 セカイの声。足元から土塊が生える。

「がっ!」

 その土塊が微塵に砕けた光景に先駆け、俺は吹き飛ばされた。

 呻きは一瞬。視界には血飛沫が舞い、背中に不時着の衝撃。嘔吐と吐血が一頻り襲いかかった後、腹部の激痛に身悶えた。

 何が起きたのか分からない。分からないまま、彼の近付く音だけが聞こえる。彼は土塊を砕きながら走ってくる。足音はどんどん近付いている。俺は身動きできず、地面は蠕動によって俺を彼から遠ざけているが、その速度は彼に及ばない。

 身体は激痛に苦悶し、思考はパニックに陥った。包丁で突き刺したのに、刃は彼の皮膚を通らなかった。肉体強化とは、筋力だけではないのか? 体表すら鋼に変えるのか?

 だとしたら、元から俺に勝機はあったのか?

 思考が覚束ないまま、死が迫る。蹲りながら地面の揺らぎだけを感じていた。

「あ……」

 間抜けな声とともに足首が掴まれ、持ち上げられる。捻じ切られたかとすら思えたが、俺は足首を起点に空中へ上げられ、そのまま地面に叩き付けられた。

 衝撃に一瞬意識が飛ぶ。

「幸! 幸っ!」

 ずっと聞こえるセカイの悲鳴。だが、もう動けない。

 もう、意識は朧ろ。視界は霞み、聞こえるのは鬼神の咆哮。

 仰向けの俺を見下ろすのは、土の巨人。それは前回の焼き直し。だが、今回はまだ時限にはほど遠い。

 咆哮一閃で土塊が砕ける。俺は足元から土に覆われていくが、その稚拙な庇護すらもう遅い。

 彼は拳を引き、俺を捕捉する。

 土塊はまだ彼の足元。

 俺は、指一つ動かない。

 終わった……。

 観念し、目を閉じる間もなく最期を迎える。

 ごめん、セカイ……。

 そうして、死を受け入れた時だった。

 眩い閃光。それと同時に、まるで悲鳴のような轟音。

 視界が真っ白に染まる。一瞬の出来事に、しかし異世界の全てが止まったような錯覚。

 目にしたのが雷光で、耳にしたのが雷鳴だと分かったのは、景色が一変してしばらくした後だった。

「……」

 異なる色彩。異なる風景。紛れもなく、移心による変化である。

 狭い空間だった。所々は異なるにせよ、それはイヴァンの自室とよく似ている。

 仰向けのまま視線だけ動かすと、そこには部屋の主がいた。

「……」

 声は出ない。傍にいるバトガンさんもまた、無言を保っている。

 理由は分からないが、理解はできた。俺はバトガンさんと共に現実界へ移心したのだ。つまり、バトガンさんは異世界で死んだということ。俺を殺す前に。

 死因は……? やはり、最後の雷だろうか。

 だが、彼は今まさに俺を殺すところだった。そんな絶妙のタイミングで?

「……」

 まさかという思いが過ぎる。セカイは異世界の天候すら操れた。なら、雷を意図的に落とすことも可能かもしれない。

 だが、それは禁則事項だ。セカイ自身が移心者を殺してはならない。殺した瞬間、異世界の矛盾は一気に膨れ上がり、異世界は崩壊への決定的な一線を越える。イヴァンはそう警告し、俺もそれだけはするなとセカイに言い置いていたはずなのに……。

 戸惑う俺に構わず、バトガンさんが隣まで近付いていた。

「幸くん、立てるか?」

 彼はとどめを刺すのではなく、俺に話し掛けた。だが、その言葉は異世界で聞いたそれよりもたどたどしい。

 確か、現実界では意思疎通ができなかったはずでは?

「言葉が通じるんですか?」

 率直に訊くと、彼は反芻するように間を空けて答えた。

「日本語、少し勉強した。問題ない。ゆっくりなら」

 発音もイントネーションも少し変だったが、意味は理解できた。

「私は、負けだな」

 彼はぽつりと宣言し、俺に何かを手渡した。

「それで私を殺せ」

 彼はそう言い、俺は右手にあるのが包丁だと知る。俺が異世界で所持していたのとは違う。元からこの部屋にあった備品だろう。

 だが、腑に落ちない。

「どういうことですか? 俺を殺すつもりだったんじゃ……」

「ああ、私は全力で闘った。そして、負けた。だから、君の覚悟を受け入れる」

 そうか。戦闘の前、彼は言っていた。全力で闘い、それでも俺が彼を打ち負かせたなら、俺の覚悟を受け入れると。それはすなわち、俺に殺されることを受け入れるという意味だったのか。

「でも、あれは俺の力で勝ったわけじゃありません。雷のおかげです」

「それは私も。私は自分の願いで力を得た。それで君を殺そうとした。だから、あの雷が反則だとは言わない。言うつもりはない」

 それがバトガンさんなりの理論。

 彼は全力を尽くす代わりに、負けた時は潔く殺されると決めていたのか。

 それが彼の覚悟だというなら、俺は応えねばならない。

 腹部が痛い。目もちかちかする。それでも俺は気力を振り絞り、立ち上がる。

 両足でしっかり地を踏み、彼を真正面から見据える。

 そして、信念の下に応えた。

「バトガンさん、俺は貴方を殺しません」

「殺さない? なぜ?」

「もう誰も殺したくないからです」

 簡潔すぎる答え。しかし、そこへ行きつくまでに果てしない懊悩があった。

「バトガンさん、俺は一週間前、一人の移心者に会いました。彼は植物人間で、現実界ではただ延命させられているだけでした。自分では死にたくても死ねなくて、だから、俺に殺してほしいと言ってきたんです」

 バトガンさんにも聞き取れるよう、ゆっくりと説明する。

「俺はそれに従い、彼を殺しました」

「殺したのか? この現実で?」

「そうです。それが俺自身を強くするからと彼は言いました。そのために……俺のために死ぬなら本望だ、とも……」

 語りながらも胸が締め付けられる。彼の屈託のない笑顔が脳裏から離れない。

「俺は確かに、彼のおかげで覚悟ができました。でも同時に、ひどく後悔しました。俺は、一人の移心者を殺してしまったんです」

 俺が交流できる数少ない移心者を。

 あの瞬間、まるで自分の世界が大きく欠けたようだった。未来へ続く道の、その道幅が不意に狭くなったような錯覚。そして、胸の空洞は二度と埋まらない。俺は松齢を手ずから失った。俺はそれを生涯に渡って後悔し続けるだろう。

「だから、俺はもう誰も殺しません。もう、あんな後悔は二度としたくないんです」

「しかし私を殺さないなら、君は狙われ続けるぞ」

「その時は何度でも闘います。でも最後の最後、殺しません。それが俺の覚悟です」

 微塵の躊躇もなく言い切った。

 中途半端な覚悟だろう。端からは偽善に映るかもしれない。

 それでも、それが俺の真情なのだ。俺は死の淵まで、この信念と共に生き続ける。

 バトガンさんは終始無言だった。真剣な表情で俺の言葉を噛み締めている。

 長い沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。

「君の覚悟は、理解した」

 一言一句、はっきりと紡がれた。

「私は君を尊敬する。私は負けだ。君の覚悟に従おう」

 彼は俺を見据え、そう宣言した。拙い言葉使いの中には、彼の感情がこれまでで最も現れている。

「私は君を殺そうとした。全力を出し、それで負けて死ぬなら悔いはない。だが、今気づいた。それは逃げだ。私は、自分を解放したいだけだった」

 彼は一呼吸置いた。

「だから、私は自分の負けを受け入れる。その上で、これからは君を殺そうとせず、死ぬこともなく生き続ける」

 彼は宣言した。それはある意味、彼にとっての罰なのかもしれない。彼はきっと、自分の胸に蟠る無念と憎悪から解放されたかったのだ。俺を殺すにしろ、自分が死ぬにしろ。

 だが彼は敗北を認め、俺を殺すことも自ら死ぬこともなく生き続ける。無念と憎悪に苛まれながらも前に進む。それが彼の選んだ道なのだ。

 俺は感謝し、同時に深く安堵した。俺は闘い続けると答えたが、それはほとんど強がりだ。本気の彼と何度も闘って生き延びる自信はない。いや、おそらく次の戦闘で確実に殺されただろう。そこに恐怖はあった。だからこそ彼の決意を耳にし、俺は思わず脱力して膝を突いた。

「大丈夫か?」

 バトガンさんの問い掛けに空元気で応える。すぐに立ち上がろうと思ったが、体は存外動かない。今になって全身の痛みも蘇ってきた。

「すみません。少し休みます」

「そうか……すまない」

 彼の謝罪に応える余裕もなく、俺は仰向けに寝そべった。

 途絶しかける意識を鈍痛が覚ましていく。特に腹部の痛みが尾を引いている。もしかしたら肋骨が折れているのかもしれない。

「幸くん、君はこれからどうする?」

 バトガンさんが問うた。

「俺は、生きます。同時に、何か解決策を探します」

「解決策?」

「ええ、とりあえず、移心を制御できる方法がないか、今探している最中です。それができれば、少なくとも現実界にこれ以上迷惑を掛けることはありませんから」

 バトガンさんは暫し黙り込んだ後、答えた。

「そうか。前向きに生きようとしているな。なら、その方法を私も考えよう。何か良い案があれば、伝えるよ」

「ありがとうございます!」

 俺は叫ぶように深謝した。

 泣きそうになった。俺を殺そうとしたバトガンさんは、今や俺の良き理解者となったのだ。これほど嬉しいことはない。

 もう、彼の殺意に怯えることはない。そう思うと、痛みが徐々に引いてきた。気のせいかもしれないが、しかし穏やかな心地に包まれていた。

 途端、意識すら薄らいでいく。堪えようのない睡魔が沸き起こる。バトガンさんに何か言おうとしたが、口も瞼も重く開かない。

 視界は暗く、体は重い。バトガンさんの気配だけを身近に感じ、俺は意識を失った。


 目が覚めると異世界に戻っていた。

 薄暗い風景。背中には土の感触。雨が強かに打ち付け、全身の痛みは先刻よりも増している。

 そして、セカイがすぐ傍に佇んでいる。

「幸、大丈夫?」

 彼女の問いに答えようとし、腹部の激痛で思わず呻く。現実界で少し和らいだ痛みは、帰還するとまた復活していた。

「幸、ごめんね。また痛い思いをさせてしまって」

「大丈夫だ。致命傷ってほどじゃない。むしろ、最後まで守ってくれてありがとう」

 俺は心から謝意を伝える。俺がバトガンさんに腹を殴られた後も、彼女は彼を拘束せんと粘ってくれていた。それがなければ、俺は今頃彼に殺されて……。

 そこで俺は、最後の雷撃を思い出した。

「セカイ、最後の雷は……あれは……」

 まさかという心境で尋ねると、セカイは俺から目を逸らした。

 まるで人間と同じ反応。むしろ彼女の方が、下手に捻くれた人よりも素直に感情表現するのではないか。

「セカイ、どうなんだ? 答えてくれないか?」

「それは……」

 口篭るセカイ。それは肯定と同義だ。

「セカイ自身が移心者を殺すのは絶対ダメだと、イヴァンは言ってたよな? 俺も、それだけはするなと言ったはずなのに……」

「ごめんなさい、幸。私も最後まで頑張ったのよ。でも、彼は強すぎた。あのままだと貴方が死ぬしかなかった。だから、私は……」

 セカイの悲痛な声色に胸が締め付けられた。

「いや、俺の方こそごめん。助けてもらったのに、責めるような言い方して」

「いいえ、私が悪いのよ。もっと他の方法があったかもしれないのに」

「セカイは悪くないよ。バトガンさんを帰還させるには、確かに雷を落とすぐらいしか手はなかった。刃物じゃ彼は殺せなかったわけだし」

 あの瞬間は間違いなく、俺が死ぬかセカイが彼を殺すか、その二択しかなかった。そしてセカイは自身の崩壊も厭わず、俺の命を優先したのだ。

「セカイ、本当にありがとう」

 純粋に感謝は尽きない。だが、セカイは取り返しの付かない一線を越えてしまった。

 直後、地面が揺らいだ。始まりこそ慣れた地震だったが、しかしその揺れは天井知らずのまま大きくなっていく。

「幸、大丈夫?」

 セカイは俺を心配する。寝そべったままの俺には何もできないが、しかし何かの下敷きになる恐れはなく、心配ない旨を答え返した。

 だが、震度はますます増していく。これだけ大きな地震は初めてだ。俺はひたすら収束を待つが、しかし揺れは激しくなるばかり。

 これが、この世界の崩壊の始まりなのか。

 永遠に続くかと思われた地震は、何分もの時間をかけてようやく沈静化していった。

 揺れが完全に収まる。しかし、まだ揺れているような錯覚。いや、実際に脳はまだ頭蓋の中で揺れているのだろう。

 暫くしてから、雨が勢いを増した。

「セカイ、これは……」

 まるでバトガンさんとの戦闘時のよう。しかし、これはセカイの意思ではない。豪雨とともに何筋もの稲妻が各所で落ちている。

「幸、立てる? ひとまず家まで戻りましょう」

 セカイは申し訳なさそうに提案した。確かに、このままだと体力は削ぎ落とされる一方だ。治療のためにも、まずは家へ戻るべきだろう。

 足にも力が戻って来たので、ゆっくりと立ち上がった。

 少しふらつく。腹部と足首の鈍痛は健在であり、頭痛までしてきた。

 家は十メートル先だが、そこまでの道程を思うと気が遠くなった。

 歩き出そうとして、ふと気づいた。頭からずぶ濡れになっている俺は、ヘルメットを被っていない。バトガンさんと闘う前は被っていたが、戦闘中に飛ばされたのか。

 雨が視界を妨げる中、何気なく探すと、少し遠くに白い影が見えた。大きさからも、俺のヘルメットに違いない。生憎、今の足取りではとても取りに行けないが、体が治った後で拾いに戻るとしよう。

 そう思った時、またも地面が揺れた。しかし先刻とは違い、今度は縦に揺れる感覚。

 瞬間、地面が隆起した。転びそうになるも、なんとか踏ん張って踏み留まる。

 同時に聞こえたのは、地鳴りの音。そして、今まで見ていたヘルメットの影が不意に消えた。地面に落ちていたはずなのに、それより下に落下したのだ。

 地割れが起きていた。周囲を見渡せば、地鳴りと共に地面が割け、底なしの影が徐々に面積を広げている。

 大地の崩壊。天空では雷鳴が鳴り止まない。

 俺は明確に理解した。この世界は間もなく崩壊する。もう取り返しが付かない域にまで達してしまったのだと、異常な光景を前にして確信した。

「セカイ……」

 思わずセカイを見やる。感謝と謝罪の念を込めて。

 しかし彼女は、俺を見ていない。別の方向を見つめ、瞠目している。

「ああ、そんな……」

 まるで諦念、あるいは恐怖の伴うセカイの声色。彼女の目線を追い、俺もその感情を共有する。

 視線の先、雨の簾の向こう側に人影があった。

「愛玲……」

 思わず口にする。そのシルエットはまさしく彼女のもの。

 一瞬、雨足が弱まる。視界が戻り、彼女の姿がはっきり見えた。

 尖った眼光。禍々しい憎悪の視線。そして、彼女の手には長い得物。

 それは、鋭い光を放つ長刀だった。

「幸、逃げて!」

 セカイの喚起。それよりも早く俺は駆け出し、俺よりも早く愛玲は地を蹴っていた。

 向かうは家。足元は覚束ない。少しでも身を潜められる場所へ。

 背後から接近の気配。振り返る余裕はない。セカイの守護は封じられ、恐怖と絶望がじわりと襲い来る。

 玄関が見えた。だが、足音もすぐそこ。もう、それ以外何も聞こえない。

 渾身の力で扉を開け、中に入り扉を閉める。

「ぎぁ!」

 思わず鈍い声が漏れる。扉が閉まりきる直前、隙間を抜けて侵入した刃が俺の左腕を容赦なく貫いていた。

 扉の隙間、鬼のような形相の愛玲と目が合った。

 刹那、刀が素早く引き抜かれる。尋常ならざる激痛に呻き、俺は扉から離れて廊下へ這い蹲った。

 全身に力が入らず、這うように逃げる。

 扉が勢いよく開く音。恐怖が腰を上げ、足に力を戻した。

 急いで自室へ。背後から愛玲の憤怒が轟く。

「があぁ!」

 そして、呻いた。背中に鋭い痛み。切り付けられ、意識が飛ぶ。

 受け身もなく部屋に転がり、その衝撃で意識が戻る。

 仰向けで自室の入り口を見据える。刀の切っ先と睨み合い、その奥の形相が霞む。

 動けないまま、刃先が迫る。

 そこでようやく、死を覚悟した。

「幸!」

 横から絶叫。視界が覆われる。

 刀は俺の腹部を刺した。だが、本来なら心臓に来ていたはず。

 軌道が逸れた。俺と愛玲の間に割って入った、母の体によって。

「あ……」

 母が短い声を上げる。背中から胸へ、刀は無慈悲に貫いていた。

 そして、世界の変化。

「……」

 仰向けのまま無言。意識も視界も掠れている。

 だが、風景は変わった。風雨はなく、強い光が全身に降り注ぐ。

 現実界に移心したのか。しかし、なぜ……。

「幸! しっかりして!」

 慌てて駆け寄る誰か。その声以外、どんな音も聞こえない。

「駄目よ、幸! 目を開けて!」

 必死の懇願が届く。ああ、これは紛れもなく母の声だ。

 俺は力を込め、両目を開けた。

「母さん……」

 俺の声は、絞るようにして喉から出た。

 母は、天上の光から守るように俺を抱えている。その両腕の温もりをしかと感じ取れた。

「幸、ごめんなさい……こんなになるまで、何もできなくて……」

 忸怩たる声色。だが、そんなことはない。母は最後に俺を守ってくれた。

「母さん、ありがとう……」

 感謝を伝えると、母の表情が悲痛に歪んだ。

 俺の頬に水滴が落ちる。だがもう、よく見えない。それに何だか、背中がやけに水浸しになっていて気持ち悪い。

 周りには誰かいるのだろうか? それもよく分からない。

「本当にごめんなさい。こんなことなら帰らなければ良かったのに……幸、今からでも貴方を全力で守るから」

「いや、母さん……もう大丈夫だよ。愛玲も一緒に帰還したはずだから」

「それでも、貴方から離れないわ。絶対に、何があっても!」

 母の言葉は純粋に嬉しい。涙が出そうになる。

 だが、俺は根拠なきまま確信していた。きっと、母はもう移心できない。いや、母だけでなく、もはや誰も移心できないだろう。異世界の崩壊は今も加速し、たぶん些細な矛盾すら入り込める余地はない。

 それにきっと、俺ももう……。

「ありがとう、母さん。本当に、心から……」

 想いが込み上げ、胸が詰まる。

「幸、そんな! 嫌よ、こんなの……」

 それで俺は悟った。母も薄々は理解しているのだと。

「ごめんなさい。私のせいで……ごめんなさい……」

 ひたすら謝る母。その胸中にどんな悲哀が渦巻いているのだろう。

 俺と母の最初の邂逅。その時の状況を想起し、今も無力さに懺悔しているのだろうか?

 ならばこそ、俺は今この場で言うべきことを理解した。

「母さん、俺は幸せだったよ」

「……えっ?」

 母の驚愕の声。

「俺は、本当なら産まれた直後に死ぬはずだった。今まで生きてこられただけで、俺は世界一の幸せ者だった」

「でも、そのせいで貴方をつらい目に……」

「それでも、何も始まらないよりは断然良かった。一人の移心者が教えてくれたんだ。『死ぬ以外に選べる道があるのが、どれだけ幸福か』って。俺も今、心からそう思う。俺は最後の最後、自分の意思でこの道を選んだんだから」

 その結果、死ぬ可能性はあった。だが、それは覚悟していたこと。覚悟の上での結末なら、それもまた俺にとっては救いなんだ。

「それに最後、母さんと話せて良かったよ」

「そんな……最後だなんて……」

「気に、しないで……俺は……母さんの息子で、本当に……」

 最後の最後、言葉が出ない。根性のない自分が恨めしい。

 それにもう、目も見えない……でも、最後まで母に……。

 そう思った時、母は俺の頬に触れてくれた。その身を摺り寄せ、俺は確かな温もりを感じ取れた。

「幸、貴方のこと、ずっと愛してるから。ずっと忘れないから」

 そして、俺が最も欲していた言葉を贈ってくれた。言葉に出さずとも、母は俺の気持ちを察してくれたのだ。

 母の愛情を感じ、俺は涙を流した。いや、とっくに流れていたのかもしれない。

 ふわりとした心地のまま、意識は深い泉へ落ちていった。

「ありがとう……」

 伝えたかった感謝が口から零れる。温かな気持ちのまま、全身に感覚が蘇った。

「幸……意識はある?」

 優しい声色。だが、母ではない。

「セカイ……ここは……」

 俺は現実界から異世界へ帰還していた。

「愛玲は帰還したわ。それに、貴方の母親も……」

 母はいなかった。俺は死んで帰還したはずなのに。やはり、この世界にはもう矛盾を取り込めるだけの余地はないのか。

 吹き曝しの屋外にいる現状を鑑み、俺はそう悟った。移心の直前は確かに家の中にいたはずだが、家はすでに跡形もない。矛盾はもう保てないのだ。

 雷鳴が轟き、地鳴りが響き、地面が大きく震動している。世界の崩壊もすでに序曲を過ぎたのだろう。

 終焉が刻一刻と迫っている。

「幸、ごめんね。結局、貴方を守りきれなくて……」

 母と同じく、セカイもまた自分を責める。だが、俺には感謝しか浮かばない。

 降りしきる雨。セカイは仰向けの俺を上から見下ろす姿勢で、雨除けとなってくれている。俺は産まれた時から今まで、ずっとこうしてセカイに守られてきたのだ。

 感謝は尽きない。だが、蘇った全身の痛みから、俺はなかなか声を出せずにいた。

「貴方と出会えて、本当に幸せだったよ。貴方は私にとっての希望だった。私は貴方のおかげで、確固たる意思で未来を選べたから」

 雷鳴と地鳴りが激しさを増す中、セカイの言葉は紛れることなく心に響いた。

「セカイ……俺も、幸せだったよ……」

「本当に?」

「ああ、心からそう思う。俺も最後は自分の意思で未来を選べたんだ。それに、皆が助けてくれた。それだけで、俺は本当に幸福だった」

「そう……でも、ごめんなさい。こんな結末で」

「いや、いいんだ。俺も覚悟してたことだ。むしろ、俺の方こそごめん。セカイを道ずれにするような形になってしまって……」

「それは気にしないで。私は自分の意思でそうしたのよ。貴方がいない世界に、私はもう耐えられないから」

 セカイの言葉が嬉しかった。最期の瞬間を彼女と迎えられて、本当に幸運だ。

 そう感じた瞬間、不意に全身の力が抜けた。痛みは引き、視界が霞む。先刻の現実界と同じ流れに、俺は自らの最期を予感する。

 同時に、俺のすぐ横で地面が割れた。薄れゆく意識の中でも、雷鳴と地震の激しさは今なお感じ取れる。世界の終末もまた、間近に迫っている。

 遂に目が見えなくなった時、不意にセカイが俺を抱き締めた。

 そして何度も何度も、感謝と愛情を俺の心に届けてくれた。

 ああ、やっぱりセカイも、俺の一番欲するものを知ってくれている。

 だからこそ俺も、必死に両手を伸ばしてセカイを抱き締めた。

 セカイの温もりをひしと感じ取る。

 俺は孤独なんかじゃなかった。産まれた瞬間から、俺は母とセカイに守られていた。そして、最期の瞬間も……それを幸福と言わずして、何と言うのだろう。

 深い絶望と懊悩があった。でも、それも全てこの結末のための要素だったのなら、俺はそれすら愛したい。

「ありがとう……」

 だから、俺は感謝を述べた。セカイに対して。そして、全ての移心者に対して。

 ふわりと体が浮く感覚。だが、セカイの温もりだけは離さない。

 俺はこの世界と一緒に、深く暗い意思の渦へと沈んでいった。

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