第4話
「こんにちは」
部室の景観に藤川先輩の顔が付け足された。
「こんにちは藤川先輩」
「いい匂いがするね。紅茶?」
「はい。アールグレイです」
「試飲か。私ももうちょっと早く来れてたらなぁ」
藤川先輩がスカートをなでて隣の椅子に腰を下ろす。何度か目の当たりにした仕草だけど、二人きりのこの状況では余計にどきどきする。
「今日は誰か来ますかね」
「蕪木君は誰かに来てほしい?」
「いえ、こんな所に人なんて誰も来ない方がいいですよ」
この場は退部代行の部室。この教室の床を踏むと言うことは、退部を望んでいながら話を切り出せない状況にあるってことだ。理由の重い軽いに関係なく、そこには何かしらの問題が絡む。
俺にも似た経験がある。人の不幸は蜜の味って言われるけど、俺はそれを望む人間にはなりたくない。
「こんな所ってひどいなぁ。これでも頑張って顧問の先生と部室を探したのに」
白い頬がぷくっと丸みを帯びる。
「先輩の努力をおとしめるつもりはなかったんです。誤解させたなら謝ります」
「まあ気持ちは分かるけどね。トラブルなんて起こらない方がいいし、こんな部活なんて無い方がいいに決まってるよ」
「部活を設立した先輩でもそう思うんですね」
「そりゃあね。でもトラブルは毎日どこかで起こってる。それを自力で解決できなくて困る人が出る。悲しいことだけどね」
ある意味代行の仕事は警察に似ている。
全ての人間が法律を順守するなら、理不尽な暴力で不幸になる人はいなくなる。誰にでも分かる単純明快な理屈だ。
だけど悲しいかな、毎日必ずどこかで犯罪が起こる。もし、なんて考えるだけ無駄だ。犯罪が行われる以上は警察が要る。
同じように、毎日どこかの学校で退部する生徒が出る。退部を代行する俺たちを必要とする人がいてもおかしくない。
廊下につながるドアが三回打ち鳴らされた。
「どうぞ」
ドアがガラッと音を鳴り響かせた。廊下に立つ女子生徒の顔が露わになる。
女子生徒がおどおどした様子で口を開いた。
「失礼します。退部代行部はここで合ってますか?」
「ええ、ここが退部代行部の部室で会ってますよ」
藤川先輩の肯定を受けて、女子生徒の表情が微かにやわらぐ。
今週は俺の番だ。女子にお客さん用の椅子を勧めて座る椅子を変える。
来訪者と机越しに向かい合って顔に微笑みを貼り付けた。
「いらっしゃい。退部代行の依頼ってことでいいのかな?」
「はい」
「それなら力になれると思う。俺は一年の蕪木颯太。君は?」
「一年の竹田です」
「竹田さんね。それじゃ詳細を聞かせてもらえるかな?」
了承した女子がおずおずと事情を口にした。
竹田さんは所属しているのは将棋部。有名人の影響を受けた友人が単独での入部を渋って、竹田さんに入部の話を持ちかけた。
竹田さんは断ったものの、その友人はしつこく食い下がった。やがて断れずに首を縦に振ってしまい、将棋部の部室に入部届けを持って行った。
彼女を巻き込んだ友人は三日で退部した。
早期退部をかました友人に関するあれこれを耳にして、退部するつもりだった竹田さんは尻込みした。部を辞められずに今日までズルズル続けてきたのが事の成り行きのようだ。
「その友人とはどうしてるの?」
「部活動で時間も合いませんし、最近はあまり話してないです。最初は早く辞めなよって急かされてたんですけど、私がまごついている内に別のグループに混じるようになって。それで……」
竹田さんがうつむく。
語尾は濁ったけど、その先に続く言葉は推して知るべしだ。
俺は意図して口角を上げた。
「事情は分かった。他人にこんなことしゃべりにくかっただろう。話してくれてありがとう」
「いえ。ためになったならよかったです」
竹田さんの視線が膝元に落ちる。
俺は藤川先輩に横目を振った。アイコンタクトを送ったのちに身を乗り出す。
「退部を代行するにあたって、竹田さんにはこの二枚の書類を記入してほしい」
俺はテーブルの隅に置かれた二枚の紙に腕を伸ばした。
退部届と要望書。
部活動を辞めるだけなら前者だけで事足りるけど、人によっては部室に私物を置いていたり、何かしらやり残したことがあったりする。
要望書にその旨を書けば、依頼者が部室に足を運ばなくて済む。場合によっては俺たちが部室に出向けば解決する。
竹田さんが自身の通学カバンに腕を伸ばす。
俺は手のひらをかざして待ったをかけた。
「書類の提出は来週の水曜日でいい。俺たちもやっておくことがあるんだ」
「そうなんですね。でも書くだけなら今やってもいいですよね?」
「それも水曜日の方がいいな。万が一記入した退部届を見られたらトラブルになる。俺たちが介入の準備を終えるまで待ったほしい」
「はぁ」
竹田さんが首を傾げる。ちょっと無理があると思ったけど何とか誤魔化せそうだ。
「一つ質問なんですけど、退部届の退部理由って何て書けばいいんでしょうか? 正直に書くのはちょっと気が引けるというか」
「分かるよ。友人と
「中の上くらいです。クラスは三組ですけど、それ関係あります?」
「大ありだよ。成績が悪いならそれを理由に書けるからね。中の上ってなると成績が悪いとは言えないし、受験を見据えて勉強に腰を入れたいってことにした方が角も立たないだろうな」
「分かりました。じゃあ水曜日に改めてここに来ますね」
「そうしてくれ」
竹田さんがカバンを持って腰を浮かせた。
俺と藤川先輩も自分の足で椅子から腰を上げた。別れのあいさつを交わして、竹田さんの背中が廊下に消えるまで見届けた。
「蕪木君、どうして嘘を付いたの?」
「嘘って?」
「やっておくことってやつだよ。私たちがやることなんて、依頼者の書類を持って顧問や部長とお話をすることくらいなのに」
藤川先輩の言う通りだ。
俺たちが事前にやっておくべきことは、せいぜい相手を説き伏せる構想くらいのもの。特別何かをする必要はない。
「退部の手伝いをする前に確認しておきたいことがあるんです。そのための猶予が欲しかったんですよ」
「私の助力は必要?」
「いや、俺一人で十分です」
「そっか。じゃあ先輩として見守ってるね」
曇りのない微笑みを向けられて、俺は不敵な笑みを返した。
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