第5章

午後九時。居酒屋「一献」の店内は、薄暗い照明に包まれ、カウンター席からは、雑踏の喧騒がかすかに聞こえてくる。その静寂を破るように、カウンターに肘をついた哲也のグラスが、乾いた音を立てて置かれた。琥珀色の熱燗は、半分ほど残っている。しかし、その温もりは、哲也の冷え切った心を温めるには、あまりにも力不足だった。彼の握り締めた拳は、わずかに震え、その節は、まるで張りつめた弦のようだった。


対する田所啓介は、静かに哲也を見つめていた。啓介の顔には、心配の色が濃く影を落としていた。彼の視線は、哲也の心の奥底を覗き込むように、鋭く、それでいて温かかった。哲也の言葉は、断片的に、淀んで、まるで古びた蓄音機の針がレコードの溝を不規則に辿るように、途切れ途切れに聞こえてくる。


「…あの、クレジットカードの…美咲が…」


哲也の声は、ここで途絶えた。彼は、グラスの中の濁った酒を見つめている。その視線は、まるで底知れぬ闇の淵を覗き込んでいるかのように、深く、そして、絶望に満ちていた。カウンターの上には、醤油の小さな壺が、陽の光を浴びていないせいか、いつもより暗く見えた。


啓介は、何も言わず、哲也のグラスに静かに熱燗を注ぎ足した。その所作は、熟練の職人のそれのように、無駄がなく、流れるようだった。注がれる酒の音は、静寂の中で、妙に大きく響いた。


「金銭的な問題ですか…。」啓介の声は、低く、温かかった。まるで、冬の夜に焚かれる薪の温もりを伝えるかのように、哲也の凍りついた心をゆっくりと解きほぐそうとする、優しい力を感じさせた。


哲也は、深いため息をついた。その息は、まるで枯れ葉が舞い落ちるように、静かで、虚しく、そして、悲しみに満ちていた。カウンターの隅に置かれた灰皿には、すでに数本の煙草の吸殻が積み重なっていた。それは、哲也の心の内を映し出す鏡のようだった。


「…それだけじゃないんです。ずっと…ずっと…」


哲也は、ついに言葉を紡ぎ始めた。彼の声は、時折、震え、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えているのが見て取れた。美咲の怒号、暴力、そして、息子の蒼太の沈黙…。その断片的な言葉の間に、彼の心の深い傷が垣間見えた。それは、古びた絵画のように、修復不可能なほどに傷ついているが、それでもなお、かすかな美しさ、かつての輝きの痕跡を残していた。


啓介は、哲也の言葉を、静かに、そして、真剣に聞いていた。彼の温かい視線は、哲也の心に、わずかな希望の光を灯した。それは、深い闇の中に差し込む、一筋の月の光のように、柔らかく、そして、力強く、哲也の心を照らしていた。


「哲也さん…。」啓介は、ゆっくりと口を開いた。彼の声には、深い共感と、温かい理解が込められていた。「一人で抱え込まずに…誰かに話せる人がいるって、本当に大切なことですよ。」


啓介の言葉は、哲也の心に深く響いた。まるで、荒れ果てた大地に降る、恵みの雨のように、乾いた心を潤し、傷ついた魂を癒していくようだった。


「…田所さん…。」哲也は、初めて、啓介の目をまっすぐに見た。彼の目には、涙が潤んでいて、これまでの苦悩が凝縮されていた。「ありがとうございます…。」


その言葉には、感謝の気持ちと、同時に、かすかな希望が込められていた。それは、深い闇の底から、ようやく水面に顔を出した、一輪の可憐な花のような、繊細で、力強い輝きを放っていた。


啓介は、哲也の肩に、そっと手を置いた。その温もりは、哲也の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていくようだった。居酒屋の薄暗い照明の下、二人の影は、静かに寄り添っていた。


「大丈夫ですよ。一緒に、考えていきましょう。」


啓介の声は、静かで、力強かった。それは、哲也にとって、暗闇の中の一筋の光、そして、新たな一歩を踏み出すための勇気となった。しかし、その灯火は、まだ小さく、風が吹けば消えてしまうかもしれない、そんな不安定な輝きを放っていた。 それでも、それは確かに、希望の灯火だった。

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