第3章

薄暮が差し込むダイニング。テーブルの上には、冷え切った茶碗蒸しと、箸で触れると崩れそうなほど柔らかく、鮭の旨味も失せている塩焼きが、無残な姿で横たわっていた。彩りも風味も失われたレタスとトマトのサラダは、まるでこの家族の現状を象徴しているかのようだった。加納哲也は箸を握る手に力が入らず、冷めた料理を前に、胃の腑が冷たくなっていくのを感じた。妻、美咲の視線は鋭く、獲物を狙う鷹のように彼を捉え、離さない。息子の蒼太は、いつものように俯き加減に食事を済ませると、食器をそっと片付け、自分の部屋へと消え去っていった。


静寂が、張り詰めた空気を満たす。その静寂は、決して穏やかなものではなく、破裂寸前の風船のように、いつ弾けるか分からない緊張感に満ちていた。やがて、その静寂を破ったのは、美咲の、優雅さとは程遠い荒々しい動作だった。彼女は、クリスタルグラスに注がれた赤ワインを、一口飲むと、そのグラスをテーブルに勢いよく置いた。その音に、哲也の心臓が跳ね上がった。そして、美咲は、銀行の通帳と、何ヶ月分ものクレジットカード明細書を、哲也の目前に叩きつけた。


「これ、説明なさい。」


美咲の声は、氷の破片が砕けるような、鋭利で冷たい音だった。その言葉は、哲也の胸に突き刺さり、息苦しさを感じさせた。通帳には、数ヶ月に渡る、明らかに不自然な高額出金が、まるで悪夢のような数字で並んでいた。クレジットカード明細には、哲也が一切記憶にない、高級レストランでの食事代や、ブランド品と思われる高額な買い物が、幾つも赤々と記されていた。冷や汗が、哲也の額を伝った。心臓は、胸の中で暴れ回る馬のように、激しく鼓動していた。


「あ…あの…」


哲也は、言葉を紡ごうとするが、喉が塞がったように、言葉が出てこない。どこから説明すればいいのか、何を言えばいいのか、全く分からなかった。美咲の怒りは、既に限界を超え、マグマのように煮えたぎっていた。彼女の瞳は、燃え上がる炎のように赤く染まり、表情はひどく歪み、鬼気迫るものがあった。


「説明にならない!嘘をつくな!この家の金を、勝手に使い込んだんでしょ!」


美咲の怒号が、狭いダイニングに響き渡る。その声は、まるで鉄のハンマーで叩きつけられるように、哲也の心を打ち砕いた。彼は自分の無力さを痛感し、言葉もなく、ただ美咲の怒りの嵐に晒されるしかなかった。


美咲は椅子から立ち上がり、哲也に詰め寄る。荒い息遣いと、怒りに震える体全体が、哲也を圧倒する。彼女の吐息は、哲也の顔に熱風のように吹き付け、その熱気に哲也は息苦しさを感じた。


「一体、何を考えているの!?」


美咲の叫び声は、もはや人間の言葉とは思えないほどの凄まじさだった。それは、悲痛な叫びであり、絶望の叫びであり、そして、裏切られた怒りの叫びだった。その言葉は、鋭いナイフのように、哲也の心を切り刻んでいく。哲也は、言葉を失い、ただ美咲の怒りに身を委ねるしかなかった。


美咲は、哲也の腕を掴み、強く揺さぶる。彼女の指先が、哲也の腕に食い込み、鋭い爪が、肌を貫きそうだ。哲也の体は震え、過去の記憶が、フラッシュバックのように蘇る。あの日、あの時感じた屈辱と痛み、そして絶望が、再び彼を襲った。


「…クレジットカード…使いすぎて…」


哲也は、やっとの思いで、絞り出すように言葉を吐き出した。しかし、その言葉は、美咲の怒りをさらに激化させるだけだった。


「使いすぎた?使いすぎたってどういうことよ!?」


美咲は、哲也の髪を掴み、顔を上げさせた。彼女の顔は、ひどく歪み、怒りに満ちていた。それは、もはや人間の顔ではなく、地獄からの使者のような、恐ろしい、歪みきった顔だった。


美咲は、哲也の顔を、何度も何度も叩きつけた。鈍い音が、部屋に響き渡る。哲也の体は、床に叩きつけられ、激しい痛みに悶えた。しかし、美咲の怒りは、収まる気配を見せない。


「許さない!絶対に許さない!」


美咲の叫び声が、部屋中にこだまする。その声は、まるで獣の咆哮のようだった。哲也は、ただただ、その怒りの嵐に耐えるしかなかった。彼の体は、痣だらけになり、血が流れ出した。しかし、それでも、美咲の怒りは、収まることを知らない。


部屋は、暴力と、美咲の歪んだ所有欲、そして、哲也の絶望に満たされていた。空気は重く澱み、その場の空気さえもが、悲鳴を上げているようだった。

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