第2話 


「蕪木さん、ありがとうございました」


 小山さんが頭を下げた。


 上げられた顔についさっきまでのこわばりはない。憑き物が取れたような微笑を前にして、俺も口元が緩むのを感じた。


「これで小山さんは自由だ。大上先生はクッソ真面目だから嫌がらせはしないだろうけど、もし何かあったら教えて」

「はい。その時はよろしくお願いします」


 これで俺の仕事は終わり。小山さんが背を向けて靴裏を浮かせる。


 俺は遠ざかる背中を目尻に流して踏み出した。部室への道のりをたどって手首をひるがえし、裏拳でドアを三回小突く。

 

「どうぞー!」


 弾けるような声を耳にして腕を引く。


 人懐っこい笑みが室内を華やがせた。元気いっぱいな様相に明るい髪色がよく似合っている。窓から差し込む光を擬人化したら、こんな元気いっぱいの少女ができ上がるに違いない。


「おかえり颯太そうた! 小山さんの件はどうだった?」

「ばっちりだ」

「成功したんだね! よかったー!」


 いつ見ても蒼穹に浮かぶ太陽のような清々しい笑顔だ。視界に収めるだけで心が洗われる。


 退部代行の仕事は決して楽じゃない。顧問や部長が声を荒げたり嫌味を口にするケースは多い。今回も驚きを顔に出さないように努めただけで、怒鳴られた時は背筋がビクッとなりそうだった。


 青風の笑顔は清涼剤だ。元気をもらって意図せず口元が緩む。


「それじゃ食堂行くか。席空いてるかなぁ」

「それなら大丈夫。藤川さんが取ってくれてるから」

「それはありがたいな」


 休み時間は残り三十分強。急ぐ時間じゃないけどのんびりする余裕はない。


 二人で足早に部室を後にした。廊下を踏み鳴らして一階に続く段差に靴裏をつける。

 

 足を運んだ食堂は賑わっていた。お昼休みになってから二十分ほど経っているけど、広々とした空間の人口密度は中々のもの。視界に収めているだけで暑苦しい。


「藤川先輩はどこだ?」

「んーっとね……あ、いた!」


 ほっそりとした人差し指が伸ばされた。


 視線で追った先に先輩の姿があった。顔にあどけなさを残しつつも、花開きつつあるような大人の色気が俺の意識を縫い留める。


 上げられた細い腕が左右に振られた。俺は青風と肩を並べて部員仲間のもとに足を運ぶ。


「遅いよ」


 先輩の頬が小さく膨らんだ。


「すみません。ちょっと長引いちゃって」

「蕪木君もまだまだだね」

「そりゃあ入部してまだ一か月も経ってませんからねぇ」

「時間が経てば私みたいにできるようになるって?」

「たぶん半年も要らないと思う」

「あー生意気だ」


 端正な顔立ちがむっとした。


 俺は苦々しく口角を上げて、生徒手帳を天板の上に置く。知的な縄張り主張をすませてカウンターへと足を運ぶ。


 カウンター越しにお盆を受け取った。白米とカレールー、アクセントとして福神漬けの赤に彩られた皿から香辛料の香りが立ちのぼる。


 早く頬張って舌をその甘辛さで包みたい。元来た道を早足でたどり、お盆の底でテーブルの天板を鳴らす。

 

 三人の昼食が揃ったのを機に両手を合わせた。いただきますを言い放ってスプーンの柄を握る。そのつぼで茶と白の境目をすくう。


「蕪木君、カレー好きだよね」

「カレーが嫌いな人類など存在しませんよ」

「わたしも好きーっ! 一口ちょうだい!」

「やめなさいっ! 人の皿に、はしたないわっ!」


 皿を持ち上げてスプーンの一突きを回避した。


「蕪木君、何でちょっと口調変えたの?」


 それは聞かないでほしかった。


 いやだって、女の子が口付けたスプーンですくわれたら、何かどきどきするじゃない。女性経験のない俺には刺激が強いし。


「とにかく駄目よっ!」

「えーだめ?」

「駄目」

「どうしても?」

「駄目なのっ」

「交換してくれたら半熟部分あげるよ?」


 提案されて、青風の皿に視線を引かれる。


 ハンバーグの上に敷かれた目玉焼き。さながらエアーズロックの上でサンサンと輝く太陽だ。中心からあふれ出る液状の黄身が何とも食欲をそそる。


 意図せずごくっと喉が鳴った。


「じゃ、じゃあ隅っこよ? ちょっとだけよ?」

「やったぁ!」

「意思弱っ」

「そこ! カレー恵んでやらないぞ!」

「いいよ別に」


 俺はスプーンのつぼでカレールーをすくう。


 半熟の黄味が俺の皿にやってきた。舌を優しく包むような旨味を交えて白米とカレールーを口に含む。


 美味い! 


 これぞ食の極み。辛味は黄身を交えてこそ完成するのだ。


「ねえ」


 背後からの呼びかけ。聞き覚えのある声色を耳にして振り返る。


 声色に違わない小難しそうな表情があった。整った顔立ちと均整の取れたスタイルが目を引くものの、腰元に両手を当てて見下ろすさまはさながらパワハラ上司だ。


「何? 委員長」

「その呼び方やめて」

「委員長は委員長じゃん」

「それは役職でしょう? 私には浅霧涼乃って名前があるの」


 不愉快気に形の良い眉がひそめられる。顔立ちが整っている分威圧感は満載だ。


 俺はスプーンを皿の上に置いて浅霧に向き直る。


「分かったよ。それで、浅霧さんが昼食を楽しんでる俺に何の用だ?」

「何よその言い方。迷惑そうね」

「カレーを味わってたところだからな」

「ふーん。てっきり女子とお楽しみしてたのかと思っていたわ」

 

 冷ややかな視線がずれる。


 藤川先輩が小さく会釈する。青風は親友にでも接するように満面の笑みで右手を振った。親愛の情を前に、浅霧のきりっとした表情がきまり悪そうに緩む。


 それも一瞬のこと。整った顔立ちが俺の視線にハッとして、わざとらしく咳払いをした。


「あなた、今退部代行部にいるんですってね」

「正確にはクラブだな。まだ人数集まってないし」

「どっちでもいい」


 強っめに言い切られてしまった。


「大体何よ退部代行部って」

「部活動をやめられない生徒に代わって、退部の手続きをすませる部活だ」

「意味分かんない。部活は仲間と顧問で成り立っているのよ? 一人で何から何まで全部やるわけじゃない。お世話になったのなら本人が直接切り出すべきでしょう?」

「そりゃそうだけど、人によっては直接言い出せない人だっているだろ? 感情的になっちゃう人もいる。そういう人には代わりに手続きする人が必要だ」

「それは単なる弱さよ。私は礼儀の話をしているの。そもそも自分の欠点が分かったなら、それを克服するために努力すべきでしょう。じゃなきゃ学校に来る意味がない」


 どこまでも真っ直ぐなことを、堂々と胸を張って口にする。それが俺の知る浅霧涼乃という同級生だ。


 その在り方はきっと正しい。気の強さから衝突することもままあるものの、男女問わずその姿にあこがれる人もいる。


 だから余計に助長する。大概のことはできてしまう浅霧にとって、できない人の気持ちは分からないのだ。


「理想論を語るのは結構だけど、全員にそれができるなら世の中こうはなってないと思うんだよ。できる人がやって、その人にできないことを他の人がやる。それでいいじゃないか」

「じゃあできるくせに逃げた蕪木は何なの?」

「バスケ部のことを言ってるのか?」

「ええ」


 俺は元々バスケットボール部に所属していた。馬が合わずに独りくすぶっていたところを藤川先輩に助けられた。


 それをできているふうに見えていたのなら、今の浅霧には何を言っても無駄だ。


「蕪木君。カレー冷めちゃうよ?」

「おっといけない! 命の次に大事なカレーが冷めてしまうっ! というわけで浅霧、また明日な!」


 話は終わりとばかりに体を反転させた。スプーンの柄を握って香ばしき香りの皿に向き直る。


「ちょ、ちょっと! まだ話は」

「美味い! カレーは美味いなぁ! 何杯でも食える! 食の極みだ!」


 それっぽい言葉を並べまくって、浅霧に言葉を挟める余裕を与えない。


 十秒とせずボキャブラリーが尽きた。俺は美味い! を繰り返して人型ボットと化す。


「もういい! そうやって逃げ続けてればいいじゃない!」


 靴音が遠ざかる。


 食堂を去る背中を横目で見届けて、俺はほっと息を突いた。


「よかったの?」

「はい。今浅霧と話してもお互い冷静じゃいられないでしょうから」

「そっか。カレー美味しい?」

「美味しい。けどちょっと冷めた」

「朝霧さんのことを後回しにしてるからだよ」

「人聞きが悪いなぁ。俺はただ機を待ってるだけですって」

「それを後回しって言うんじゃない?」

「言わない。ほら、ゲームにレベルの概念あるでしょう? あれと同じです」

「浅霧さんと仲直りするには、蕪木君のレベルが足りてないってこと?」

「そういうこと。そもそも喧嘩もしてませんけどね。浅霧が勝手に拗ねてるだけ」

「ふーん」


 藤川先輩が優しく微笑む。

 

 居心地の悪さを感じて、俺はグラス内の冷水を仰いだ。

 

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