File 1 : 霜山リカ 4

「結婚することにした」


 ある日突然、あいつがそう言った。


 あいつに抱かれた後の気だるさの中で、わたしはぼんやりとその言葉を聞いた。

 

「えっ?…わたし?」


「お前はバカか?」


 何を言われているのか分からなくて顔を見ると、あいつはへらっと笑っていた。


「なんで俺がお前と結婚しなきゃなんねえんだよ。相手はお前の知らない女。お前と違って上品な可愛らしい女だ。

 まあ、結婚したってお前も時々は抱いてやる。いいな?」


 わたしはあいつの顔をじっと見たけれど、自分の中になんの感情も湧いてこなかった。


 だって、分かってるんだもの。

 あいつは わたしと別れようとしない。

 わたしの体を手放そうとはしない。

 愛していないくせに。


 そして、あいつはわたしが自分から離れていかないのも知っている。


 そう。

 わたしは自分から別れ話は言えない。

 言わない。

 あいつに「待て!」と言われると、わたしはいつまでも待ち続けるの。その後のご褒美が欲しいから。だけど、別れたら二度とご褒美はもらえなくなる。だから…。


 だから、あいつが誰と結婚したって何も変わらない。ずっと体でつながり続ける。

 多分、体だけ…。


 わたしの心は…

 わたしの心はどうなるんだろう?


「なんだよ。こっちへ来いよ。こんな事ぐらいでそんな顔すんな。これからも抱いてやるって言ってるだろ」


 あいつはわたしの体にむしゃぶりついた。


「この…スケベ女」


 あいつがそう耳元で囁いた。


 気がついたら、涙が流れていた。






     ♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢






 あぁ、もう嫌だ。

 この先は見たくない。見たくないの!

 誰か…誰でもいい、わたしを助けて。

 助けてよ。

 お願い…。


 誰?誰かわたしのそばにいるの?

 ねぇ、いるんでしょう?

 誰かいるんでしょ?

 いるなら、わたしを助けてよ。

 もうこれ以上…'わたし' を見させないで。

 お願いだから…。…助けて。


 …たすけて

 …お願い






     ♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢






 その日、あいつはわたしの体をなかなか離さなかった。まるで、わたしの体が俺の物だって言っているように激しかった。


 終わった後、あいつはわたしを見下ろしてニヤニヤと笑っていたわ。



 帰り際、人でごった返す交差点であいつはわたしの耳元で囁いた。


「また抱いてやる。呼んだらすぐ来い」


 あいつは振り返らずに人混みに紛れて行った。わたしはあいつの後ろ姿を目で追いかけたけど、涙でぼやけて見えなくなった。

 

 あいつに抱かれた後の体の火照りが冷たい風で消えていき、わたしは思わず首をすくめた。


 そして、何も考えずに歩いていたら、わたしの住んでる安いボロマンションに着いていた。


 1時間半歩いて体は冷え切っていた。


 いつもならあいつの残り香が消えるのが淋しくてシャワーは浴びないのに、バスタブに熱めの湯を張り、長い時間浸かった。


 そして、ふと顔を上げると鏡に映る自分の顔があった。長く湯に浸かっているのに、血の気のない顔だった。


 バカな女の顔。

 ほんと、バカ。


 その青白い自分の顔を見て、わたしは笑いだした。そして、笑いながら流れている涙をバスタブの湯で流した。何度も、何度も。





 それからしばらくの間、わたしとあいつは何もなかったようにホテルで会ってた。


 あいつがわたしを呼び出して、わたしを抱く。何も変わらないあいつとわたし。


 だって、しょうがないじゃない?

 あいつがわたしを呼び出すんだもの。

 会いに行けばわたしはご褒美をもらえるんだもの。

 断れるはずないじゃない?



 でも、ある日のこと。

 霙まじりの雨が降って本当に寒い日だったの。あいつの体の温もりが嬉しい、そんな日だった。

 

 あいつに抱かれた後の余韻に浸りながら、わたしはあいつにキスをしてたの。


 少し汗で濡れてる首筋や、ドクンドクンと心臓の音が聞こえる胸、あいつが鍛えて3つに割れてる腹筋。どこのかしこもキスしてたの。


 そしたら、あいつが突然わたしの腕を振り払って起き上がった。


「彼女の親父がさ、彼女に内緒で俺に会いに来たんだよね」


 わたしはあいつが何を言い出すのか、本当はわかっているのに気が付かないフリをした。


「そうなの?」


 そして、わたしを見下ろしたあいつが言う次の言葉を待ってたわ。


「娘は何も知らない。今、女と手を切れば目を瞑って許してやる。金は出してやるから、さっさと別れろ」


 彼女の父親があいつに、そう言ったんですって。


 あいつはわたしの顔を笑って見ていたわ。そして、悪びれもせず札束をわたしの前にポンと置いたの。


「これで充分だろ?

 お前は俺に抱いてもらっていい思いをしてたんだからな…」


 わたしは札束をチラリと見た。


「お金は要らないわ。

 だって、私とあなたの仲じゃない?」


 そう言ってわたしはにっこりと微笑んだ。そして…あいつに言ったの。


「ねぇ、これで最後なの?

 だったら最後にもう一回、抱いてよ」


 あいつは、ニヤニヤと笑った。


「お前、ほんとに俺とやるのが好きなんだな。この…エロおんな」


 そして仕方ないなあという顔をしてわたしを抱いたの。

 

 わたしはいつもより優しく、激しく、あいつに接したわ。


 やってる最中にあいつは何度も言ったの。


「もう、我慢できねぇ!」


 でも、わたしは首を振った。


「まだダメよ。いかせてあげないわ。

 だって、最後なんでしょう?」



 終わった時、あいつはわたしの頬を両手で挟んで貪る様なキスをしたの。そんなキスは本当に久しぶりだった。


「お前、俺なしじゃ生きていけないだろ?」


「そうね」


「俺が結婚した後も抱いてほしいか?」


「うん」


「俺がそんなにいいのか?」


「いい」


「なら、お前はこれからもおれが来いっていうの待ってろ」


「…」


「お前は他の男とはヤるな。俺だけとヤるんだ。これからも。

 そして、お前がババアになって俺がお前となんかやりたくねぇって思うまで、俺だけに抱かれてろ。

 この…スケベなエロおんな!」


 そして、また連絡すると言ってお金を持って帰って行った。


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