第一章 移心

[寺池幸]

 周囲は異世界。怖気立つ光景が目の前に広がっている。

 奇妙なオブジェが散在し、名状できない色が天空を覆う。それらはまるで落書きのよう。幼児が思いのままに線を引き、絵の具をぶちまけたかのような風景だった。

 周囲では、四本足の奇妙な生物が驚異的な速度で蠢いている。あれに体当たりされれば一溜まりもないだろう。

 そして、とても五月蠅かった。異世界の騒音はとにかく耳障りだった。

 風景は目まぐるしく変化する。こんな場所にいれば早晩、異状をきたす。目が先か、耳が先か、脳が先か。いずれにせよ、ここに留まってはいられない

 脇目も振らずに走った。動けば四本足の怪物に襲われる可能性があるが、それでもこの異世界の住人になるよりはマシだ。奇形のオブジェには近寄りたくなかったが、それらは待ち伏せているかのように進路を塞ぐ。

 駆けた。本来の世界に戻りたい思いで、一心不乱に足を動かした。

 息が切れるまで走り、ようやく思い知る。

 ここに出口など存在しないということを。

 ならば、残された手段は発狂のみ。乾いた笑声が喉を鳴らし、頬は滂沱の涙に濡れる。もはや正気は保てず、むしろ保っている方が苦痛だった。

 誰にともなく助けを乞う。しかし願いは届かず、代わりに近付いてきた何かが奇声を上げた。もしかすると、それは咆哮だったのかもしれない。最上の獲物を見つけて発せられた、狂喜の声だったのかもしれない。

 きっと死ぬ。この状況では死ぬしかない。こんな場所で死にたくはないが、こんな場所で生きるのはもっと耐え難い。

 絶望で目を瞑った。奴らの忍び寄る気配を感じ、そして死を覚悟した。

 しかし、それから数秒。自分の身に何かが起こった感覚はない。

 恐る恐る目を開けた時、視界はようやく見覚えのある景色を映していた。

「……」

 帰って来られた。見慣れた風景を前に、そう確信する。

 そして、歓喜した。ただ帰還できただけで、自分は世界一の福男だと感じた。

 それはもう、記憶の片隅にのみ居座る出来事。

 寺池てらいけさちという人間の最古の記憶だった。


 目覚めは暗鬱だった。

 異世界に旅立つ夢。それが本当に夢なら、どれほど嬉しかっただろうか。あれは間違いなく現実の体験であり、今でもしばしば夢に見る。幼少の頃に味わったそれは、過去の記憶を全て塗り潰すほどに衝撃的だった。

 惰眠を貪りたい衝動に駆られながら、俺はいつもの一日を開始する。気分は最悪に近いが、腐っていても仕方がない。異世界にはこれまで何度も訪問し、今後も恐らくは行く羽目になるからだ。いや、訪問ではなく拉致と換言すべきかもしれない。異世界には否応なく連行され、こちらの意思では拒否できないのだから。

 今日は平日。渋々ながら制服に着替え、身支度を整えてから居間に向かう。

「あら、幸。おはよう」

 朝食の香りに遅れて来たのは、母の挨拶。今朝の重苦しい心情を欠片も見せず、俺も爽やかに挨拶を返した。かつて先生に厳しく指導されたこともあり、どんな心境であっても健やかな挨拶を交わせるのが俺の特技だ。

「今日は学校でしょ? 朝食は用意しておいたから」

 母である寺池千冴ちさえの言葉通り、テーブルにはすでに豪勢な朝食が用意されていた。

「なあ、母さん。朝からこれは、ちょっと多くない?」

「育ち盛りなんだから、しっかり食べて大きくならないと」

「でも、起き抜けにこれは……」

「つべこべ言わない。私も仕事に行くから、それ全部食べたら学校に行きなさいよ」

 母はすでに身支度を整えている。身長は俺より十五センチほど低く、その全身は清潔感のある洋服に包まれている。腰まで伸びた黒髪にも癖がない。

 今朝は目覚めが悪かったから朝食は軽く済まそうと思っていたが、今日に限って母がいるのだから複雑な心境だ。

 仕事柄、母は家を空けることが多く、ここ数日は俺一人だけだった。久方振りに会ったので近況でも話そうかと思った時には、母はすでに出発していた。俺も料理を気合で片付けた後、必要な荷物を抱えて玄関の扉を抜ける。

 その瞬間、異世界に強制連行された。


[イヴァン・カラベロフ]

 周囲は異世界。久々に移心いしんしてしまったようだ。

 何度来ても馴染むことはない。異常な色彩や物体によって構成された世界には、秩序という概念がまるでない。加えて、常時の悪天候も不快感を増幅させる。相変わらず深緑で染色された不気味な空から、耳を劈くような雷鳴と共に豪雨が降り注いでいた。

 一口に異世界と言っても、その光景は移心の度に異なる。小雨程度の穏やかな天候の時もあれば、奇怪なオブジェだらけで目眩がしそうな時もある。いつも穏やかな時に移心できれば幸いなのだが、残念ながら自分の意思で決めることは叶わない。

 今回の異世界の状況は把握した。以降は時間を有効活用したいと考えたが、時間を潰せそうな物はない。ゆえに、思考だけが無聊を慰める唯一の手段だった。

 異世界とは、現実界で一瞬の間、意識だけが訪問できる空間である。現実界とは本来の世界のことであり、現実界から異世界に意識が移ることを我々は「移心」と呼んでいる。

 異世界で過ごした時間は現実界ではカウントされない。ここで何分過ごそうとも、帰還すれば自分が移心した瞬間まで引き戻される。だから別段、異世界での時間を無為に過ごそうとも影響はないのだが、手持ち無沙汰のままというのも面白くない。

 平素であれば、書籍やスマートフォンなど何らかの携行品を身に着けている。しかし、今日は不運にも寝起き直後に移心してしまった。服装も寝巻のままで、社会人としてあるまじき出で立ちである。

 移心の際、衣服や手荷物はそのまま異世界に継承される。異世界に移るのはあくまで意識であり、肉体ではない。殊更に服や荷物を意識し、自分と服は別物だと常に考え続けていない限り、それらは自分の一部ないしは延長として引き継ぎ、異世界において具現化できるのだ。ただし、大質量となると話は別。手に余るほどの大きな物体だと、それらを自分の一部と認識するのは不可能だ。家屋や車両を自分の体の一部と捉えるのは無理があろう。

 また、たとえ継承されても、それらが現実界から消えるわけではない。移心者も移るのは意識だけで、肉体は常に現実界に存在する。つまり、異世界における移心者の肉体は、移心者の意識が受肉した代物に過ぎない。同じ異世界に存在する物には触れられるし、感覚も働くが、それでも肉体は意識の容れ物にすぎない。よって、一緒に継承された物体も厳密に言えば本来の物体とは言えず、外観も機能も全く同じ複製になる。移心者が帰還すれば、継承した物体と共に肉体は異世界から消滅する。

 移心の時間は長くて三十分。早ければ十分ほどで帰還する場合もある。一冊の書籍で充分に潰せる時間であるだけに、何も持っていないのは口惜しい。新たな知識を吸収する好機なのに、インプットできる情報が何もないのだから。

 仕方なく、今日の予定業務に思いを馳せた時だった。

「あ、イヴァン!」

 右手の方向から女性の声が聞こえた。珍しく他の移心者に会えたかと思い、声の方向に視線を向ける。しかしその直後、挨拶を返す間もなく私は帰還した。


[寺池幸]

 今日もいつも通り帰宅した。この後は日課の宿題とトレーニングを行う予定だが、今日は気乗りせず、帰路もどこか憂鬱だった。

 それもこれも、今朝の異世界が原因だ。夢と現実、一日で二度も連行されてしまうなんて最悪。今回の異世界は比較的穏やかな場所だったから少しはマシだったが、それでもあの異世界の色はどうにも慣れない。何もなくとも、あの色を直視するだけで眩暈がする。

 だが、いつまでも憂鬱を引き摺ってはいけない。そう思いながら自室に戻ると、中には見慣れた奴が居座っていた。

「よう、幸。邪魔してるぞ」

「おお、翔太しょうた! 来てたのか!」

「ついさっきな。てか、やたらと久し振りだな、おい」

「ほんとにな。いつも突然現れやがって」

 竹馬の友、柴山しばやま翔太と再会した瞬間、俺の鬱気はたちまち霧散した。

 この小さな村落では、基本的に鍵を掛ける習慣がない。翔太はいつも神出鬼没に現れては俺の部屋に来て、今もここの冷蔵庫にあった麦茶を飲みながら、俺の本棚にあった文庫を興味なさげに繰っている。もはや勝手知ったる他人の家である。

 彼は俺より一つ年上ながら俺と同じ背格好で、茶髪が逆立ち、青縁の眼鏡を掛けている。少し粗野で風来坊のような男だが、幼少期から一緒に過ごしてきた友人である。

「お前、またこんな小難しいの読んでんのか」

 翔太はつまらなそうに言った。俺の愛読する理学書だったが、活字よりも漫画を好む翔太の琴線には触れないらしい。

「なあ翔太、お前最近何やってんの?」

 俺は鞄を足元に置き、座布団に座って話しかける。翔太は理学書を机に置いた。

「別に何も。相変わらず退屈な毎日だわ」

「バイト始めたんじゃなかったか?」

「ああ、それは適当にやってる。下宿生だからな」

「それ以外だと、勉強とか運動とか?」

「いや、勉強はもう勘弁。去年散々やったし、しばらくやりたくないな」

 そういえば、受験期は翔太もかなり憔悴していたな。

「そんなに勉強が嫌なのか? 結構楽しいと思うけど」

「お前マジで言ってんの? 勉強とかさ、確かにやらなきゃヤバいけど、好きでやるもんじゃねえだろ」

「そうか?」

「そうだろ。まあ、運動は俺も何かやろうとは思ってんだよな。最近、運動不足な感じだし。でも何やろうか迷っててさ。何やればいいと思う?」

「さあ。というか、前に何かスポーツやってなかったか?」

「ああ、水泳? ありゃ正直飽きた。ガキの頃から泳いでばっかだったからな。大学入ったからには他のスポーツ始めたいわけよ。爽やかでモテそうなやつな」

「モテる?」

 疑問の声を上げると、翔太は目を吊り上げて反論してきた。

「そりゃ、決まってんだろ。今から始めるスポーツで天下取ろうとは思わねーよ。モテてこその人生だろがよ。文句あんのかこの野郎」

「いや、普通に健康のためでいいじゃんか」

 翔太は大仰に眉間を押さえた。

「お前、その歳でオッサンみたいなこと言うなよ。浪漫を追いかけろよ」

「別に歳は関係ないだろ」

「黙れ。とにかく恋愛最強! お前もさっさと恋して悩め、馬鹿野郎!」

 恋をしていないだけで、この言われようである。まあ、翔太の話し方は昔から変わっていないから、不愉快には感じない。むしろ、彼の口調は俺にも伝染している。

「翔太さ、そこまで言うなら、お前は恋愛してんの?」

「今はしてねえよ。これからするためにスポーツ始めようとしてんじゃねえか。何事も積極的じゃなきゃ始まらんよ。お前も理解しろ」

「悪かったな、頭固くて」

「なあ、幸」

 打って変わって、今度は真剣な様子だった。

「お前はさ、マジで誰かを好きになったことないの?」

 この質問は頻繁に投げ掛けられる。恋愛の話になるとほぼ毎回だ。こいつにとって、初恋すら未経験という事実がよほど信じられないらしい。

「母さんとかお前とかが対象に入らんなら、ないよ」

 以前「ある」と答え、誰かと聞かれて母親と翔太だと返答した時は本気で怒り出したからな、こいつ。

「はぁ……相変わらずホモでマザコンなのね、君」

 相変わらず嬉しくない言葉を返された。

 だが正直、恋愛はよく分からない。辞書で語義は理解しているし、小説などで概念も知っている。何より、こいつの実体験も耳に胼胝ができるほど聞かされた。

 しかし、俺自身は経験がない。そもそもこの村での異性との出会いが皆無なため、したくても恋愛できないのが現状だ。かといって、母親や教師に対してそのような感情はありえない。こればかりは机上で学べることでもないので厄介だ。

「お前が羨ましいよ」

 思わず零れた俺の呟きに、翔太は敏感に反応した。

「それは五回のうち四回はフラれる俺に対する嫌味か。嫌味なのか!」

 叫びながら裸絞めを極めてくる。俺は喘ぎながら床を三回タップ。いつもの光景に翔太は呵々大笑した。

「まあ、お前もいつか好きな女できるって! そん時は迷わず俺に相談しろよ! 恋した数なら誰にも負けんぞ、俺は!」

「ああ、迷わず言うよ。助言を採用するかは分からんけどね」

 互いに少し茶化して終わる。昔ながらの遣り取りだ。

 その後は他愛のない話をし、翔太はまたふらりと帰っていった。本人は退屈だと言っていたが、やはり大学生は色々と忙しそうだ。それに比べれば、俺の方が遥かに退屈な人生を送っているのかもしれない。

 時々、翔太が羨ましくなる。

 俺は翔太ほど恋愛を求めてはいない。しかし、興味はある。翔太の恋愛論はひどく主観的で参考にはならないが、それでも恋愛をしている間は退屈ではなさそうだから。

 だからこそ、出会いがないのは口惜しい。かといって、自分からきっかけを作れるのであれば苦労はしない。翔太は頻繁に「運命の出会い」という言葉を口にするが、俺にもそのような出会いがあれば、もっと人生を楽しくできると思う。

 しかし、そう都合よく事が進むはずもなく、今日も勉強やトレーニングといった日課を終える。夕食と風呂の後はすぐ床に就いた。

 今日も概ね、普段と変わらない一日だった。


[イヴァン・カラベロフ]

 移心してしまったが問題ない。一週間前とは違い、今日は携行鞄を継承している。中には未読の参考書があり、今回は有意義な時間を過ごせるだろう。

 とはいえ、今回も異世界は豪雨である。運が良ければ雨宿りできそうな洞穴や崖下の近くに移心する可能性もあるのだが、あいにく今回も周囲は平原。しかし、その点も抜かりはない。鞄の中には折り畳み傘も常備している。

 傘を差し、尻が濡れるのも構わず地面に座る。雨音は耳障りだが、読書を始めれば気にはならない。そうして今まさに読み始めようとした時、十メートル前方に人が現れた。非常に珍しいが移心者であり、しかも私のよく知る人物だった。

「やあ、松齢しょうれい!」

 彼はこちらに気付いた。すぐに口元の機器を外し、満面の笑みを返してくる。

「イヴァンさん! お久し振りです!」

 小走りで向かってくる松齢。私は水浸しの尻を上げ、彼にも傘を差してやった。

 彼は生粋の中国人で、名前は松齢という。一五○センチ程度の身長で、私より二十センチは低い。自然に任せたままの黒髪は耳を完全に覆い隠しており、外見は陰気な印象を受けるが、非常に明るい性格の二十一歳である。

「ほんとにお久し振りです。お元気でしたか? 前に会ったのは二ヶ月前でしたっけ?」

「それくらいだな。私はいつも通りだよ。君に比べれば大人しい部類だけど」

 彼の陽気はどこから出てくるのか。その生い立ちを考えると敬意すら覚える。

「イヴァンさん、今回は何を教えてくれるんですか?」

 出会って間もなく松齢は催促した。二人が異世界で会う度、私は彼に様々な知識を披露する。それは私と松齢が交流を深めてから、ほとんど暗黙の了解となっていた。

 松齢は分野を特定しない。彼はどんな内容でも嬉々として享受する。その点では、我々は非常に似通っている。違いがあるとすれば、私は自らの意思で知識を習得でき、彼は私からしかそれを得られない点だろう。

「じゃあ、今日は中国の故事成語について話そうか」

 彼自身が中国人なので、中国に関連した話にしよう。有名な故事の意味やその由来などを簡潔に教えていく。私は豊富な知識を有するが、それを披露する術には長けていない。しかし、私の拙い話にも松齢は熱心に傾聴し、好奇心に目を輝かせる。彼にとって、異世界での私との交流が唯一自分を潤す行事であるが故だろう。

「胡蝶の夢って話、なんだか凄く印象的でした」

 松齢は呟くように言った。

「夢と現実は、どちらが真実なのか。それってなんだか、僕達の境遇に似てません?」

「そうかもしれないな」

「ですよね? 移心者にとって、現実界と異世界のどっちが現実なのか……あるいはどっちも現実なのか……二つの境界って結構曖昧なんじゃないかって、僕は思うんですよ」

「……」

「少なくとも僕にとって、ここは現実界よりもずっと現実です……って、すみません。なんか変な話をしちゃいましたね」

「いや、問題ない」

「まあ、何が現実かなんて些細な話ですよね。続きをお願いします、イヴァンさん」

 先程までの真剣な表情は、一変して好奇心旺盛な子供のそれへと移り変わった。

 私が話している最中に松齢が口を挟むのは珍しかったし、彼の胸中をもう少し知りたい気もした。しかし、彼自身が話を切り上げて続きを催促するのであれば、それに従うまでだ。

 次の故事として、韓非子の『矛盾』について話そうと口を開きかけ、そこで二人の時間は終了した。

 帰還する。異世界への移心も唐突であれば、現実界への帰還もまた唐突。松齢に離別の挨拶をする暇もなく、私の時間は再び現実界に戻された。

 現実界に戻った後も、しばらく松齢の言葉を反芻していた。胡蝶の夢。自分にとっては現実界ではなく異世界の方が現実だと松齢は言った。それは彼の口から発せられるからこそ重みがある。

 では、私にとっての現実とは何なのか。私は柄にもなく熟考してしまった。


[寺池幸]

「寺池君、居眠り厳禁ですよ!」

 教壇からの叱咤が耳を貫き、虚ろな意識を呼び覚ました。

「目が半開きでしたよ。授業中は集中しなさい」

「すみません。以後気を付けます」

「よろしい。それでは教科書の続きから……」

 俺の反省を聞き、先生は中断していた授業を再開した。ボードには三角比の諸公式が羅列されていて、今はそれらの応用を学んでいる。俺は数学が得意で、その中でも図形は特に好成績なのだが、この三角比あたりから躓き始めている。

「では、寺池君。余弦定理を用いて次の図形の角度xを求めてみて下さい」

 先刻の居眠りの罰か、先生は俺に問題を吹っかけた。余弦定理はただでさえ式が複雑で計算が多く、図形の辺や角度の値を公式に当てはめ、地道に計算していった。その最中、先生は無言で俺の答えを待ち、教室は重い雰囲気に包まれた。

 起立した状態だと俺は先生より十センチほど高いが、着席している現在、俺は先生に見下ろされる形となっている。加えて、整調なスーツに身を固め、黒髪を後ろに纏めて黒い眼鏡を掛けたその容姿には威圧感がある。

 無言の重圧を感じて焦ってしまい、俺は解答を間違えた。その後、正弦定理を利用しなければ解けない問題であったと解説され、俺はすかさず抗議の声を上げたが、正弦定理の説明は俺の居眠り中に為されていた事実が判明し、ぐうの音も出なかった。


[イヴァン・カラベロフ]

 平日の午後三時、二十四歳の社会人である私は、他の同僚と同じく雑務処理に追われていた。若手社員の中でも私は難度の高い仕事を要求されており、他の同期からは嫉妬や羨望の眼差しで見られることもある。現在の業務も専門的な知識が必要であり、若輩の身でありながら一任されていることを誇るべきかもしれない。しかし、この業務は私の関心の対象から外れており、私にとっては雑務でしかない。とはいえ、生活のために労働は不可欠であるため、粛々とこなしている。

 だというのに、課長は私の処理能力を頼りに追加の業務を課した。イヴァン・カラベロフの名字を殊更に強調し、こちらの積極的な受諾を促すのである。デスクに積まれた書類の山に辟易しながらも、一刻も早く処理できるよう集中した。

 同じデスクワークでも、何らかの調査研究の類いであれば、意欲は格段に向上しただろう。知識欲が、私の抱く唯一の欲求だからである。私の関心を刺激するのは常に、私自身が聞き知らぬ情報の習得に他ならない。

 ゆえに、私の唯一の趣味は勉強である。酒やギャンブルのような娯楽には興味なく、スポーツもルールを知る方が実践より有意義と感じる。三大欲求の一つである性欲まで欠落しており、まさに知るために生きていると言っても過言ではないだろう。

 とはいえ、それは学才があることを意味しない。私が好むのは記憶する学問であり、理数系の才能は十人並みだ。それでも名門のソフィア大学を困難なく卒業できたのは、偏に尋常ならざる勉強量の賜物だろう。

 私は周囲の予想に反し、大学院には進まなかった。特定分野の研究は私の至上命題に合致しないからである。だからこそ、大学卒業と同時に就職した。ひとまず生活のために働き、余暇に勉強する。それが理想のライフスタイルである。

 就職先も容易に決まった。元より知識を得るついでに様々な資格を取得していたし、知識習得に役立つと考えて語学にも通じていたからだ。世界有数の多国籍企業のブルガリア支社に入社し、海外部門に配属された。そこで英語や中国語、更には専門知識を用いて日々の業務をこなしている。

 定時になる頃には今日のノルマを完遂した。多忙な同僚の目を気にすることもなく定時とともに退社し、そして帰路で移心した。

 松齢との会合から五日ぶりの移心だった。


[寺池幸]

 また、異世界に連行された。授業後、校舎を出た瞬間だった。しかも今回の異世界は、俺が最初に訪れた異世界と酷似していた。周囲は奇怪な色とオブジェに支配され、騒音が轟いていた。いつからか、学習能力を得た俺は世界を直視しないようにした。吐き気を催す景色からは目を背け、貫くような轟音からは耳を塞ぐ。そうして、元の世界に戻る瞬間をひたすら待ち続けるのだ。

 異世界の滞在時間は十分間から三十分間ほど。タイミングは把握できないが、数十分待てば必ず元の世界に戻れる。しかも、異世界で過ごした時間は現実の世界ではカウントされないので、異世界での時間を無為に過ごしても気に病む必要はない。

 また、異世界は常に不快な場所かと言うと、案外そうでもないと後々分かってきた。確かにそこは現実の世界と比べると奇妙だが、目を覆うほどの光景ではない場合もある。しかし、最初に訪れた異世界があまりに不快だったため、俺の異世界に対するイメージは最悪なままだ。確実に戻れると分かった今だからこそ、異世界も一時の幻覚と割り切れるようになった。

 生まれ持った体質を今さら嘆いても仕方ない。解決策は分からないし、今となっては別に固執してもいない。しかし当初は、なんとかして現状から脱却したいと思ったものだ。軽いノイローゼになった時もある。何も知らない幼少期にあんな強烈な経験をしたのだから、それも致し方ないだろう。

 そして、俺を懊悩から救ってくれたのが他ならぬ母だった。母とは昔から一緒にいる時間が少なかったが、それでも俺が悩み、憔悴している時は黙って抱き締めてくれた。幼い頃の俺は、それだけで気持ちが和らいだものだ。

 しかし、俺はこの体質を母に打ち明けていない。親友の翔太にも、先生にも打ち明けたことはない。この体質が異常だということを、俺は幼いながらに理解していた。だから、母や翔太に奇異の目で見られるのを恐れ、ひた隠しにしてきたのだ。

 懐古しながら村内を歩いていると、ほどなく家まで辿り着いた。その時、視界の端で何かが動いたように感じ目を向けると、そこには見知った奴がいた。

「おい翔太! 何やってんだよ!」

 大声で呼び掛けると、それに気付いた翔太は腰を上げてこちらに近づいてきた。

「よう幸、元気か?」

「おう。さっきまでは憂鬱だったけどな」

「そうかそうか! そんなに俺に会えたのが嬉しかったか!」

 相変わらずのハイテンションに即応できずにいると、反論しろよだの、だからホモと言われるんだよだのと、謂れのない非難を受けた。それを軽くいなしながら、まずは翔太を部屋まで招き入れる。

「なあ翔太、それゲームだよな?」

 翔太がずっと持っている物体が気になった。翔太は問いに首肯し、携帯ゲームの画面を俺に見せたが、俺は首を傾げた。

「おい、知らないのか? これ今めっちゃ流行ってるじゃんか」

 翔太は俺の世間知らずを詰った。その画面にはゲームソフトのタイトルが映し出されていたが、聞き覚えがない。

「なんか腹立つなあ。俺なんかこれ欲しさに朝から並んだんだぞ? しかも人気作だから高いのなんのって! でも、おかげで初回特典もゲットできたんだ。凄いだろ?」

 彼は自慢を織り交ぜながら、ゲームの内容について語り出した。どうやらこれは人気シリーズのリメイクで、ファン垂涎の一作らしい。

 彼の熱弁に中てられたのか、俺も興味が湧いてきた。

「なんかそれ、俺もやりたくなってきたな」

「おお、マジか! いいぞ、どんどんやれ! なんだったら一作目から貸してやる!」

「いいのか?」

「当たり前だろ! 同士は一人でも多い方がいいからな。語り合おうぜ!」

 同好の士を見出し、翔太のテンションはいつになく高かった。俺も期待に胸を膨らませ、彼の厚意に心から感謝した。

 だが、翔太は途端に真剣な表情へと戻った。

「いや、待て。お前やっぱりゲームするな」

 突拍子のない翻意の促し。彼は一歩詰め寄った。

「お前、ただでさえ女と接点ないんだろ? ここでゲームなんかにハマったら、一生彼女できないぞ!」

 それが彼の気付き。やはり今回も本件について反論せねばならないようだ。

「だから、ゲームするしないに関わらず、俺には出会いがないんだよ」

「それは何度も聞いたよ。でも、出会いってのは待ってても来ねえ。自分から探さない限り一生な」

「ここでも探せば出会えるか?」

「アホか! ここで見つかるわけないだろ。もっと他の場所に行け! 男と女は同じ数だけいるんだぞ」

 正論だが、そう簡単に村外へ行けるなら苦労はない。

 その後は、翔太の恋愛論をまたぞろ聞かされる羽目になった。些か下世話に過ぎるが、しかし俺を心配してくれているのは素直に嬉しい。だから万が一、彼の言うような出会いがあったなら、俺は相手の女性を誰よりも積極的に追いかけたいと思っている。でも、アプローチの方法など俺には皆目分からないので、その時は甘んじて翔太の助言を授かるとしよう。

 翔太が帰るまで他愛のない雑談で時間を潰した。その後は坦々と日課をこなし、食事を作った。今日も母は仕事で遅くなるようなので、独りで夕食を平らげ、眠りに着いた。

 今日も特に代わり映えのない一日だった。


 ゲームを買ってきてほしい、と伝えた時の母の反応は予想外のものだった。俺の言葉の意味を理解できていないかのように一時静止し、その後、料理の手を止めて勢いよく迫ってきた。

「何? 何が欲しいの?」

 長年一緒に過ごした母親だが、こんなにも嬉しそうな姿は俺の記憶にない。

「えっと、母さん……どうしたの?」

「え、どうしたって、何が?」

「いや、なんか嬉そうだから……」

「そりゃあそうよ。だってあんた、今まで何かを欲しがったことなんてないじゃない」

「……そうだっけ?」

「そうよ。あんたの無欲さには、ちょっと心配してたんだから」

 言われてみれば、母の言う通りかもしれない。確かに、俺は物欲に乏しい方だろう。家にある娯楽品は全て母が仕事の合間に買って帰ったものだし、誕生日プレゼントも、いつも母の選んだものをサプライズとして受け取るだけだった。思えば、今持っているゲーム機も誕生日プレゼントの一つだった。

「で、何が欲しいの?」

 依然として期待に胸膨らませた表情で母親が再度尋ねてくる。

「ゲームなんだけど」

「……ゲーム?」

 母の質問に首肯する。

「ゲームって、具体的にどんなの?」

 その質問に対し、俺は翔太から聞いた内容をそのまま伝えた。母はゲーム内容については理解したようだが、なぜか怪訝な表情を浮かべていた。

「どうしたの母さん? 流行のゲームだって、翔太が言ってたけど」

「ああ、そうなの? なるほど、翔太君から聞いたのね」

 それで母は納得し、俺の懇願を快諾してくれた。


 授業の合間の休憩時間は十五分。その短い時間でさえ無為に過ごすのは惜しいとばかりに、俺はゲームに熱中していた。母からゲームを授かって一ヶ月、もはや空白時間はこれ以外何もしていないという状態だ。

 人生の中で、これほど熱中した物は今までなかった。勉強や運動は日課として義務的にこなす意味合いが強く、楽しんではいるものの熱中しているとまでは言えない。しかし、このゲームはすでにエンディングを二回も見ているほどの熱中ぶりで、三周目のプレイも全く苦ではない。

「随分と楽しそうね、それ」

 背後から前触れのない声。振り返ると先生が興味深そうにゲーム画面を覗いていた。

 授業の終了直後から開始直前まで没頭していたため、さすがに見咎められてしまったようだ。

 しかし、先生に怒っている様子はない。むしろ微笑を浮かべ、普段の授業時とは打って変わった優しげな雰囲気だった。

「それ、どうしたの?」

「えっ? どうしたのって……」

 最初、先生の質問が理解できなかった。が、数刻ほど考えると、それは至って簡単な質問だと気付いた。

「ああ、これは母から貰ったんですよ」

「へえ、お母さんから」

「はい。でも、すみません。夢中になりすぎてました。今後は注意します」

 注意を受ける前に自ら謝意を示した。しかし、先生は特に意に介していないらしく、穏やかな表情を崩さない。

「それ、貰えて嬉しかった?」

 予想外の質問に多少面食らったが、答えは明確で隠す必要もない。

「ええ、もちろん」

 その言葉に、先生は口元を綻ばせた。


[イヴァン・カラベロフ]

 仕事中でも堂々と本を読める移動時間は非常にありがたい。今、私は空港へ向かうタクシーの中で学術書に目を通していた。

 海外部門の人間は移動が多い。忌避されがちな特徴だが、私にとっては魅力でしかない。加えて、海外に行けば新たな知識の発掘が期待できる。実際、母国語であるブルガリア語に加え、英語とスペイン語と中国語に通じているため、海外出張の機会は同僚の中でも遥かに多い。その分、海外で勉強する機会にも巡り会えている。

 今回の出先は中国。そしてこの国の場合のみ、私には予定が一つ追加される。それは他の移心者に会うという、私にとって数少ないプライベートでの交流予定である。

 今まで異世界で出会った移心者は三人。その中の二人は中国人で、現実界でも何度か対面済みである。一人は松齢しょうれいであり、二人目はりゅう愛玲あいりんという女性だ。今回も週末と有給休暇を合わせ、二人の郷里に訪問する時間を設けている。普段ならそれで私用は済むのだが、今回はもう一人にも会う予定である。その移心者とは最近出会ったばかりで、現実界では初対面を済ませていない。中国の隣国出身の方なので、この機会に挨拶しておこうと考えた。無論、相手の連絡先は異世界で確認済みだ。

 タクシーは空港に到着した。そして、トランクから荷物を取り出した直後、揺れを感じた。私の他にも何人かは動きを止めて周囲を窺っており、揺れが大きくなるにつれて気付く人間は増えていく。地面が震動していると明確に感じ取れるまでになると、人々は慌てふためき、中には悲鳴を上げる者もいた。私も念のため安全な場所まで避難したが、幸いにも今回の地震は震度五弱ほどで済み、目立った被害も見当たらない。揺れが収まると、周囲の人々は慣れた調子で各自の行動を再開し、私も再び足を動かした。

 皆、地震に平気なわけではない。しかし、ここ十数年間に渡り地震の発生件数が増加し、それは特に珍しくもなくなった。地震に限らず、台風や竜巻といった自然災害も同様である。原因は不明だが、それらの災害によって数多の人命が失われたのは事実だ。今回の規模はそれほど大きくなかったが、世界全体では震度六強を超える地震が頻発している。天災はもはや、忘れた頃にやってくる事象ではなくなっていた。

 その原因は私でも究明できない。ここは異世界ではないので当然だ。調べても分からない知識に興味はないので、気にせず空港を闊歩し、腰を落ち着けられる場所を探した。まだ断定できないが、今の地震でフライトが遅れるかもしれない。アナウンスが入るまで読書の続きをしよう。

 予測通り、離陸時刻が一時間ほど遅れる旨のアナウンスが間もなく流れた。僥倖で生まれた寸暇でさえも無駄には出来ないとばかりに、手近な喫茶店に入る。

 その瞬間、移心した。

「……」

 そういえば、これも忘れない内にやってくる事象だったな。

 胸中、皮肉げに呟く。私にとっては天災よりも移心の方が高頻度であり、景色の急変にもすでに慣れた。動じずに折畳み傘を差し、ずぶ濡れの地面に躊躇なく腰を落とし、鞄から本を取り出す。三ヶ月前は松齢がいたが、今回は誰もいない。異世界で他人に出会うこと自体が稀有なので、当然と言えば当然だろう。

 移心者同士が出会う条件は少し複雑で、いくつかの偶然を必要とする。

 例えば、ある移心者が午後五時に移心したとする。異世界で過ごした時間は現実界ではカウントされないので、異世界から帰還すれば、本人は再び現実界の午後五時に意識が戻る。しかし、例えば移心後に異世界で三十分の時間を過ごした場合、現実界で同日の午後五時から五時半の間に移心してきた移心者と出会える可能性が生まれる。もし別の移心者が五時二十分に移心した場合、両者は十分間、同じ時間軸上の異世界に存在できる。

 しかし、それは非常に低確率な出来事である。多くても週に三回ほどしか移心する機会はなく、移心期間もせいぜい数十分。ゆえに、移心期間が重なることは滅多にない。

 また、たとえ期間が重なったとしても、移心した場所も近場にならない限り、移心者同士が出会うことはない。異世界は十万ヘクタール以上の面積があり、ブルガリアの首都にも匹敵する広さである。必然、場所が重なる確率も同様に低く、他の移心者と生涯一度も出会わない者の方が多いだろう。その点で言えば、人生で三度の出会いを果たしている私は幸運なのだろう。だからこそ貴重な出会いを無駄にしないよう、異世界で出会った移心者とは必ず現実界でも面会するよう心がけている。

 現実界で出会った人間とは、異世界でも出会う確率が高くなる。これは私が知り得た異世界の法則だ。だからこそ、私は松齢や愛玲と異世界で何度も出会えているのである。

 異世界において、移心者は暫定的な存在だ。移心すれば本人の意思が異世界に移り、肉体が後から付随する。そして帰還した瞬間、その者が異世界に存在した痕跡は消滅する。後に残るのは、原因なく異世界が変化したという矛盾だけである。

 仮に、異世界に移心者の情報を残留させられたなら、どうなるか。結論から言うと、次回以降の移心によって訪れる異世界は、その情報が残留した場所の近くになる。これは絶対ではないが、非常に高確率で起こり得る。一方、情報がなければ移心場所はランダムに決定される。つまり、異世界の定位置に移心者の情報が留まり続ければ、その人はほぼ毎回その場所に移心できる。

 しかし移心者の帰還と共に、本人の情報も異世界から消滅する。ゆえに、この法則は無意味に思われるが、これが成立する条件が一つだけ存在する。それが「現実界で他の移心者との繋がりを持つこと」なのだ。

 例えば、現実界で私が他の移心者と出会った瞬間、互いの記憶に相手の容姿が蓄積される。会話をすれば声、触れ合えば感触が記憶として残る。私に関する情報は相手が忘れるまで相手の脳内に残留し続ける。いや、おそらく忘れたとしても、記憶から完全に消えることはないだろう。

 つまり、その相手が異世界にいる間のみ、私の情報は相手の記憶として異世界に残留していることとなる。となれば、二人の移心のタイミングさえ噛み合えば、異世界で二人が出会う確率は飛躍的に上昇する。場所の一致という条件が最初からクリアされるのだ。

 しかし、これは現実界で出会って初めてクリアされる条件だ。異世界で出会って相手の情報を記憶に留めたとしても、その「記憶を留めた自分」という存在は帰還した瞬間に異世界から消滅する。それと同時に相手の情報も消滅するので、結果として情報は残らない。異世界で会っただけでは何も変わらないのだ。

 このことを愛玲に話した際、愛玲からは次のような疑問を投げ掛けられた。

『異世界で体験した出来事は、帰還しても記憶に残っている。なら、異世界で出会っただけだとしても、相手の情報は帰還後も記憶に残り続ける。それは相手の情報が自分の中に残っていることと同義ではないのか?』

 この疑問は筋が通っている。異世界での記憶が現実界にも引き継がれるからこそ、我々は自らが移心していると実感できるのだから。

 しかし、異世界で得た情報は帰還と同時に本人から消え去り、次回以降の移心には継承されない。他ならぬ私がそう認識している以上、間違いはない。

 ここから先は現実界の話なので推測に過ぎないが、おそらく異世界で知り得た情報は、現実界では「幻想」として記憶されるのではないかと考えている。体験した視野は幻覚、音声は幻聴といった塩梅だ。幻であれ記憶には残る。しかしそれは虚像であり、実際の情報ではない。それが、彼女の疑問に対する私なりの答えである。

 これらの理由により、私は異世界で他者と出会った際、必ず相手の連絡先を聞き、暇を見つけて現実界でも会うように心がけている。折角の稀有な移心者同士なのだし、異国籍の交流を深めることもまた、自信の探求心を満たす一助となる。

 気が付くと、移心してからすでに五分が経っていた。その間、思慕に耽って読書が進んでいなかった。再び周囲を見渡すが、やはり人影はない。現実界に換算されない異世界であっても、時間の浪費は信条に反する。そう思い立ち、私は読書を開始した。


[寺池幸]

 屋外でのランニングは、日課としている鍛錬の一環だ。平日は夕方から走るが、今日は休日なので昼から開始。雨にも負けず風にも負けずに走り続けていると、知り合いと偶然出くわしたため、鍛錬を中断して彼を家まで招待した。

「ただいま」

 帰宅すると、母が出迎えた。俺がランニングに出る時はいなかったのだが、どうやら仕事から帰ったらしい。

「おかえり、幸。今から昼食を……」

 玄関先までやってきた母は、俺を見るなり言動を止めた。いや、その視線は俺ではなく俺の後ろにいる彼に向けられていた。

「えっと……幸、その人は……?」

 母は戸惑っているようだった。もっとも、いきなり見知らぬ男性が来ては、驚くのも無理はない。しかも彼はかなりの巨漢であり、人一倍の威圧感がある。

「この方はバトガンさんといって、最近知り合ったんだ。あんまり珍しいから、前は外で色々と話し込んじゃって……」

 俺が話している間も、母は怪訝な表情を浮かべている。勝手に連れてきたのはまずかったかと危惧したが、しかし母はすぐに柔和な表情となった。

「そうでしたか。息子の幸がお世話になっております。私は寺池千冴と申します」

 母の自己紹介にバトガンさんも相槌を打った。彼は非常に寡黙で、翔太とは正反対の性格だ。三十五歳とのことなので、年相応の落ち着きがあるとも言えるだろう。

「こんな村でお会いするのも何かの縁ですし、良ければ昼食でもご一緒に如何ですか?」

「ありがとうございます。しかし、遠慮しておきます」

 母の勧めに彼は謹んで遠慮した。そのまま辞去する勢いだったが、俺も引き留めたためか、最終的に躊躇しながらも応じてくれた。

「それでは、お邪魔します」

 バトガンさんは遠慮がちに家に上がる。

 初めて彼と出会った時は、その巨躯に少し戸惑ったものだ。聞くと、彼は身長が一九三センチもあるらしい。体格も良く、筋骨隆々とした出で立ちには威圧感すら抱かせられる。しかし、実際に話してみると物静かで謙虚な人だと分かった。だから、この機会にもっと彼と交流を持ちたいと考え、ここに連れてきたのだ。

 バトガンさんを居間に案内する。台所には食材や調理器具が並べられており、料理が今まさに開始される状態だった。

「では、私は料理を続けます。あ、その前にお茶をお持ちしますね」

 母は台所に向かう。俺とバトガンさんは円卓を向かい合って座り、お茶が来るまで世間話をした。

 母は間もなくお茶を持って来た。冷たそうな麦茶の入ったコップが二つ、円卓に静かに置かれる。

 違和感を覚えたのは、その時だった。それが違和感のままだったのはほんの数秒。その後はこの場にいる全員が地面の揺れを認識していた。

「幸!」

 母が声を荒げると、慌てて俺にヘルメットを渡した。地震は頻繁に起こるので、俺も手馴れた調子でそれを装着し、火を消し、頭上や側面からの落下物に注意する。

 震動は次第に大きくなり、足元が覚束ない。卓上のコップは倒れ、台所からは様々な食器や調理器具が落下し、耳障りな騒音を発していた。

「幸! 大丈夫?」

「うん、大丈夫! バトガンさんは?」

 まだ揺れが続く中、バトガンさんにも声を掛けると、大丈夫という返答が届いた。

 震動はしばらく続き、徐々に弱まっていった。地震が完全に収まってから数秒ほど静寂が流れ、以降揺れはないと確信できる状況になってから動き始めた。

「幸、大丈夫だった? 怪我はない?」

 母の再確認の声。この程度の揺れで大げさだとは思ったが、俺は素直に大丈夫だと返事をしておいた。その後、部屋に明かりを灯し、周囲の様子を確認する。

 酷い有様だった。

「バトガンさんもお怪我はありませんか?」

 母はバトガンさんにも声を掛けた。彼は身を起こし、俺達の視界に現れる。彼の体に怪我はなく、堂々たる風貌は健在だった。

「大丈夫です」

 彼は短く丁寧に返事を返す。母は安堵した様子で言葉を続けた。

「本当にごめんなさい。折角お越し頂いたのに」

「いえ、仕方ないです。自然災害ですから……」

 それは、どこか悲壮感が漂う言葉だった。そして、彼は何を言うでもなく、家中の散乱物を拾い、片付け始めた。

「あ、いいんですよ、そんな……」

 母の遠慮には応えず、彼は黙々と片付けを続ける。

「バトガンさん……」

 彼の様子がどこか追い詰められた人間のように見えて、俺は無意識の内に呟いた。

「嫌なものだね、地震というのは……」

 誰にともなく発せられた彼の呟きは、並々ならぬ悲愴に満ちていた。

 その後は三人とも黙ったまま家中を片付け、一区切りついたところでバトガンさんは立ち去り、母も出かけていった。俺は一人残って片付けを続け、数分後、室内はすっかり元通りになっていた。


[イヴァン・カラベロフ]

 二週間の中国出張が終わってから既に五ヶ月が経過し、新年まで残り六日。年末年始を前に、普段以上の業務に忙殺されている。ここ最近は不本意な残業を続け、帰宅しても眠るだけの日々を送っている。

 本を読めない。ネットサーフィンをする暇もない。仕事内容もデータ処理ばかりでつまらない。知識の吸収が皆無のため、私は気怠いストレスを覚え始めていた。

 だからこそ、このタイミングで移心できたのは不幸中の幸いと言えた。日付が変わる頃、帰宅しようと部署の扉を抜けた瞬間に風景が一変した。移心した瞬間、これが好機とばかりに折り畳み傘と学術書を取り出した。

 それから一心不乱に活字を追い、ページを繰り、知識を取り入れる。抑圧された知識欲が一気に開放されていくのを実感した

 三十分が経過する頃には、最初の学術書を読み終えた。途中まで読み進めていたとはいえ、通常のペースだと五十分以上は要しただろう。しかし、普段よりも知識に貪欲な今の私は、速読にも磨きがかかっていた。

 とりあえず一冊読み終えて一段落し、本を鞄に仕舞う。だが、帰還まではまだ余裕があるようなので、鞄から別の本を取り出し、再び読書を始める。

 しかしその前に何気なく、本当に他意なく周囲を見渡した。辺りは相変わらず異世界の風景で、所々に奇妙なオブジェがあり、空は深緑。

 そして、少し離れた場所に、初めて見る人間。

 彼はスラブ系の人間だった。顔立ちに特徴があり、一目で分かる。そして、彼が私と同じブルガリア人であることも看破した。

 いや、それだけではない。彼を一目見た瞬間、私は真実を知ってしまった。

 彼が何者であるか。なぜ、現実界で自然災害が多発するようになったのか。そして、私が異常な知識欲を持つようになった、その根本原因まで……。

 生涯を通じて探し求めたその答えは、思いも寄らぬ形で前触れなく現れた。

 発すべき言葉は見つからない。人生の探し物に邂逅した私は、驚愕と戦慄に身を震わせるだけだった。異世界の只中、二人はただ無言で見つめ合う。

 気持ちの整理は追い付いていない。しかし、私は紛れもなく一つの義務を抱いていて、それを果たさなければならないことも同時に理解している。

 彼に真実を話す。情報を隠さない。それが今の私の最優先事項。そこに疑いはなく、私は迷わず口を開く。

 しかし紙一重の差で、私は帰還してしまった。

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