催眠術とカタレプシー

運転手

1 催眠術と少年

第1話 元不良少年

 昼休みを告げる鐘が鳴った。途端に机に向かって頭を傾けていた生徒たちは顔を上げる。ちょうど切りよく黒板の文字を書き終えた教師は、指についたチョークの白い粉を払った。


「それじゃ、今日はここまで。ノートを写し終わったやつから昼休みに入っていいぞ」


 その一言でわっと教室は騒がしくなる。一人の男子生徒は、後でノート写させてくれと大声でクラスメイトに頼んだかと思うと教室の扉を開けて購買に向かって走っていく。その後ろをばたばたと何人かが続いていった。教師は呆れた様子だったが叱る相手はもう走り去ってしまっているため、やれやれと首をすくめるだけだった。真面目に授業を受けていた生徒たちもすぐにノートを写し終えて、お昼を食べようと席を立ち始め、廊下が騒がしくなる。

 シャーペンを握った大浦おおうら尊斗みことは、がしがしと首の後ろをかいた。手元のノートは、まだ黒板の半分ほどしか埋まっていない。焦ってシャーペンのキャップをかちかちノックするが、芯が出ない。ペンケースの中から新しい芯を取り出そうとして、ペンケースが床へと落ちた。蛍光ペンや消しゴム、クリップや小銭が床にぶちまけられる。尊斗はため息をついて、教室の床に落ちた自分のペンケースを見下ろした。拾うことさえ面倒だ。自力から机の上に戻ってこれないのかと落としたペンケースに理不尽な願いをかけていると、横から小さな手が伸びてきた。

 丁寧に一つずつ床のものを拾い上げ、そっと彼女は尊斗のほうを見上げた。髪に隠れていた柔らかな輪郭があらわになり、隣の席の来栖くるす実羽みうが微笑んだ。


「はい、どうぞ」

「ああ……ウス」


 まともに返事できない尊斗に対して、どういたしましてと実羽は丁寧に返事をする。無愛想で図体がでかく、おまけに迫力のある顔をしている尊斗にも気負うことなく話しかけてくる。このふわふわした隣の席のクラスメイトとの接し方が尊斗にはわからなかった。

 そこへランチバッグを片手に一人の女子生徒が近づいてくる。


「実羽、ごはん食べよう。……ちょっと大浦、あんま実羽に絡まないでよ」

「うるせぇよ、橋場。そもそも絡んでねえから」

「どうだか。実羽には、挨拶返すぐらいおとなしいくせに」


 座っている実羽に背後から抱きついた橋場はしば美和子みわこは、じとりと尊斗を怪しむように見た。実羽と隣の席になって以来、美和子は事あるごとに突っかかってくるが、攻撃的な態度でいられるほうが尊斗にはまだ気楽だった。

 じっとこちらを睨んでくる美和子に対して、尊斗は軽く肩をすくめた。


「橋場に気を遣ってねえだけで、別に来栖が特別ってわけじゃねえよ」

「はあ? 何それ、サイアクなんだけど!」


 語尾を跳ね上げて過剰反応する美和子からマジでサイテーと文句を言われるが、無視して黒板の文字を写す退屈な作業を再開した。そして、いきなり書く文字を間違える。消しゴムを使うのが面倒で、誤字をぐりぐり塗りつぶした。中学時代、まともな勉強どころか問題ばかり起こしていた不良少年だったツケで、今現在も周りから遅れてしまっている。

 決められたとおりの行動をするというのが、尊斗は苦手だった。黒板の文字をそっくりそのままノートに書くのもとんでもなく苛々する。文字の羅列は意味をなさず、一文字一文字をただなぞるだけ。腹は減ってさらに苛々して、さらに集中できない。隣で女子二人が楽しそうにお弁当を食べている。

 嫌になった尊斗は、シャーペンを放り出した。ノートは学期末に提出しなければいけないが、今すぐノートが必要なわけでもない。黒板の写真を撮って、家で写せばいい。とにかく尊斗は腹を空かせていた。ポケットを探って、自分のスマホを取り出した。

 カメラモードを起動させたところで、横の会話が尊斗の耳に入ってきた。


「そういえば、お弁当のハンカチがいつものと違うね」

「うん。今日の占いランキングでね、私の星座の運勢が最下位で悪かったの。ラッキーアイテムが花柄のハンカチだったから、それでお弁当をこれで包んで持ってきたの」


 尊斗の息が一瞬止まる。ちらりと横目で確認すると、確かに小さい白い花が咲いている桃色のハンカチが実羽の小さな弁当の下に敷かれていた。


「実羽ってちょっと運悪いところあるよねえ。目の前で商品が売り切れになったり、カラスのフンが落ちてきたり、使う水道が故障してたり。危なっかしくて、見てて心配になるよ」

「だから、こうやってラッキーアイテムで万全の準備をしてきたの。これで今日は大丈夫だね」


 どうということのない会話。他愛もないどこにでもある話題で、彼女たちは明るく笑っている。それとは対照的に、尊斗の胃の底はひやりと冷たくなった。空きっ腹に氷水を流し込まれたみたいに気持ち悪い。

 きゃらきゃらと笑う少女たちに、横から軽い調子の声がかかった。


「なになに? 実羽ちゃん、今日の運勢悪いの?」


 現れたのは、購買で買ったパンと紙パックジュースを抱えている鶴来つるく洋司ようじだった。踵部分を踏み潰している上履きでぱかぱかと近づいてきて、尊斗の前の自分の席に座る。


「それなら、俺が運を分けてあげよっか。俺ってば、ちょー運がいいからさぁ」

「……なに、その手?」

「手を握って、運をお裾分けしてあげようかと思って」

「ありえない。そもそも、あんたって運がいいイメージがないんだけど」


 リストバンドにシルバーリング、手首にメモされた油性の文字と本人と同じく差し出された洋司の手は騒がしい。美和子はその手を容赦なく払いのける。差し出された本人である実羽は、弁当箱の中にあるプチトマトを箸でつかむことに夢中になっていた。


「ひどいなあ、まじなのに。じゃ、俺のラッキーを見せてしんぜよう」


 拒否されて諦めるような男ではない洋司は、自分の机の中から何かを取り出す。それは割り箸の束だった。よく見ると片側の端に数字がそれぞれ手書きされており、一本だけ先が赤く塗られている。赤く塗られた箸を引いた人が王様役として命令することができるというあの王様ゲームに使用するもののようだった。


「まじで最近の俺ってラッキーボーイだから。ゲームでも王様になりまくり」

「まじでどうでもいいし、テンション下がるんだけど。そんな運ならいらなくない?」

「いるって! つまり、これは俺の恋愛運が上がってるってことだから! 女子だってそういうの好きだろ?」


 軽蔑しきった冷たい目を向けられてもめげることなく、洋司は持って持ってと無理やり美和子の手に割り箸の束を握らせる。ぶつぶつ文句を言いつつも、面倒見のいい美和子も拒否をしない。実羽は、プチトマトを箸で突き刺すことでようやく口に入れることに成功していた。

 横で会話を聞いている尊斗の手の中では、スマホ画面が真っ暗になっていた。耳の奥でざあざあと血の流れる音が響いている。


「じゃあ一発で王様の棒、先が赤く塗られてるやつを引いてみせるから!」

「絶対なんかイカサマしてるでしょ」


 腕まくりまでしてみせる洋司に、美和子は冷静に突っ込みをいれているが最後まで茶番に付き合う気はあるらしい。素直に数字や色が塗られている部分を隠すようにして手のひらで握り込み、何も書かれていないほうを洋司のほうへと向ける。プチトマトを咀嚼している実羽も口を動かしながらその様子を眺めている。尊斗もじっと横目で確認する。

 一見、何の変哲もない割り箸だ。美和子が全て握っているのだから、箸におそらく仕掛けはできない。腕まくりをしているので、何かを洋司が隠し持つこともできないだろう。


「そんじゃ、取るね」


 洋司は、割り箸を一本ずつ吟味するように触れていく。意味ありげに人差し指で割り箸の真ん中あたりを確認するように叩いているのが怪しい。そして、ある一本をとんとんと叩くと、これだと言って美和子の手から引き抜いた。

 その先は、王様の印として赤く塗られている。


「じゃじゃーん! ちょーラッキー! ってことで、運のお裾分けにぎゅっと手を握らせてよ」


 見せびらかすように王様の割り箸を振ると、のんきに拍手していた実羽へと洋司が手を伸ばす。美和子がこらっと叱る前に、尊斗は洋司の手を叩いた。乾いた音が思ったよりも大きく響いて、尊斗は鼻の上にしわを寄せた。

 洋司は驚いた顔をしていたが、すぐにへらっと気の抜けた笑みを浮かべた。


「急になんだよ、オーララくん。嫉妬? モテモテラッキーボーイの俺に嫉妬?」

「オーララじゃねえよ、大浦だ。……そういう人を騙すインチキは、見てて胸くそ悪いんだよっ」

「オーララくんって妙に硬派だよね。まさか俺とは違う女子層を狙ってたりする?」

「勝手に言ってろ、軟派野郎」


 眼光鋭く睨み付けられても洋司は怯えまず、逆に尊斗のほうが苛立って舌打ちをした。美和子は尊斗のほうを見て顔をしかめて、実羽は何事もなかったように弁当に興味を戻していた。

 過剰反応をしていることは尊斗もわかっている。腹の底から怒りが湧いていようが、それくを表に出してはいけない。それをしたら、あの頃に逆戻りだ。

 尊斗はできるだけ感情を押し殺そうとしたが、抑えきれずにぼそっと漏らしてしまう。


「不思議な力なんてあるわけがねえだろ。ラッキーだとか、占いだとか、運勢だとか、信じるだけ馬鹿なんだよ。騙されてんじゃねえよ!」


 話しているうちに力が込もってしまって、最後のほうは強い口調になっていた。言いきった後に、尊斗は静まり返っている三人に気がついた。しまったとは思うが、何も言い訳が思い浮かばない。

 言うだけ言って黙ってしまった尊斗に、最初に言い返したのは気の強い美和子だった。


「急になんなの! こっちが楽しんでるところに口出しされる筋合いないんだけど! あんたに迷惑かけてないでしょ!」


 関係ないくせに口を出し過ぎたことは尊斗も自覚をしている。それでも、占いだとか、運勢だとか、不思議な力とか、そういうふうに謳われているオカルトが大嫌いだった。腹の底で大きな氷の塊のような怒りが、溶けずにいつませもずっと居座っている。努力しても、無視ができない。

 だから、悪いとは思っているが尊斗は小さく反論してしまう。


「……あんなもんで喜ぶのは、ガキまでだろ」

「はぁ? だったら、何で世の中のテレビ番組や雑誌に占いのコーナーがあるの? みんなが好きだからでしょ。嫌いなのは勝手にしたらいいけど、それを勝手にこっちに押しつけて、不機嫌になるのはやめてよね! そっちのほうがよっぽど迷惑なんだけど!」

「余計なお世話だったな」

「嫌味もいい加減にしてくれない?」


 本当に余計なお世話だったと尊斗は思っていたが、無心でいても顔を不機嫌そうに見えるいかつい顔と掠れた低い声のせいで全くそう思われなかったらしい。嫌味を言われたとさらに怒りを燃やした美和子に、騒ぎの原因の一端とも言える洋司がまあまあと割って入る。


「オーララくんは見た目不良だけど根が真面目だから、こういうおふざけになれてないだけなんじゃん。慣れるためにも、今度オーララくんも合コン行こうぜ!」

「……行かねえよ」


 軟派でどうしようもないところがあるのは確かだが、こういうときに空気を和らげる洋司にはいつも助けられていた。でも、強い自意識が邪魔して尊斗は助かったの一言も言えない。

 どうしようもない自分が嫌になって、尊斗の眉間の皺をぐっと深くなる。それに美和子がまた文句を言い、洋司が宥める。

 ぴりぴりした空気の中、場違いなほど穏やかな声が尊斗にかけられる。


「あのね、不思議な力って本当にあるんだよ。困ったことがあったら、大浦くんもめぐるくんに助けてもらったらいいよ」


 そう言った実羽から真っ直ぐに向けられる純粋で真っ直ぐな目は、尊斗にとって見覚えのあるものだった。心から信じて、これが相手にとって良いことだと思っている、純粋で曇りのない瞳。吐きそうだった。

 手で口を覆って尊斗、何かを察した洋司が、わざとらしいほどはしゃいだような明るい声を上がる。


「ってか! オーララくん、昼飯まだじゃね! 実羽ちゃんたちもまだ途中だし、一緒に食べようぜ! 俺、いつメンがみんな部活の集まりでいないんだよ」

「なんで、お前が俺と……」

「いいじゃん! ほら、オーララくんって弁当だったっけ?」


 机の横にかけている中身の薄い学生鞄を勝手に探り出す洋司に、尊斗はため息をついた。喉元までせり上がっていた吐きそうな気分は少し紛れた。とにかくお腹が空いた。空腹過ぎて、胃液が上がってきたのかもしれない。

 美和子はまだ文句がありそうな顔をしたが、青くなった尊斗の顔を見て口を閉じた。実羽は穏やかに食事を続けている。


「ほら、オーララくんも机動かして! お昼にしようぜ!」


 洋司によって勝手に取り出された市松模様の巾着袋が机の上に置かれる。尊斗はそれ以上文句は言わず、中身が茶色の祖母手製の弁当箱を取り出した。

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