第三章 世界
[寺池幸]
母の帰還から二時間が経過した。
俺は自室に篭りながら、思考だけを働かせる。ここ数時間で判明した事実が多すぎて、なかなか整理しきれずにいた。
俺は異世界に生きる存在だということ。実の兄であるイヴァンと、先生を演じていた母。二人の述懐を聞き遂げ、俺は現状を受け入れるしかなくなった。
それでもなお、俺が現実界の多くの人々を不幸に追いやってきたなど信じたくはない。母の言うように、馬鹿げた憶測だと一笑に付せれば、どんなに楽か。
「くそっ!」
壁に拳を打ち付ける。その後に残ったのは右手の鈍痛だけ。
分かっている。物に当たっても意味はない。でも、やり場のない怒りと悲しみは頭から離れず、俺は何度も壁を打ち付けた。
「ちくしょう! なんでこんなことに……」
拳が傷付くのも構わず、壁を力一杯殴り付けた。
理不尽な運命に憤る。しかし、孤独な空間では咆哮も空しく響くだけ。
俺の憤怒も、悲哀も、苦悩も、きっと誰にも分かりはしない。真の意味でこの世界に生きているのは俺一人。産まれた瞬間から俺は孤独な存在だったのだ。
正直、そんなこと知りたくはなかった。
ここが異世界だという事実だけなら諦められる。手の打ちようがないからだ。
しかし、俺が移心すれば現実界で災害が起こる。これを理不尽な話と切って捨てることはできない。今までの移心が原因で台風や地震が頻発し、多くの人を死に追いやったかもしれないのだ。そして、これからも生きて移心する度、多くの人を殺すことになるだろう。俺の意思とは無関係に、否応なくそうなる定めなのだ。
「くそっ! ふざけんな!」
床を殴る。壁を蹴る。勉強道具を投げ散らかす。
それでも不快な気分は拭えず、むしろ虚無感が広がっていく。
理不尽だからありえない。そう確信できたら、どんなに幸せか。しかし、真実であれば取り返しが付かなくなる。そして幸か不幸か、これ以上の被害を防ぐ手段はある。
それは、たった一つの単純な方法。
だが、それを俺に望むのか。迫るのか。そして拒否すれば、殺しにかかるのか。
「結局死ぬしかないのかよ。ちくしょう……」
呻くような文句は、やはり誰にも届かない。
いや、届かないと思っていた。そもそも、誰かの反応を期待した台詞ではない。
しかし、俺が何もかも諦めかけたその時、不意に彼女は現れた。
「……」
俺は言葉が出なかった。そして、彼女も無言。俺の心境は困惑で、彼女の表情は悲愴で彩られたまま、静かな対峙が数秒続いた。
今回は本当に唐突だった。知らぬ間に近付いていたとか、そんなレベルではない。閉め切った自室に篭り、他人の気配など微塵も感じなかった。だけど、ほんの少し俯いた後、視線を正面に戻した時には、彼女は俺の目の前にいた。
それはさながら瞬間移動。いよいよ俺の精神はおかしくなったのか……。
「幸……死ぬなんて言わないで」
彼女の言葉が届く。慰撫に満ちた声が俺の心に染み渡る。
「生きて……お願い……」
彼女の願い。俺に宛てられた慈愛の言霊。それは殊更に優しく、そして渾身の想いで紡がれていた。
そして、俺は確信する。この声が幻聴だなんてあり得ない。
彼女は確かに今ここに存在する。どんな矛盾があろうとも、それだけは嘘じゃない。
温かい。素直にそう思う。彼女の言葉は俺の奥深くまで届き、凍てついた心を溶かしていく。
出会ってからの時間など関係ない。俺を本気で心配してくれる人がここにもいる。それだけで、俺は涙が出そうなほど嬉しかった。
「なんで……そんなこと……」
しかし、そうは言っても彼女が謎めいた存在であることに変わりはない。
「幸……?」
「教えてくれないか?」
全てを。俺達の関係も、予知の正体も……全てを教えてほしい。
俺の思考を汲み取ったのか、彼女は自ら切り出した。
「前に、私の名前を知りたがってたね」
彼女の問いに寸分の迷いもなく頷く。
「私に、名前はない」
「……え?」
名前が無い? 予想外の答えに俺は虚を突かれる。
「でも、私はここにいる。そうでしょう?」
その問いには断固たる思いで頷く。
すると、彼女は優しく微笑んだ。
「私自身の存在を考慮した場合、敢えて名前を付けるなら……」
そして一片の躊躇もなく、
「私は、セカイ」
彼女は、自らをそう称した。
[イヴァン・カラベロフ]
鍋を温めて夕食の用意をする。今日はポテトとチキンを使ったヤフニアというスープとパンだけで済ませるつもりだ。食に全く拘りのない私をしても簡単すぎる料理だが、今日は殊更に食欲が湧かなかった。
そう、今日は本当に疲れた。仕事自体もだが、やはり帰宅直後の移心、そして幸に真実を吐露したことで、久しく味わっていない心労を感じていた。
異世界において疲労は蓄積しない。飢餓や睡魔すら感じない。私の疲労感は単に精神的な側面から来るものである。
今日は夕食後すぐに寝よう。もう、必死に知識を得る必要もないのだから。
幸と出会って、私は憑き物が落ちた気分だった。そして幸に全てを明かしたことで、肩の荷が下りた。達成感はあるものの、しかし清涼感はない。本当にこれで良かったのかという疑念が燻り、それは恐らく私に生涯付いて回るものだろう。
私は真実の隠蔽を嫌悪する。だからこそ、私自身もまた可能な限りの情報開示を信条としている。しかし、知らない方が幸福でいられる状況もあるだろう。
あのような真実を明かされて幸は喜ぶだろうか。まさかと言う他あるまい。自分が今まで生きていた場所は異世界だなどと聞かされて愉快な人間はいない。
幸は今頃、絶望に苛まれているのだろう。そうなると理解した上で、私は真実を伝えた。そして、バトガン氏や愛玲が幸を殺す可能性についても承知の上で、彼らにも真実を共有した。それは彼らにとっても幸にとっても、善良な行為ではなかったはず。
幸が現実界の災害の一因になっているというのは、あくまで私の推論であり、確証はない。それは全員に強調したが、果たして効果はあったのか。私は結局、幸に対しては自殺を、他の移心者に対しては殺人を教唆したに過ぎないのではないか。
これで幸が……弟が死ぬことになれば、私の人生は一体何だったのか。あらゆる欲を捨て、生涯探し続けた者を敢えて死に追いやるなんて、これほど馬鹿げた顛末はない。
だが、私の懊悩など大したものではないのだろう。例の「先生」という移心者の悲愴や悔恨と比べれば。
幸は恐らくあの女性に育てられたのだ。しかし、それは本来なら不可能なはず。それを可能にしたのは、彼女の堅固な願いに他ならない。
彼女は矛盾を肯定する。それが彼女の願いの形象。私は彼女を一目見た瞬間、彼女の強い悲願を知ったのだ。彼女自身も、願いの発現を自覚しているだろう。移心者は自身の願いであれば、その発現を認識できるからだ。もっとも、他者の願いをも知ることが可能なのは全知である私だけだが。
彼女の願望は、寺池幸の幸福。それゆえ、異世界に生じる数々の矛盾を封殺した。
本来、移心者の願いは本人に向けられた内容でなければ成就しない。移心時間を長くする程度なら可能だっただろうが、彼女は建物のような物質を継承し、他者の意識にまで干渉した。それらは全て、彼女の強い希求力によって成し得たのである。
しかし、そこに私という例外が現れた。その存在は彼女にとって何よりも想定外だったに違いない。全知である私だけは矛盾を矛盾として正しく認識できたのだ。
また、彼女の願いの効力を踏まえても、私の存在はやはり致命的だった。
基本的に、異世界で実現する願いは一つだけだ。それは一つの願望という意味でもあり、「一つの形で」という意味でもある。しかし彼女の願いはあらゆる形で叶えられ、その反面、個々の効力は薄れてしまった。ゆえに、他者に対しても影響力は小さかった。他者の意思を操作するのではなく、あくまで矛盾を意識させないようにするだけだった。
だからこそ、ひとたび矛盾を指摘されれば簡単に気付く。バトガン氏がそうだった。彼は現実界では矛盾を認識していたが、異世界では肯定させられていた。しかし私が真実を伝えた瞬間、彼は異世界でも矛盾を正しく認識し、以後惑わされることはなくなった。
もし幸が全ての真実を先生に打ち明ければ、彼女はきっと幸を守ろうとするはず。彼女の願いの強さを考慮しても、それは間違いない。たとえ現実界の災厄が自分の身に降り掛かろうとも、彼女は幸の生存を第一に望むだろう。
一方、バトガン氏や愛玲も意思を曲げないはずだ。松齢がどのような立場に回るかは分からないが、いずれにせよ、幸側と移心者側の対立は不可避である。
そんな中で私はひたすら傍観を貫く。真実を語り、両者を煽るだけ煽って、高みの見物を決め込むつもりなのだ。自分でも卑怯な行為だと心底感じるが、今の私にそれ以外の道はない。私の選択は、真実を語るか否かの段階で終わっていたのだ。
考え事をしている内に鍋が煮詰まった。
食事しながら、どうしても気になる事項が頭から離れなかった。
あの先生の願いは確かに強い。おそらく自分の命よりも幸の身を優先している。
それでもやはり、異世界にあれほどの影響を及ぼしているのは疑問である。
異世界の法則はそれほど脆弱ではない。一個人の願いだけでそれを捻じ曲げるなど果たして可能なのだろうか。加えて、他者へ干渉できている点も腑に落ちない。願いは自分に向けたものでなければ実現されない。全知の私が知り得た法則なのに、それが歪められているのだ。俄かには納得できない。
だが、現に起こっている。その事実は覆しようがない。しかしこれでは、まるで異世界そのものが幸を生かそうとしているようにも思えてしまう。先生の願いと異世界の願いが重なったからこそ、異世界の法則が意図的に歪められたのではないか。
そんな空想のせいで、ヤフニアの味もよく分からなかった。
[寺池幸]
彼女の言葉は届いたが、理解はできなかった。
「私に名前を付けるなら『セカイ』よ。そしてその名の通り、私はこの世界そのものなの」
改めて説明されても、意味が分からない。彼女はすかさず補足する。
「ここが意思の世界だということは、あの男から聞いたでしょう? 人間の意思によって、ここは徐々に形成されていった。そして、遂には世界そのものが意思を持ち得るようになったのよ」
この世界が意思を……? どういう理屈だ、それは。
彼女は……いや、セカイは結論から話したが、それがあまりに突拍子もない内容なので逆に分からない。一からの説明を求めると、セカイは嫌な顔一つせず頷いた。
「最初は、この世界の創生から。でも、それはあの男が語った内容と同じなのよ」
「あの男って、イヴァンのことか?」
「……そうよ」
イヴァンの名前を口にすると、彼女は微かに怒りを見せた。その名前を聞くことすら不快だと言わんばかりだ。
「あの男が言った通り、この世界は一人の人間が移心した瞬間から始まった。最初は何も無かった世界に、人間の意思が混ざり込んだ。そして、それ以後も沢山の人間がこの世界に意思を連れ込み、ここを徐々に創り上げていったわ。この世界は意思から生まれ、意思に育てられた。全てが意思で構成されているのよ」
荒唐無稽な話だが、イヴァンからすでに聞いていたため抵抗はない。
「世界はあらゆる移心者の意思を内に取り入れ、学んできた。そうして時を重ねることで、世界そのものが意思を手に入れた。特定の個人の意思ではなく、世界固有の意思をね」
完璧ではないだろうが、セカイの言いたいことは分かった。
「意思以外に余計な制約がないから、世界自身が意思を持てるようになったのか」
「そうよ、幸。ただ、あの男の言う『現実界』が意思を持っていないとは断言できない。他の制約のせいで意思を行使できないだけかもしれない」
「意思を行使……どういう意味だ?」
「今の私のように、世界の意思に沿って世界自身が意図的に干渉するということよ。これは、意思の相対性が高いこの世界だからこそ可能な荒業。自然の摂理のような強い縛りがある現実界では、たとえ世界自身が望んでもこんな芸当は難しいでしょうね」
あくまで意思の世界だからこそ、意思を何よりも優先させられるということか。
「私には固有の意思があるし、ちゃんと感情もあるのよ? 怒りも悲しみも、人と同じように感じられるわ」
確かに、彼女は傍目にも感情を持っていると分かる。俺に対しては常に慈愛を示すのに対し、イヴァンには敵愾心を露わにする。セカイという、人間でない存在が持つ心は、人間のそれと全く大差なく思える。
「私には感情がある。ずっと前から、人間が抱く負の感情も知っていた。そして、そんな感情をずっと抱きながら、世界はいつまでもいつまでも存在し続けた」
彼女は悲哀に満ちた視線を向ける。
「ねえ幸、知ってる? 人間の心は、孤独に耐えられるようには出来ていないの」
孤独……確かに、耐えられるものじゃないだろう。それは俺だって知っている。
「私は心を手に入れた。でもこの世界には、肝心の『自分の心を伝える相手』がいなかった。意思を持っているのは、今までずっと私だけだった」
「でも、移心者は何人も来たんだろう?」
「ええ、移心者には確かに意思があった。でも、移心者は本来ここにあるべき存在じゃない。この世界に存在しないものには、私は干渉できないのよ」
「じゃあ、俺に干渉できてるのは……」
「そう、貴方はこれまでで初めて、私を認知できる存在だったのよ。ここで産まれて、ここに存在して、人間の心がある。本当に、奇跡のような出来事よ」
俺の話題になり、セカイは嬉々として続ける。
「今までずっと独りで寂しかったのに、誰にも私の意思を伝えられなかった。いつも私は、何の変哲もない世界を眺めるだけ。移心者が来てもその様子を見つめるだけで、意思疎通なんてできない。私は永遠に孤独なんだと諦めて、絶望するしかなかった」
それがどれほどの苦悩なのかは想像を絶する。セカイが孤独に苛まれていた期間は、おそらく十年やそこらではないはずだから。
「でも、そこに貴方が現れたのよ。どんなに嬉しかったか。ずっと待ち焦がれていて、でも諦めていた夢が実現したんだから」
そうか。俺に対する惜しみない愛情は、それが理由だったのか。何百年、あるいは何千年と待ち続けた存在が俺だったのだ。
「貴方の存在そのものが、私にとっての希望だった。いつか互いを認識し合って、一緒に会話して、二人の気持ちを共有する。それができる可能性があるだけでも、私にとっては救いだった」
そこまで待ち焦がれていたのなら……。
「なんで、すぐ俺の前に出て来てくれなかったんだ?」
訊かずにはいられなかった。意思疎通を望んでいたのなら、すぐにでも姿を見せてくれたら良かったのに。そうすれば、セカイは今までの苦悩を何年も前に解消できた。俺だって、他者との交流を深められた。それは俺にとっても歓迎すべきことだったのに。
見ると、セカイは言い淀んでいる。その様子は、ついさっき別の場面で見た気がする。しかし、俺が記憶を辿ろうとする前にセカイが答えた。
「ごめんね、幸。確かに、もっと早く貴方に会えたら、どんなに良かったか……でも私にとっては、貴方がいるだけで幸せだった。だから会えなくても、ずっと貴方を見守ろうと思ったのよ」
「じゃあ、今になって俺の前に現れたのは……」
「ええ、あの男が他の移心者に貴方の抹殺を呼び掛けていたから」
それが、初対面での彼女の警告に繋がっていたのだ。
セカイの発言には一つ誤謬がある。イヴァンは中立であり、他の移心者にも「殺せ」とまでは言っていないはず。しかしセカイの目には、彼がそう振る舞っているようにしか見えなかったのだろう。それならば、イヴァンを目の敵にするもの分かる。
「貴方に警告しなければならなかった。でも、私はこの世界そのものだから、そのまま呼び掛けても貴方には届かないのよ」
「だから、その姿で?」
「そうよ。幸と同じ人間の姿なら、その口から発せられた言葉は貴方にも人間の言葉として理解される。そして、このように私の意思を可視化できるのは、この世界に存在する貴方に対してだけなのよ」
合点がいった。セカイの言葉を聞けるのは俺だけで、セカイの姿を視認できるのも俺だけなのだ。だから、母やイヴァンはセカイの存在に気付かなかったのか。
「ねえ、ところで幸……」
セカイが意味ありげにこちらを見つめる。
「どう? 私に一目惚れした?」
そして、予想外の質問を放ってきた。
「えっ? ひとっ……えぇぇ?」
前触れもなく図星を指され、素っ頓狂な声を出す。困惑する俺に対し、彼女は微笑みながら付け加えた。
「大丈夫。全然おかしくないのよ。むしろ、そうでないと失敗だから」
「失敗って……?」
「あのね、世界の意思を人間の形として可視化するって、言葉にすれば容易いけど、実際には凄く難しいことなの。特に容姿については、なかなか決めにくいのよ」
「そうなのか?」
「ええ、人物像を一から創造するのは大変なのよ。かといって、他の移心者と同じ容姿にしたら混乱するでしょう? だから私は、貴方のイメージに任せることにしたのよ」
「俺のイメージ?」
「つまり、貴方の理想の女性像をそのまま具現化したのが、今の私の姿なのよ」
「え? そう、なのか……?」
セカイが俺の理想の女性……なのだろうか。確かに俺はセカイに一目惚れしたし、その想いは正体を知った今でも変わっていない。しかし、いかんせん俺は母親以外の異性を知らないため、自分の理想像など知る由もない。
「一つ補足すると、その理想像は貴方が意識するものじゃなくて、貴方の深層心理にあるものなのよ。私は、貴方の深層心理にある理想像として自分が顕現できるように定めた。だから私には、貴方の目に映る自分の姿が分からない。私の言葉がどんな口調で伝わっているのかすらも」
セカイの意思は全て、理想の女性が語っていく。外見も言葉遣いも、全て俺の深層心理に定置された理想像。それが最も簡易な方法だったと言うのなら、納得するしかない。
「理屈は分かった。それなら、セカイは失敗なんかしてないよ」
むしろ、見事に成功したと言える。
「なあ、セカイ」
「何?」
言いそびれていた言葉。
「色々と助けてくれて、ありがとう」
俺の命が危険に晒されたと分かるや、俺に警告してくれた。バトガンさんに襲われた時も俺を助けてくれた。それらに対し、俺はようやくセカイに謝辞を返せた。
「幸、私こそありがとう」
セカイは優しく微笑み返す。
「貴方は私にとって唯一の希望よ。底なしの絶望から私を救ってくれた。感謝を尽くしてもしきれない」
俺はセカイに対して、特別な何かをしてあげたわけじゃない。しかし、セカイは俺を希望だと言ってくれる。本当に、心の底から俺を必要としてくれている。
こんな、多くの人達を不幸にしてきた俺を……。
セカイは確かに人間ではない。しかし、それが一体どれほどの意味を持つ? 彼女は固有の意思を持ち、感情もある。俺は彼女に惹かれているし、彼女も俺を大切に想ってくれている。俺にとって、セカイは人間と大差ない。ある意味、現実界にいる無数の人々よりも俺に近い存在だ。
ああ、だからこそ、俺はセカイを好きなままで居続ける。人間じゃないと知っても、そんな些事は関係ないと吐き捨ててやる。どうせ俺だって、普通の人間とは違うんだ。
「セカイ、今まで本当にありがとう。これからもよろしくな」
「うん。これからもずっとよろしくね、幸」
どちらからともなく、俺達は手を握り合った。元は人間じゃないなんて思えないくらい、セカイの手は温かくて心地好い。
俺達はこの世界で、互いを想いながら生きていく。この瞬間、俺とセカイは暗黙の誓いを交わした。
真実を知ってから四日が過ぎた。その間は誰にも会っていない。俺を殺さんとする移心者は勿論、母や翔太とも。
真実を知ったままの状態で孤独が続けば、俺は発狂していたかもしれない。しかし、俺には理解者がいる。俺の苦悩を共有できる存在がいる。それだけで、俺の心の重圧は少し和らいだ。
その存在であるセカイは、今はいない。いや、俺を天上から見守っているのかもしれないが、人間の姿としては顕現していない。
セカイはどうやら長期間の顕現はできないらしい。それゆえ、平穏な時分には姿を消し、危機が迫った時、俺の前に現れて助けてくれる。彼女はそう約束してくれた。
俺に危機が迫る……その瞬間はやはり訪れるのだろうか。
セカイ曰く、その可能性は非常に高いらしい。彼女が他の移心者の様子を観察したところ、バトガンさんと愛玲の二人は俺を狙う危険性が高いようだ。
確かにバトガンさんには一度襲われたし、イヴァンもその二人の名を挙げていた。彼らに命を狙われたら、やはり闘うしかないのだろうか。
正直、死にたくないとは思っている。母やセカイは俺の生存を望んでいるし、何より死ぬのは怖い。それは俺だけが感じる恐怖ではないはずだ。
そう、誰も死にたくない。なのに、俺は多くの人を死に追いやってきた。その可能性が高い以上、更なる悲劇を繰り返さないために、彼らは俺を殺そうとする。その考えも理解できるし、俺一人が死ぬだけで多くの人の未来を救えるのなら、殺人という行為にも価値があるのではないかと思う。
考えても答えは出ない。他の移心者と一度話をしてみないことには、彼らの真意は分からないのだ。もし俺への殺意が固いのなら、その時にどうするか考えよう。それでは遅いのかもしれないが、もうこれ以上、不穏な未来について考えたくはなかった。
この四日間は普段通りに過ごした。とはいえ、学校にはもう行く必要がないため、日課の体力トレーニングや自宅学習に没頭した。その間は酷薄な真実や未来に思い煩わなくて済む。
そして、今はゲームに集中している。セカイに一目惚れして以来ご無沙汰だったゲームも、ようやく再開する気になれた。すでに四周目のプレイだったが、毎回新たな発見があり、飽きることはない。こんな娯楽もきっと、母とだけ接する一生だったら、簡単には出会えなかっただろう。
そして三時間は経った頃、これを始めるきっかけとなった人物が現れた。
「よぉ、幸! 元気にしてたか?」
相変わらずの第一声。翔太との久し振りの出会いに、俺の頬は自然と緩んでいた。
「おう、何だよ幸。何のゲームやってんだ?」
翔太は部屋に押し入るやいなや、俺のゲーム画面を覗き込む。
「は? お前まだそのソフトやってんのかよ? そんなにクリアできないのか?」
「いや、これで四周目だよ」
「四周? あのゲームを四周? なんだよおい、新しいソフト買えよな」
翔太の言葉を聞き、彼がまだ気付いていないことを悟った。
そうだ、母は全ての人間が矛盾を肯定するように願ったのだ。それは翔太も例外ではない。誰かから真実を教えられるまで、翔太は俺の存在を疑問視しない。だから、こんなにも自然に接してくるのか。
葛藤があった。話すべきか黙すべきか。現実界の災害を俺が引き起こしている以上、これは翔太にも関係のある話。多分、話すべきだと思う。しかし、もしそれで二人の友情に亀裂が走ったら……。
「おい、幸。どうした?」
俺の苦悩を知る由もなく、翔太は怪訝な表情で見つめている。
翔太は現実界に生きている。彼の家族や、大切な人も同様に。
なら、俺が災害の原因だと知ったら、翔太も俺を殺そうとするのだろうか。考えたくもないが、しかし可能性はゼロじゃない。
もういつかも忘れたが、幼い頃に出会い、十年以上付き合いのある無二の友人。月に何度か会うだけだったが、一緒にいる時は常に楽しく、笑いは絶えなかった。
俺の言葉遣いや性格は翔太から影響を受けている。俺には彼しか友達がいなかった。母を除けば、俺に親身になってくれるのは翔太だけだった。俺が初恋すら未経験だと知れば、ひたすらに俺の恋を祈ってくれた。セカイに一目惚れしたことを報告したら、多少の揶揄はあったものの、最後には我が事のように喜んでくれた。
「そういえばお前、例の初恋の人とはどうなったんだ?」
翔太はまさに、初恋に関して質問してきた。
進展はあった。しかしそれを伝えるなら、全ての真実を明かす必要がある。真実を言えないなら、ここは茶を濁すしかない。
色々と言い逃れの手段を考え、なんだか急に馬鹿らしくなった。
俺は今、翔太をどうやって騙すか真剣に考えている。なんて滑稽な姿なんだろう。
確かに、全てが露見すれば彼は戸惑うだろう。異世界に住む俺を不気味に思うかもしれない。災害を引き起こしている俺に殺意を抱くかもしれない。
しかし、だからといって真実を隠すのか。そうすれば、俺は全てを裏切ることになるだろう。イヴァンの吐露は何だったのか。母の告白と謝罪は何だったのか。セカイの告白と誓いは何だったのか。
全ては、「真実を共有した上で未来を見据える」という決意の表れではなかったのか。
ここで真実を隠蔽しようと画策すれば、その決意は無意味になる。それは同時に、翔太を蚊帳の外に追いやることも意味する。それだけは絶対にしたくない。
イヴァンは、誰にも肩入れしないという信念を貫こうとしている。なら俺も、翔太に全てを話した上で、彼の意思を邪魔しない。彼が俺を殺そうとするなら、悲しいが闘うことになるかもしれない。でも、それも一つの結果として受け入れる。
「翔太……話したいことがある」
俺はゲームを中断し、真剣な眼差しで翔太を見据える。すると彼も表情を引き締め、床に腰を下ろして俺と対峙した。
「翔太、お前は気付かないか?」
「……何が?」
もう二度と戻れない一歩を、俺は踏み出した。
「ここは異世界だろ? 俺がここで生活してるのは、色々と矛盾してるじゃないか」
自分で言うのもおかしな話だが、俺が言わなければ彼は気付かなかっただろう。
「……あぁ、そう……だな……」
そして翔太は、今まで肯定していた矛盾にようやく気付いた。
「あれ? そうだよ! これって、すげえ変なことじゃねえか! ていうか俺、元の世界ではそう思ってたんだよ。でも、こっちに来るといつもそれを忘れて……」
「それは、俺の母さんのせいなんだ」
「……はぁ?」
無論、理解できるはずもない。ここからは理路整然とした説明が必要だろう。しかし、翔太は矛盾に気付いた。荒唐無稽な事実を理解する前段は整った。
そして、俺は翔太に全てを打ち明けた。
イヴァンに暴かれた真実。異世界とは意思の世界であり、俺はそこに生きる異端児だ。異世界では、自分に向けられた最上の願いが実現する。そして、俺が現実界に移心することで、現実界の災害を引き起こす原因となった。
母が隠していた真実。俺が生きる上で発生する矛盾を、母の願いが全て封殺した。そして、他者が矛盾を肯定するように仕向けた。全ては俺の幸福を願ってのことだった。
セカイと共有した真実。セカイは今まで孤独で、俺という存在に初めて希望を見出した。だからこそ俺の前に姿を現し、俺を助けようとしている。そして、その姿は俺の理想の女性像を見事に体現していて、俺は一目惚れした。
それが事の顛末。概略だけだったが、重要な部分は全て伝えた。俺の移心が及ぼす影響も濁すことなく話せた。
翔太は半信半疑の表情で固まっている。それはかつての俺と同じ有様である。
「幸……お前それ、マジ……なんだよな?」
翔太の疑問に力強く首肯した。すると彼はこれまで以上に押し黙り、その視線は焦点が合っていない。
「翔太、今言ったことは全て事実だ」
「いや、ちょっと待て……」
「これを聞いてどう動くかは、お前自身が……」
「だから、待てって言ってるだろ!」
俺の言葉を遮って怒鳴った後、翔太は謝罪した。
「わりい。でも、ちょっと待ってくれ。お前の言ってること、マジで滅茶苦茶だよ。ちょっと考える時間が欲しい」
俺は頷いた。翔太の言い分はもっともだ。俺だって、イヴァンに真実を明かされた時は翔太以上に認めようとしなかった。冷静になるには時間が必要だ。
そして今となっては、敢えて時間を与える必要すらなかった。
翔太はもう目の前にいなかった。俺の前から忽然と姿を消したのだ。
翔太の帰還。思い返せば母も翔太も、不意に姿を消すことが多々あった。異常な現象に違いないが、以前は全く不思議に思わなかった。これも母の願いの影響か。
結局、今回は彼に真実を伝えるだけで終わってしまった。彼の今後の出方を知りたかったが、しかしどんな決断であっても、俺に文句を言う資格はない。
願わくは、翔太との友情が切れないでほしい。俺は不安に締め付けられる胸中で、縋るように祈っていた。
翔太に真実を打ち明けてから二日後、母は再び異世界に移心していた。
「さあ、出来たわよ、幸!」
母が作っていた最後の品目が完成し、テーブルに並べられる。今日の夕食は一際豪勢だった。母がこちらに来た時、大量の荷物を継承していて何事かと思ったが、全ては俺に食事を振舞うためだったのだ。当然、移心時間も三十分を超過している。
「さあ、遠慮なく召し上がれ」
母はなぜか上機嫌だった。料理もいつも以上に気合が入っている。もしかしたら、これが今まで真実を隠してきた母なりの罪滅ぼしなのかと、変に勘繰ってしまう。
母の言葉に従い、俺は食べ始めた。一方、母は必要ないので食べない。今まではそれが当たり前だと思っていたけど、こんな些細なところにも俺と他の移心者の違いはあるのだと改めて実感する。
残してもクーラーボックスに保存できるのだが、なるべく出来たての内に食べたいと思い、俺は勢いよく箸を進めた。その様子を母は満足げな表情で見つめている。
俺は食べながら母に話し掛けた。
「母さん、あのことなんだけど……」
あのことと言えば一つしかない。母もそれを理解し、表情を強張らせる。
「実は、母さんが帰還した後にも色々あってさ。それを伝えておこうと思って」
それは無論、セカイに関して。それに、翔太との会話も。
セカイはずっと孤独だったがゆえ、俺に希望を見出し、他の移心者から守ろうとしている。
翔太にも全てを打ち明けた。彼が真実を知ってどう行動するかは分からないが、話すべきことは全て伝えきった。
母もさすがに、この世界が固有の意思を持っていることには驚いていた。
「そっか……貴方の味方は私だけじゃなかったのね」
しかし、母は満面の笑みを浮かべる。
「良かったじゃない。世界そのものに守ってもらえるなんて心強いわね。しかもそれが貴方の理想の女性で、貴方を慕ってるだなんて最高じゃないの」
どこまで本気かは分からないが、母は俺を励ましてくれた。空想のような話を聞いても動じず、疑わず、快活に接してくれる。やはり母の力は偉大だと改めて認識した。
だからこそ、俺も母を安心させたい。その思いで俺は決意表明した。
「母さん、最終的に俺は決心したんだ。このまま生きていこうって」
その言葉を聞いた瞬間、母の表情は歓喜に満ち溢れた。
「ええ、そうよ。貴方は生きるべきなのよ! 生きていいのよ!」
狂喜乱舞とまではいかなくても、この場で小躍りを始めそうな勢いだった。俺が自殺するかもしれないと、内心では不安に駆られていたのだろう。その不安から母を解放できただけでも、この決断に価値はあると思った。
「とりあえず、自殺はしない。それに、他の移心者が俺を殺そうとしても、素直には応じない。まず話し合って、それでも俺を殺すつもりなら、俺はちゃんと闘うよ」
「うん、そう! それで良いのよ!」
何も間違ってないと母が念押しする。
正直、俺は自分の選択が正しいとは微塵も思わない。自分以外の全ての人間を犠牲にする選択が、どうして正しいと言えようか。
しかし、それでも俺はこうしたいと思った。存在すらも実感できない現実界の他者より、俺を育ててくれた母や、守ってくれたセカイの望みを優先したかった。
それに、結局全ての人を救うことは叶わない。だからこそ、俺は自分の願いを尊重しよう。そうすれば、この世で少なくとも一人は救えるはずだから。
欺瞞だろう。それは分かっている。
でも、簡単に殺されはしない。母やセカイの想いを無駄にはしたくない。
誰が向かってきても、俺は精一杯抵抗する。この呪われた運命に抗ってみせる。
方針が固まり、移心者の襲来に身構えていたのだが、母との会話から五日間は何の変化もなかった。誰とも出会わないし、セカイも出てこない。真実を知る前の日常に戻ったかのような錯覚を抱いていた。
少し拍子抜けだった。勿論、血生臭い事態を望んでいるわけではない。しかし、熟考の末に方針決定したのに、それが実は無意味な行為だったのではないかと思い始めていた。無論、無意味に越したことはないのだが。
もう一つ気付いた。学校がない場合、日中はやたらと暇だった。日課の勉強とトレーニングを今まで以上に行い、料理も自分で作り、ゲームにも時間を充てた。しかし、それでもやはり時間は余る。
そしてつい先刻、俺は現実界に移心した。生きると決めた以上、移心による現実界への影響については極力考えないように努めたが、それでも平静を保ってはいられない。今回の移心でさらに矛盾が蓄積し、災害が増え、それによりまた多くの人命を奪っていたらと考えると、やはり自分の決断に迷いが生じてくる。
しかし、もう決めたのだ。後悔はいくらでもしてやる。
俺は生きる。なるべく生きていく。母ともそう約束したのだから。
とはいえ、嫌な気分は拭えない。だから、俺は久々に外でランニングしようと思い立った。真実を知ってからはなるべく家を出ないようにしていたが、移心者はなかなか現れないし、気晴らし程度なら大丈夫だろうと考えた。
レインコートを羽織り、ランニング用のシューズを履く。
家を出発し、降雨の中をリズムに乗って駆けていく。
集中して二十分ほど走り続けた。折り返し地点を回ると、そこからは自宅に向かって帰路を辿るだけだ。
しかし、進行方向にいきなり人影が現れて、俺は急停止を余儀なくされた。
それは数日ぶりに見るセカイの姿だった。人間の姿として突如現れたセカイは、鋭い視線を携えていた。
「幸っ! 後ろ!」
閃光のように放たれる喚起。反射的に背後を振り向くと、そこには見知った人がいる。
「バトガンさん……」
バトガンさんは距離を開けて屹立していた。前回同様、その手に槍を携えて。
呼びかけても彼は無言。右手には槍が把持され、雰囲気はさながら狩人のよう。
数秒を置き、不意に彼の口元が動く。俺とセカイは鋭敏に反応する。
しかし、その口から突いて出たのは思わぬ言葉だった。
「まず、謝りたいと思う」
「……えっ?」
「前回会った時のことだ。何も言わずにいきなり襲って、本当に申し訳ない。イヴァン君から話を聞き、君ともきちんと話をするつもりだったんだ。でも君を見た瞬間、私は憎しみに支配され、感情の赴くままに攻撃してしまった」
真摯な謝罪であった。そして、これがバトガンさんの本来の物腰でもある。まだ数回しか会っていないが、平素の彼はその巨躯に似つかわしくないほど柔和で紳士的だった。
「君は、イヴァン君から真実を知らされたのか?」
「……ええ、全て聞きました」
「そうか。なら、君の移心によって現実界で災害が増加している可能性についても知っているんだな?」
「はい、知ってます」
迷いなく返答した。それは、嫌というほど自分に言い聞かせてきた可能性だ。
「なら、君はこれからどうするつもりだ?」
俺を真正面から見据えた質問。それは俺が散々悩み、そして決断し終えたもの。
「俺は確かに、自分のせいで無関係の人達が不幸になるなんて嫌です。でも、俺だって死にたくないし、何より俺に生きてほしいと望んでる人がいる。俺はその人達の想いを優先して、これからも生きていくつもりです」
確固たる意思で宣言する。
その選択の是非は未だに分からない。いや、ほとんどの人間にとっては最悪の決断だろう。それを承知した上で生きていくと決めたのだ。全ての罪を背負って、自分と、自分にとって大切な少数の人達のために。
「そうか。君の意思は理解した」
俺の決意を耳にし、深く頷くバトガンさん。
「なら、私はそれを承知したまま、今から君を殺す」
そうして、緩やかな口調のまま、俺の抹殺を宣言した。
「俺を……殺す……」
覚悟していた展開だが、いざ面と向かって宣言され、胸が締め付けられた。
「一つ言っておくなら、君に罪はない」
「えっ?」
「君の移心によって多くの人が不幸になったのだとしても、それは君が望んだことではない。君の知らない内にそうなり、取り返しが付かないところまで来てから真実を知ったんだ。だから、今までに起きた災害を自分の罪と思う必要はない」
それはある意味、俺にとって救済となる言葉。俺は今まで多くの罪なき人々を不幸にしてきた。ずっと、その罪悪感に苛まれていた。
「こんな場所に産まれて、人との交流もほとんどないまま育って、それは本当に不幸なことだと思う。それでも君は真実を受け止め、前進しようとしている。そして、君を大切に思っている人もいる。きっと、君を殺す権利など誰にもないだろう」
しかし、と彼は付け加え、後の言葉を強調する。
「それを充分に理解した上で、私は君を殺す。そのために全力を尽くす。綺麗事なんて言わない。殺人者としての罪を背負ってでも、無実の君を必ず殺す」
断固たる意思を俺に突きつける。体こそまだ動かしてはいないが、俺より一回り以上も大きい彼からは鋭い殺気が感じられる。
俺が自身の生存を望む限り、もはや戦闘は不可避だ。傍らにいるセカイもそれを理解し、俺に臨戦態勢を促す。
しかし、俺は一つだけ訊いておきたいことがあった。
「バトガンさん、それは現実界のためですか?」
俺の質問に彼は数刻無言を保つ。一度だけ強く双眸を閉じ、その後は真摯な眼差しがぶつかり合った。
「勿論、それもある。君を殺せば、現実界にいる全ての人達の将来を守れるのかもしれない。だが、それは単なる大義名分だ。そんな理由で自分を正当化する気はない」
彼は自分の額を指差した。
「ここにある傷が見えるか?」
「え? 傷?」
坊主頭の彼の額はよく見えた。確かに、額の左側に古傷がある。
「これは私の罪の烙印だ。六年前、私の住むモンゴルという国で地震が起きた。それはモンゴル史上最大の規模だった。これはその時に負った傷だ」
その地震は俺が原因かもしれない。
「私は、その地震で妻子を失った」
「……」
言葉を失う。心の中では分かっていたつもりだった。現実界で発生した災害のせいで多くの命が潰えたことを。大切な誰かを失ってしまった人がいることを。
「家具の下敷きになったんだ。当時四歳だった息子に、そこから抜け出す力はなかった。私と妻は必死で家具を動かそうとしたが、できなかった。私は額を怪我し、右腕を骨折していたんだ。どうしても力が入らなかった。だから、私は助けを呼びに外へ出た。私が人を連れて戻ると、家はすでに火に包まれていて、妻も息子も中で死んだ」
俺はまだ、現実界の出来事をどこか遠くの世界の他人事を思っていたのかもしれない。
「私は自分の無力さを呪ったよ。私に力があれば、二人とも助けられたはずなんだ。周りが火の海になっても息子の傍を離れなかった妻のことを思うと、私は……」
述懐は悲愴に満ちていた。彼は災害の犠牲者で、俺は今になってようやく自らの存在の有害さに気付いた。本当に今更すぎて情けない。
災害によって家族を失ったバトガンさん。これを他人事と思っては駄目なんだ。俺の移心によって地震が起きたのなら、彼の大切な人は俺が殺したも同然なのだから。
「じゃあ、俺を殺すのは現実界のためじゃなくて……」
「ああ、単なる復讐だよ。私は自分を救いたいだけなんだ」
彼は断言した。その覚悟に、掛ける言葉は見つからない。彼は敢えて大義に縋らず、あくまで自分のために殺人を犯す。それはある意味、俺と同じだ。俺は生きることで罪を負い、彼は殺すことで罪を負おうとしているのだ。
「だから、私は君を殺す。生きたいと願っている君を、自分のためにこの手で殺す」
何度目かの殺害予告。揺るがぬ決意を俺に伝え、そして俺の返答を待っている。
降雨の中、俺も断固たる決意で彼に答えた。
「俺も罪を背負って生きます。バトガンさんが俺を殺すというのなら、闘います」
俺の返答を受け、彼は納得の表情を浮かべる。
そして次の瞬間には、彼は槍を両手で構えていた。腰を低く落とし、いつでも駆け出せる体勢。彼の身長と同等の長さを誇る槍がこちらに向く。その切っ先は、確実に俺の命へと向けられていた。
「幸っ! 来るよ!」
セカイから発せられる叫び。それに喚起された俺はすぐさま臨戦態勢を整える。
今、俺に手持ちの武器はないし、それ以前に体格の差で勝ち目は薄い。真っ向勝負では死ぬだけ。なら、どうする?
思考の猶予など皆無。瞬く間に、巨躯がこちらへ迫っていた。
まるで疾風。二人の距離は一瞬で縮まり、絶望的な威圧感が槍よりも速く襲いかかる。
槍先は死の塊。あれに貫かれては一溜まりもない。咄嗟に体を左に流して彼の直線上から回避する。
抵抗など全くの無意味と、横薙ぎに襲い来る槍が思い知らせた。初撃は突きではなく薙ぎ。音速の如きそれを避ける術などなく、俺の肋骨は粉砕する。
そうなるはずだった。しかし予期せぬ事態に、彼我ともに目を見開く。
槍が叩き付けたのは、土だった。地表から不意に伸び上がった土塊が俺と槍の合間に存在していた。
彼はすぐに槍を翻し刺突を三度放つも、全て土塊に阻まれた。彼が背後に飛び退いてようやく、俺は記憶を辿るように状況を認識する。
四度もの命の駆け引き。その一瞬を乗り切り、俺はまだ生きている。
彼の攻撃は目で追えなかった。自分の生存を確認した後になって、土塊が俺を救ってくれたのだと知る。土塊は結合力を失って再び泥土になり、地に落ち戻る。後は、最初と変わらない平地だけが残った。
彼の殺意はまだ止まらず、再び迫る。
神経を集中させ、対応せんと待ち構える。しかし、彼が駆け出して三歩もしない内に、真下から叢生した土塊によって彼は両足と右腕を絡め取られていた。
「ぐっ! これはっ!」
彼の二度目の困惑。それもそのはず。本来なら泥土である大地は、今や明確な意思の下に彼を封じ込めているのだから。
彼の進撃が止まった。その間に考えるのは勿論、俺を守っている不可思議な現象について。本来なら死んでいたはずの俺を何度も救った土塊。それは偶然なんかじゃない。
「セカイ!」
俺の呼びかけに呼応し、セカイが瞬時に姿を現す。
「危ないっ!」
直後、彼女は喚起とともに両手で俺を突き飛ばした。
よろめく俺の眼前を何かが過ぎる。新たに伸び上がった土塊を貫き、しかし貫通しきれずに五十センチほど突き抜けた位置で止まっていたのは、槍だった。慌てて視線を向けると、バトガンさんの右手から槍は消えていた。
左手に持ち直して投擲したのか。それを認識した途端、恐怖に身震いする。
「セカイ、ありがとう。俺を守ってくれたのか?」
セカイにひとまず礼を述べる。当のセカイは、彼の挙動だけを注視していた。俺の質問への返事がなかったが、彼女の緊迫した様子が答えであった。
俺の周囲が平地に戻ると同時に、土塊の中にあった槍が地面に転がる。
信じ難いことではある。しかし、セカイにとっては造作もないのだろうか。彼女は元来この世界そのものだ。先刻の現象も、自身に干渉するだけの簡単な行為なのかもしれない。
メカニズムは理解できない。しかし、俺は真の意味で世界に守られていたのだ。
「幸、その槍を持って」
セカイの指示に従い、槍を拾う。持っているだけでも腕が疲れる重量感。これを素早く操っていた彼の腕力に今更ながら畏怖を抱いた。
「それで、あいつを殺すのよ」
「え? 殺すって、なんで……」
「何言ってるの! そうしなきゃ貴方が殺されるじゃない! あいつは生きてる限り貴方を殺そうとするわ。だから、ここで先に殺しておくのよ」
「そんなっ!」
確実な命の遮断を求めるセカイ。その意思を聞き、俺は自分の決意がどれだけ甘いものだったかを悟った。
そうだ、バトガンさんは俺を殺すと決意している。生き残るにはそれを阻止しなければならないが、逆に言えば、阻止するだけで充分と考えていた。
だが、それは違う。ここで彼の攻撃を防ぎきっても、彼は生きている限り移心する。今後も生存を望むなら、俺は彼を殺さなければならない。殺せば狙われる可能性もなくなる。逆に、生かせば永遠に狙われる。生きるという強い決意は、将来のリスクを摘む磐石さが必要だ。それができないなら、最初から死ぬ方が潔いだろう。
甘かった。自分の甘さを痛感した。俺はまだ、心のどこかで綺麗でありたいと思っていたのだ。自分の手では誰も殺さず、しかし他者を犠牲にして生き続ける。それは、どれほど中途半端で矛盾したあり方なのだろうか。
「幸、早く!」
セカイの姿勢こそ一貫している。俺が唯一の希望なのだから、俺を殺そうとする敵は消えてほしい存在だ。ゆえに、セカイは彼の抹殺を促す。
やるしかないのか。俺は人を殺すべきなのか。
迷いは尽きない。しかし、バトガンさんの瞳には未だ殺意が灯っている。自由になれば、再び俺を殺そうとするだろう。
「幸、分かってるわね? ここで殺してもあいつは死なない。だから、殺した後の移心先でもう一度確実に殺すのよ」
「え……? あ、そうか!」
そうだった。セカイに指摘されるまで大切なことを失念していた。移心者は異世界では死なない。ここで彼を殺しても、彼は帰還するだけだ。だけど、死亡による帰還の場合、俺も同時に移心し、しかも移心者がいる場所の近くに現れる。つまり、ここで彼を殺せば、俺は彼と再び現実界で鉢合わせになるのだ。
「……誰と話している?」
身動きが取れない状態で、バトガンさんが俺に問い掛けた。彼にはセカイが見えないし、セカイの声も聞こえない。
彼の質問には答えず駆け出した。とりあえず、ここで殺しても彼は死なない。情けないが、今はこの仕組みに縋るしかない。とにかく、これ以上彼と対峙するのはマズイ。
「はあぁぁ!」
しかし彼の咆哮により、俺の前進は二歩目で停止を余儀なくされた。
彼の気合の一閃。直後、土塊の枷が砕かれる。
再び自由を取り戻した彼。その事態に途方もない危機感を抱き、俺は瞬時に踵を返して彼との距離を空ける。
心中には、驚愕の二文字。それはセカイも同じだろう。それほど、今の彼は先刻までと異なる様相を呈していた。
まず、何より体格が変化している。ただでさえ俺より一回り以上も大きかったのに、彼の腕や足は前より太くなり、隆々たる筋肉で覆われていた。加えて、彼の眼光からは並々ならぬ殺意が放たれている。
今の彼は一線を画する。その雰囲気に畏縮し、動けない。
「どんな原理かは知らないが。どうやら君は特別な何かに守られているようだな。だから、私も自分の願いを実現させてもらった」
「……バトガンさんの願い?」
「何のことはない。ただ『強くなりたい』というのが私の一番の願いだよ」
その願いが、肉体強化という形で具象化されたのか。
「私は妻子を救えなかった。片腕を骨折し、家具一つろくに持ち上げられなかった。自分の無力さをあれほど呪った日はなかったよ。もっと力があれば二人を救えたはずだった」
無駄話が過ぎたとばかりに、彼は体勢を整える。
「本当はこんな願いに頼りたくなかったが、君には手強い味方がいるようだ。悪いが、全力で行かせてもらう!」
戦闘が再開する。
彼が地を蹴り、そう認識した時には巨躯が目の前にあった。
まるで稲妻。車の化け物に匹敵する威圧感は、彼よりも遅れてやって来た。
視界が遮られる。叢生した土塊によって。
そして、左へと突き飛ばされた俺が目にしたのは、剛腕が土塊を貫く光景。何もできないまま、まず絶望が襲い来る。
彼の攻撃に対し、俺は全くの無力だ。俺が頼れるのはセカイの守護だけだったのに、それすらも今は通用しない。音速の槍を防いだ土塊は、彼が願いを発現させた今や、拳一つで貫ける薄壁に成り下がった。
「幸! 逃げて!」
喚起されるまでもなく、俺は駆け出していた。奪った槍を放り捨てながら。
勝てるはずがない。真正面から打ち合った瞬間、俺は肉塊と化すだろう。今の彼はもはや怪物。最上の願いは、これほど絶望的な差を生み出すのか。
背後で土塊が砕ける音。そこに彼はおらず、代わりに泥土の軌跡が見えた。
絶望のまま見上げると、彼は上空。彼の全身から剥がれた泥土が俺まで弧を描く。人間の限界を超えた跳躍に、もはや抵抗の意思は浮かばない。
俺は背後に引っ張られ、直後、俺が立っていた地面が穿たれた
細かな泥土が舞い、新たな土塊が二つ叢生する。
「がっ!」
だが、彼の剛腕は土塊をものともせず貫き、俺を何メートルも殴り飛ばした。
不時着し、まず悶絶。腹部に強烈な激痛が走り、血とともに消化物を嘔吐した。
土塊を二つ貫いてなお、この威力。もし土塊がなかったら……考えたくもない。
手足は動かず眩暈がする。そんな中、迫り来る足音だけが聞こえた。
死を前にし、動けない。分かるのは、彼が何度も土塊に阻まれては一喝の下に薙ぎ払う音声だけ。
不意に体が揺れた。地面の蠕動。そしてすぐ隣で、土塊が叢生する気配。
慈悲を乞う姿勢で見上げる。そこにいたのは土の巨人。幾重もの泥土を全身に纏いながら、眼光鋭くこちらを見下ろす怪物の存在だった。
恐怖で声にならない絶叫を上げる。怪物が咆哮とともに土を打ち払い、その剛腕が俺の顔を鷲掴みにせんと伸びる。
思わず目を瞑った。次の瞬間に訪れる死を前に。
命乞いは喉を通らず、涙だけが堰を切る。怯え、震えながら、最期を待つ。
そうして、無限の如き一瞬が過ぎ去った。
「幸、もう大丈夫よ」
耳元に聞こえたのは、セカイの声。穏やかなその声は、雨音に紛れることなく俺の心に届いた。
顔を上げ、目を開けば、眼前にはセカイが座り込んでいた。
「彼は帰還したわ。もう心配ないのよ」
俺を両手で抱きすくめ、優しく囁く。
バトガンさんが帰還した? この最後のタイミングで? 信じられないことではあったが、確かに周囲に彼の気配はない。あと一歩というところまで迫りながらも、彼は俺にとどめを刺せなかった。
……いや、違う。俺が天運に助けられたんだ。帰還のタイミングが少しでも遅ければ、間違いなく殺されていた。
「ごめんね、幸。怖い思いをさせてしまって……」
セカイの謝罪。だが、それは違う。セカイは俺を助けてくれた。本来なら最初の一撃で死んでいるはずだった俺を、天運が味方するまで守ってくれたんだ。
ありがとう。そう伝えたかったが、呂律が回らなかった。
全身の負傷、死の恐怖と生の実感、そしてセカイの温かさと自身の不甲斐なさが心を掻き乱し、俺は恥も外聞もかなぐり捨て、セカイの胸の内で泣き続けた。
バトガンさんとの死闘から二週間が経った。最初の三日間は体の治癒に専念し、四日目から徐々に鍛錬を開始した。そして今や、俺の生活は概ね体力トレーニングが中心となっている。一種の強迫観念にすら取り憑かれていた。
今でも奇跡としか思えない。本来なら、俺は彼に手も足も出なかった。それをセカイの助太刀によって凌げたと思ったら、彼には最上の願いがあった。願いを具現化させた彼はまさに鬼神。セカイの干渉など意にも介さず、俺はまるで稚児のように弄ばれた。俺が助かったのは紛れもなく僥倖だった。
あの後、セカイは明かしてくれた。土塊の守護はやはりセカイの意思だった。彼女はこの世界そのものなので、自然物についてはある程度自由に操作できるようだ。
セカイは、無力な俺を守ってくれた。そこに感謝は尽きないが、セカイに頼ってばかりもいられない。本気になった彼はセカイをしても止められないのだ。前回は時限に助けられたが、次に対峙した時は最初から全力で来るはずだ。
ゆえに、怪我が完治してからは鍛錬に汲々としている。しかし、俺とバトガンさんの本当の差は肉体ではなく精神面だ。
俺は甘かった。他者を犠牲にしてでも生きる覚悟はあったが、中途半端だった。生きる覚悟はあっても殺す覚悟はなかったのだ。自分で直接手を下すことに躊躇した。その甘さが、きっとバトガンさんとの一番の差なのだろう。
同時に、死を理解した。いや、実感したと言うべきか。闘う前、俺は死という概念を知っていても、想定できていなかった。要は、知らぬものを覚悟するなどと、のたまっていたわけだ。なんと子供じみた欺瞞だろうか。
だが、死闘を経て俺は死を実感した。心の底から恐怖し、死にたくないと感じた。だからこそ、こうして今日も体力が続く限り鍛錬に励んでいる。
今日の予定はこなした。大量の汗が纏わりついて不快感を煽る。貯水してある雨水で沐浴するとしよう。
立ち上がり、浴室に向かう前にふと窓から外を見やると、雨に打たれている人物を見つけた。どうせシャワーを浴びる前だからと、俺はレインコートも着ずに外へ出た。
「イヴァン!」
当人に大声で呼び掛ける。家から十メートルほど離れた地点に彼はいた。すでに傘を差し、俺が駆け寄る前から俺の存在には気付いていたようである。
特に警戒もせず彼に近寄る最中のことだった。
「幸!」
今度は俺の名が大声で叫ばれた。呼び掛けたのはイヴァンではなく、俺のすぐ右横に突然現れたセカイだった。
「あ、セカイ……」
思わず足を止め、セカイに視線を向けた。
「幸! 何やってるの!」
「えっ? 何って……」
「迂闊に近寄っちゃダメよ!」
セカイの声は切迫感に満ちている。
それで思い出した。イヴァンは俺に絶望を思い知らせた元凶であり、他の移心者の殺意を煽った張本人。だからセカイは彼を憎悪し、強く敵視しているのだ。
それは仕方ないのかもしれない。しかし、彼は中立の立場を貫くと断言していたし、セカイが警戒するほど俺は彼を危険視していなかった。
「幸、君は……誰と話しているんだ……?」
イヴァンが疑念の声を上げる。そうだ、セカイは俺にしか目視できない。彼からすれば、俺が唐突に虚空と会話し始めたようにしか見えないだろう。
セカイのことを説明しようとした矢先、地面から叢生した土塊によって、彼は瞬く間に捕縛された。
俺とイヴァンは、ほぼ同時に驚愕の声を上げる。
「セカイ、どうしたんだ、いきなり!」
「幸! こいつを殺して!」
「えっ? 何言って……」
「幸こそ何を躊躇してるの? こいつは全ての元凶なのよ? 貴方を絶望に追いやった張本人じゃない!」
セカイの発言は支離滅裂だ。いや、その心情は理解できるが、しかしこんな有無も言わせず殺すなど、できるはずがない。
俺は世界を説得しようとしたが、その前にイヴァンが口を開いた。
「これは……いや、世界だと……?」
そして、彼は何かに気付いた。
「……なるほどな。幸、君の横にどんな姿の奴がいるのか知らないが、君は異世界そのものと意思疎通できるのか?」
「それは……」
「できるのなら、この土を元に戻してくれ。この世界のためにも」
「……えっ?」
この世界のため……?
「幸、早くそいつを殺して……」
セカイは一心にイヴァンの抹殺を請う。だが、彼の発言は聞き逃せない。
「セカイ、土を元に戻してくれ」
俺の申し出にセカイは渋ったものの、まもなくイヴァンの拘束が解かれた。
「イヴァン、どういうことだ? この世界のためって……」
「ああ、今の現象を、君の『セカイ』という言葉を元に検索したら分かったよ。まさか、異世界そのものに意思があったとはな。これも意思の世界だからこその結果なのか」
要領を得た発言。さすがに全知だけのことはある。
「イヴァン、あんたには見えないのか?」
「見えないな。世界が干渉できるのは、あくまでこの世界に存在する事象だけだ。私には世界の姿も言葉も分からないよ。もっとも、その意思は想像が付くが」
彼は俺を見据えた。
「幸を守りたい。それがこの世界の意思だろう?」
凄い。ここまで的確に……。
俺の沈黙を彼は肯定と受け取った。
「なるほど。私もようやく疑問が解けた。例の先生……名前は何て言うんだ?」
「先生の名前は……寺池千冴だよ」
「寺池? まさか、君の母親か?」
イヴァンは驚きを見せたが、俺の肯定に対して少しだけ黙考した後、この件には触れず話を続けた。
「その寺池千冴の矛盾肯定だが、どうにも腑に落ちなかったんだ」
「なんで?」
「あまりに影響力が強すぎるんだよ。異世界に長期滞在するだけならまだしも、異世界の法則を捻じ曲げたり、他人の意思にまで干渉したり。正直、一個人の願いだけでこれほど異世界を改変できるとは思えなかった」
「まあ、それは確かに……」
「でも、この世界そのものに意思があって、そいつが幸の生存を望んだのなら話は別だ。寺池千冴の願いは単なる引き金に過ぎない。この世界そのものが自らの法則を無効化したからこそ、本来ならあり得ない現象が次々と起こったんだ」
「本当なのか? セカイ……」
俺が問いにセカイは無言で頷いた。
そうだったのか。セカイは俺を見守っていただけじゃなく、ずっと俺のことを守ってくれていた。母だけでは肯定しきれなかった矛盾を、セカイも影ながら肯定していたのだ。俺が誕生してから現在まで途切れることなく……。
驚愕は勿論あったが、それ以上に感謝と歓喜が胸に芽生えた。なぜ、セカイはそのことを黙っていたのか。できれば、もっと早く謝意を伝えたかったのに。
「納得したか、幸。さっきの土の隆起も世界の意思だ。この世界は君の味方のようだな」
「ああ、バトガンさんの時もセカイが守ってくれた」
「バトガンさんに会ったのか? いや……闘ったのか?」
彼の質問に首肯すると、彼は小さく肩を落した。
「やはり、闘いは避けられないか。しかし、彼の最上の願いは防げたんだな」
「ああ、間一髪だった。願いの実現があんなに恐ろしいとは思わなかった。俺だけだったら一瞬で死んでたけど、セカイがほとんどの攻撃を……」
イヴァンが真摯な、それでいて悲しげな視線をこちらに向けている。
彼は溜息を零した後、口を開いた。
「私が伝えるべきことは全て伝えたと思っていたよ、幸」
「……まだ、何かあるんだな?」
「ああ、まさに世界のことだ。いくらこの世界の意思だからといって、そう簡単に世界の法則を捻じ曲げられると思うか?」
イヴァンの質問はよく分からない。セカイはこの世界そのものだから、自分の意思で自由に干渉できるのでは? 例えば、俺が自分の意思で歩けるのと同じように……。
セカイを窺うと、その表情はひどく苦々しかった。
「法則を捻じ曲げたのは、セカイじゃないのか?」
「いや、それは間違いなく世界の意思だ。問題は、何の代償もなしにそんな干渉ができるのかということだよ」
代償……そうか、俺はなんて大馬鹿。母はこの世界の法則を歪めて長期間留まり続けたが、その代償として現実界での時間を奪われたんじゃないか。
「結論から言うと、無理だ。自己の法則を改変するのは、人間に例えるなら自分で自分の骨を折るのと同じ。その意思があれば可能だが、折った後にはダメージが残る。世界も一緒で、自身に干渉する度に矛盾が蓄積していく」
それもまた、矛盾なのか……。
「分かるか? 世界は君を救う度に自分の身を削っている。そして自己への干渉によって蓄積した矛盾は、そのまま世界に悪影響を及ぼす。災害がその一例だ」
そこまでして……自分を犠牲にしてまで、俺を生かそうとしたのか。土塊の守護だけではない。セカイは今までずっと代償を支払い続けていたのか。
「だから言ったんだ。この世界のためにも干渉をやめろと。世界がこのまま干渉を続けたら、やがては崩壊するぞ」
崩壊? どういう意味だ?
「幸! それ以上聞かなくていい! 知る必要ないわ!」
今まで傍観に徹していたセカイが叫んだ。それは心からの懇願だと分かっていて、しかしそれでも、俺はイヴァンの言葉から耳を離せない。
「自分を傷付け続けたら、人間はいつか死ぬ。それは世界だって同じなんだよ。修復する間もなく矛盾が蓄積していけば、この世界はいずれ消滅する。そうなれば、この世界にいる君だって当然生きてはいられない」
「そんな……」
それが真相なのか。それが俺の生きる代償か。
本当に、俺にとっては奇跡のように優しく、他者にとっては悪夢のように厳しい。
そうまでして、俺は生きるべきなのか……?
「幸、気にしないで。私は絶対に貴方を守るから」
セカイは優しく慈悲を与えてくれる。俺を守るというその言葉、数分前なら素直に受け取れただろう。セカイの意思に心から感謝できただろう。しかし、その言葉の裏には自傷がある。その身に矛盾を蓄積させ、自己犠牲の下に俺を長らえさせる。
そんな意思、聞き入れられるわけがない。
イヴァンが会話を再び繋いだ。
「今回も言い逃げになって悪いが、これを知ってどうするかは君と世界で決めてくれ」
「ああ、教えてくれて感謝するよ」
「感謝か……もう一つだけ助言すると、たとえ世界の助力を受けるとしても、世界に移心者を殺させてはならない」
「……はっ?」
突拍子もない内容だが、無根拠な言葉は彼から出ない。
「移心者は異世界の存在ではない。しかし、移心している間は紛れもなく異世界にいる。つまり、異世界の構成要素の一つなんだ」
「ああ、それで?」
「その移心者を殺すということは、構成要素を自ら消去するも同然。人間で例えるなら、自分の内臓を一つ引き抜くに等しい。そんなことをしたら、その人間はどうなる?」
「……死ぬだろうな」
「そうだ。小さな自傷とは訳が違う。人間の内臓が一つでも欠ければ致命傷になるように、この世界だって自らの構成要素を一度でも消してしまえば一気に崩壊が早まる」
だからセカイは、バトガンさんやイヴァンを捕縛はしても殺しはしなかったのか。セカイが一度でも移心者を殺せば、この世界の崩壊が始まる。そうなれば俺も死ぬ。だから、セカイは俺に抹殺を請うしかなかったのだ。
「でも、セカイが殺さなければ大丈夫なのか?」
「そうだな、少なくとも致命傷にはならない。確かに人間なら臓器を抜かれたら無条件で死ぬし、それが自殺か他殺かは関係ない。でも、世界にとっての傷とはあくまで『矛盾』なんだ。だから、構成要素を失うこと自体が致命傷になるんじゃなくて、自分の構成要素を自分で排除するという矛盾の大きさが致命的なんだよ」
なるほど。自傷することが問題なのか。確かに、人間で考えても自殺という行為には矛盾が大きい。生物は自己の生存を優先するはずだから、本来なら自殺なんて選択はしない。それを選ばざるを得ない状況というのは非常に特殊だろう。
いずれにせよ、これは有益な助言だった。イヴァンの言う通り、今後の方針は俺とセカイで真剣に話し合うべきだろう。
「あ、幸!」
突如、セカイが声を上げた。それに遅れて俺とイヴァンも気付く。
大地の震動。震度は徐々に上がっていく。俺もイヴァンも泥土に倒れ伏し、ひたすら収束を待つ。そして揺れが収まった頃合いで俺は立ち上がり、イヴァンも身を起こした。
「……幸、君は今の揺れでなんともないのか?」
「え? ああ、あれくらいのは何度も経験してるから」
「そうか……今の揺れが『あれくらい』か……」
イヴァンは視線を落とす。その機微すら俺の心を締め付けた。
セカイが自身に干渉すると矛盾が起こる。そして、矛盾の蓄積によってこの世界では災害が頻発する。だとしたら、ここが現実界より災害が多いのも、俺が原因なのだろう。俺が生きているだけで矛盾は溜まる一方なのだ。
俺は、どうすればいいのだろうか……。
「幸っ! 気を付けて!」
セカイの切羽詰った警告。先刻よりも切迫した声に、すばやく彼女の視線を追う。
前方五メートル先、別の移心者が現れていた。
「
イヴァンが呼び掛ける。地震直後に移心してきたのは、愛玲という女性。彼が真実を伝えた一人であり、俺に殺意を抱く可能性が高い人物。
「あ、イヴァン!」
イヴァンに対し、屈託のない笑顔を見せた愛玲。しかし俺の存在に気付いた瞬間、その形相は一変した。
鋭い眼光。その瞳には並々ならぬ憎悪が宿っている。その程度は、バトガンさんよりも彼女の方が上かもしれない。
「イヴァン! そいつ、まさか……!」
口調に剣呑さが増し、全身から殺意が滲み出る。それに同調して、セカイの剣幕も跳ね上がる。場は一瞬にして緊張に包まれた。
火蓋を切ったのはイヴァンの一言。
「ああ、そいつが例の奴だ」
刹那、愛玲の殺気が爆ぜた。
彼女の両足は地を蹴り、一直線に俺へと肉迫する。右手にはいつのまにかナイフがあり、刃先は迷いなく俺を切り裂きにかかった。
速い。だが、バトガンさんには遠く及ばない。強化された彼は勿論、願いを具現化させる前の彼にもだ。そこに精神的な余裕が生まれ、俺は存外冷静に対処できた。
弧を描くナイフの軌跡を、体を大きく左に流して避ける。間髪入れずに繰り出される四度の刺突。その全てを紙一重で避けると、彼女は初めて表情を崩した。
愛玲は驚愕の表情を浮かべ、後退する。
両者に距離が空く。俺は身構えたが、彼女は戦意喪失していた。
「なんで……なんでよっ!」
愛玲の不可解な憤怒。しかし、セカイの様子も妙だった。
「セカイ、どうした?」
俺の声にも応えない。それほどセカイは動揺していた。
「そんな……どうして……」
セカイの空虚な呟き。その様子は愛玲と同じだ。
そして、セカイは縋るように俺を見た。
「守れない! 幸のこと守ろうとしてるのに!」
「え? 俺を守れないって……」
そういえば、確かに愛玲が迫っても土塊の守護はなかったが……。
「殺せるはずなのに! なんでっ?」
見れば、愛玲も同様に戸惑っている。
一体、何が起きている……?
「なるほど。全て理解できた」
両者の混乱状態を破ったのはイヴァンだった。
「幸、世界は君を守ろうとしたけど、その意に反して守れなかったんだろう?」
完璧な正答に俺は頷くだけだった。
彼の全知は伊達じゃない。セカイすらも凌駕している。
三者とも彼の言葉を待つ。途切れぬ雨音が響く中、彼は切り出した。
「一番の原因は、愛玲の願いの性質だ」
「えっ、私……?」
「ああ、君の最上の願いは『災害の原因を殺す』こと。だから、その願いが実現すれば幸は呆気なく死ぬはずだった」
なんて直接的な……即応的な願いだろう。
イヴァンは一つ補足した。字義通り殺害に特化した願いだが、それはやはり他者へ干渉できるものではない。願いはあくまで自分に向けられた形で発現する。ゆえに、彼女の願いはバトガンさんと同様の肉体強化が主となる。殺害時のみ限定で、運動能力や殺人技術が飛躍的に向上するのである。
ゆえに、本来なら俺は初撃で死んでいるはずだった。それこそ、バトガンさんの攻撃よりも確実に。
「じゃあなんで、あいつは死なないのよ!」
だからこそ、自分の願いを知る愛玲は困惑している。
「君の願いは、この世界の願いと真っ向から対立している。だから、その発現はこの世界に抑止されているんだよ」
「え? 世界って……本気?」
「私は嘘を吐かない。知っているだろう?」
愛玲は半信半疑ながら納得した。それほどイヴァンへの信頼が厚いのだろう。
「要するに、ここは意思の世界だから世界自身も固有の意思を持つようになり、その意思は幸を守ろうとしている。一方、愛玲の願いは世界の意思と対立している。だから、君の願いは世界に抑え込まれたんだ」
「でも、イヴァン。それは矛盾してないか? バトガンさんだって俺を殺そうとしたのに、なんで彼の願いは実現したんだ?」
「それは別に矛盾ではないよ。彼の願いは、君を殺す目的で抱いたものじゃない。君を知る前から抱いていた、あくまで自分に向けられた願いなんだ」
つまり、願いそのものが世界の意思に反しているかが重要なのか。
イヴァンは説明を続ける。
「でも、いくら世界自身の願いに反しているとはいえ、移心者の最上の願いを抑止するのは簡単ではない。だから、幸を守るという意思は全て願いの無効化に費やされる」
「どういうことだ?」
「愛玲の願いを無効化している間は、世界の他の守護は発動しないということだ」
そうか。だから先刻、セカイは土塊で守護できなかったのか。
「つまり、こう考えれば分かりやすい。愛玲の願いは世界の守護を封じるために全て費やされる。対して、世界の守護も愛玲の願いを抑止すべく費やされる。だから君達の対決は、純粋に互いの力でやり合うしかないってことだ」
その言葉で合点がいった。たとえ願いを無効化されても、愛玲の意思そのものが挫けるわけではない。一方、俺も生きるためにはセカイの守護なしでも闘うしかない。
愛玲もそれを理解したのだろう。我が身ある限り相手を殺せる。それが分かるや否や彼女の殺意は蘇り、その双眸は俺を捉えて離さない。
「よく分かったわ、イヴァン」
冷静な口調からも滲み出る殺気。
「自分の力で、あいつを殺せってことね!」
二度目の衝突。二人の距離は瞬時に埋まり、後は互いの攻防で全てが決まる。
彼女の右手にナイフは健在。迷いなき攻撃を全力で回避する。
向けられる凶刃。そこから放たれる幾多の殺意。急所に刃風を感じ、慌てて距離を取る。冷汗を流す間もなく、衰え知らずの攻撃が三度襲来。一呼吸のうちに次の刺突。かろうじて避ければ、更なる追撃。最後の刺突が左肩を掠め、出血より先に追撃を躱す。
隙を見て距離を取り、呼吸を正す。彼女は追尾し、連撃を放つ。右脇腹に掠り傷を負うだけでそれらを凌ぎ、刃先の翻る様を捕捉する。
そして、幾度の死線を越え、俺は理解した。
愛玲に俺は殺せない。
俺には疲労も傷もある。しかし危機感はなく、続く攻撃を回避し距離を取った。
彼女の殺意は確かに強いが、その他のあらゆる点でバトガンさんより劣っている。速さや腕力がなく、それゆえ威圧も絶望も感じない。
迫り来る全ての刃を受け流す。攻撃を凌ぐ度、俺は冷静さを取り戻していく。
バトガンさんと闘う前であれば、ここまで冷静にはなれなかっただろう。
しかし事実として、彼女には俺を仕留めるだけの力がない。願いを封じられた彼女には、土塊の守護なくとも負ける気がしない。
三度の追撃を凌ぎ、愛玲にも焦りが見えた。俺との力量差を感じ取り、焦燥感が動きを雑にする。
その隙を突き、愛玲の右手を掴み取る。
「あっ!」
愛玲が声を上げる前に、俺は彼女の手を封じつつ足を引っ掛けた。彼女は地面に前のめりに転び、俺は右手首を掴んだまま背中に左膝を乗せて彼女の動きを封じた。
「くっ! この……!」
地面に押さえ付けられた状態で、愛玲はがむしゃら暴れた。その右手からナイフを奪い、遠方へと投げ捨てることで、彼女の抵抗の意思を削ぐ。
それで勝敗は決した。いくつかの手傷を負いながらも、俺はまだ生きている。愛玲を泥土の上に倒し、抵抗できないように組み伏せている。
「う……うぅっ……」
地面に伏しながら、愛玲は断続的な嗚咽を漏らしていた。最上の願いが叶わず、悔し涙が頬を伝う。女性を泥土に押し付けている今の状態は本当に心苦しかった。
愛玲は首だけ動かし、イヴァンを見つめた。
「イヴァン……助けて……」
か細い声で助力を乞う。俺は反射的に危惧を抱いたが、イヴァンは佇立したままだった。
「愛玲、私は君の願いにも行動にも干渉しないと言ったはずだ」
イヴァンの返答に愛玲は目を見開き、その後、意気消沈して俯いた。
察するに、二人は親しい間柄だったはず。イヴァンから助力を拒否された愛玲の心情は、俺には推し測れない。彼女の全身は悔しさで一層震えていた。
雨声と愛玲の哭声だけが木霊する。
セカイが近くに佇んでいた。そういえば、俺が愛玲に幾度となく攻撃されている間、セカイの直接的な接触による助太刀もなかった。愛玲の願いはそれすら抑止するのか。
気付けば、イヴァンは忽然と姿を消していた。帰還したようだ。
セカイを除けば、この場にいるのは俺と愛玲の二人だけ。そして、俺はすでに彼女の自由を奪っている。後は彼女が自動的に帰還するのを待つだけだ。
「あんたさえ……いなければ……」
愛玲は憤怒に満ちた怨声を発する。
「信じられない。自分以外の全ての人間を犠牲にしてでも生き延びようとするなんて……あんた、それで何とも思わないの? 所詮は他人事ってわけ?」
ナイフで貫けなかった俺の胸を、彼女の糾弾が貫通する。反論の余地もない。その罪悪感は、生きると決意した今でも俺の心中で燻り続けているものだから。
「なんで、あんたなんかが生きてるのよ。なんで、他人を犠牲にしながら生きようなんて思えるのよ!」
ナイフよりも鋭利な言葉。
「あんたがいるから! あんたなんかが生きてるから! だから皆が不幸になるのよ!」
容赦ない怨言。それが今の彼女に唯一可能な抵抗であり、俺にとって直接的な殺意よりも恐ろしい攻撃だった。
ナイフなら躱せる。しかし、言葉からは逃げられない。
「この殺人鬼ッ! 死ねっ! 死ネエェェェェ!」
殺人鬼……死ね……。
覚悟はしていた。そのつもりだった。俺は他者を犠牲にして生きると決意し、罵倒も憤恨も全て受け入れる覚悟だった。
だが、そんな覚悟に意味はなかった。全てを受け入れるなど到底できない。愛玲は俺が出会った数少ない人間の一人だ。その彼女に最大限の殺意を向けられ、怨憎を叫ばれ、殺人鬼と呼ばれ、死ねと詰め寄られる。とてもじゃないが、平静ではいられない。
「幸……気にしちゃ、ダメ」
セカイが俺に囁く。その声には抑えきれない怒りと、そして途方もない悲しみが垣間見えた。だが、それは心に届いても、罪を晦ますだけの姑息な慰めとさえ思えてしまう。
「それでも生きるって言うなら……」
愛玲の語気が弱まった。
「返してよ……私のお父さんとお母さん……妹を返して……」
微かに、痛ましげに紡がれた嘆き。本当に俺は愚かだ。彼女の言葉を聞くまで、ずっと失念していた。イヴァンが伝えた事実を正面から見ようとしていなかった。
バトガンさんと愛玲は、現実界での災害によって家族を失った。確かにそう言っていたはずなのに、俺は自分の命を優先した。彼女がどんな気持ちで今まで生き、俺に対してどれほどの憎悪を抱いたのか。それを汲み取ろうともしなかった。
俺は馬鹿だ。世界一の大馬鹿だ。
「あんたが他の人を殺してでも生きるって言うなら、今まで殺してきた人を返してよ……何万人も殺して、無関係な人を沢山不幸にして……それでも生きたいんだったら、全部返して……」
「……」
言葉は出なかった。思考も巡らない。今の愛玲は悲哀に打ちひしがれ、俺に癒す術はない。それこそ、今すぐ自殺する以外には。
そして、聞き違いとしか思えない箇所があった。
「何万……だって?」
間違いとしか思えない単位。俺は困惑するばかりだった。
愛玲は嘲笑した。
「まさか、知らなかったの? 自分が何人殺したかも知らずに、のうのうと生きるつもりだったの? ふざけるなっ!」
正論としか思えない問責。俺は分かっていたつもりで、何一つ分かっていなかった。懊悩の末の決意も、被害を受ける側からすれば戯言同然だったのだ。
「現実界ではね、毎年何十万人もの人が災害で死んでるわ! 十人くらいしか犠牲になってないとでも思ってた? あんた、何もかも都合よく考えすぎなのよ!」
違う。それは誤解だ。俺だって色々考えた。都合よくなんて、そんな……。
でも、胸を張って言えない。結局は、愛玲の言う通りなのかもしれない。
犠牲者だって、十人くらいだなんて決して思っていなかった。でも、せいぜい数百人、多くても千人くらいと無意識の内に決め付けてしまっていた。
馬鹿だ。本当に呆れるほど愚かだ。現実界には何十億もの人間がいると、イヴァンも教えてくれたはず。俺は都合の悪い言葉を遮断し、母やセカイの甘く優しい懇願にだけ耳を傾けた。そしてそれを口実に、結局は自分に甘い決断を下した。
何が、他者を犠牲にしてでも生きる、だ。反吐が出るほどの欺瞞じゃないか。
認識した途端、自分の生命そのものが醜悪な汚物のように思えた。
「あんたのせいで、それだけの人が死んだのよ! 私の家族もみんな犠牲になった! 家も無くなって、何もかも失って、でも誰かを恨むこともできなかった!」
ずたぼろの布切れのようになった俺の心を、愛玲の言葉は更に追い詰めていく。精神が崩壊していく。それを和らげようと発せられるセカイの慰めも愛玲の激情に覆われ、思い出せなくなる。
「だから、私のように悲しむ人はもう出てきちゃダメなの! 妹のように幼い子供が死ぬのはもう嫌なのよ!」
号泣しながら、掠れた声のまま、愛玲は力の限り叫んだ。取り残された者の悲しみを彼女は体現している。俺が死ねば、彼女のような人間を減らせる。彼女の妹やバトガンさんの息子のような幼い命をも救えるのだ。
じゃあ、俺が生きて、それでどうなる? 不幸ばかりを引き起こし、他者の未来を摘み取るだけじゃないか。
少しでも可能性があるのなら……俺が死ぬことで数多の人生を救済できるなら、死んだ方が断然良い。俺一人の命で全てが解決するのなら、即刻死ぬべきだ。
それをどうして、俺は今まで生き続けているのだろうか。
愛玲は災害で家族を失い、その無念を晴らせる相手すらいなかった。運命そのものを呪うしかなかった彼女の心情は、今の俺にだって痛いほど分かる。
なのに、俺は彼女を一方的に組み伏せている。自分の命だけを重視し、彼女の思いを踏み躙っている。
自分で自分が悍ましい。まるで悪魔だ。俺は産まれた瞬間から死ぬ間際まで、常に何かを殺戮し続ける正真正銘の悪魔なんだ……。
絶望が俺から力を削いだ。
「殺してやる!」
その隙を突いて、俺の戒めから抜け出す愛玲。起き上がると同時に正面から俺の首を掴み、押し倒す。俺は仰向けになり、彼女は俺に馬乗りになって両手で首を絞めた。
先刻と立場が逆転。今や愛玲が俺を制し、全力で殺そうと試みている。
「死ね! 死ねぇ!」
憎悪に満ちた表情で俺の首を握り締める。まるで万力のように気道が塞がれ、呼吸できずに意識が朦朧となる。不快な濁声が無意識の内に喉から漏れた。
「幸、抵抗して! お願い!」
セカイの悲痛な懇願。
でも、やっぱり駄目だ。俺は愛玲に殺されるしかない。
彼女は人類にとって正しいことをしようとしている。そのために、殺人という大罪を犯そうとしている。動機が何であれ、その事実は変わらない。
俺は殺されても文句など言えない。抵抗する気力も沸かない。むしろ、このまま殺してくれればどんなに楽か。
もう、悩むのは疲れた。愛玲に殺されるのなら、きっとそれが一番良い。
視界が徐々に霞んでいく。愛玲の声もセカイの声も、一面に響き渡る雨音に溶け込んで聞こえなくなる。
意識は虚ろ。もはや雨すら感じられない。このまま時が過ぎれば、後少しで俺は抜け出せる。この地獄のような運命から。
一瞬、頭に浮かんだのは母とセカイ。
ごめん……でも、これが誰にとっても最良の結末なんだ……。
「かはっ! ぎ、ごふ……」
訳も分からず噎せた。空気の供給を断たれていた脳は、俺に呼吸を強制した。過剰なまでに空気を吸い込み、耐え切れずに大きく噎せる。それを五度ほど繰り返して、俺の意識はようやく明瞭になっていった。
正常に戻った視界で確認できたのは、愛玲が消えたという事実。すなわち、愛玲の帰還であった。
信じられない。バトガンさんと同様、愛玲も俺を殺す直前で帰還してしまった。俺にとってはまさに奇跡で、彼らにとっては無念でしかない。偶然まで味方に付けられるほど、俺は生きるべき人間なのか?
否、そうではないと愛玲に教えられた。全ての人類のためにも、俺は速やかに死ななければならない。
「幸、大丈夫?」
セカイが俺の安否を気にかける。大丈夫とだけ答えたが、立ち上がる気力はない。
「幸、無事で良かった。本当に」
セカイの表情には安堵と悲愴が混濁している。
「家に戻りましょう。立てないなら、私が家まで運んで……」
「いや、その必要はない」
セカイの言葉を遮って申し出を断る。セカイはそれで、自分の手助けは必要ないと受け取ったのだろう。
しかし、必要ないのは家に戻るための助力ではない。俺はもっと根本的な部分の必要性を否定していた。
「家に戻る必要はない」
「……えっ?」
「セカイ、今すぐ家と学校を消してくれ。それと、俺のためにこの世界の法則を無理矢理変えてるなら、それも全部やめてくれ」
俺の申し出にセカイは即答しなかった。それも当然。セカイが矛盾を肯定しなくなったら俺は家を失い、食料も保存できなくなる。母も数日に一度しか移心できず、滞在時限も延長できなくなる。
「それは、できないわ」
セカイは聞き入れなかった。
「私は貴方のためなら命も惜しくない。むしろ、貴方のいない世界に意義はない。犠牲になっているなんて、私は少しも思ってないのよ。だから……」
「俺に存在意義なんてあるのか?」
セカイの言葉を遮る。彼女は俺の心情を知る由もないだろう。
「幸、あんな言葉、気にしちゃダメ。あんなの、現実界の惨事を都合よく幸に押し付けているだけよ。貴方が死ぬ必要なんて絶対にないんだから」
俺の生存を望むなら、セカイの返答は正解だろう。
でも、それを望んでいる者は人類全体からすれば集計するに値しない。
「気にしないってのは、結局見殺しにするってことだよな?」
「違う! 貴方は誰も殺してない!」
「殺してきたんだよ、俺は! 生きてる限り今後も殺し続ける!」
一際大きく発せられた怒声にセカイはたじろぐ。セカイに八つ当たりするなんてお門違いだが、やり場のない絶望をどこにぶつければいいのか分からなかった。
愛玲が教えてくれた。産まれてから死ぬまで、俺はずっと罪人のままだ。その宿命からは逃れられない。自分の罪を贖う唯一の方法は即座に自害することだ。
結局、俺が死ぬしか道はない。
これまで目を背けてきた選択肢。愛玲の悲鳴は、それをしかと俺の胸に刻み込んだ。
「俺は……何十万人も殺してきたんだ……」
俺の呟きは、自分でも分かるほど弱々しかった。
「幸……貴方が責任を負う必要はない。たとえ貴方が災害の原因だったとしても、貴方に罪はないわ」
そうなのかもしれない。バトガンさんだって、過去に対して俺が罪を負う必要はないと言っていた。
「そうだとしても、俺にはやっぱり罪があるよ」
「どうして?」
「俺はもう、イヴァンから全て聞いた。その上で俺が生きて、それで現実界に被害が出たなら、それは完全に俺の罪だろ?」
セカイは頑なに否定する。俺には被害を止める手立てがないのだから、俺が責任を感じる必要はない。必死にそう訴え掛けた。
だが、それはやはり認められない。
「止める手立てはあるじゃないか。ただ、それを実行するのが怖いだけだ」
「そんな! それは死ぬってことでしょ? そんなのは手立てって言わないわよ!」
「でも、それで他の人が助かるなら……」
「そのために幸が死ぬって言うの? 死んでも良いって言うの?」
分からない。自殺の是非なんて俺には判断できない。
本音では、死ぬなんて御免だ。死ぬのは怖い。母やセカイを悲しませるのも嫌だ。
「でも、俺がこのまま生きて現実界の被害を広げるよりは、今後の被害を最小限に抑える方が正しいんじゃないか?」
「それの何が正しいの? そんなの、愛玲やバトガンが喜ぶだけじゃない!」
「確かに、あの二人は俺を殺したいと思ってる。でも、それは私利私欲のためじゃない。俺を殺せば、俺以外の全ての人達が救われるんだ」
だから、彼らへの反論は思い付かない。俺を殺す目的が私怨だけなら、俺だってこんなに迷いはしないだろう。
セカイが悲しげに囁く。
「……違う。貴方は少し盲目になってる」
そうかもしれない。しかし俺の思考に関わらず、俺が死ねば現実界が救われるという事実は変わらないのだ。
「幸、貴方は一つ勘違いしてる」
「何を?」
「彼らはね、現実界の人間のために貴方を殺そうとしてるんじゃないわ。彼らは、現実界の人間を救うという『自分の意思』を優先させているだけなのよ」
自分の意思という部分を強調したセカイが、俺に反論の間を与えず捲し立てる。
「分かる? あくまで自分のためなのよ。自分の意思を叶えるのが最優先で、それがたまたま都合よく大多数を救える内容だっただけの話。そういう建前があるから、自分の意思を押し付けてくる。だから、貴方の意思を無視して貴方を犠牲にしようとする。自分の意思を犠牲にして幸を救おうとか、そんな考えは掠めもしない。本当に利己的なのは貴方じゃなくて彼らなのよ」
必死で俺を説得するセカイ。それは、意思が全てである彼女らしい主張だ。俺にはそんな考え方ができなかっただけに、先入観が取り払われたように感じた。
セカイの言葉は確かに一理ある。しかし、それを抵抗なく受容できるはずもない。
「セカイの言うことも分かるよ。でも、たとえ彼らが自分の意思を優先させたとしても、それが結果的には現実界の人達のためになってるんだ。だったら、彼らが自分の意思を貫くのは正義なんじゃないのか?」
俺の意思が変わらなかったことに対し、セカイは深い悲しみを露わにした。
「違うわ。それは断じて違う。ねえ幸、聞いて」
セカイは敢えて声量を抑え、緩やかな口調で言葉を紡いだ。
「正義は数字? より多くの人を救えたら正義なの?」
俺は押し黙る。セカイの至言が心に響いた。
「百人を救うために一人を犠牲にするのは正義なの? だったら、百人を救うために九十九人を犠牲にするのも正義?」
「そんなことは……」
「貴方の言う正義は、そういう物なのよ。多数派が正義で、少数派は多数派のために犠牲になっても仕方ない。それが正義だと貴方は言っているのよ?」
違う……そうじゃないのに……。
俺は否定できなかった。セカイの例えは極端だと思うが、しかし的を射ている。
百人のために九十九人を犠牲にするのが駄目なら、一体何人にまで犠牲者を減らせば正義になるのか。五十? 三十? それとも、二人以上だと正義ではなくなると?
では、差が一人しかないのが駄目なのか。それなら、二人のために一人を犠牲にするのは悪か? ならば、何人以上のためなら、一人を犠牲にしても正義でいられる?
そう、こんな論議は馬鹿げている。だけど、俺はこんな単純な本質にも気付けないでいた。俺以外の全ての人達のために俺が死ぬ。それが正義だと疑わなかった。
「正義なんて曖昧な概念に惑わされないで。大切なのは貴方の意思なのよ」
正義を行動理由にしてはいけない。正義なんて、所詮は個人の中にしかない主観。それを尺度にしたところで、待っているのは途方もない虚無だけだ。
「愛玲やバトガンは、自分の意思を優先している。だから、貴方も自分の意思を優先すべきなのよ。それは罪なんかじゃない。誰もが持っている権利なんだから」
自分の意思を優先させることが肝要なのか。
では、俺の意思とは? 今度はこの壁に衝突する。
当たり前だが、俺は死にたくない。他者からどんなに罵られようと、逆に死ぬことでどんなに称えられようと、可能な限り生きていたい。他者とは異なる世界にいたとしても。
しかし、それだけが俺の意思じゃない。他の全ての人のためにも、俺は生き延びるわけにはいかない。その考えも同様に抱いている。
結局、ジレンマ。
「セカイ……俺は自分の意思が分からないんだ」
「なぜ? 貴方の望みは生きることでしょう?」
「確かに、俺は死にたくない。死ぬのは怖いし、母さんやセカイを悲しませたくないと本気で思ってる」
「なら、その本心に従えばいいのよ」
「でも、それだけじゃないんだ。俺は他人を犠牲にしてまで生きたくないとも思ってる。俺以外の人間を犠牲にして生き続けるなんて、俺には耐えられない。そこに母さんや翔太が含まれてるなら、なおさら」
そればかりは、本当にどうにもできない。生きたいけど、誰かを犠牲にはしたくない。犠牲にはしたくないけど、死にたくない。
なぜ、俺は生まれたんだろう。
最初からいなければ、誰も苦しまなかったのに……。
「幸、私は貴方に生きてほしい。貴方が生きてくれるなら、どんな犠牲も厭わない。それが私の意思よ」
セカイの断固たる意思表明。それはきっと誰にも崩せない。俺が自身の死を望めば、セカイは俺にすら反発するだろう。
「だから、私は矛盾を肯定し続ける。幸の生存に必要な物を残し続ける。それに、幸が殺されそうになったら全力で守る。貴方が拒んだとしても」
それこそがセカイにとっての正義なのか。
「俺は……まだ、セカイに応えられない」
だから、ごめん。俺は謝罪しか返せない。
その謝罪にセカイは何も答えない。ただ、至上の優しさで俺を包み込む。
「幸、これだけは心に留めておいて」
そうして、セカイは俺に囁く。
「全ての人間が敵だとしても、セカイは幸の味方だからね」
セカイは俺を抱き締める。その両腕は惜しみない慈愛に溢れ、その言葉は泣きたくなるほどの温もりに満ちていた。
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