第4章

真紅のテーブルクロスは、まるで血の滴を思わせる深みのある赤で、磨き上げられた銀の食器が、その上で妖しく輝いていた。クリスタルグラスに注がれた琥珀色のワインは、夕暮れの空を凝縮したかのようで、しかし、その美しさは、冷たく張り詰めた空気の中で、どこか虚ろな輝きを放っていた。加納哲也は、震える箸を握りしめ、口元に僅かに残る青紫の痣に視線を落とした。昨日の夜の美咲の怒りの痕跡、彼女の支配の象徴が、今も彼の頬に刻まれていた。


その痣は、まるで、彼の魂に刻まれた傷のように、深く、そして痛々しく、彼の内なる動揺を露呈していた。


美咲は、気品ある真珠のネックレスが胸元で揺れながら、優雅にフォークを操っていた。しかし、その瞳は、鋭く、冷たく、まるで獲物を睨む猛禽類の眼のように、哲也の心臓を締め付ける。唇の端は、僅かに歪み、嘲笑を秘めたその表情は、哲也には、耐え難い屈辱と恐怖を呼び起こした。 銀のフォークが、繊細な磁器の皿に当たる音は、哲也の耳には、嘲弄の旋律として響き渡った。 彼女は、まるで、自分の優位性を誇示するかのように、一つ一つ丁寧に料理を口にしていた。


十四歳の蒼太は、いつものように無言で食事をしていた。彼の顔は、その年齢にしては老け込んで見え、瞳はうつろで、視線は定まらない。箸を持つ小さな手は、わずかに震えていた。 彼は、両親の凄絶な争いを、幼い頃から見てきた。その記憶は、彼の心を深く傷つけ、言葉を奪い、年齢不相応の沈黙を彼に強いていた。彼の顔には、幼い頃の無邪気さは影を潜め、深い悲しみと絶望だけが、静かに宿っていた。


重い沈黙が、豪華な食卓を覆い尽くした。それは、鉛の幕のように、三人を窒息させるかのような圧迫感を与え、空気を重く澱ませた。箸の擦れる音だけが、不自然なまでに静寂を際立たせ、その音は、まるで、三人それぞれの心臓の鼓動のように、ゆっくりと、しかし確実に、それぞれの心の闇を照らし出していた。


哲也は、美咲の視線を感じていた。それは、冷酷で、執拗で、まるで獲物を追い詰める獣の視線だった。彼女の視線は、彼の身体を、そして魂を、ゆっくりと、確実に、解体していくかのようだった。その視線に晒される度に、哲也は、自分の存在が、彼女の支配下にあることを痛感させられた。


蒼太は、時折、哲也の方をちらりと見た。しかし、すぐに視線をそらし、うつむいた。彼の瞳には、深い悲しみと、もはや希望の欠片も見られない絶望が、静かに湛えられていた。彼は何も言わなかったが、その沈黙は、言葉よりも深く、彼自身の苦悩を雄弁に物語っていた。


ワイングラスに注がれたルビー色のワインは、少しずつ減っていく。その減っていくワインの量は、哲也の希望が、少しずつ消滅していくように、彼の心に絶望の影を落としていった。彼は、この状況を打破する方法を見出せず、ただ、暗闇に呑み込まれていく自分の姿を想像していた。


夕食後、美咲は、いつものように、ソファに腰掛け、高級な革装丁の雑誌を読み始めた。その姿は、まさに女王のそれだった。彼女の傍らには、まるで彼女の権威を示すかのように、幾つもの宝石が散りばめられた豪華なティアラが置かれていた。哲也と蒼太は、何も言わず、それぞれの部屋へと引き返していった。


部屋に戻った哲也は、窓辺に立ち、闇に沈む街を見つめた。群青色の闇は、無数の光を飲み込み、彼の心を深く、深く、飲み込んでいくようだった。彼の心には、深い絶望と、かすかな、しかし確実に消えつつある希望が、共存していた。彼は、この状況を、一体いつまで耐えることができるのだろうか。彼の心は、静かに、しかし確実に、崩れ始めていた。その崩れゆく心の欠片は、まるで砕けたクリスタルの破片のように、鋭く、彼の心を切り裂いていくのだった。 彼は、静かに、しかし確実に、破滅へと近づいていく自分を感じていた。

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