群青の隧道
kzppm
第1章
薄明かりが差し込む、古びたマンションの一室。窓辺には、加納哲也が座っていた。鉛色の空を映す窓ガラスは、埃で曇り、街の灯りがぼんやりと滲んでいた。彼は冷え切ったコーヒーを、指先でゆっくりと回している。陶器製のカップの底には、コーヒーの澱が微かに見える。時計の針は、五時十五分を刻んでいた。いつものように、眠れない夜を過ごしたのだ。眠りに落ちたとしても、それは断片的なもので、悪夢と現実が曖昧に混じり合い、深い淵へと沈んでいくような、不安定な睡眠だった。
コーヒーの苦味が、舌の上で澱のように広がる。その苦味と、胸にこびり付く倦怠感は、まるで一体のものだった。彼は数えきれないほどの朝をこの部屋で迎えた。しかし、今日のような静寂な朝は、稀有だった。
普段であれば、この静寂は、妻・美咲のけたたましい起床音によって、瞬く間に打ち砕かれる。それは、まるで地響きのような、不協和音の序章だった。美咲の怒号は、マンションの薄汚れた壁を震わせる。割れる陶器の音、そして、哲也の身体に響く鈍い打撃音。それらは、空気中に澱んだ焦げ臭さを漂わせ、部屋の隅々まで、暴力の残像を焼き付ける。
しかし今日は、異様に静かだった。その静寂は、哲也の神経を研ぎ澄まし、逆に不安を募らせる。美咲の怒りの炎が、いつ噴火するのか。その予兆を察知しようと、彼は耳を澄ませていた。心臓が鼓動する音だけが、耳に響く。
彼の視線は、部屋の隅々にまで行き渡る。古色蒼然とした家具は、傷だらけで、その傷一つ一つが、過去の暴力の証のように思えた。剥がれかけた壁紙からは、下地の薄汚れた灰色が覗き、昨日の夕食の残骸が、テーブルの片隅に放置されていた。冷え切った味噌汁の入った椀、食べ残しの冷たくなったご飯。それらは、過去の暴力の痕跡を、静かに、しかし確実に物語っていた。
哲也は、古びた革製のビジネスバッグに手を伸ばした。擦り切れた革の感触が、彼の指先に伝わってくる。中には、擦り切れた写真と、誰にも見せない日記が大切にしまわれている。写真は、かつての美咲の姿を写している。二十歳そこそこの美咲は、笑顔が眩しく、太陽の光を浴びた麦畑のような明るい金髪の髪をなびかせている。その写真と、現在の美咲の姿との落差はあまりにも大きく、哲也の胸に、深い絶望の淵をえぐる。
日記には、美咲からの暴力、そして、その暴力に耐えかねて逃亡を試みたこと、しかし、結局は戻ってきてしまったこと、それらが、血の滲むような文字で綴られている。滲んだインクは、まるで涙のように、紙に広がっているかのようだ。
窓の外には、群青色の朝焼けが広がっていた。東の空は、燃えるような赤と、深い青が混ざり合い、神秘的な美しさを見せている。しかし、哲也の目には、その美しさは映らない。彼の世界は、群青色の痣の色で染まっている。それは、美咲の暴力によって生じた痣の色だ。殴られた直後は、熱を帯び、ほのかに赤いが、時間が経つにつれ、そこは神が落としたインクのように徐々に広がり、深い群青色へと変化していく。まるで、彼の魂に深く染み込んだ、罪悪感の色だ。
その群青色は、哲也の心の闇を映し出している。それは、DVという名の暗黒の隧道の中で、出口の見えない迷宮を彷徨う、彼の魂の哀歌だ。
そして、その静寂は、けたたましい美咲の声によって破られた。
「哲也!何してるのよ!早く起きて!」
彼女の怒号は、マンションの廊下を伝わり、哲也の耳に突き刺さる。その声は、哲也の心臓を、凍えるような恐怖で締め付ける。群青色の朝焼けは、彼の視界から消え去り、代わりに、暗黒の隧道へと続く、長く、険しい道のりが、目前に広がっていく。
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