第2章

十月も終盤、冷たい風が吹き抜ける日曜日の午後。加納哲也は、薄汚れたリュックを背負い、視線を地面に釘付けにした息子、蒼太の小さな肩にそっと手を置いた。その感触は驚くほど小さく、冷たく、まるで凍りついた小鳥のようだった。リュックの擦れ跡は、蒼太の不安定な歩調を物語るように、無数の傷跡を刻んでいた。哲也は、息子の沈黙に、胸が締めつけられる思いだった。


街の喧騒は、図書館の重厚な門をくぐる瞬間に、まるで魔法のように消え去った。柔らかな間接照明が、静寂の楽園を優しく照らし出す。ページをめくるかすかな音だけが、時折、静寂のキャンバスに繊細な音を描き加える。背の高い書架は、何千もの本の背表紙が織りなす、巨大な壁のように立ち並んでいた。その整然とした佇まいは、まるで眠りについた巨人のように静謐で、哲也の心をゆっくりと解き放つ、安堵感を与えてくれた。家庭という名の牢獄から、わずかな時間だけ、彼は自由になったのだ。この静寂こそが、彼にとっての、唯一のオアシスだった。


蒼太は、いつものように漫画コーナーへと一直線に走り出した。その小さな背中を見送りながら、哲也は静かに息をついた。蒼太の瞳には、かすかな光が宿っていた。それは、家庭の暗闇とは対照的な、はかない希望の輝き。しかし、その輝きは、冬の朝日に照らされた霜柱のように、すぐに消え去ってしまうかのような、危うさを持っていた。


哲也は、古びた革製のビジネスバッグから、擦り切れた一枚の写真を取り出した。それは、かつての家族写真。美咲の笑顔、蒼太の無邪気な笑い声、そして、今の哲也とは別人であるかのような、若々しい自分の姿が写っていた。しかし、今は色褪せ、皺くちゃになり、まるで古びた手紙のように、記憶の断片だけが、かすかに残っていた。かつての温かい記憶は、現在の現実の冷たさに照らされ、遠い昔の話のように、虚しく感じられた。


その写真を見つめながら、美咲の言葉が、哲也の脳裏をよぎった。「蒼太に勉強をさせてきて」。その言葉は、表面上は、蒼太への教育という名目であったが、哲也には、妻からの支配、そして、彼を監視するための、冷酷な手段にしか聞こえなかった。美咲の目は、いつも冷たく、その視線は、哲也の心を凍らせる刃のようだった。


図書館の静寂の中で、哲也は、自分の無力さを痛感した。妻の支配、息子の苦悩、そして、自分の無力さ。それらは、まるで澱んだ沼のように、彼を深く、ゆっくりと飲み込もうとしていた。しかし、この図書館の静寂は、その沼の底に、かすかな光を差し込む、細い希望の糸口となるかもしれない。


やがて、蒼太は漫画を読み終えた。哲也は、静かに息を吸い込み、息子に声をかけた。「そろそろ、帰ろうか」。蒼太は、黙って頷いた。その小さな頷きの中に、哲也は、言葉にならない感情を読み取った。恐怖、不安、そして、わずかな希望の混ざり合った、複雑で、繊細な感情が、息子の小さな身体に凝縮されていた。


図書館を出ると、夕暮れが迫っていた。空は、群青色の深いベールで覆われ、その色は、哲也の心の内面を映し出しているようだった。群青色の空の下、哲也と蒼太は、静かに、そして、ゆっくりと、家へと向かった。帰り道、哲也は、再び蒼太の肩に手を置いた。その小さな身体に、わずかな温もりを与えようとした。しかし、その温もりは、すぐに、家庭という名の冷たさで覆い隠されてしまうかもしれない。それでも、哲也は、そのわずかな温もりを、決して諦めようとはしなかった。それは、彼自身の、そして、蒼太への、最後の、そして、最も大切な希望だった。

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