異世界を怖れる者、異世界を知る者
國米 真
プロローグ
二○二四年、人間が一人消え去った。
場所はブルガリア。トラキア地方の総合病院にて、妊婦は苦悶の悲鳴を上げていた。妊娠期間を順調に過ごし、今まさに新たな生命を産み落とさんとする最中、彼女の苦しみ方は尋常ではなかった。
分娩室まで運ばれていく最中も悶絶し、担架の上でのた打ち回る。妊娠中は我が子の誕生を待ち侘びていた彼女も、ナイフで抉られたような激痛の前に余裕はない。
扉は目前。そこを抜ければ分娩室で、一秒後には抜ける。胎児も一秒後には産まれ落ちかねないほど、出口まで迫っている。もう医師の力を借りずとも出産できるほどだ。力を振り絞って息み、その瞬間に最大の激痛を伴った。
扉を抜ける。
医師と看護師は急いで妊婦を分娩台に乗せる。だが、その時の彼女の様子は先刻までと一線を画していた。
「ありがとう……」
掠れた声だが、穏やかな表情で彼女は言った。全く脈絡のない謝礼に医師達が訝った時、彼女の両目は光を失い、呼吸が止まる。
そうして、彼女は息絶えた。誰に向けたとも分からぬ謝辞を残して。
医師は蘇生を繰り返す。しかし彼女の心臓は再び動くことなく、遂には医師も諦めた。
出産間近の無念の死。しかし、悲嘆に暮れる暇はない。彼女の死に報いるなら、今為すべきは断じて追悼などではない。
医師は分娩を再開する。出産直前に母体が息絶えるという事態は、稀有ではあるが皆無ではない。帝王切開にて、一刻も早く胎児を取り出し保護しなければならない。
しかし、その後の事態を前にし、医師は次の行動を完全に見失った。
分娩とは、胎児を胎内から取り出すこと。しかし彼女の胎内には、取り出せる胎児が存在しなかった。
その時の医師の心情は、もはや驚愕を越えて空虚。彼女の胎内に胎児が宿っていたことは昨日の検査からも間違いない。しかし、胎児は跡形もなく消えていた。死んだのではなく、消えたのだ。明々白々、そのような事態は稀有ではなく皆無だった。
そして、残されたのは母親の遺体のみ。否、彼女を母親たらしめる胎児が消えたのなら、もはや母親と呼ぶことすら適さない。
事件は原因不明のまま、その怪奇のみが巷間を駆け巡った。
それももはや、忘れ去られようとしている過去の出来事。
世界から消えたのは一つの命であり、世界に残ったのは一つの矛盾であった。
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