第二章 真実

[寺池幸]

 目を閉じて蹲り、異世界の時間をやり過ごす。毎度の行為も、最近では飽きすら感じられるほど心に余裕ができつつある。

 学校にいる最中、トイレから戻って教室の扉を通過した瞬間に連行された。世界の変化はいつも唐突で、抵抗の余地はない。

 唐突なものは他にもある。地震などはその最たる例だろう。何の前触れもなく発生しては、損害を撒き散らして去っていくのだ。

 すでに地面は揺れていた。異世界でも地震は稀に起こる。目を瞑って周囲の風景を遮断しても、大地の揺れは感じざるを得ない。

 先に終わったのは地震だった。異世界に来てからまだ一分と経っていないのだから当たり前だ。ただ、俺にとって揺れの有無などは関係ない。幼少の頃からの励行に従い、本来の世界に戻りたい一心でひたすら耐え忍ぶだけである。

 最初こそ恐怖しか抱けなかった異世界も、時間が経つにつれて苦にならなくなってきた。一夜の夢のようなものだ。悪夢であることに変わりはないが、危害を加えられるわけではないし、数十分で現実に戻れるのなら我慢もできる。

 そんなことを考えている間に、もう本来の世界に帰れたようだ。周囲は見覚えのある景色に戻っていた。入り口から眺めた教室は静けさに満ちていた。

「こら、何立ち止まってるのよ」

 聞き慣れた声。語尾が明瞭で透き通るようなその声の主は、凛然たる雰囲気のまま俺の背後に屹立していた。

「なに突っ立ってるの? 授業始めるわよ。早く席に着きなさい」

 先生の発言には強制力がある。翔太は何かにつけて教師に逆らっていたらしいが、俺にそのような勇気はなく、大人しく席に着いた。

 その後は、いつも通りの授業が始まった。


[イヴァン・カラベロフ]

 移心した。周囲を見渡しても何も無いが、今回は風雨が体を強く打ちつけている。付近は深緑の空と同じ色に染まり、嵐は止む気配がない。これでは折畳み傘を差しても無意味であり、私はずぶ濡れのまま帰還を待った。

 その最中、変化にはすぐに気付いたが、特に対策を講じる必要はない。震度六強ほどの揺れが足元から感じられるのだが、私は平常心を保ったまま。無論、立ち続けるのは困難で、今も無様に転倒しているが、それでも危機感は皆無である。

 現実界であれば慌てて安全を確保しただろうが、ここでは不要だ。

 異世界において、偶発的もしくは意図的な事象により死亡した場合、移心者は即座に異世界から消滅する。しかし、それは現実界での死を意味しない。帰還と同様、意思が再び現実界に戻るだけである。精神に異常を来たすこともなく、記憶も正常に残る。

 異世界で何事もなくとも、いつかは帰還する。移心してから何分後に帰還するかは毎回ランダムだが、しかしそれは移心時に自動的に決定されるものである。異世界での死とは、事前に設定された帰還のタイミングを無視して強引に帰還することと同義である。

 だからこそ、異世界で死を恐れる必要はない。死んでも帰還するだけ。死ななければ、予定されたタイミングで帰還する。ある意味、異世界はどこよりも安全な場所と言えるだろう。

 一分ほど続いた震動もようやく落ち着いてきた。嵐の中で地震に見舞われ泥塗れだが、死ぬまでには至らなかったようだ。とはいえ、嵐は今なお衰えを知らない。こんな中で本を読む気にはなれないので、今回は死んでも悔いはなかったかもしれない。

「あれ? イヴァン?」

 左方向から聞き覚えのある女声が響いた。その方向に視線を移すと、見覚えのある人物がこちらに駆け寄ってきた。

「やっぱりイヴァンだ。久し振り」

「ああ、半年振りくらいだな」

「そうだね。イヴァンが私の町に訪ねてくれたのが最後かな」

「元気そうで何よりだよ、愛玲あいりん

 曇りなき笑顔で再会を喜んでくれる彼女の名前は、りゅう愛玲。私が異世界で出会った移心者の一人である。顔立ちは純正の中国人であり、ショートカットの黒髪は綺麗に整えられている。十八歳の高校生であり、制服姿の彼女と異世界で遭遇したこともある。しかし今回は私服でも制服でもなく、ユニフォーム姿だった。

「愛玲、これから試合だったのか?」

「うん、今から地区予選。高級中学最後の公式戦だからねー」

「そうか。君は確かセッターだったね?」

「そうだよ。それに今年は私が主将なの」

 今年度は愛玲と話す機会がなく初耳だったが、前に現実界で会った際、自分が次期主将に推されていると確かに言っていた。

 彼女は高級中学のバレーボール部に所属している。高級中学とは、ブルガリアでは高等学校に当たる。彼女は一七○センチ後半の身長で私と同じくらいの背丈である。

 バレーボールの話をする時の彼女はとても溌剌としている。その時の様子からは、過去の翳りは全く感じられない。ゆえに、私は少しばかり躊躇していた。異世界に関する真実を知っているのは私だけであり、それを他の移心者と共有するのが私の義務。しかし、今ここで真実を打ち明けるのは果たして彼女のためになるのだろうか。

「……イヴァン? どうしたの?」

 愛玲が訝った。それほど私の表情が険しかったのだろう。

 真実を知った後、彼女はどのような行動を取るだろうか。もしかすると、彼女は罪を犯してしまうかもしれない。少なくとも彼女にはその起爆剤となり得る過去がある。

 私は知識の探求者。私が最も嫌忌するのは事実の隠蔽である。知る権利のある者に対し意図的に知識や事実を隠す行為を、私は何よりも許せない。だからこそ私は、愛玲や他の移心者達に向けて、私が知る全ての事実を話すと心に決めていた。

 だが、それは本当に最良の行動だろうか? 彼女は今、充実した日々を送っている。そんな彼女に対し、過去を蒸し返すような行為をして何になるというのか。

「……ん?」

 不意に愛玲が声を上げ、つい先ほど体験したばかりの違和感が再び襲来した。

 そして揺れが大きくなった途端、愛玲は悲鳴を上げ、怯えるままに蹲ってしまった。

 この地震はおそらく余震だろう。震度五弱ほどの揺れが続いたが、先刻とは違って私は足を取られることもなく、そのまま数十秒で揺れは収まった。

 震動は確かに収まった。しかし、彼女の全身の震えは止んでいない。打ち付ける風雨の中、頭を覆って蹲り、ひたすら怯えている。

 それは、普段の彼女とはあまりにも異なる弱々しい姿。

 異世界で死んでも現実界で死ぬわけではないことを、彼女は重々理解している。他ならぬ私が教えたのだ。それゆえ、彼女が恐れているのは地震による死ではなく、地震そのもの。地震は彼女のトラウマであり、それは彼女の過去に起因する。

 幼少期の心の傷は未だに癒えてはいないのだろう。いつだったか、その過去を私に吐露してくれた時も、彼女は涙を堪えていた。当時抱いた無力感や絶望感を払拭するためにスポーツへ傾倒したことも、私は知っている。

 彼女の姿を目の当たりにして、決心が付いた。真実を知った彼女がどのような道を選ぶのかは分からず、最悪の可能性もあり得る。しかし、それでも私の知る全てを明かそう。彼女には知る権利がある。同時に、数少ない移心者の一人として、この異世界の真実を知る必要がある。そして、彼女がどのような決断を下そうとも、私はそれに介入しない。それが、全てを打ち明けた後の私のスタンスだと最初から決めていた。

「愛玲、もう揺れは収まったよ。立てるか?」

 未だ蹲ったままの愛玲に声を掛ける。しかし、私の声に彼女は反応しなかった。

「愛玲、大事な話がある。今伝えておきたい」

「……話?」

 場の雰囲気を感じ取ったのか、愛玲は立ち上がって私の瞳を見つめた。

「大事な話って、何?」

 彼女の瞳から怯臆の色が消える。異世界において全知である私からの大事な話。彼女にとって、とても聞き逃せるものではないはずだ。

「黒い髪」

「えっ、何?」

「スラブ系の顔で、だけど白人じゃなくてアジアの血が多少入った肌の色。身長は一七○センチ台の若い男性。そんな容姿の人間と、異世界で会ったことはないか?」

 私の問いを受け、愛玲は少し沈黙した。

「それって……あなたの外見じゃないの?」

 彼女は言い難そうに返した。その指摘通り、今述べた特徴はそのまま全て私自身に当てはまっている。そして、それは私が四ヶ月前に異世界で出会ったブルガリア人の特徴でもあった。

「じゃあ、こう言い換えよう。異世界で私とよく似た人間に出会わなかったか?」

「会ったことないわ。そもそも、異世界で面識があるのはイヴァンだけよ」

「……そうか」

 予想通りの回答。異世界で複数人に出会う方が稀なのだ。

「今言った『私に似た人間』に私は異世界で出会った。その時に分かったことを君に話そうと思う。荒唐無稽な話だけど、最後まで聞いてほしい」

 無言で頷く彼女に私は真実を語った。

 例のブルガリア人は一体何者なのか。それを語った時は、愛玲もさすがに驚きを隠せないでいた。それは当然の反応であり、最初は私も当惑した。しかし、それが異世界で得た知識である以上、疑いようはない。

 続いて、彼が及ぼす影響を明かした瞬間、愛玲の目の色が変化した。

「それ、本当?」

 彼女の声は驚愕と憤怒に満ちていた。その様子を見て確信する。彼女の問いに頷けば、おそらく彼女は最悪の方向へと突き進む。いや、それは現実界にとっては最善かもしれないが、しかし彼女自身にとっては重い十字架となろう。

「ああ、その確率は極めて高い」

 しかし、私は頷いた。最悪の展開を予想しながら、それでも嘘は付けなかった。

「そう……そうなんだ……」

 それはもはや私宛ての言葉ではなかった。自分自身の胸の内に覚悟を刻み付けるかのような、小さな呟きだった。

 何も言えない。互いに無言のまま時間が過ぎ、そして彼女は不意に消え去った。帰還の直前、彼女には唯一の確固たる願いが宿り、それは彼女の力となった。それを確認した私は彼女の選んだ道を知り、無様にも、遅すぎる悔悟に苛まれるのであった。


[寺池幸]

 突然の事態に思考が追い付かない。

 下校して自宅の前まで帰ってきた時、そこに見覚えのない人がいた。

 記憶のどこにも存在しない彼女は、じっと黙ってこちらを見つめている。周囲には俺と彼女以外の誰も存在しない。二人の距離はおよそ五メートル。直線上に障害物はなく、無言の対峙は十秒以上も継続した。

 どれほどの時間、見惚れていたのだろう。彼女を見た瞬間に俺の時間は停止した。視線は釘付けとなり、声も掛けられないまま立ち尽くすだけだった。

 不意に彼女の口元が動いた。声は聞こえない。しかし彼女は間違いなく言葉を発し、その口唇は確かに「さち」と紡いでいた。

 でも、解せない。なぜ、彼女は俺の名前を知っている? 今日この瞬間に出会ったばかりの彼女が、どうして……。

「幸……」

 なぜ、こんなにも親しげに俺の名を呼ぶのだろうか。

 二度目の呼びかけは確かに届き、今度こそ自分の名が呼ばれたのだと理解できた。透き通ったその声は、まるで脳内に直接語り掛けられているかのよう。声を聞き、名前を囁かれ、思考はさらに混沌と化す。

 彼女は俺を知っている。親しそうに、嬉しそうに、俺を見つめている。

 彼女が歩み寄ってくる。静かに一歩ずつ、俺との距離を詰めてくる。

 手を伸ばせば触れられるその距離で、先に手を伸ばしたのは彼女だった。

 彼女の両手が俺の両手を掴む。右手は左手、左手は右手を取り、それぞれの手を合わせるように彼女の胸の高さまで持ち上げられる。俺は両手が合わさり、それを包み込むかのように、彼女の手が重なっていた。

 その手の柔らかさ、その肌の温もりは俺を妙に安心させ、思考を落ち着かせてくれた。

 緊張は解けた。体も自由に動かせる。だが、真っ直ぐな眼差しで俺の目を見つめてくる彼女に対し、掛ける言葉は未だ見つからない。

 しかし、沈黙は一瞬だった。

「幸……やっと会えたね」

 彼女は三度、俺の名を囁いた。だが、その後に続いた言葉が分からない。俺と彼女は初対面だ。ただでさえ日常で出会う人間が少ないのだから、それは間違いない。

「ごめんなさい。幸は私に会うの初めてだよね。でも、私はずっと前から貴方を知っていたのよ。ずっと、こうやって触れ合って、話し合いたかった」

 一つの疑問が解けて、新たな疑問が表出する。俺をずっと前から知っていたのなら、どうしてもっと早くに声を掛けてくれなかったのか。

 そして、どうしてこのタイミングで俺の前に姿を現したのか。

「突然こんなこと言われても戸惑うよね。ごめんね。本当は、貴方に干渉するつもりはなかった。でも今、どうしても言わなきゃいけないことがあるの」

 俺の疑問をよそに、彼女は言葉を続けていく。

「これから貴方が出会う全ての人間を警戒して。貴方の周りの人間は全員、貴方を殺そうとするから」

 そうして、全く理解できない警告を発した。

 今の俺はまさに、目が点になっているのだろう。彼女は俺の様子を見て、もどかしげな表情を浮かべた。

「理解できないのは分かるよ。でも、これは事実なの。だから、これから出会う人間は全て敵だと見なしてほしい」

 改めて言われても、鵜呑みにはできない。だって、それはあり得ないから。これから出会う人間が俺を殺す? 母や翔太も?

 有り得ない話だが、彼女の態度は真剣そのもの。俺を騙そうという意思は、その真摯な瞳からは一切読み取れない。妄言と切り捨てるのは憚られる。だからこそ、彼女から話の続きを聞く必要がある。

「それは……俺を殺すっていうのは、何を根拠に……」

 困惑したまま、それでも言うべき言葉を振り絞った。彼女はその質問に少し躊躇したものの、返答しようと口を開く。

「あら? 幸、どうしたの? そんなとこに突っ立って」

 背後から聞こえたのは、俺がよく知る母の声だった。

「あ、母さん……」

 振り返ると、俺の背後から三メートル離れた場所に母はいた。

「何やってるの? 早く家に入りなさい。風邪引くわよ」

 母は俺との距離を詰めてくる。そこで、俺は無意識の内に身構えた。母が俺を殺すはずはないと確信しているが、それでも直前にあんな話を聞いたばかりなのだ。母の無防備な接近が逆に空恐ろしく感じてしまう。

 馬鹿だ。俺はすぐに自分の愚かさを悟った。無意識とはいえ母から殺意を感じてしまうなんて、どうかしている。実際、母は両手に何も持っていない。どこかにナイフか包丁を隠しているなど、まさしく邪推だ。

 母との距離は一メートルを切った。ここから不意打ちされたら回避は難しい。

 だが、それは杞憂というもの。母が俺に襲いかかるなどありえないと信じている。いや、それは信じるようなものではなく、至って当たり前のことだから。

 そうして、母は俺の眼前で立ち止まった。

「……どうしたの?」

 母は怪訝な表情で尋ねた。それはそうだろう。あり得ぬ殺意に怯え、母親を心の片隅で警戒しながら立ち竦む姿は、酷く滑稽に映ったはずだ。

「ほら、早く入りましょう。ご飯まだでしょ?」

 母は普段通りだった。そこに敵意など存在しない。

 やっぱり、彼女の言葉は嘘だったんじゃないか。

 彼女の言葉に良い意味で裏切られた俺は、件の警告に至った理由を問い詰めようと、再び背後に振り向く。

 しかし、そこに彼女の姿はなかった。

「……あれ?」

 彼女は忽然と姿を消していた。周囲を見渡すが、どこにも見当たらない。

「幸? どうしたの?」

「母さん、さっきここに誰かいなかった?」

「え……? さあ、私は見てないけど……」

 幻だったというのか、彼女は。

 いや、彼女は確かに実在した。その姿も声も、温もりさえ、俺は明確に覚えている。

 だが、彼女は俺の前から姿を消した。警告の真意や彼女の正体、彼女の名前すらも分からぬまま。

 しかし、一つだけ明白なことがある。

 彼女と出会った瞬間、俺は恋に落ちていた。それだけは疑いようのない事実だった。


 先生が休みだったため、今日の授業は自習だった。普段なら数学なり何なりの教材を開いて勉学に励むのだが、今はそんな気になれない。あの名も知らぬ彼女と出会ってからというもの、俺は四六時中、彼女のことばかり考えている。そのため、他事に対する集中力は著しく低下していた。

 彼女は誰だろう? 何歳なのか、出身はどこなのか、関心は尽きない。そして彼女のことを考える度、俺は胸を締め付けられる感覚に囚われた。

 これが恋煩いか。翔太の言っていた話を俺はようやく実感した。

 気分を一新すべく、俺は授業中にも関わらず教室を出て散歩を始めた。

 そして、校舎を出てしばらく歩いた頃だった。

「よう、幸!」

 左方から声が届き、そちらに向くと翔太がいた。

「どうよ? 何か変わったことはあったか?」

 開口一番にお馴染みの質問。いつも通り、と普段なら返していただろう。

 しかし、今回は違う。つい数日前、俺の人生で最も劇的な出会いがあったのだ。

「あったよ」

「お、マジで? 珍しいじゃん。何があったんだよ?」

 翔太は興味津々といった様子で続きを促す。

「まあ、ついに、と言うべきなのかな」

「何が?」

「好きな人が出来たんだ」

 一瞬の静寂。

「……まじで?」

 真偽の確認。そして、俺がそれに首肯した直後だった。

「おおぉ! やっとか! お前もようやく初恋なのか!」

 歓喜の爆発。翔太はまるで我が事のように喜んでくれた。

「いやあ、長い道のりだったな。相手は男じゃないよな?」

「違う違う。それはないから」

「そうか。いや、良かった。安心した」

 彼は大仰に胸を撫で下ろした。

「遂にお前にも春が来たってことだな、幸! それで、相手はどんな人なんだ?」

 翔太の嬉々とした質問に、しかし俺は口詰まった。

「どうした? 難しい顔して」

「それが実は、分からないんだ」

「分からないって、何が? 相手の年齢か?」

「いや、それ以前に名前とか……」

「え? ちょっと待て、名前を知らないって何? 連絡先は交換したのか?」

「……してない」

「はあ? じゃあ、相手はどこに住んでるんだよ?」

 非難じみた翔太の詰問に、俺は遂に俯くことしかできなくなる。

 その後、俺は事の経緯を話したが、翔太は心底呆れた様子で聞いていた。その経緯もまた現実味のない内容であるため、翔太はもはや、それはお前の幻覚なんじゃないか、と冷めた様子で感想を述べるだけだった。

 翔太の言い分はもっともだ。名も知らぬ彼女と出会ってからもう何日も立っているが、あれ以降の再会はない。彼女の方から現れてくれない限り、為す術はない。それが非常に歯痒くて情けなかった。

 最初は浮かれた翔太も、最後には肩を落として帰って行った。折角喜んでくれた彼に対し申し訳なく思う。次に彼女と会った時は、必ず名前と連絡先を確認しようと心に誓ったのだった。


 彼女との邂逅以来、俺はとにかく気も漫ろだった。勉強もトレーニングも日課として義務的にこなすだけで、あれだけ熱中していたゲームも全くやる気が起きない。

 こんな気持ちは初めてだった。他事が手に付かない。それが心苦しくて、でも決して嫌な心境ではない。客観的な恋の定義など何の参考にもならないと知った。

 彼女に再会したいという心情ばかり募っていく。警告の真意を確認するのは、もはや二の次。今はとにかく会いたかった。

 妙に気持ちが昂ぶっていたのか、俺は今日、珍しく定刻より三十分早く起床した。一人で家にいても彼女のことを考えるばかりなので、俺はいつもより三十分早く登校することにした。

 彼女と出会ってからは注意散漫になっており、先生からも指摘を受けた。しかし理性で制御できる問題ではなく、今も彼女のことを考えながら歩いている。

 そして、学校まであと七分ほどの場所で、見知った人物に出会った。それは俺が最も会いたい人物とは異なるが、俺の中のもどかしさは幾分和らいだ。

「バトガンさん!」

 久し振りに出会った彼に駆け寄る。その最中、長い棒が視界に映った。彼の身長と同等の長さで切っ先が尖ったその棒は、初見だが概念は知っている。

 あれは槍。何かを突き穿つことに特化した武器だ。

 なぜだか分からないが、彼は槍を所持している。それを認識した直後、俺の声に彼は反応し、こちらに振り向いた。

 瞬間、彼の表情が変貌した。

「へっ?」

 憎悪の形相。俺が間抜けな声を上げた時には、槍が眼前に迫っていた。

 軌跡は視認できず、避ける猶予もない。その鋭利な切っ先に胸を貫かれたら死ぬ。それを一瞬で認識し、しかしそこから刹那の間隔もなく凶器が胸を穿つ。

「がっ!」

 胸を穿つ直前だった。俺の体は左から何かに突き飛ばされ、地面に倒れて声が出た。条件反射の声を上げてからようやく、俺は死を回避できたと気付く。

 すぐさま体勢を整える。彼が俺を攻撃する理由が分からないし、闘う気など毛頭ないが、それでも死への恐怖から、体は勝手に臨戦態勢を取った。

 だが、彼は俺を殺さない。それは困惑の最中でも理解していた。彼は躊躇したのだ。彼の凶器が俺の胸を貫く寸前、彼は自らの過ちに気付いたかのように腕を急停止させた。その直後に俺は真横へと突き飛ばされたが、それでも俺には見えたんだ。躊躇と後悔に満ちた、彼の哀しげな表情を。

 地面から起き上がり、彼に視線を移す。凶器は依然として手中にあった。今まさに俺を殺そうとした槍。その凶器の威圧感は、しかし彼女が俺の真横にいる事実で吹き飛んだ。

 名も知らぬ彼女。俺の初恋の人。なぜ、彼女がここに?

 そして周囲を見渡しても、ここには三人しか存在しない。ならば、俺を突き飛ばしたのは彼女だということ……。

 バトガンさんが俺に向かって何かを言いかけた時だった。

「幸! 走って!」

 それよりも早く、俺は彼女に腕を引かれていた。

 俺は彼女に逆らわず彼から離れていく。振り返ると、彼は動いていなかった。いや、追跡しようとはしているが、足が動かないみたいだ。何に足を取られているのかは分からなかったが、そんなことは意に介さず走った。

 逃走中も困惑は尽きない。

 なぜ、突然バトガンさんが俺を殺そうとしたのか。なぜ、彼女が俺を助けたのか。理由は何も分からない。こんな予兆は今までなかったはず……。

 いや、予兆はあった。そうだ、俺の手を引く彼女こそまさに予兆。俺が命を狙われると、彼女は確かに予言していた。母や翔太が普段と変わりなかったので失念していたが、実際に殺されかけて、俺はあの言葉の重みと恐怖を再認識する羽目になった。

「おいっ! ちょっと待て!」

 駆ける彼女にようやく逆らい、俺は自らの足を止めた。すでに一分近く全力疾走を続け、体力的にも限界に来ていたが、それ以上に彼女の真意を確かめなければならなかった。

「幸、どうしたの? 早くあいつから逃げないと」

「もう追って来ないよ! それより説明してくれ!」

 すでに学校の裏地まで逃れ、バトガンさんは完全に見えなくなっていた。

「何なんだよ、これ。どう考えてもおかしいだろ! なんで俺が殺されなきゃならないのか、ちゃんと説明してくれ!」

 混乱と焦燥感に駆られ、怒声を張り上げた。俺は彼女の両肩を掴み。暴力的に彼女を問い詰める。しかし、狼狽える彼女を見て我に返った。

 ここで彼女を責め立てても何も解決しない。真意など聞けるはずもなく、何より初恋の人にそんな真似はしたくはなかった。

「……ごめん。今の言い方はないよな」

「ううん、いいのよ。気にしないで」

 あっさりと許してくれる彼女。そして、そのまま数秒の沈黙が続いた。俺は未だ混乱していて、彼女はそんな俺の様子を黙って見守っていた。

 しばらくして、俺も落ち着きを取り戻す。俺の疑問に彼女はきっと答えてくれるだろう。しかし、ここに至って俺は何から訊けばいいのか分からなくなっていた。

 バトガンさんの行動の理由。彼女の予言の真意。そして、彼女は敵か味方か。様々な疑惑が錯綜し、俺は状況を整理できずにいた。

「幸……大丈夫?」

 彼女が俺の名を呼び、心配の声を上げる。その声には温かみがあり、俺を欺かんとする意図は感じ取れない。

 そうだ。まず真っ先に訊くべきは彼女の名前。彼女が何者なのか知らずして、信憑性のある話など望めるはずもない。

 俺は彼女に名前を尋ねた。すると彼女は、予想だにしない質問を投げ掛けられたかのような、当惑の反応を示した。

「私の……名前?」

 初対面であれば、まずは互いに名乗るのが定石。だが、彼女はなぜか躊躇していた。

「私の、名前は……」

 数秒を置いて、彼女は口を開きかける。

 しかし、その先の言葉は続かなかった。彼女は何かに気付いて口を閉ざし、鋭い眼光で俺を睨み付けたのだ。

 否、その視線は俺ではなく、俺の背後に向けられている。憎悪の念すら感じられる視線の先、俺の背後に人の気配があった。

 まさか、バトガンさん?

 先刻の死の恐怖に慄き、俺は勢いよく後ろを振り返る。

 そして、そこにいたのは見知らぬ男性。

 ……いや、違う。見知らぬ人ではない。俺は目の前の男性に見覚えがある。彼には前に一度だけ会った。名前を尋ねようとした瞬間に彼は去ってしまったが。

「幸、そいつは特に気をつけて」

「……えっ?」

 彼女の警告。その声はこれまでにない怒気に満ちていた。

「はじめまして……ではないか」

 三メートルほどの距離を保ったまま、彼は俺に向かって言葉を発した。

「私はイヴァン・カラベロフ。君の名前は?」

「え? 俺の名前は……寺池幸です」

「歳は?」

「……十八です」

「どこに住んでいる?」

「この近くです」

 俺が質問に答えるとイヴァンは黙考した。名前を訊くのはいいが、その後の質問は何だろう? 俺は完全に出鼻を挫かれ、彼の言葉を待つだけの状態になっていた。

 そして、彼は小さな溜息を一つ漏らした後、告げた。

「出会って早々ですまないが、これから君に最悪の真実を伝えようと思う」

「……はっ?」

 俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 前に一度だけ出会い、今回ようやく名前を知り合ったような関係の彼が、俺に何をするだって? 最悪の真実? ろくに会話も交わさず意味深なことを仄めかす点は、俺の隣にいる彼女と似通った人だな、などという呑気な思考は、

「時間が限られてるから、単刀直入に言わせてもらう」

 イヴァンの容赦ない言葉によって、

「君が生きるこの世界は、人間が本来いるべき場所じゃない。ここは君以外の人間にとっての異世界だ」

 真っ白になった。

「……」

「幸……異世界に行ったことはあるか?」

 ……。

「あるのなら、教えよう。君が異世界と思っている場所こそ、全ての人間が住むべき現実の世界なんだ」

 ……。

 ……。

 ……バカな。

「バカな……」

 ようやく浮かんだ思考をそのまま口に出していた。

 ひたすらに荒唐無稽。ここが人間の住む世界じゃないだって? いくらなんでも馬鹿らしすぎる。俺の命が狙われていることよりも遥かに理解できない。

 そう、理解できない。だというのに、なぜだ? なぜ俺は、彼を真っ向から否定できない? 出会って間もない人間の妄言と吐き棄てればいい。ただそれだけのことなのに、どこかで彼の言葉が引っかかっている。

 違和感がある。いや、矛盾があるように感じる。今まで気付かなかった矛盾……もっと言ってしまえば、今まで誰かに隠蔽されていた矛盾が、彼の言葉を引き金にして認識できるようになってしまった気がする。

 だが、それは何……?

「幸、私が今言ったことは理解できたか?」

「はっ? できるわけないだろ!」

 この反駁はほとんど反射だった。彼の言葉を全否定できないとしても、それは決して認められない話だから。

 だって、この世界にいるのは俺だけじゃない。母がいる。翔太がいる。先生がいる。バトガンさんがいる。俺以外の人間が何人もいるじゃないか。

 現に今だって、ここにはイヴァンと彼女がいる。

 確信するため、そして安心するため、俺は背後にいる彼女の存在を確かめる。しかし、そこにいたはずの彼女はまたもや忽然と姿を消していた。

「えっ……? なんで……」

 まただ。彼女はまた俺に何も明かさず、別れも告げずに姿を消した。俺はつい声を上げ、それにイヴァンが反応する。

「どうした?」

「いや……」

 イヴァンと出会った時、彼女は確かにいた。「そいつは特に気を付けて」と俺に警告した。彼女が立ち去ったことにイヴァンは気付かなかったのだろうか……。

 彼は俺の様子を訝ったが、すぐに話題を戻した。

「悪いが、あまり時間がない。なぜ、私の言葉が理解できない?」

「またそれか。そんな馬鹿げたこと、鵜呑みにできるわけないだろ!」

「そうじゃない。理解できない理由を訊きたいんだ。ここが人間にとって本来の世界だと信じるなら、その根拠は何だ?」

 支離滅裂だ。当たり前のことを当たり前だと主張するのに、一体どんな根拠が必要なのか。

「イヴァン、あんたは間違ってる。あんたがここにいて、俺とこうして話してること自体が根拠だろ?」

「いや、それは根拠にはならない。君が異世界に移心するのと同様、私もこの世界に移心しているからだ」

 ……イシン?

「ああ、『移心』というのは、現実界から異世界に移ることだ。異世界には意思だけが移るんだよ」

「意思が移るって……まさか」

「嘘ではない。今まで瞬間移動でもしていると思っていたのか? 異世界に行くことは、心が移ることと同義なんだよ。だから私はこの現象を移心と呼び、移心する人間を移心者と名付けた。ちなみに、異世界から現実界に戻ることは『帰還』と呼ぶ」

「……」

 彼の言い分は分かった。要するに彼は俺と同じ移心者で、この世界に移心して来たからこそ、こうして俺と対峙している。そう言いたいのだろう。

 だが、それだけではここが異世界だという論拠にはならない。

「だったら、あんたがいる世界こそ異世界なんじゃないのか?」

「何?」

「だって、ここにはあんた以外にも人間がいるんだぞ? ここが本来の世界って可能性も同様にあるだろ?」

「いや、それはない」

「なんで?」

「この世界にいる君以外の人間は全員移心者だからだよ」

「そんなわけないだろ!」

「なら君は、これまでの人生で何人の人間に会ったことがあるんだ?」

 彼は俺の否定など全く問題にせず、淡々と話を続けていく。その態度が無性に腹立たしく、俺は苛立ちを露わに答えた。

「六人だよ、あんたを入れてな。その六人全員が移心者だとでも言うのか?」

 そうだ。仮にイヴァンが移心者だとしても、母や翔太や先生、バトガンさんや名も知らぬ彼女……彼らが全員移心者だなんて、そんな都合の良い話はあり得ない。

「十八年間生きてきて六人か……思いのほか多い気もするが、問題ないな。全員、移心者で間違いない」

 性懲りのないイヴァン。だが、その次の言葉は俺を凍らせた。

「今の現実界には何十億人もの人間がいる。君にとっては出会った人間全てが移心者だとしても、全人類と比べれば取るに足りない数だ」

 ……デタラメだ。荒唐無稽にもほどがある。

「君は、異世界で人間を見たことはないのか?」

 意味不明な質問だ。異世界に人間なんているはずがない。

「ないよ。一度もない」

「なら、人間と同じ大きさで動く物体は?」

「ああ、それならあるよ。人間とは似ても似つかないけどな」

「何が人間と違う?」

 彼は執拗だ。まるで誘導尋問のように。

「色だよ。表面が見たことない派手な色だった」

「色か……なるほど……」

 彼は何かを得心したかのように呟いた。

「それを最初に見たのはいつ?」

「……正確には忘れたけど、最初に移心した時かな。それ以前の記憶がないから」

「幼い頃に見たのか。なら、その後も何回か見たのか?」

 その質問に首肯する。

「それを入念に観察したことは?」

「まさか! そんな恐ろしいこと、わざわざするか!」

 あんな化け物を見続ければ、いつか発狂する。だからこそ俺は今までずっと、目を瞑って異世界をやり過ごしてきたのだ。

「それで確信した。君が見たのは、やはり人間だ」

「違う!」

「違わない。色という、最も外面的な部分が今まで見たこともないものだったせいで、勘違いしただけだ。この異世界は空が緑色で、常に雨が降る薄暗い場所だからな。確かに、太陽に照らされた人間の肌の色は衝撃的だったんだろう」

 何を言って……。

「君は色というただ一点の差異だけで、自分とそいつらが違う存在だと思い込んでしまったんだ。ある程度の分別が付いていたら気付けたかもしれないが、幼少期の最初の移心で見たのが不運だったな。子供にしてみれば、色が違うだけで恐怖に値するだろう。しかも、それ以降もう一度そいつらを観察しなかったのも……」

「違う!」

 彼の言葉を遮って叫んでいた。それくらい、俺にとって受容し難い言葉だった。

 必死に彼を否定しようとし、そして思い出した。最初の移心時に見た怪物の存在を。

「そうだ! 化け物はそいつらだけじゃない!」

「……何?」

「俺は見たんだ! そいつらの何倍も大きい四本足の化け物! 物凄いスピードで至る所を走り回ってた! あんたの言う現実界には、あんな恐ろしい怪物までいるっていうのか?」

 そうだ。最初の移心で俺が絶望を抱いたのは、むしろあの怪物に対してだった。あんなのがいたら、人間なんて一瞬で殺されるはず。

 確固たる証拠だった。これにはイヴァンとて反論できないと確信した。

 しかし、彼は少し考え込んだ後、不意に微笑を浮かべた。口元を歪めながら俺を見つめるその表情には、果てしない憐憫の情が込められている。

「なんだよ……何笑ってんだよ?」

「すまない。悪気はないんだ。ただ、車を怪物だと考えるのは、私の発想になかったから」

 車……その概念は知っている。人間を乗せて運ぶ機械だと、辞書にはそう記されていた。実際に見たことはないが……。

「でも言われてみれば確かに、あれは化け物じみた存在だな。子供心にそう思うのも無理はない」

 嘘だ……そんなはずはない……そんなはずは……。

 必死に否定の言葉を重ねていた。しかし、それはどれも「ありえない」とか「間違っている」とか、感情的な言葉ばかりだった。論理的に説明する彼とは対照的に、俺はただ無様に事実を拒絶するだけだった。

 いや、まだまだ論理的な反論はできるはずだ。なのに俺は、彼の言葉を徐々に受け入れつつある。それがまた俺の焦燥を掻き立てるのだ。

 感情的な反論がひたすら並べ立てられる。一心不乱な俺とは対照的に、イヴァンは沈黙を貫いている。

「くそっ! 何か言えよ!」

 何もかも気に入らずに怒鳴り散らすと、彼は静かに口を開いた。

「まあ、そう簡単に受け入れられるはずもないか。誰だって、自分が異世界で育ったなんて思いたくはないだろう」

 あくまで淡々とした言い草だが、その言葉には同情が垣間見える。

「分かった。これ以上言葉を重ねても仕方ない。実際にその目で確かめろ」

 彼は携行鞄を漁り始める。そして中から取り出したのは、何の変哲もないペンだった。

「二つ教えよう。第一に、異世界で死んでも現実界では死なない」

「え……?」

「移心しても、時間が経てば自動的に帰還できただろう? 異世界で死ぬということは、強制的に現実界へ帰還することと同義なんだよ。自動的に帰還する前にな」

「待ってくれ……ちょっと、理解が追い付かないんだが」

「後で実践してやるよ」

 彼は俺の制止に構わず説明を続ける。

「第二に、死によって帰還する場合は、近くにいる他の移心者も全く同じタイミングで強制帰還させる」

 二つ目は輪を掛けて意味が分からない。

「自動的に帰還するタイミングは人それぞれだが、異世界で二人以上が近くに一緒にいる場合、誰かが死ねば全員が同時に帰還して、元の現実界に戻るんだよ」

「……」

「君の場合はさらに特別だ。君はこの異世界の住人だからね。もしここで移心者が死ねば、移心者の帰還と同時に君は現実界へ移心する。しかも移心先は必ず、死んだ移心者が現実にいた場所になる。君が移心先で死んだ場合は逆だ。君が帰還して、他の移心者は君が元いた場所に移心する」

「いや……ちょっと待ってくれ……」

 複雑で理解が追いつかない。そもそも、俺にそれを教える目的が分からない。

「百聞は一見に如かずだ。実際に体験させてやる」

 イヴァンはそう言うと、右手のペンを躊躇なく自身の胸に突き刺した。

「なっ……」

 思考が止まる。俺はただただ、彼が緩やかに倒れ伏す様を見つめていた。

 瞬間、景色が変化した。

「……何だ、ここは?」

 周囲を覆うのは、やはり異色の世界。見たことのない色や形に包囲されていて、目が眩しい。加えて、今回の異世界はいつもより閉塞感があり、いくらなんでも狭すぎる。これでは俺の自室ほどの広さしかない。

 奇妙に思い周囲を見回すと、背後に化け物がいた。

「ひっ!」

 短い悲鳴を上げ、思わず目を閉じる。最初の移心で見たのと同じ色の化け物を、これまで通り目を閉じてやり過ごそうとした。

 しかし、すぐに思い直す。今まで目を背けていたのが駄目だったんだ。イヴァンの言葉はまだ信じられないが、しかし信じられないからこそ、俺は現実を直視せねばならない。

 正直、見たくはない。全てを曖昧なままにしておきたい。背筋が凍り、瞼は重い。それでも俺は勇気を振り絞り、一思いに瞼を押し上げた。

 眼前にいるのは、やはり化け物。変わらぬ景色に息が詰まる。決定的に色違いの存在。俺の目にはあまりに刺激が強すぎる。幼少期のトラウマは簡単には拭い去れず、目を覆いたくなる衝動に駆られる。

 だけど、逃げずに正面から見据える。思考は徐々に平静を取り戻し、恐怖という名のフィルターが俺の角膜から剥がれていく。

 そうして、十八年の時を経て、その化け物が人間と同じ形状をしている事実に、俺はようやく気付いたのだった。

「そんな……馬鹿な……」

 恐怖と入れ替わり訪れる絶望。イヴァンの言葉を百回聞いても俺は決して納得しなかっただろう。しかし一見しただけで、信じざるを得ない状況に立たされた。

 ああ、そうだ。当のイヴァンは目の前にいる。顔、背丈、服装、どれを取っても彼と相違なく、唯一の違いは表面の色だけだ。

「イヴァンなのか……?」

 俺の問い掛けに対し、彼は奇声で答えた。俺はそれに怯み、後ずさる。イヴァンは少し声を発した後、何かに気付いて去って行った。

 ……何なんだ?

 戸惑う俺をよそに、彼はすぐ戻ってきた。その右手に包丁を持ったまま。

 意図は分からない。だからこそ、表情一つ変えず迫る彼に恐怖した。

「やめろ! 来るなっ!」

 大声で制止するも、彼は止まらない。右手に凶器を携えたまま、一歩ずつ。

 互いの距離は既に一メートルを切り、あと一歩で刃の間合いに入る。

 そこでようやく、逃げるという選択肢が浮かんだ。

 俺も足を動かし、彼とは反対側に後退した。だが、それが何よりも仇となる。二歩目の後退は、ここが密閉空間だという事実を思い出す契機となった。

「あっ……」

 背後は壁。思わず間抜けな声が出る。そして、壁に視線を向けてしまった。

 イヴァンが駆ける。二人の距離は一瞬で縮まり、右腕が突き出される。悲鳴を上げる暇もない。咄嗟に両手を上げた時には、切っ先との距離はゼロ未満になっていた。

 我が目を疑う。胸の中心に深々と突き刺さった包丁と、文字通り胸を裂く激痛。

 胸に冷たいものが滴る。痛みと絶望が意識を朦朧とさせる。

 足にはもはや力なく、壁に凭れ掛かって崩れ落ちる。見上げれば無表情の彼がいて、その右手には血濡れの刃。

 抵抗も叶わず、俺の意識は途切れて消えた。


[イヴァン・カラベロフ]

 幸に同調して、私は再び異世界に舞い戻った。

 移心先は先刻と変わらぬ場所。私の立ち位置は変わっていたが、幸のそれは元のままだった。異なるのは、幸が膝を突いているという一点だけ。

 無理もない。幸は死を体験してしまったのだ。今は惑乱の最中だろう。

 今回継承した包丁を鞄に仕舞い、幸の反応を待つ。彼は数秒で立ち上がると、背後にいる私を発見し、両者は再び向き合った。

「私の言ったことは信じてもらえただろう?」

 幸は目を瞑って反芻していた。胸中では未だに葛藤があるのだろう。証拠を見せ付けられて理性では理解できたとしても、真実を受け入れるのは容易ではない。

 しかし数秒後、幸は私の質問に力強く頷いた。覚悟を決めたのか吹っ切れたのかは判断しかねるが、ひとまず現状の根幹を理解させられたようだ。

「なあ、さっきの異世界……いや、現実界にいたのは、やっぱりあんたなのか?」

「ああ、私だよ。いきなり殺して悪かったね。でも、あれで信じられただろう? 異世界で死んでも帰還するだけで済む。近くに移心者がいれば一緒に移心して、同じ場所で再会する。言葉で説明されるより、実際に体験した方が早いからな」

「だとしても、いきなり刺すか? 変な声まで出して」

「すまない。それは説明不足だった。現実界には複数の言語が存在するんだよ。互いに理解できる言語を使わなければ、相手が何を言っているのか理解できないんだ。もっとも、それを奇声と認識したのは予想外だったが」

 現実界で聞いた幸の言語はおそらく日本語だろう。スペイン語ではなく日本語を習得した方が良かったかもしれない。

「じゃあ、なんでここでは意思疎通できてるんだ?」

「それは端的に言うと、ここが『意思の世界』だから。ここでの会話は、文字通り意思疎通を意味する。意思そのものを伝えるから、言語の違いは関係なくなるんだ」

 案の定、幸は首を傾げる。

 ちなみに、幸自身は日本語で話しているのだろうが、私にはそれがブルガリア語に翻訳されて聞こえている。対して、私の話すブルガリア語は、幸には日本語で伝わっているはずだ。言語ではなく意思そのものを疎通するとは、そういう意味である。

 まさしく非現実的な話ではあるが、それがこの世界の真理。そして幸には、この世界の実態を理解してもらう必要がある。だからこそ私はそれを、幸の節々の疑問に答えつつ、簡潔に説明した。

 意思の世界。その意味を理解するには、異世界の誕生にまで遡る。

 現実界と異世界は全く別の世界だ。例えるなら、両者は表と裏。壁一枚を隔てて存在する。しかし、現実界をどこまで突き進もうと壁は途切れない。裏側に回る術はない。宇宙の果てよりも遠いけど、どこよりも近い。それが両者の関係だ。

 だが、その関係を破綻させる者が現れた。太古の昔、一人の人間が異世界に移心してしまったのだ。

 なぜ移心できたのか。その問いに対する解答はない。移心できる理由などまるでないのに移心できた。原因を無視し、現実界から異世界に移ったという結果だけを作り出す。そんな神秘を成す者など、現在までの全人類の中から一人でも現れれば奇跡だろう。

 そう、正真正銘の異端者は、最初に移心を成し遂げたその人間だけだ。移心とはすなわち、二つの世界の隔壁に穴を開けること。本来開けられない穴を開けるなど、まさに神の領域。しかし、「壁に穴を開けた」という事実を作ってしまった後は、もはや神技ではなくなる。「穴を開けることは可能」という情報さえ持っていれば、移心できる可能性は飛躍的に上昇する。

 宇宙旅行が良い例だ。古代の人々は自分達が宇宙に行けるなど想像もしなかっただろう。しかし現代人は皆、人類は宇宙に行けると知っている。宇宙がどういう場所なのか、どうすれば大気圏を突破できるのか知っている。宇宙船はその理論を突き詰めて開発するだけだが、知らない人間は出発点にすら立てない。未知と既知では途方もない差があるのだ。

 すなわち、二人目以降の移心者は全人類から見れば圧倒的に少数派だが、しかし真の意味で異端者ではないということ。

 だが、その情報は本来、最初の移心者しか持ち得ないものだ。その人間が死んだ瞬間、移心を体験した情報も消滅し、二人目以降の移心者は現れないはずだった。

 しかし、図らずもその情報はあるものと一緒に継承された。それは遺伝子だ。移心の体験は遺伝情報として子孫に伝えられた。子孫全てが移心者となるわけではないが、しかし全ての子孫はその情報を持つこととなる。情報は後世に引き継がれ、その連鎖によって現代にまで残留した。つまり全ての移心者は、元を辿れば一人の祖先に行き着くということである。

 ここからようやく異世界誕生の話に入る。前述の通り、現実界と異世界は全く別次元の世界だ。最初の移心者が移心するまで、異世界は「無」であった。異世界が無かったわけではない。異世界に何も無かったのだ。

 しかし異端者が異世界に移心し、その瞬間、真の意味で異世界は誕生した。無であった場所に意思が移り込み、世界の全ては移心者の意思で満たされた。

 それが「意思の世界」の出発点。

 おそらく、最初の移心者は移心しても何も見えなかっただろう。闇か光に満ちていたのかもしれないが、少なくとも今のような様相は呈していなかったはず。もしかすると、移心したことにすら気付いていなかったかもしれない。

 しかし、それでも心は移る。世代が変わってもなお、移心者達の意思が異世界に流れ込む。それが繰り返される内、異世界は徐々に実体を形成していく。移心者が考える世界のあり方、すなわち現実界の外観が徐々に無の異世界を彩っていった。

 もし移心者が一人だけなら、その人間の住む町の風景がそのまま投影されただろう。しかし移心者の数が増えたため、異世界には様々な心象風景が綯い交ざり具象化された。だからこそ異世界の空は、青空や夜空や茜空が混合し、深緑色という有り得ない彩色になっている。誰にとっても共通の天地はそのままだが、それ以外の植物や建造物などは奇形のオブジェとなって叢生する。馴染みある建物は個々人によって異なるため、現実界にあるような整形物が創造されることは本来あり得ない。

 ともあれ、異世界は人々の意思によってのみ形成された。唯一の構成要素が意思であるがゆえに、異世界では何よりも意思が優先される。常識も物理法則も、意思の前では絶対ではない。そして、言語の差異にも意味はない。意思の世界において、伝えんとする意思は言語の頸木から解放され、相手が理解できるように翻訳して伝達される。それが普通だった幸にとって、現実界の人間の言葉が奇声に聞こえてしまうのも無理はない。

「……」

 ここまで話し終えた時、幸は無言を保っていた。一度に説明しすぎて、理解が追い付かないのだろう。もっと補足したいところだが、あいにく本題はここからだ。愛玲と松齢とバトガン氏にも伝えたもので、それは幸にとって死よりも過酷な真実かもしれないが、これを伝えなければ今までの話が無意味になる。

「幸、これからが本題なんだが、その前にもう一度死んでくれないか」

「……はっ?」

 幸の瞠目を尻目に、私は再び包丁を取り出した。

「おい、待てよ! ここが異世界だってのはもう分かったから!」

「そうじゃない。単純にリセットがしたいだけだ」

 また混乱しないためにも、幸の勘違いを正しておこう。

「よく聞いてくれ。君も知っているだろうが、移心してもいつかは自動的に帰還できる。移心の時間は、だいたい十分から三十分程度だ。裏を返せば、異世界にどれだけ長くいたくても、三十分以内には強制的に帰還させられてしまうということだ」

 幸も私の意図が理解できたようだった。

「このままだと私は数分後に帰還してしまうし、自動的な帰還だと君を移心させられない。だからこそ、一度死んでリセットする必要がある」

 本題は数分では話しきれない。ゆえに、どうしてもリセットが必要となる。

 幸は納得を示したが、しかし抵抗感も強い。それも当然だろう。異世界で死んでも問題ないことを私自身は確信しているが、幸はそうではないはずだから。

 とはいえ、言葉だけで確信は得られない。必要なのは追体験である。

「向こうに移心したら、目を瞑ってくれ。そうすれば、すぐに終わる」

 私の指示に幸は反論しかけたが、構わず私は自分の胸に包丁を突き刺した。

 一瞬の激痛。その直後に景色が一変し、痛みは残滓となった。

 現実界への帰還。二人は再び私の自室に舞い戻った。

 幸は世界の激変に畏縮している。幼少期からのトラウマは一朝一夕で拭えないのだろうが、前回ほど取り乱してはいない。今一度、真実を確かめるように俯いた後、私を見据えて対峙した。

 私は自分の目を指差し、合図する。幸は私の右手にある包丁を一瞥したが、その後、決然と目を閉じた。

 私は音もなく幸に近付き、彼の心臓に狙いを定め一息で包丁を突き入れる。幸から小さく息が漏れ、その直後、私達は異世界へと再送された。

 周囲は再び異世界。ただし、私の立ち位置は異なっていた。正面から向き合えるように前回の位置へと移動し、改めて幸と対峙する。その間、幸は自分の胸に手を当てていた。

「ほんとに全部、あんたの言う通りだな……」

 幸は放心したように呟き、その後、何点か質問した。なぜ、移心者は必ず帰還できるのか。なぜ、死による帰還だと他の移心者を同行させられるのか。なぜ、意思のみの異世界で痛みを感じるのか。

 私は簡潔に答えた。

 移心と帰還は一対であり、移心したままということはあり得ない。異世界へ行くための情報を持っているとはいえ、移心者が現実界にあるべき存在であることに変わりはない。ゆえに、たとえ異世界に移心したとしても、現実界からの牽引力によって、移心者はすぐに現実界へ引き戻される。

 重要な点はもう一つ。移心者は移心や帰還のタイミングを自分では決められない。なぜなら「異世界へ移心できる」という情報を持ってはいても、「移心する方法」を知っているわけではないからだ。移心者は、遺伝子に眠る情報の不定期な発現によってのみ移心し、現実界からの牽引力によって帰還する。

 そして移心や帰還というのは、現実界と異世界に穴を開けるような現象だと前述した。その例を用いれば、自動的な帰還というのは「移心者一人だけが通過できる穴」を開けることであり、死による帰還とは「移心者よりも若干大きめの穴」を開けることと換言できる。時限による帰還とは異なり、死による帰還は異世界にとっても突発的な出来事ゆえ、帰還すべき対象が瞬時には定まらず、結果、必要以上の穴を開けざるを得なくなる。そのため、他の移心者が近くにいれば、穴の余分な所を通って強制的に帰還してしまうのだ。

 最後に、異世界は意思の世界であり、肉体は仮初めのものである。しかし、その肉体は意思を核として具現化したものなので、意思と肉体は繋がっている。でなければ、足を動かそうと意識しても動かないだろう。異世界で何かに触れば知覚できるように、痛みという外的要因も同じく知覚対象となる。もっとも、仮初めの肉体ゆえ、現実界の肉体には影響がない。

「なるほど……」

 幸は納得を示した。なかなか理解力はあるようだ。

「イヴァン……あんたはなんで、そんなに詳しいんだ?」

 幸は今度、私自身に疑問を抱いた。むしろ遅すぎるくらいだろう。

 その質問への回答はすでに整理している。

「結論から言うと、私の最上の願いが『知ること』だからだ。そして意思の世界では、自分の最上の願いを実現できるんだ」

 予想通り、私の回答に幸は首を傾げている。私は詳細について説明した。

 元々、異世界には何もなかった。重力すら存在しなかった。移心者が地面に足を着いているのは、「肉体は必ず重力を受ける」という常識的な固定観念を持っているからだ。

 意思の世界では何よりも意思が優先され、現実界の常識や物理法則は相対的に希薄化される。ゆえに、現実界では不可能なことも意思の力で実現できる。

 しかし、全てが思い通りにいくわけではない。不可能を可能にするのは、まさに奇跡の所業。その奇跡を起こせるのは、移心者本人が最も強く望む事象に限られる。

 にしても、それはもはや魔法の領域。易々と受け入れられるはずもなく、現に幸も、理屈は分かっても信じきれてはいない様子である。

 そこで、私は制約について説明した。異世界で実現できるのは、あくまで自分に向けられた願いだけ。それが異世界における強固な法則である。

 異世界は意思の世界。意思が優先されるが、しかし一個人の意思が異世界の全てというわけではない。ゆえに、他者や異世界そのものへ干渉するような願望は実現できない。常識外れの神秘を引き起こせるのは、自分の意思とそれに付随する肉体に限られる。

 ただし、この法則にも例外があることを、私は幸に出会って知ったのだが……。

 当の幸は、未だ腑に落ちない様子である。

「例えば、空を飛びたいと強く願えば、異世界で空を飛べるようになる。それは、『空を飛べる自分になりたい』という『自分に向けられた願い』だから実現可能なんだ。でも、どんなに強く願っても、異世界にいる他人を浮かせたり、重力が働かないように異世界を作り変えたりはできない」

 具体例を出して説明したことで幸も理解できたようだ。

「あんたの願いは『知ること』で、それが自分に向けられた願いだから、あんたは異世界で何でも知れるようになったのか」

「その通りだ。私は昔から、この世の全ての事象を網羅したかった。それが唯一の欲望と言っても過言ではない」

 皮肉な話だ。私の全知への願いは異世界において実現したが、その全知が有効なのは異世界にいる時間だけ。だから、異世界の事象に関しては瞬時に把握できるが、現実界の事象については結局、勉強しなければ分からないままなのだ。

 加えて、異世界についても最初から全てを既知としているわけではない。現に幸に出会うまで、私は幸のような人間が異世界にいるとは思ってもみなかった。すなわち全知とは、私が異世界に関して知りたいと思ったことを瞬時に脳内へインプットする現象であり、検索しなければ何も分からないのである。

 幸の次の質問も想定済みだった。

「なんであんたは、全ての事象について知りたいと思ったんだ?」

 この問いに答えるためには、私の幼少期まで遡らなければならない。そして私がこれから語る過去は、まさしく幸の出生に関わる事柄でもある。

 時は二○二四年まで遡る。

「十八年前、奇妙な事件が起こった。産まれるはずだった胎児が母親の胎内にいる間に消えてしまったんだ」

「えっ……?」

 戸惑う幸を尻目に、私は当時の出来事を説明する。

 二○二四年、人間が一人消え去った。それは、まだ産まれてもいない胎児だった。死亡ではなく消失。あり得ない現象だ。病院側だけでなく様々な分野の研究者が調査を尽くしたが、有力な仮説は見出せなかった。

「分かるか、幸? 十八年前に産まれるはずの胎児が消えた。死んだのではなく、消えたんだ。なら、その人間はどこへ行った?」

「……」

 沈黙が続く。私の言わんとすることは分かったはずだ。数十秒の空白は、彼が事実を受け入れるために充てられた時間だった。

「それが……俺なのか?」

「そうだ。君は正真正銘の人間で、現実界に誕生するはずだった。でも歯車が狂い、君はここで産まれた。そして、本来産まれるはずの場所から君は消えた」

「そんなことがあり得るのか? あんたは何でも知ってるんだろ?」

「私も君に会うまでは、異世界で人間が産まれるなんて思ってもみなかった。可能性すら浮かんだことはない。でも君の真実を知り、その原因を検索した瞬間に分かったよ。ある条件が揃えば、人間が異世界で産まれ育っていく可能性もあることを」

 それは奇跡に等しい確率。歴代の移心者の中でも、実現したのは幸だけだろう。

「条件は二つ。現実界で出産する直前に移心して、異世界で出産すること。そして、異世界にいる間に臍帯を断つことだ」

「……臍の緒を切るってことかよ」

 それだけのことでと言いたげだが、それがまさに奇跡なのだ。

 母体が移心者で、出産と移心が重なる。これだけでも非常に稀有だが、それに加えて、臍帯を切断するための刃物が必要となる。移心者が持つか、あるいは刃物を所持した他の移心者と出会わなければ、それは実現し得ない。

 そう、人類最初の移心者以外で異端者を挙げるとすれば、それは間違いなく彼。根本から異なる世界に生きる、多くの矛盾を孕んだ存在。それが寺池幸という人物である。

 なぜ、その二つの条件が必要なのか。幸はすかさず質問をぶつけてきた。

 それに関連しているのが「自身の一部は異世界にも継承される」という法則だ。衣類や所持品が移心先でも顕在しているのは、これに則っているからである。

 そして、この法則が当てはまるのは衣類や所持品だけではない。胎内にいる胎児でさえも継承の対象となる。母体と胎児。それらは確かに別々の生命であるが、しかし臍帯で繋がれている限り、両者は同一の生命と見なされるのだ。

 臍帯によって血液や栄養が母から子へと与えられる。母が息絶えれば、子もまたそれに倣う。それゆえ母親自身、無事に出産するまで胎児は自分の一部だと意識する。そうして肉体的にも意識的にも母親と繋がった胎児は、母親の移心に同行する形となる。

 とはいえ帰還すれば、継承した物体は異世界から消滅し、意識は現実界へと舞い戻る。たとえ妊婦が移心しても、現実界には何の変化も起こり得ないはずなのだ。

 しかし、稀有な例外が起きた。異世界での出産および臍帯の切断によって、母と子は完全に分断された。臍帯切断と同時に両者は別々の存在となり、母親もそれを認識する。その瞬間、異世界には二つの生命が存在することとなる。それはつまり、異世界における新たな生命の誕生を意味している。

 切り離されたのが胎児ではなく、例えば移心者の腕であれば、帰還と同時に消滅しただろう。腕は体の一部であり、たとえ自身から切り離されたとしても、その腕が別個の生命になったと意識するのは難しいからだ。

 しかし出産後の胎児は、もはや母親とは別の生命。ならば、母親が帰還しても、胎児は異世界に残る。帰還するのは、自分の体の一部もしくは延長として継承した物質のみ。もはや自分とは異なる存在となってしまった胎児は帰還の対象から外れてしまう。

 おそらく初めて施行されたその法則に従い、幸は異世界で誕生した。ここまででも充分に人間の理解を超えているが、さらなる矛盾はその後に起こる。

 移心したのは出産直前。その移心の最中に出産したのなら、数秒ではあるが、異世界での誕生の方が現実界よりも先になったということ。そして、異世界には正真正銘の幸がいた。意識の具現ではなく、実体を持つ生命として。であれば、もし現実界でも幸が産まれれば、同一の人間が二人存在することとなる。次元が異なるとはいえ、表と裏の両方の世界に同一の生命が現れることになる。

 どちらの世界も、それは許さなかった。固有の命は、たとえ世界を隔てたとしても唯一の存在。だからこそ、移心後の存在は意思の顕現に過ぎず、異世界で死んでも命が尽きる訳ではないのだ。ゆえに、幸は異世界に誕生した段階で固有の存在となり、現実界の幸は在るべからざる存在となった。

 その違反、その矛盾が存在の逆転を引き起こした。幸の実体は異世界において具現化し、現実界の幸は意識が受肉した存在へと置換される。そして、異世界での幸の誕生と同時に、現実界の幸が実質の帰還。現実界から幸は消えた。

 これが事の発端であり、全ての矛盾の始まり。本来、二つの世界間を生命が往来できるはずはない。しかし、それよりもなお「命は一つ」という摂理が強固だったのだ。

 幸は実感が湧いていない様子だが、無理もない。全知でない限り、このような荒唐無稽な話は鵜呑みか全否定しかできないだろう。

「君の最初の質問にまだ答えてなかったね」

 私が全知を目指した理由。胎児消失事件はこれに答えるための前段である。

「異世界で君を出産した妊婦というのは、私の母親だったんだ」

「……え?」

 戸惑いの声が短く漏れ、幸は今度こそ怪訝な表情を浮かべた。

「俺を産んだ人が……あんたの母親だって? じゃあ、俺達は……」

「ああ、私と君は正真正銘、血の繋がった兄弟だよ」

 幸の年齢や、スラブ系の外見から考えても、まず間違いない。

「胎児消失事件が起こった時、私は六歳だった。初めての兄弟に対する期待感は今でも覚えているが、しかし母は死に、弟は消えてしまった」

「え……? いや、待ってくれ。母が死んだ?」

 幸の質問に私は首肯する。母は難産に耐えきれず、息を引き取ったのだ。

「まさか……いや、そんなはずは……」

「どうした?」

「それはありえないんだ。だって、俺の母さんはまだ生きて……」

 絞り出された言葉を聞いて、幸が何に苦慮しているのか見当が付いた。だが、それは今話すべきことではない。私は幸の沈思を中断し、話を続ける。

「胎児消失事件によって、私は母と弟を同時に失った。もし二人とも死んだというなら、まだ納得できただろう。でも、弟は消えたんだ。原因不明のまま」

 それで納得できるはずがないと、そう考えるのは私だけだろうか。

「当時の私は子供ながらに真相解明を目指した。でも、どんな専門家も有力な答えを出せなかった。一つの分野に特化しても原因は分からないと悟った私は、分野を絞らず様々な知識を集めた。そうすれば、いつか真実に迫れるはずだと思ったから」

 それが、異常なまでに知識を探求する背景。物心付いたばかりの幼少期、私の心は知識欲で占められた。半ば強迫観念に囚われながら、生活に必要な行為以外の全ての時間を勉強に費やしたのだ。

 それほどの強い知識欲があったからこそ、その願いは全知という形で異世界において実現した。そして幸と出会ったことで、私は生涯探し求めていた答えに辿り着いたのだ。

 さて、これで幸の質問には完答した。

 だが、本当に伝えるべきはこれからだ。今までの説明は全て、この本題に少しでも信憑性を持たせるための前置きにすぎない。

 現在、幸の脳内では様々な思考が混沌と渦巻いているだろう。それを見越して、私は再び話を切り出した。

「さて、それじゃあ一番大切なことを話そうか」

「……何? まだ何かあるのか?」

 幸は辟易していたが、次の私の質問には目を剥いた。

「君はこれまで、誰かに殺されかけたことはないか?」

 瞬間、幸は私に詰め寄った。

「ああ、ついさっき殺されかけた! イヴァン、何か知ってるのか?」

「……私に会う直前だったのか。誰に殺されかけたんだ?」

「バトガンさんだよ。あんたも知ってるのか?」

「ああ、知り合いだ。順を追って説明しよう」

 私は幸を宥め、彼が落ち着いた頃合いで話を切り出した。

「移心って、異常な現象だと思うか?」

 私の唐突な質問に、しかし幸は首肯した。

「そう、異常だ。私達は実際に移心できているから実感しにくいが、意思だけが別世界に移るというのは、どう考えても矛盾だらけの異常現象だろう」

「それは分かるけど、だから何なんだ?」

「つまり、移心したら異世界に異常が発生するということだよ」

 幸は相槌を打ったが、腑に落ちていない様子なので補足する。

「バタフライ効果って知ってるか?」

 幸は首を横に振る。

「些細な変化が将来大きな影響を及ぼすという理論だ。例えば、『どこかで蝶が羽搏けば、将来そこから離れた土地で嵐が起こる』という具合にな」

 バタフライ効果は、カオス理論を説明する際に有効な例証として用いられる。世の全ての事象にバタフライ効果を適用できるかは不明だが、そういう概念もあることだけ分かれば今は充分。

「さっきも言ったように、移心すれば異世界に異常が発生する。本来何もない場所に思念が現れて、異世界に干渉できるようになるんだからな」

「ん? 干渉って?」

「例えば、異世界に落ちている石を拾うと、異世界に干渉したことになる。もっと言えば、この世界に立つだけで地面に体重分の圧力が加わるし、風の流れも微妙に変わる。それらは本来ならあり得ない事象であり、矛盾なんだ」

 そして蝶が羽搏く程度の些細な矛盾でも、それが長い年月をかけて徐々に蓄積することで異世界を歪めていったのだ。

「ここでは、ほぼ常に雨が降ってるだろう?」

「ああ、でも変なことなのか? 多雨地帯だからだって先生が言ってたけど」

 母に続き、今度は先生か。気になるが、ひとまず横に置いておこう。

「雨に加えて、ここでは嵐や地震も頻発しているだろう? それらの天変地異は、移心者が移心したことで生じる矛盾が原因なんだよ」

 異世界誕生からこれまで、数々の移心者が異世界を訪れ、その度に矛盾が少しずつ蓄積した。そのせいで異世界は災害が頻発するようになってしまったのだ。

「そうか……俺は普通と思ってたけど、やっぱりこの世界は異常なんだな」

 幸の顔には、やりきれない心情が表れていた。改めて、自分が異常な世界に生きていると認識したのだろう。

 しかし、本当の絶望はこれから明かされる。

「幸、移心先で地震や嵐に遭遇したことはあるか?」

 幸にとっての移心先なので、すなわち現実界のことである。

「ああ、何回か……」

 幸は恐々と答えた。不穏な空気を察知したのかもしれない。

「今、現実界では災害が多発している」

「え……?」

「十年くらい前から急増し始めたんだ。ハリケーンは年中起こるようになり、大型地震の発生件数も増加の一途。多くの人間が死傷し、経済的にも相当な痛手を負っている」

 幸に目立った反応はない。実感が湧かないのだろう。

「幸、分からないか?」

「……何が?」

「異世界は、移心という矛盾した現象のせいで、災害が頻発する世界になった。なら、現実界で頻発する災害は一体何が原因なんだ?」

「そんなの、俺が分かる訳が……」

 幸の言葉は途切れた。敢えて迂遠に言った真意に気付いたのだろう。

「いや、嘘だろ……?」

 幸の表情は強張り、顔色は急速に失われた。

「俺……俺が原因なのか?」

 震える声で絞り出された推理。縋り付くような視線は、私の否定の言葉を欲している。

「ああ、君の移心によって現実界に矛盾が生じ、それがバタフライ効果で拡大した。そのせいで今、現実界では災害が増加してるんだ」

 幸の希望を打ち砕く。知らない方が彼にとっては幸福だと知りながら。

 当の幸は虚ろな表情を浮かべたまま、威勢よく反論した。

「あんた、マジで言ってんのか?」

「私は、嘘は嫌いだ」

「ふざけんな! そんなこと信じてたまるか!」

 感情的な反論だが、当然の帰着とも言える。素直に受容できる人間の方が異常だろう。

「一つだけ言っておくと、それは私個人の推測に過ぎない」

「は? あんた、何でも知ってるんじゃなかったのか?」

「何でもではない。異世界の事象についてだけだ。現実界の事象に関しては、自分で取り入れた知識しか知らないよ」

「ああ、そういえば、そうだったな」

「そして、今話した内容は現実界に関する事象だ。だから私自身、確信を持っているわけではない。しかし、君が原因である可能性は極めて高い」

 一度は安堵を見せた幸が、私の言葉に不快感を露わにした。

「待て。私は何も、無根拠な憶測を語っているわけではない。まず、異常が起こり始めた時期だ。およそ十年前から災害件数が急増し始めた。君の移心の影響が出始めた時期だと考えられる」

「それだけで……」

「それだけではない。実際、移心すれば矛盾は必ず起こる。それは異世界では確実なことだし、現実界への移心の方が矛盾は大きくなるはずだ」

 幸は聞き入っている。

「異世界は意思の世界なので、意思そのものが具現化し干渉しても、それほど大きな矛盾にはならない。でも、現実界は意思が全てではない。意思以外で成り立ってきた歴史がある。だから、現実界に移心するということは……そこに意思だけの存在が現れて干渉するということは、途轍もなく大きな矛盾となるんだ」

 幸は押し黙った。納得するのは難しいだろう。しかし、意思の世界への移心より現実界への移心の方が矛盾も大きくなることは、直感的に理解できるはず。

「だから君一人の移心でも、大きな矛盾を齎す要因に充分なり得るはずだ」

 異世界での災害は、何世紀にも渡る数多の移心の結果。しかし、現実界では一人分の移心がそれに匹敵するのである。

 そして、私の役目は真実の伝達。ゆえに断定するのでも黙するのでもなく、可能性が高いという事実を粛々と伝えていく。

「あんたは、やっぱり俺が原因だと思ってるのか?」

 まだ確信が持てていない表情の幸。確信を持つなど永劫あり得ないのかもしれない。

 だからこそ、幸は初めて私の意見を求めた。全知による事実の説明ではなく、私自身の考えを聞きたがっている。

「全ての災害が君のせいだとは思わない。でも、実際問題として発生件数は年々増えているんだ。その内の『本来起こるはずのなかった災害』が君の矛盾によって起こった可能性は否定できない」

「つまり、俺は自分でも知らない内に多くの人を……」

「間接的にだよ。あくまでな」

 幸には手立てのない話であり、彼に罪はないと思う。だが、当の本人はそう簡単に納得できないだろう。多くの罪無き人々が知らぬ間に自分のせいで死傷したと聞かされて、平静でいられるはずもない。

 しかも、その罪の十字架は今後もますます重くなる。移心を自分の意思で抑えることは不可能だからだ。これ以上被害を出したくないなら、対処法は一つしかない。

 それは誰もが分かっていて、しかし誰にとっても難しい方法。

 幸の黙考を遮り、再びこちらから切り出す。

「幸、君には悪いが、このことは他の移心者にも伝えておいた」

「……え? 他の移心者って……」

「君以外に三人。李松齢と劉愛玲、そしてバトガン氏だ」

 幸はバトガンという名前に反応を示した。

「バトガン氏とは一年ほど前に知り合ったんだろう? さっき、いきなり襲われたとも言っていたな?」

 幸は静かに首肯した。それをしかと確認した後、私は核心に触れる。

「幸、私の言葉が全て真実だと仮定した場合、現実界で災害が多発する現象は、どうやって食い止めればいい?」

 私は残酷だ。敢えて明答せず、幸自身の口から言わせようとしている。

「それは……俺が……」

 実の弟であり、生涯を賭して探し求めた人物。

「俺が死ぬしかない……ってことなのか」

 そんな彼に対し、唯一の解決策は死ぬことだと、思い知らせたのだ。

「他の三人に話したのは、君がこの異世界の人間だということと、君が現実界の災害の一端となっている可能性についてだけだ」

 後は当人の意思のままに。そんな体裁を取ってはいるが、実質は私が殺人教唆したも同然。むしろ、「意思決定は他人任せで自分は手を汚さない」という姿勢にすらなっている。

 だが、これが私の限界だ。私には幸を殺す意思はないが、かといって現実界の現状は看過できない。また、実際に現実界の災害で苦しんでいるバトガン氏や愛玲に対し、私だけが知る事実を隠蔽するわけにはいかない。

「私は誰の味方でもない。君を守ったり庇ったりはしないが、君を殺そうとする人達に加担することもない」

「本当か?」

「ああ、それは誓う。でも、他の移心者は分からない。バトガン氏や愛玲は、現実界で起きた地震で家族を失った。それだけでも君が狙われるには充分な理由になるし、君を殺さなければ災害が増え続けることも知っている」

 そして、私は傍観者に徹する。他の移心者や、あるいは幸が下した決断に、いかなる反発も加担も示さない。その姿勢だけは貫徹する所存だ。

 幸に話すべき内容は全て伝えた。後は彼の意思次第なのだが、彼が最初に返したのは縋るような視線だった。

「今後、俺が他の移心者と会う可能性はあるのか?」

「あるよ。むしろ私と出会ったことで、他の移心者と会う確率も高まった」

 幸の期待する答えを見抜きながらも、私は真実を告げる。

 これもまた皮肉な話だ。自分の情報が異世界にあれば、移心時にその場所へ現れる可能性が高まる。同様に、それが自分の情報ではなく『自分が保有する情報』だったとしても、そこに現れる可能性も出てくるのである。

 例えば、松齢は私『イヴァン』の情報を持っている。もし『イヴァン』の情報が異世界にあれば、松齢がそこへ移心する可能性も同様に高まる。そして、幸もすでに『イヴァン』の情報を記憶として保有している。その場合、『イヴァン』の情報が両者のパイプとなり、松齢は移心先で幸と出会う可能性が高くなるのだ。無論、自分自身の情報もある場合は、そちらからの牽引力の方が強くなるが。

 ゆえに私と出会った以上、幸は松齢や愛玲とも早晩出会うことになるだろう。

「……そうか」

 幸の反応は淡白だった。もう分かったと言いたげな雰囲気が漂っている。

「俺はここで生まれて、ここは異世界で」

 何もかもを諦観したような声色で幸は呟く。

「俺が移心する度に現実界では多くの人が苦しみ」

 私は沈黙に徹する。

「それを止めるためには俺が死ぬしかなくて」

 幸は淡々と、残酷な事実を羅列する。

「他の移心者は俺を殺しにやって来るってことか」

 そして最後に、大きな溜息を一つ。

 それはもはや問いかけではなく、客体なき呟きだった。

「なんで……なんで今まで気付かなかったんだ。なんで気付けなかったんだよ……」

 それは自責の言葉であった。この異常な環境に十八年間もいて、ただの一度も違和感を覚えなかった。普通ならあり得ない。数多の偶然でも繕いきれないだろう。

 だから、これは幸の瑕疵ではない。鍵を握るのは第三者の存在だ。

「さっき、『先生』と言ったな? その先生に会わせてくれないか? もしくは、君の母親でもいい」

「え? なんで……」

「それで多分、全て理解できるはずなんだ。それに君自身、その人達に訊きたいことがあるだろう?」

 幸の沈黙は図星を意味していた。

 人間は独りでは生存できない。特に産まれたばかりの人間は、他の生物よりも脆弱な存在だ。そして、幸は異世界で産まれた。人間など存在しないのが常であるこの空間で。なら、他の移心者の手が差し伸べられたはず。

 だからこそ、私は会って確かめなければならない。

「幸、その二人にはどうやって会えばいい?」

「……先生なら、ちょうど今から授業が始まるから」

「授業って、あそこでやるのか?」

 少し遠くに見える倉庫のような建物を指さすと、幸は肯定した。

 登校中だったのか。キーパーソンに会えるまでひたすらリセットで時間を稼ぐつもりだったが、僥倖だ。

「その先生はもう来ているのか?」

「ああ、普段なら授業が始まってる頃だ。ただ、先生は欠勤が多いけど……」

 毎日いるわけではないのか。おそらく移心のタイミング次第なのだろう。

 いずれにせよ、会わないことには始まらない。私は幸の先導に従い、校舎の入り口に到着した。学校と称するにはあまりに小さな掘っ立て小屋だが、生徒と教師が各々一人ずつしか存在しないなら充分なのだろう。

 校門の機能を果たしている扉に幸が手をかける。そして一瞬の躊躇の後、勢いよく扉を開けた。

「あ、寺池君! 遅刻ですよ」

 中から聞こえたのは女性の叱声。落ち着きのある妙齢の声だった。

「え、どうしたの、寺池君? びしょ濡れじゃ……」

 私が教室に踏み込んだ瞬間、彼女の声は途切れた。

 室内は薄暗く、二つのランタンが辛うじて外よりも明るく保っている程度。しかし、異世界の中では比較的明るい空間と言える。広さは十五平米ほどで、体育倉庫と大差ない。奥には白板と本棚と教師用の椅子、そして生徒用の机と椅子が一つ。各々のランタンは白板と机を照らしている。白板と机が向かい合う配置は、ここで実際に一対一の授業が行われていた過去を物語っている。

「あなたは……」

 彼女は私を視認し、困惑と狼狽に満ちた声で誰何する。彼女の両目はサングラスに隠れて見えないが、きっと目を見開いているのだろう。

 そして彼女と対峙した瞬間、私は彼女の最上の願いを知った。その願望は、まさしく全ての元凶。起こり得る全ての矛盾を封殺し、奇跡を現在まで繋げた強固な力である。

 願いは強大。それゆえ異世界の法則を捻じ曲げ、他者への干渉すら実現し、その干渉は私以外の全ての人間から違和感を奪い去った。

 だからこそ、私に出会った幸はもはや惑わない。わざわざ彼女の正体を明かすまでもないだろう。私は生涯の目標に出会い、幸は真実に開眼した。ならば、後は当事者同士に任せられる。

 私の役目は完遂された。

 その達成感と、そしてそれ以上の悔恨を胸に秘め、私は現実界に帰還した。


[寺池幸]

 先生を見た瞬間、俺は思考停止に陥った。

 十八年間、なぜ気付けなかったのだろうか。ただの一度も違和感を覚えなかった。

 イヴァンに真実を明かされて以来、ずっと胸に燻っていた矛盾の正体。それは紛れもなく、この先生だったのだと明確に理解した。だが、理解はできても容認はできない。それを認めた瞬間、俺という存在の大きな構成要素が一つ崩落してしまう。

 しかし、目を逸らすことも許されない。イヴァンの言葉が真実なら、これは俺を含む全ての人間の問題なのだ。

 当のイヴァンは忽然と姿を消していた。時限によって帰還したのだろう。教室には今や俺と先生のみが対峙し、雨音だけがやけに耳障りだった。

「あの……寺池君?」

 沈黙を破ったのは先生。しかし、いつもの凛々しさはない。

 完全に目を眩まされていた。いや、それでも気付けない方がおかしいのだが、確かに意図的に欺かれていたのだ。

 先生は、とても似ている。いや、似ているのではなく同じなのだ。身長を五センチほど底上げしている靴を脱ぎ、スーツをラフな服装に置き換え、後ろで纏めている黒髪を下ろし、両目を覆い隠している黒い眼鏡を外せば……。

「寺池君、今のは誰……?」

 そう、そしてこの声。普段の凛とした声質からは気付きにくいが、無意識に発するこの声は同一だ。

「母さん……」

 正鵠を射る言葉に、先生は過剰なまでに体を震わせた。その目は見えずとも、彼女の狼狽は見て取れる。

「何を……言って……」

 先生は……否、母はまだ白を切ろうとする。しかし、俺はもう二度と惑わない。寺池千冴は一人二役を演じていた。意図的に外見や声を差別化していたのだ。

「あの、寺池君? 何か勘違い……」

「もういいよ」

 ぴしゃりと遮る。それだけで、彼女はまた体を大きく震わせた。

「もういいんだ、母さん。何もかも分かったんだよ」

 歩み寄り、黒い眼鏡に手を掛ける。当人は抵抗せず、俺は眼鏡を静かに外した。

 初めて先生の目を確認する。その素顔は、やはり母に違いなかった。

「……どう……して?」

 怯えるような視線。信じられないといった表情。

「どうして……分かったの?」

 そして、母は自白した。

 その瞬間、俺の心は諦念に彩られ、精神的な支柱は静かに瓦解した。

 昔から親しくしていたのは母、翔太、先生の三人だった。だが、先生と母は同一人物だった。それはつまり、生涯において掛け替えのない接点の三分の一が消失したということ。

「そうか……ははっ……」

 乾いた笑いが漏れる。それと同時に俺は脱力し、地面に膝を突いた。

 母が慌てて駆け寄り、俺を支える。気遣いの言葉も、しかし底が抜けた俺の心には留まらない。

「母さん……何のつもりなんだよ?」

「え……?」

「なんで騙してたんだよ!」

 気付けば母に怒声を浴びせていた。これほど怒りを露わにしたのは初めてだった。

 母は戸惑っていた。俺に応えようと焦り、言葉にならない呻きが零れる。何度も何度も言葉を尽くそうと試み、しかしその唇からは声が出ない。

「俺を騙して、楽しんでたのか?」

「違う! それは違うわ!」

 自暴自棄の問いには即答が返された。それは俺の望む答えでもある。

「幸、騙してたのは本当にごめんなさい。でも聞いて。これは貴方のためだったのよ。私はただ……貴方のために……」

 細切れの言葉。しかし、それが逆に母の辛苦を表している。母に悪意があったわけではない。母も苦渋の選択を強いられたということは充分に伝わった。

 俺は怖かっただけだ。母は俺をずっと欺き、一人二役を演じてきた。それが悪意から為された所業であれば、俺は人生の拠り所を一挙に失っていただろう。

 だが、それは全て俺のためだった。母の言葉も態度もそう真摯に訴え掛けている。その事実に安堵した。目に涙を湛えた母とは対照的に、今の俺はきっと穏やかな表情だろう。

「分かったよ、母さん」

「え?」

「俺のためにしたことっていうのは分かった。ありがとう」

 そこが確定すれば、きっとどんな真実にも堪えられる。

 もはや躊躇はない。全身に活力が戻り、俺は改めて母と対峙した。

「まず俺から話すよ」

 ここに至るまでの経緯。先刻イヴァンによって明かされた真実を伝えた。

 ここが人類にとっての異世界であり、俺はここで生まれ育った唯一の人間。異世界は意思の世界であり、移心と帰還、他の移心者の存在、異世界では最上の願いが実現すること、全知のイヴァンから全てを教わった。イヴァンが俺の兄だということも。

 ただ、俺が現実界に災害を齎していることを伝えるのは、現時点では憚られた。

「そう、さっきの子が全部教えたのね。あなたのお兄さんが……」

 母は観念した面持ちで小さく呟いた。

「幸、今まで隠しててごめんなさい。もっと違うやり方があったはずなのに……」

「いや、いいんだ、もう……」

 悔恨に満ちた表情。母にそんな顔をされると、こちらまで悲しくなる。

「母さん、話してくれないか?」

 今度は母の番だ。俺は覚悟を決める。

「ええ、分かったわ。これまでのこと、もう隠さずに打ち明けるから」

 全ての発端、二人の出会いの物語が紡がれた。


[寺池千冴]

 千冴が二十四歳の時、最愛の夫を失った。

 勤務先の瑕疵による不慮の事故死。訃報を聞いた時、彼女の視界は漆黒に染まった。夫の遺体と対面した時、彼女の大地は崩壊した。何もかも、現実とは思えなかった。この人は今も生きていて、いつものように笑いかけてくれると信じていた。

 しかし夫は目を閉じたまま、その皮膚はもはや氷のよう。

 震えていた。四肢も思考も、あり得ないくらい震えていた。視界が霞み、周囲の音も耳に入らず、亡骸を前に茫然と立ち尽くすだけ。

 これは夢。度々見る悪夢なのだと、そう思わずにはいられない。

 だが、これは現実だ。非情なまでに。彼女は心からそれを理解し、受け入れようとした。

 しかし、それを拒絶したのもまた心。

 その拒絶反応によって、彼女に異常事態が起こった。

 絶望が視界を覆い、全身に絡まり、心の最奥まで染め上げる。

 その負荷に耐えきれず、彼女は意識を失った。体はまるで重病人のそれだった。

 そしてそれこそが、悲劇の始まりとなる悲劇。

 彼女は妊婦だった。

 一ヶ月後に出産を控え、つい昨日まで、胎児は元気に育っていた。

 しかし、最愛の人の急逝により彼女は発狂寸前まで追いやられ、その精神も肉体ももはや生きていける人間のそれらではなくなっていた。

 だからこそ、そのような体で二つの生命維持は叶わず、母体は自らの生を優先した。胎児は母親に生を譲り、目覚めた時、彼女は二人目の家族の喪失を知る。

 この時の彼女の心境こそ、絶望一色。悔やんでも悔やみきれない。夫の死を受け入れられずとも耐え忍び、まだ自分にはこの子がいるのだから夫の分までこの子を愛そうと思えていれば、こんな最悪の地獄は訪れなかったはず。

 彼女は懺悔した。自分が愛している人間は二人いたはずなのに。夫だけでなく、もう一人大切にしたいと思っていた子がいたはずなのに……。

 どうして夫の死だけで、抗えない絶望を抱いてしまったのか。

 夫の死を無駄にしたどころか、それを引き金にして更なる絶望を招いてしまった。それは夫を裏切り、我が子を軽視したという現実。そうではないのに、そうではないと今更言えないほどの罪を、自分は犯してしまった。

 夫の勤務先ではなく、天より嘲笑う死神でもなく、彼女は唯一自分を呪った。

 もう、生きている意味はない。

 夫を殺し、我が子を殺し、生き汚く存在し続ける自分をこそ彼女は憎悪した。

 そんな彼女に残された道など、一つしかない。

 死産を知らされた日の深夜、彼女は病院を抜け出した。白い病院服に素足のまま、森閑たる街路を駆けていく。

 そうして、病院に近在する自宅に辿り着いた。彼女は帰宅直後、他の何にも目をくれず台所の包丁を手に取った。

 憎い相手を殺さなければならなかった。二つの命を犠牲に生きる殺人鬼を、殺してやらねば気が済まなかった。

 狂気の衝動は、見慣れた我が家に帰ったことで少しの理性を取り戻す。最愛の彼と一緒に過ごした自宅を、醜い人間の血で汚してはならないと思い至った。

 ゆえに、死ぬのは寒空の下。醜く血を流し、惨めに地面を這い蹲り、孤独に消えるのがお似合いだ。

 感情を抑えきれず、包丁を携えたまま家を出た。それだけで充分。靴も上着も、これから死ぬ人間には必要ない。

 車に轢かれての自殺も念頭にない。手ずから始末を付けてこそ意味がある。

 無人の公園へと辿り着いた。ここでの孤独な死に様はまさにお誂え向き。いつのまにか雪も降り出し、千冴は震えるどころか、むしろ今夜を白銀に彩らんとする雪に憤りすら覚えた。

 しかし、煩わしい感情とは間もなく絶縁できる。包丁を把持し、公園の門を潜る。

 その瞬間、千冴は異世界に移心した。

「……」

 唐突な変化に動きが止まる。しかし、心境が変わるわけではない。

 動じることはない。度々訪れていた悪夢のような異世界。そこに、自殺する直前ですら来てしまっただけの話である。

 なぜこんなタイミングで、とは思わない。別段、何が変わるわけでもない。強いて言えば、死地が変わる程度の差だ。

 異世界は普段通りの降雨で、現実界よりは暖かい。雨に打たれての死は、雪夜の死よりも自分にお似合いだ。全身泥に塗れて死ぬがいい。

 躊躇も葛藤もなかった。包丁を逆手に持ち直し、自身に引き戻すだけ。それだけで彼女の本懐は遂げられた。刃が腹部に深く突き刺さり、一目でそれが致命傷と分かる。

 直後、激痛に苛まれた。身を裂く痛みは望んだものだが、それでも苦痛から早く逃れたいと思った。即死にしておけば良かったのだが、すでに手遅れ。この苦痛もまた自分に課せられた天罰なのだと受け入れる。

 痛くて、苦しくて、それゆえに意識は冴えていく。感覚が繊細に働き、彼女はある音を聞き取った。

 赤子の泣き声。まさかと思った。きっと死ぬ間際の幻聴だ。我が子への未練と懺悔が起こした現象だと思いながらも、声が聞こえる方向に視線を移す。

 そこで彼女は、自分の人生を変える一人の女性と遭遇した。

「た……て……」

 眼前、五メートル弱の距離を空けて、妊婦は仰向けに横たわっていた。

 否、彼女は今や妊婦ではなく母親である。

 その光景、その二つの生命に、掛ける言葉は見つからない。この異世界にいる自分以外の存在にまず驚いた。しかも、そこにいるのは瀕死の母親と、彼女とは対照的に活発な産声を上げる嬰児である。

「たす……け……て……」

 母親は悲痛に助けを求める。よほどの難産だったのか、生気が感じられない。

「たすけて……おねが……」

 母親と嬰児は未だ臍帯で繋がれている。体を動かせぬ状況で、母親は必死に喉を動かし助力を乞う。

 千冴はもはや自分の現状など忘れ、二人の元へと駆け寄った。

「大丈夫っ?」

 腹部に刺傷を負ったまま、力の入らない足を必死に引き摺る。急がなければ、母親はいつ息絶えても不思議ではない。

「たすけて……おねがい、たすけて……」

 弱々しい母親の声。

「待ってて、今すぐ……」

 とは言っても、自分に出来ることが思い付かない。医療道具は見当たらず、手当ての知識もない。それどころか、自分も瀕死で手足すらろくに動かないのだ。

 それでも、千冴は必死で思考を巡らせる。

「たすけて……この子を……たすけて……」

 母親のその言葉は、千冴の思考を堰き止めた。

「……えっ?」

 今、この母親は何と言った? 子供は元気だ。無論、出産直後だし放ってはおけないが、今は子供よりも母親の方が死に近い。

 だというのに……それでも、自分の命など視野にないかのように、母親は我が子への救済のみを求めていた。

 これこそが母親の願い。死ぬ寸前の苦悶の中、母親は未だその手に抱いてすらいない我が子の命だけを見つめていた。

 母親は徐々に薄れてゆく声で、未だに同じ台詞を紡ぎ続けている。その目は空ろで、おそらく何も見えていない。周りに自分以外の人間がいるかどうかさえ不確かなまま、それでも母親は必死に祈り続ける。

 間違いなく、その命が尽きるまで……。

 それを認識した瞬間、千冴は言葉にならない声を上げた。今の今まで自殺だけを考えていた彼女の心に、ひどく混沌とした感情が沸き起こる。それはどうにも制御できず、とにかく動けと全身に命令してくる。

 嬰児はすでに啼泣している。ならば、次に必要なのは臍帯の切断だ。千冴は一切の躊躇なく、未だ腹部に突き刺さったままの包丁を引き抜いた。

 瞬間、目が眩むほどの激痛が走る。包丁に付着した鮮血は雨で流され、代わりに腹と口から血が漏れた。しかし、どうでもいい。彼女は包丁を強く握り締める。

 千冴は自分の長髪を数十本引き抜き、それで臍帯を二ヶ所結紮し、その間を包丁で切断した。とにかく無我夢中だった。その後は包丁など捨て、産まれたばかりの赤ん坊を抱えて母親の目の前に持っていく。

「ほら! 貴女の子供よ! 元気……本当に元気だから!」

 吐血すら気にせず、必死で叫びかける。もう自分では動かせなくなった母親の腕を取り、子供の肌に触れさせた。

 目が見えずとも、我が子の体温を感じ取れたのだろう。

「あぁ……私の、赤ちゃん……」

 心底愛おしそうに、母親は我が子の感触を噛み締める。空ろな目からは涙が零れ、抱いたその手は慈愛に満ちている。

 その光景に千冴は胸を締め付けられた。それは自分が実現させたかった光景であり、無残に散った未来でもある。自らを顧みず子供の無事を願った母親。もし、このままこの子まで母親の後を辿ってしまったら、彼女はどんなに悲しむだろう。その悲愴は千冴にも痛いほど理解できた。

 嫌だ。そんな結末は死んでも御免だ。せめて子供だけでも助けたい。母親が最期まで貫いたその想いは何よりも価値がある。

「安心して! 私がこの子を助けるから!」

 気が付いたら叫んでいた。自身の容態など考慮になく、ひたすら叫んだ。

「絶対助けるから! 絶対に……」

 瞬間、大量の血液が口から漏れた。同時に、意識が急速に薄れてゆく。千冴自身も地に伏し、その四肢は動かない。

 それでも、何とか伝えたかった。母親の願いは自分が受け継いだと知ってほしかった。

 千冴自身、もう口の開閉すら叶わない。それでも、心の中で必死に叫ぶ。

 そうして、薄らぐ視界に映ったのは、安堵の表情。

「あり……が……と……」

 母親は一言、感謝を表した。それは千冴の想いが届いた証。母親が安心して逝けるという結末に他ならない。

 良かった……本当に良かった……。

 千冴も安堵した。とても温かい気持ちに満たされ、その意識は真っ白になる。

「……」

 そして、白んだ意識が途端に晴れる。両目に視界が戻り、手足の感覚も元通り。腹部も無傷で、周囲の景色までも現実の世界に舞い戻っていた。

 千冴は無言。つい先刻の出来事で全身が脱力し、まず手から包丁が落ちる。続いて、地面に膝を突いた。視線は真正面に向けられ、視点は空ろに彷徨っている。

 何が起きた? 自分は確かに、あの異世界で自殺した。それは鮮明に覚えている。

 いや、そんなことはどうでもいい。問題なのは、自分があの場から離れてしまったこと。風前の灯火である母親と、産まれたばかりの嬰児を残してしまった。誰の手も届かないあの嬰児の末路は、それこそ考えるまでもない。

「う……うぅ……」

 千冴の口から嗚咽が漏れる。それは悔しさ故だった。

 私が助けるなどと嘯いて、結局見捨てる形となった。無責任な言葉を重ねて自己満足に浸っただけではないか。

 誰も助けられなかった嘘吐き。それが今の自分だ。

「ごめ……なさ……」

 誰もいない公園で泣き崩れて謝罪する。しかし、謝罪を尽くしても足りないのだ。結局あの嬰児は助けられず、自分だけがまた生き延びた。

 そうだ。もし自殺なんてしていなければ……そしたら、あの世界に留まる時間が延びたのではないのか。あの子に手を差し伸べ、母親も救えたのではないのか。

「あぁぁ……うあぁぁ!」

 自分の愚かさが憎い。罪の意識から逃げたい一心で、救えたはずの命を終わらせた。

 涙が止まらない。後悔ばかりが自分を責める。

 やり直したい。もう一度、あの子を救う機会が欲しい。

 その願望が誰に届いたかは分からない。しかし、彼女は確かに産声を聞いた。そして背後を振り向き、奇跡を目の当たりにした。

 泣き声を発するのは、あの嬰児だった。彼女から約七メートル離れた地点で、その子は地面に横たわっていた。

「あ……あぁ!」

 見紛うはずがない。先刻の赤子だ。

 混乱と歓喜が同時に訪れた。なぜ、あの子がここにいるのか。しかし、そのおかげで千冴は再び機会を得たのだ。

 急いで嬰児の元へ向かおうとした瞬間だった。

「くぅっ!」

 足に激痛が走り、千冴は短い悲鳴とともに転倒した。

 唐突な痛みに混乱したが、原因は明白。今は真冬で、公園には雪がしんしんと降り積もっている。それゆえの凍傷。靴を履いていない千冴の足は、冷え切った大地から体温を奪われていた。

 この寒波は尋常ではない。なぜ、今まで気付かなかったのか。自分の皮膚の冷点を疑いたくなるほど、地面は銀盤のように凍て付いていた。

 素足が触れるだけでも、全身から瞬く間に体温が奪われていく。そんな地面に、産まれたままの姿で横たわる嬰児。

「あ、あ……あぁぁぁ!」

 馬鹿な、なんだこの状況は! 産まれたばかりの最も弱い段階で、大人でも気を失いそうな寒気に晒されているなんて!

 千冴は叫んだ。とにかく叫び、近付いた。地面に這ったまま腕を動かし、凍傷で動かない足すら無理矢理ばたつかせた。

 その間にも雪は容赦なく嬰児を覆っていき、泣き声も衰えている。

 気が狂いそうだった。またなのか、寺池千冴。お前はまた、何も出来ずに殺すのか。どんな事をしてでも助けるという言葉は、今度も嘘だったのか。

 本当に、気が違ったかと思えるほどに無我夢中だった。死に物狂いで這い進み、手が届くまで一メートルとなったが、その距離が果てしなく遠く思えた。

 もう嫌だ。これ以上、こんなこと嫌なのに……。

 無限とも思える数秒を乗り越え、遂に嬰児の元まで辿り着いた。その両腕に嬰児を抱くやいなや、積もった雪を払い、抱き寄せる。冷え切った自分の手さえ憎かった。

 だが、とにかく赤ん坊の元には辿り着いた。後はすぐに病院へと連れて行き、手当てをしなければならない。千冴は立ち上がり、病院目がけて一目散に駆け抜ける。

 走ったはずだった。彼女の意識では、少なくとも二十メートルは超えた頃だった。しかし走ったのは意識だけで、両足は再び膝を折っていた。咄嗟に地面から嬰児を守ったが、状況は少しも好転していない。

 何をしている? 一刻も早く病院に行かないと駄目なのに、何なんだお前は!

 あまりにも不甲斐ない体たらくに千冴は号泣した。

 意思だけで体が動くなら、彼女はすでに病院まで辿り着いていただろう。

 しかし、足は動かない。這い蹲ることすらできず、涙が流れるばかり。

 嬰児は既に全身蒼白。唇が変色し、呼吸は虫の息だった。絶望の瞬間が再度やって来たのだ。今度は自分の意識がある内に、徐々に赤子が息絶える様を見せ付けられる。

 助けたい。この子を助けたい。私の全てを犠牲にしていいから……。

 捨て身の願いも届かない。赤子はすでに呼吸が止まっていた。

 また、救えなかった。二度も救いたいと思いながら、二度とも救えなかった。それは現実が酷だったせいではない。全ては自身の薄志弱行ゆえ。もっと強く願えば、この子は助けられたに違いないのに……。

 ごめんね……。

 絶望が視界を覆い、千冴は意識を失った。

「……」

 いつの間にか、身を打つのは雪から雨に変わっていた。

 突然の変貌。再びの異世界訪問。しかし赤子を救えなかった悔恨で、全てがどうでもいいと思えた。もう放っておいてほしいとすら願った。

 しかし千冴の耳は確かに、雨音に紛れた泣き声を拾った。その瞬間、茫洋とした意識は覚醒した。

 気付いた時には赤子へと走り寄り、その身を抱き上げていた。

 驚愕も疑念も、今一時は振り払う。全神経を赤子の生命維持に集中させる。千冴は的確な動作で必要な処置を施し、自らの服を脱いで赤子の保温に用いた。

 赤子が雨に濡れないよう、慎重に抱えて周囲を見渡す。先刻の異世界と同一風景であるが、母親の姿はどこにもない。

 雨宿りできそうな場所はない。いや、それは些末な問題だ。ここには何もない。衣食住の全てが欠けたこの世界で人間が生存できる可能性はない。

 しかし、千冴はふと疑問を抱く。これはそもそも憂慮すべき問題なのだろうか。ここは現実界とは全く異なる場所だ。ここでの生存など考える必要もないのでは?

 ……いや、違う。それは浅慮だ。

 先刻、千冴が現実の世界に戻った時、赤子も彼女のいる場所に現れていた。本来なら赤子は実母のいる場所へ戻るはずなのに、千冴しかいない場所へなぜか現れた。

 それだけではない。赤子は現実の世界で確かに凍死したのに、ここではまだ生きている。これは千冴と同じだ。彼女も異世界で一度死んだが、今は無傷で生きている。

 異世界では死んでも、現実の世界で死ぬわけではない。この仮定が真であれば、筋は通る。しかし、赤子は現実の世界で死んでも、異世界では生きている。

「まさか……」

 千冴の口から思わず声が漏れた。そう、それはあり得ない現象。赤子にとっての異世界と現実が反転している。そんな事象は認められるはずがない。

 しかし、その可能性を全否定できないことが恐怖だった。

 常識や理性が、反転の仮説を否定する。しかし、自分のちっぽけなそれらに頼って何の意味がある。現に、異世界という非常識な事象が実在しているではないか。常識に縛られてこの子を見捨て、その仮説が真実だった場合、この子は一体どうなるのか。

 異世界には自分しかいない。なら、理性では信じられなくとも、この子をここで守りきるためには納得する必要がある。

 この子は異世界に生きる存在だ。千冴は疑念を強引に捻じ伏せてそう結論付けた。

 認めた瞬間、しかし今度は絶望が押し寄せる。納得しただけではこの子を救えない。ここには、生存に必要な物資が何もない。しかも経験上、自分が異世界に留まれるのは三十分が限界であり、いったん戻ると数日間は異世界に移れない。移る方法も留まり続ける手段も、何も分からないのだ。

 つまり、結局救えない。千冴が消えた後、土砂降りの雨に打たれながら、赤子は一日もしないうちに息絶えるだろう。

「く……うぅ……」

 涙と嗚咽が漏れる。泣いても無意味なのに、分かっていても止まらなかった。

 またぞろ自分の無力さを思い知る。悪足掻きすら許されず、刻一刻と時限が迫る。

 この子を救いたい。その願いはこんなにも叶えられてはならないのだろうか。

 あの母親の願いは何よりも価値がある。自分の全てを犠牲にしてでも、その願いを実現したいと心から思えたほどに。

 助けたい。この子を絶対に助けたい。たとえ異世界に存在する異端児であったとしても、元気に育ってほしい。自分の境遇を嘆かず、いつも幸せそうに笑って生きてほしい。

 願うだけでは無意味だなんて、思いたくはない。

「お願い……」

 思わず漏れた言葉。赤子に理解できるはずもなく、雨音に掻き消された。

 生きてほしい。赤子を優しく抱き締め、強く祈った。自分の命を差し出してもいい。それでこの子が助かるのなら安すぎる代償だ。

 想いが言葉として結集される。

「この子を……助けたい……」

 周囲には誰もいない。虚空に消えるだけのその願い。

 しかし、それは今度こそ誰かに届いたのかもしれなかった。

「……え?」

 何かの気配を感じて左に視線を流し、千冴は驚愕の声を上げた。

 五メートル先、今の今まで平地だったその場所に家が出現していた。

 否、それは家と呼ぶには粗末な代物。地面の土が隆起して中に空洞を設けただけの歪な宿。二畳にも満たない面積で、高さが二メートルにも満たない「土のカマクラ」だった。

 奇妙な現象ではあるが、千冴は深く考えずに空洞内へ進入する。

 中は狭かった。大人一人がやっと入れる程度だが、雨は防げるし室温も上々のため、赤子を休める場所としては悪くない。

 何なの、これ……。

 一息ついてから考察する。だが、そもそも常識外れの世界で起こった更なる常識外れの現象など、一人で考えても埒が明かない。

 諦めて赤子に目を落とすと、赤子は急に泣き出した。最初は戸惑ったが、お腹が空いたのかもしれないと考え、千冴は一か八か自分の母乳を与えてみようと思った。

 千冴は自分の乳房を絞る。死産後でも出るのか分からず、不安ではあったが、とにかく赤子のために一生懸命だった。

 お願い、どうか!

 強く願った直後、千冴の乳首から母乳が噴き出した。千冴は歓喜とともに赤子を引き寄せると、赤子は美味しそうに母乳を飲み始めた。

 何も危惧する必要はない。この子は人一倍元気な赤ん坊だ。それを知り、千冴の両目から涙が溢れた。自分の腕の中の赤子を見つめながら、胸に広がる感傷を噛み締める。

 乳飲み子を愛しげに見つめる千冴。今は亡き我が子の面影を感じていた。

 この子の母親になりたいと、千冴は強く願った。自分の子の代用にしようとしていると詰られれば、反論できない。しかし、それでもこの子が愛しくて仕方なかった。この子のために自分の全てを擲ってもいいと願ったのだ。何度も、何度も。

 この子の実母はどうなっただろうか。あの時の彼女は瀕死の状態だったが、もし一命を取り留めたのなら、この赤子をここで育てられるだろうか。

 そこまで考え、そんな考慮に意味はないと気付いた。見据えるべきは最悪の事態のみ。すなわち、実母が死去していて赤子がこの異世界でしか存在できない場合である。

 ならば、自分がここで育てるしかない。あらゆる制約、諦めざるを得ない要因すら封殺し、絶対に育てるという強い意思を固持するだけだ。それはあの母親に伝えた約束であり、同時に自分の天命だと千冴は信じた。

 まず、名前を決めよう。本来なら実母に決めさせてあげたいが、それはもう叶わない。西欧人の外見だが、日本名でも問題はないだろう。

 赤子は男の子。千冴はその子を「幸」と名付けた。

 理由は二つある。一つは、千冴が出産するはずだった子の名前を「沙知さち」にしようと決めていたからである。胎児が女児であると知り、夫と一緒に決めたのだ。その語呂を同じくすることで、亡くなった我が子の分まで愛そうと思った。

 二つ目の理由は単純明快、幸せになってほしいから。こんな異世界に生を受けたのは不運なことだろう。しかし、それでも幸せに生きてくれるなら、これほど嬉しいことはない。だからこそ「幸」と名付けた。ただ一心に、この子の幸せを望んで。

「あぁ……幸……」

 名前を付けた途端、幸に対する愛情が増した。

「幸、あなたは私が育てるから……幸せになれるように頑張るから……」

 幸の幸福を何よりも強く願った瞬間、彼女は自分の願いの実現を感じ取った。


[寺池幸]

「……矛盾の肯定?」

「ええ、幸を異世界で育てることによって生じる矛盾を、そのまま肯定するってことよ」

 それが母の願い。母は、自分の願望がどのような形で具現化したのか説明した。

 寺池幸を育てることで生じる矛盾とは、例えば今この場にいる教室。イヴァンも言っていたが、本来このような大きな物質は異世界に継承できないし、帰還と同時に異世界から消滅する。それを継承でき、かつ残留させているのが第一の矛盾。

 第二の矛盾は、母の移心時間。俺が産まれた後、母は何日間も連続で異世界に留まり続けたという。また、移心の間隔も短くなり、帰還してから数時間後に再び移心する場合もあったようだ。普通、移心時間は長くて三十分であり、移心の間隔は少なくとも数日は置かれる。母が異世界に長く留まれるようになったことが、そもそも矛盾なのだ。

 矛盾は矛盾であるがゆえに、本来ならば起こるはずがない。しかしそれらは幼い俺を育てるために必要で、そして母の最上の願いは「寺池幸の幸福」だった。

 だからこそ矛盾は肯定され、異世界において実現した。「最上の願いは自分に向けられたものしか実現し得ない」という法則から生じる矛盾すら肯定して。

「ありがとう、母さん」

 突然の謝辞に母は目を丸くする。だが母の説明を聞いた今、感謝の念は尽きない。異世界の法則を捻じ曲げるほど、母は俺の幸福を強く願ってくれたのだから。

 その想いを素直に伝えると、しかし母は浮かない表情だった。

「違うのよ、幸。私は感謝されるべき人間なんかじゃない」

「どうして?」

「だって、ずっと貴方を騙してきたんだから……」

「騙してきたって……先生のこと?」

「それもそうだけど、それだけじゃないの」

 母は懺悔するかのように、第三の矛盾について語った。

 先の二つの矛盾を肯定できれば、寺池幸は当面生きていけるだろう。だが、母の最上の願いは俺が生きることではなく、幸せになることである。

 こんな異世界でも生存できるのは幸運だろう。しかし、それがそのまま幸福に繋がるわけではない。自分が他の人間と異なる世界に生きていると知れば、どれほどの絶望を抱くだろうか。生まれながらに矛盾した存在だと知り、そして自力ではどうにもできない現実を目の当たりにして、それで果たして幸福になれるだろうか。であれば、何も知らずに生きる方がずっと幸福ではないのか。

 母がそう信じた時、第三の矛盾が肯定された。寺池幸は確固たる異世界の住人でありながら、母以外の誰もそれに気付かない。そんな矛盾すら母は肯定させたのだ。

 それゆえ、俺は今まで真実に気付けなかった。ここが人間の住むべき世界なのだと信じて疑わず、一目見て分かる先生の正体すら今日まで気付かなかった。

「私が先生を演じたのも、それが幸のためだと思ったからなの。だって、貴方が生涯で出会えるのが母親だけなんて、そんなの悲しすぎるから……」

 母は滔々と語った。母は妊娠する前、小学校で教鞭を振っていたという。ゆえに母は、子供が生きる上で教師がいかに重要か心得ていたのだ。

 確かに、母は見事に先生の役割を演じていた。一人二役を演じきるのは想像以上に重労働だっただろうに、全ては俺のために尽力してくれたのだ。

「翔太君、だったかな?」

 母は突然、翔太の名前を口にした。

「幸が翔太君のことを話した時、本当に驚いたわ。私以外の人間が異世界にいるなんて、思いもしなかったから。同時に、幸のことがバレてないか不安になった。結局は杞憂だったみたいだけど」

 そうだ、矛盾に気付かなかったのは俺だけではない。翔太とは幼少の頃から何度も会っているが、矛盾を指摘されたことは一度もない。バトガンさんだって、全く気付いていない様子だった。俺が真実に気付かないよう、全ての移心者の目が眩まされたのだ。ただ一人、全知であるイヴァンを除いて。

 苦々しい表情の母。俺を欺いていたことに後ろめたさがあったのだろう。

「母さんの選択は間違ってなかったと思う。むしろ感謝したいくらいだよ」

「でも、結局は幸を苦しめることになって……」

「いや、いいんだ。きっといつ言われても、苦しんだはずだから。だから、今まで穏やかな気持ちで過ごせただけでも、本当にありがたいと思ってる」

 俺を育ててくれて、ありがとう。

 それだけでなく、俺の幸福まで願ってくれて、本当にありがとう。

 少し気恥ずかしさを抱きながらも、俺は心からの謝意を告げた。

「幸……」

 母は大粒の涙を流していた。そして気が付けば、俺の涙腺も。

「幸、私の方こそ……ありがとう……」

 肩を震わしながら、母は俺を抱き締める。

 きっと、不安だったのだろう。俺を騙しているという罪悪感。俺に露見した時の後悔。俺が母を憎みかねない恐怖。真実を吐露する最中も不安だったに違いない。

 本当に、感謝してもしきれない。この異世界で俺をここまで育ててくれた。俺の幸せを何よりも願ってくれた。その事実だけは、俺は絶対に忘れない。

 二人は一頻り泣きじゃくった後、改めて距離を置き対面した。互いに泣き腫らした顔を見合い、どことなく羞恥が燻った。

「そういえば、もう三十分以上は経ってるけど、帰還しないんだね」

 俺は何気ない風を装い、気付いたことを咄嗟に言った。

「そうね。貴方が大きくなってからは、三十分以上いることは滅多になくなったけど、今は大事な話の途中だから」

「へえ、それじゃあ、滞在時間は自由にコントロールできるんだ?」

「いえ、完全にはコントロールできないわ。帰還したいと思った瞬間に帰れるわけじゃないからね。ただ、まだ異世界にいる必要があると感じている内は留まれるのよ」

「なるほど。でも、コントロールできたら良かったのにね。移心しても現実界の時間にはカウントされないんだから、他人より多くの時間を生きられるじゃない?」

 これも何気なく発した言葉だったが、母は動揺を見せた。すぐにそれを隠したが、しかし俺は一瞬の機微を見逃さなかった。

「……母さん、まだ何か隠してるのか?」

「え? どうして、そんなこと……」

「今、様子が変だったから。勘違いなら別にいいよ。でも、まだ何かあるのなら……」

 今度は母の目が泳ぐ。それで俺は確信し、そして俺の確信を母も察知したようだ。

「ごめんなさい。隠してたわけじゃないんだけど……」

「いいよ。もう何を聞いても驚かないから」

「そうじゃないわ。貴方に何かあるわけじゃないのよ。ただ、移心時間が現実界でカウントされないってところが、少し違うから」

「違うって……母さんはカウントされてるの?」

「いえ、私も三十分以内に帰還すれば、カウントされないわ。でも、三十分以上ここにいた場合は、その超過時間分、私は現実界で気を失っていたのよ」

「そんな……じゃあ、何日もここにいた時は……」

「ええ、その日数分、私はずっと意識不明だった。突然意識を失って昏睡状態になることが度々あったのよ。現実界では、情緒不安定が原因とされてるけどね」

 だが実際は、母が矛盾を肯定する上での代償なのだ。母がなぜこの件に敢えて触れなかったのか理解した。

「でも、気にしないでね。私はそれを承知でここにいるわけだし、現実界でもそれほど不自由してるわけじゃないのよ」

 母は慌てて取り繕う。それで納得できるほど簡単な話ではないのだが、俺は複雑な心境のまま、母の気遣いに納得を示した。そして一層、俺は母に感謝する。母の献身に今後なんとしても報いたいと思った。

 母は改めて俺を正面から見つめた。

「幸……ここが異世界だっていうのは、もう隠せないけど……でも、私は貴方と一緒にいるから。だから、ここからもう一度始めましょう」

 前向きな未来の提示。そう、俺が異世界に生まれたことは変えようがなく、異世界でも何とか生きていけるというのなら、その籠の中で幸福を目指すことに何ら問題はない。

 しかし、それは叶わない。真実はまだあるのだから。

「確かに、ここと現実界は全然違うけど、そんなの些細な問題でしょう? 二人で頑張りましょう、幸……いいえ、二人だけじゃないわ。翔太君やバトガンさんや、貴方のお兄さんだっている。貴方は独りじゃないから。孤独じゃないんだから」

 母は必死に語り掛ける。そこに希望を見出していればいるほど、俺の心は悔しさに締め付けられる。母が差し伸べてくれるその手を素直に取れれば、どんなに幸せだろうか。その手はどんなに温かいだろうか。

「……幸? どうしたの……?」

 俺の表情を見て取り、母も不安を露わにする。

「ごめん。母さん。まだ話してないことがあるんだ」

 話さずにおこうかとも思ったが、でもやっぱり無視はできない。

「母さん、今の現実界って、昔より災害が多くなってない?」

「え? どうしたのよ、突然……」

 母は濁したものの、俺の真剣な雰囲気を読み取り、問いに答えた。

「ええ、確かに年々増えてるみたいだけど……」

 正直に教えてくれた。それで、母が本件に関しては何も知らないと分かった。

「それ、どうやら俺が原因みたいなんだ」

「……はぁ?」

 当然の反応。

「俺のせいでそうなった可能性が高いんだよ。だから、俺は今まで沢山の人を不幸にしてきたことになるんだ」

「何を……何言ってんのよ、幸っ!」

 突拍子のない発言に母は声を荒げた。

「それ何かの冗談? そんな馬鹿な話あるわけないでしょ!」

「馬鹿馬鹿しいってことは分かってるよ。でも、やっぱり無視できないんだ」

 イヴァンから教えられた推測を母とも共有した。

 俺が移心する度に現実界で矛盾が起こり、矛盾の蓄積によって、現実界では異世界のように災害が多発するようになった。現実界への移心は異世界へのそれよりも矛盾が大きく、災害が増え始めた時期に照らすと、俺が原因である可能性は高い。そして、それを知った他の移心者は俺を殺しに来るかもしれないのだ。

 母は驚愕の表情のまま終始無言だった。目の焦点が合わず、口は開閉するものの言葉が出ず、足元は微かに震えている。

 この話を聞かされた時は、俺もきっとこんな感じだったのだろう。

 母の言葉を待たずに、言ってしまった。

「だから、俺は死ぬべきなのかもしれない」

 その言葉に母は体を大きく震わせた。

「馬鹿なこと言わないで!」

 そして、聞いたことのない声量で俺を叱責した。

「そんなの、単なる責任転嫁じゃない! 幸、絶対に信じちゃ駄目よ!」

 俺の両肩を両手で掴み、怒涛の勢いで訴えかける。

「お願いだから、そんな言葉に惑わされないで! 貴方が死ななきゃいけない理由なんて無いわ! そんなこと、絶対に受け入れないで頂戴」

 肩が痛い。母の形相に俺は少したじろいだ。

 本当にこれが最良だったのだろうか。今となっては分からない。でも、打ち明けたいとは思ったのだ。イヴァンが全てを打ち明けたように、母が全てを話してくれたように、俺も全てを共有したいと望んだ結果だ。

「幸! 聞いてるの?」

「ああ、ごめん。ちゃんと聞いてるよ」

「だったら返事してよ。貴方が死ぬ気なんじゃないかって、思っちゃうじゃない……」

 母は本気で俺を心配していた。その目尻には涙も浮かんでいる。

「大丈夫だよ。自殺はしないから」

「……本当に?」

 力強く首肯する。自分の置かれた境遇に絶望はしているが、自殺はまだ考えていない。それに、母を安心させたいという気持ちもあり、今はそう答えた。

 俺の言葉を聞き、母はほっと胸を撫で下ろす。

 続いて母は、今後の方針について提案した。まずは移心者と話し合い、イヴァンの仮説がいかに荒唐無稽であるか理解してもらう。それでも理解されず幸を殺そうとするのなら、その手が届かぬ場所まで逃げる。相手の帰還まで逃げ切れば、幸の勝利だ。

 現状を踏まえた上での、前向きかつ穏当な提案だった。さすがに人生経験が豊富なだけあって、切り替えの早さには舌を巻く。

 しかし、母の提案に俺はあまり乗り気ではなかった。今はまだ何も考えたくないというのが本音。情けないが、移心者が俺を殺しにくるという未来すら想像したくない。

 俺の様子を受けて、母は語勢を弱めた。

「ごめん、しばらく一人にしてほしいんだけど……」

 俺の力ない懇願に母は一瞬たじろぐも、小さく頷いた。

「じゃあ、とりあえず家に帰りましょうか」

 母の言葉に従い、教室を出る。常備されている傘を差し、二人は五分ほどかけて自宅まで辿り着いた。道中、母は俺に励ましの言葉を掛け、俺は努めて笑顔で頷いた。

 引き戸を空けて家に入る。家は学校よりも少し大きい程度の容積で、玄関から真っ直ぐ廊下が走り、五メートル先で台所に突き当たる。廊下の途中、左側の襖を抜ければ俺の部屋。それがこの家の全容である。

 家に着くと、俺は母に帰還を勧めた。母はすでに一時間は移心しており、現実界に支障を来たしているはずだ。母は躊躇しながらも、しかし俺の勧めに応じてくれた。だが、その前に久し振りの手料理を作りたいと申し出があり、断るのも忍びないので、感謝とともに素直に受け入れた。

 そして食事の後、母は帰還した。独りになった途端、周囲は静寂に包まれたが、しかし母の手料理の温かさを思い出し、呟くような謝辞が空間に木霊した。

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